レビ記21−22章 「祭司の聖なる歩み」


アウトライン

1A 祭司の聖別 21
   1B 身を汚す行ない 1−15
      1C 祭司 1−9
      2C 大祭司 10−15
   2B 身にある欠陥 16−24
2A 食物の聖別 22
   1B 食べることができない人 1−16   
      1C 汚れのある祭司 1−9
      2C 一般の人 10−16      
   2B ささげることができない動物 17−33
      1C 欠陥のある動物 17−25      
      2C 子と母 26−33      


本文

 レビ記21章を開いてください。今日は、21章と22章を学びます。ここでのテーマは、「祭司の聖なる歩み」です。

 私たちは、17章から、イスラエル人がいかにして、聖なる神との交わりを保ちつづけることができるかについて学んでいました。きまった祭壇にいけにえを持ってくること、血を食べてはいけないこと、性的な汚れに陥らないこと、などなど、神との歩みをしていくうえで、守らなければいけないガイドラインが書かれていました。19章と20章においては、十戒が具体的な生活の場面で、どのように当てはめればよいのか、について書かれています。

 そして21章と22章ですが、ここでは一般のイスラエル人ではなく、神の幕屋で奉仕をする祭司たちへのことばになっています。今までの戒めに加えて、祭司たちが幕屋において、聖なる歩みをするにはどうすればよいのかについて書いてあります。

 ここはある意味で、今まで学んだところよりも、さらに重要であるかもしれません。なぜなら、新約において、私たちクリスチャンが神への祭司になっていると告げられているからです。使徒ペテロが言いました。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。(Uペテロ2:9」使徒ヨハネも、「また、(キリストは)、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。(黙示1:6」と言いました。したがって、私たちは、レビ記において一般のイスラエル人ではなく、むしろ幕屋で神の仕えている祭司たちであります。イスラエル人にとって、聖なる神は、ある意味で遠い存在でした。幕屋の入り口まで近づくことは許されていますが、生ける神のご臨在、神との交わりは幕屋の中で行なわれており、彼らはそこには入ることができなくなったからです。けれども、祭司にとっては、神がおられる聖所の中にまではいることができます。そして、キリストにつながれた者となった私たちも、その特権にあずかるようになっているのです。

 神の御霊は、私たちのからだをご自分の住まいとされています。使徒パウロが言いました。「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。 (Tコリント3:16」そして、イエスさまは、私たちとの交わりについてこう言われました。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。(ヨハネ6:56」イエスさまが私のうちにおり、私もイエスさまのうちにいます。このような、霊による深い交わりを私たちは、神と持っているのです。

 したがって、私たちは、「聖潔」とか「聖さ」とかを考えるときに、それは単に外側の行ないではなく、思いの中、心の中にまで及ぶ聖さであることが分かります。今までのイスラエル人に対する戒めは、より一般的、社会的な戒めでありました。けれども、ここからは、霊的な交わりの中で、どのように聖さを保たなければいけないかについて学ぶことができます。

1A 祭司の聖別 21
 それでは、1節をごらんください。

1B 身を汚す行ない 1−15
1C 祭司 1−9
 ついで主はモーセに仰せられた。「アロンの子である祭司たちに言え。彼らに言え。縁者のうちで死んだ者のために、自分の身を汚してはならない。ただし、近親の者、母や父、息子や娘、また兄弟の場合は例外である。近親の、結婚したことのない処女の姉妹の場合は、身を汚してもよい。姻戚の縁者として身を汚し、自分を冒涜することになってはならない。

 
祭司たちは、死体にふれてはいけない、という戒めです。家族の者が死んだのであれば、葬儀のときにその死体にふれてもよいのですが、それ以外の人々の死体には触れてはいけません。


 「死」というのは、罪によってもたらされます。罪によって死が入り込んだので、死んだ者にふれることは、罪にふれることを象徴しています。祭司が死体にふれてはいけない、というのは、私たちキリスト者が、罪を犯してはならない、罪から遠ざかりなさい、ということを教えているのです。それが外見の行ないだけではなく、内側の思いの中で、心の中でも、罪を犯してはいけない、そのような罪にふれてはいけません、と言うことであります。

 ただ、祭司は、近親の者の死体はふれてもよいとされています。それは、神さまは、死者のために嘆き悲しむことを許されているからです。したがって、私たちクリスチャンも、聖書的に、神さまのみこころにかなって、死んだ人たちのために喪に服することができます。しかし、そこに異教の影響が入ってはいけません。とかく喪に服するときに、異教はいろいろな儀式を持って来ることができるのです。

 そこで、次の戒めがあります。彼らは頭をそってはならない。ひげの両端をそり落としてもいけない。からだにどんな傷もつけてはならない。

 頭をそること、ひげの両端をそり落とすこと、からだに傷をつけることは、みな異教のならわしにあります。それらの風習を行なってはいけない、と主が言われています。私たちが住んでいる日本では、葬式は、「死者の霊への弔い」と考えられています。その人のことを思い出して、神を礼拝するのではなく、その死んだ者そのものに語りかけ、花をささげ、すべての儀式が行なわれるのです。ですから、花であっても、欧米では飾りにしかすぎないのですが、日本ではその死体に捧げるものとして考えられます。ここに、日本において葬式をするときの難しさがありますね。けれども、私たちが死んだ者について悲しむことは、何一つ悪いことではありません。その人について思い出して、それで神がその人を通して行なってくださったことを思い出して、神を礼拝します。ですから、私たちが行なう葬式は、「慰霊」や「告別」ではなく「追悼」と呼ぶべきであります。


 彼らは自分の神に対して聖でなければならない。また自分の神の御名を汚してはならない。彼らは、主への火によるささげ物、彼らの神のパンをささげるからである。彼らは聖でなければならない。

 祭司たちは、自分のからだを聖いものにして、汚してはいけません。そして、その理由がここに書かれています。神のパンをささげる奉仕者であるからです。この「パン」とは、文字通りのパンではなく、「食物」と言い換えたほうがよいでしょう。動物のいけにえが、神へのパンと呼ばれています。ところで、このパンは何を表しているのでしょうか。神が受け入れてくださる唯一のささげ物である、主イエス・キリストです。このパンをささげるのは、いのちのパンであるイエスさまに他なりません。したがって、祭司が神のパンをささげるとは、私たちが主と交わることに他なりません。そのときに、私たち自身が聖さを保っていなければならないのです。罪を犯して、そのままにしていながら、私たちはイエスさまとの交わりを楽しむことができないのです。聖くする、ということは、神のため、というよりも、私たち自身のためです。主にある喜び、平安、愛が交わりの中で満ち溢れます。もし罪を心に抱いていれば、クリスチャン生活がつまらなくなります。形式的になってきます。ですから、私たちは、主にある喜びを保つためにも、自分自身を聖く保っていなければならないのです。


 彼らは淫行で汚れている女をめとってはならない。また夫から離婚された女をめとってはならない。祭司は神に対して聖であるから。

 
結婚についても、一般のイスラエル人よりも高い基準が設けられています。結婚とは、その相手と交わり、一つとなることです。したがって、汚されている相手と結婚するのであれば、自分も汚れてしまいます。したがって、結婚してはいけない、と言っています。私たちは、結婚に限らず、深い関わりを持つ人たちを選ばなければいけません。すべての人と、深い交わりができるわけではないのです。使徒パウロが言いました。「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。(Uコリント
6:14-15」むろん、私たちはすべての人に接して、愛していかなければいけません。私たちの主も、罪人たちと食事を取られ、またパリサイ人とも食事を取られました。けれども、主は、弟子たちとの関わりのみを深めていました。同じように、私たちも、深い関わりを、汚れていない人、神を恐れて歩んでいる人と持つべきであります。

 あなたは彼を聖別しなければならない。彼はあなたの神のパンをささげるからである。彼はあなたにとって聖でなければならない。あなたがたを聖別する主、わたしが聖であるから。祭司の娘が淫行で身を汚すなら、その父を汚すことになる。彼女は火で焼かれなければならない。

 厳しい処置ですが、それは、祭司は人に対して聖なる神を代表するからです。私たちは、神の祭司たちと同じように、主イエス・キリストを人々に表す者たちです。そのときに、罪を犯すということは、かなりの痛手をこうむります。神の御名が汚されてしまうからです。一般の人々が、「神」ということばを聞いたり、「キリスト」ということばを聞いたときに、そのような罪を思い出させてしまうことになるからです。ユダヤ人がなかなかクリスチャンにならない理由として、過去2千年の間に、キリスト教が、イエスの名のもとに、十字架をかかげて、彼らを迫害し、虐殺しました。彼らにとって、十字架は罪の赦しのシンボルではなく、その血なまぐさい歴史の象徴であると言われます。私たちクリスチャンが行なうことが、神の御名に対するイメージを変えてしまいます。神は、祭司の娘で淫行する者がいれば、火で焼きなさい、と言われました。


2C 大祭司 10−15
 次に大祭司についての教えが書かれています。祭司は、祭壇や聖所の中で奉仕しますが、大祭司は年に一度、至聖所に入り、イスラエルの民の贖いをする奉仕に携わっている人です。

 兄弟たちのうち大祭司で、頭にそそぎの油がそそがれ、聖別されて装束を着けている者は、その髪の毛を乱したり、その装束を引き裂いたりしてはならない。

 
大祭司はとくべつな服を身につけています。聖なる装束と呼ばれますが、それら一つ一つは神の栄光を表すものです。青、白、紫、緋色で編んだエポデを着け、12個の宝石が埋め込まれた胸当てを着けています。頭には帽子をかぶり、そこには、「主への聖なるもの」という記章が着いています。それら一つ一つが、主の栄光と美を表しています。したがって、その装束を引き裂くことは、主の栄光をだいなしにすることに他なりません。おぼえていますか、主イエスさまを死刑に定めるときに、大祭司カヤパが服を引き裂きました。彼は、主イエスをモーセの律法に違反していると訴えながら、見事に律法に違反していたことを行なっていたのです。あの法廷では、数多くの違法行為が行なわれていました。けれども、主は一度も、罪を犯されませんでした。


 どんな死体のところにも、行ってはならない。自分の父のためにも母のためにも、自分の身を汚してはならない。

 祭司たちは、自分の近親の者であれば、そのために喪に服することができましたが、大祭司は父母のためにもその死体にさわることはできません。

 聖所から出て行って、神の聖所を汚してはならない。神のそそぎの油による記章を身につけているからである。わたしは主である。彼は処女である女をめとらなければならない。やもめ、離婚された女、あるいは淫行で汚れている女、これらをめとってはならない。彼はただ、自分の民から処女をめとらなければならない。彼の民のうちで、その子孫を汚すことのないためである。わたしは彼を聖別する主だからである。

 
祭司は、やもめとの結婚は許されていましたが、大祭司はやもめであっても、結婚は許されませんでした。このように、大祭司は、祭司よりもさらに高い基準を要求されました。


 これは、大祭司が、私たちの大祭司であるイエス・キリストを指し示していたからです。罪のない、聖なる方であるイエス・キリストを示すために、大祭司は幕屋で奉仕をしていました。また、大祭司は、神にもっとも近づいている者です。したがって、神の聖さをもっとも良く表していなければいけませんでした。そしてまた、このことは、大きな特権には、大きな責任が任される、という原則を見つけることができます。大祭司は、神ご自身の栄光に近づき、神と交わるという特権にあずかっています。そこで、その特権にともない、自分の歩みもまた制限されるのです。

 私たちも同じです。私たちは、クリスチャンとしてすばらしい特権にあずかっています。それゆえ、私たちの歩みも、してはいけないことが増えてくるのです。これは否定的に考えるべきではありません。主との交わりを深めれば深めるほど、その関係は緊密になり、自分が何をしなければいけないかが、はっきりと見えてくると言い換えたらよいでしょう。例えば、独身のときには、自由にふるまっていました。けれども、結婚することによって、自分が行なわなければいけない責任範囲がはっきりとして、そのガイドラインにのっとって歩むことに大きな喜びを持つことができます。何をすればよいかわからない、ではないのです。制限されることにある喜び、といいましょうか。律法的ではなく、賞を得るような競争選手のように、目的がはっきりした生き方であります。

2B 身にある欠陥 16−24
 次に、祭司は自分のからだに欠陥があると、奉仕をすることができないことについて書いてあります。

 ついで主はモーセに告げて仰せられた。「アロンに告げて言え。あなたの代々の子孫のうち、だれでも身に欠陥のある者は、神のパンをささげるために近づいてはならない。だれでも、身に欠陥のある者は近づいてはならない。盲人、足なえ、あるいは手足が短すぎたり、長すぎたりしている者、あるいは足や手の折れた者、せむし、肺病でやせた者、目に星のある者、湿疹のある者、かさぶたのある者や、こうがんのつぶれた者などである。祭司であるアロンの子孫のうち、だれでも身に欠陥のある者は、主への火によるささげ物をささげるために近寄ってはならない。彼の身には欠陥があるから、神のパンをささげるために近寄ってはならない。


 障害がある人は、奉仕をすることはできません。これは、もちろん、障害者に対する差別では決してありません。このレビ記
21章また22章でとくに強調されていることは、祭司にしろ、またささげ物にしろ、神を現わしている、ということであります。彼らがどれだけ高い基準に従って生きていくことができるか、ということが焦点になっていません。そうではなく、神がどのような存在かを示そうとして、神はこのようなことをおっしゃっているのです。神には欠けたところがありません。神は完全であり、どのような不足もありません。まったく聖い方であり、そのような神を、祭司たちは自分の身をもって示さなければいけなかったのです。そのために、身体障害者はこの奉仕に適さなかったのです。

 ここから知らなければいけないのは、私たちクリスチャンは、自分たちの義を立てるために、さまざまな掟を守っているのではない、と言うことです。そうではなく、神ご自身に現われていただくことに徹していくことが大切なのです。ある人がこう言いました。「あのクリスチャンの団体の指導者の人たちは、とってもすばらしい人たちだ。謙虚だし、質素だし、とても親切で、優しい。」そこで私は言いました。「本当だったら、その人がすばらしいとほめられるのではなく、その人を通して、さらにイエスさまを知るようになって、イエスさまを愛していけるようにならないとだめだよね。」と。ここには大きな差があるのです。祭司にしろ、大祭司にしろ、これらの高い基準が設けられているのは、徹底的に、神ご自身に現われていただくためであり、自分が神の基準に到達するために設けられているのではありません。

 しかし彼は、神のパンは、最も聖なるものでも、聖なるものでも食べることができる。

 身に欠陥のある人でも、ささげ物の分け前は食べることができます。つまり、身体障害者の人が差別されているわけではなく、彼らも奉仕している人たちと同じように霊的なのです。

 ただし、垂れ幕の所に行ってはならない。祭壇に近寄ってはならない。彼は身に欠陥があるからである。彼はわたしの聖所を汚してはならない。わたしがそれを聖別する主だからである。」モーセはこのように、アロンとその子らとすべてのイスラエル人に告げた。


2A 食物の聖別 22
 こうして、祭司の聖別について学びました。次は、ささげ物を食べることについて、またささげ物そのものについての聖別についての教えです。

1B 食べることができない人 1−16
1C 汚れのある祭司 1−9
 ついで主はモーセに告げて仰せられた。「アロンとその子らに告げよ。イスラエル人の聖なるものは、わたしのために聖別しなければならない。彼らはわたしの聖なる名を汚してはならない。それは彼らがわたしのために、聖なるものとすべきものである。わたしは主である。祭司だけではなく、ささげる物も神の聖なるご性質を現わしていなければいけません。彼らに言え。代々にわたり、あなたがたの子孫のだれかが、イスラエル人が主のために聖別した聖なるものに汚れたままで近づくなら、その者は、わたしの前から断ち切られる。わたしは主である。

 
21章においては、自分自身が汚れないように、というおきてでしたが、今度は、汚れた自分によって、ささげ物を汚してしまわないように、という教えです。

 アロンの子孫のうち、らい病人、または漏出のある者はだれでも、きよくなるまで聖なるものを食べてはならない。

 
おぼえていますか、らい病人や漏出のある者は隔離されて、宿営の中に入ることができませんでした。祭司がらい病にかかったり、漏出を持ったりすることがあります。そのとき、彼は汚れているので、ささげ物の分け前をもらうことができません。

 また、死体によって汚されたものに触れる者、精を漏らす者、あるいはすべて人を汚す、群生するものに触れる者、または、どのような汚れでも、人を汚れさせる人間に触れる者、このようなものに触れる者は、夕方まで汚れる。その者は、からだに水を浴びずに、聖なるものを食べてはならない。

 精を漏らす者についての教え、また食物規定の教えで、群生する動物にさわると汚れる、という教えがありました。その他にもいるいろありましたが、祭司がこれらのものに触れて汚れるばあいは、ささげ物を食べることはできません。からだに水をあびることによって、きよめられます。

 ただし、日が沈めば、彼はきよくなり、その後、聖なるものを食べることができる。それは彼の食物だからである。

 
レビ記において、汚れというとき、それは必ずしも道徳的な罪ではないことが多いです。ここもそれであり、水洗いをして、日が沈む、つまり次の日になれば、きよめられます。


 私たちは、この祭司たちと同じように、日々きよめられる必要があります。日常生活を歩んでいくなかで、汚れたものにふれてしまう、つまり世の汚れにふれてしまうことがよくありますね。いやらしい話し、陰口、無神経な態度、嘘、日常茶飯事に行なわれていることに出くわし、私たち自身も、それに影響されてしまう場合があります。頭の中に入っていってしまうのです。神は、一日という単位を大切にされています。そのような汚れをもって、次の日に持ち越すことはよくありません。一日の終わりに、神のみことばを読んできよめていただき、また罪の告白をしてきよめていただき、次の日を出発させなければいけません。そうしなければ、ここで書かれているとおり、神のパンを食べることができない、つまりイエスさまとの交わりを持つことができません。もちろん、私たちは、罪に定められることはありません。神の前に、キリストにあってきよく、傷のない者とされました。けれども、主との交わりを体験できない、そこにある喜びを持つことができなくなってしまうのです。ですから、日々きよめていただく必要があるのです。

 自然に死んだものや、野獣に裂き殺されたものを食べて、汚れてはならない。わたしは主である。彼らがわたしの戒めを守るなら、彼らが、これを汚し、そのために罪を負って、死ぬことはない。わたしは彼らを聖別する主である。

 こうした日々のきよめをいただいていれば、罪を負って死ぬことはありません。逆に罪の中で生き続けるなら、死ぬ可能性はあるのです。ですから、これはクリスチャンへの警告でしょう。罪の中で生きつづけるなら、私たちは死んでしまいます。クリスチャンであるということは、日々のきよめがある人であり、ないのであれば、その人はもはやクリスチャンであると呼ぶことができないのです。


2C 一般の人 10−16
 次に、一般のイスラエル人が神の食物にあずかれないことについて書かれています。一般の者はだれも聖なるものを食べてはならない。祭司と同居している者や雇い人は、聖なるものを食べてはならない。

 祭司と同居していようが、一般のイスラエル人が神の食物を食べることはできません。つまり、これは、キリストにある神の祭司にならないかぎり、主イエス・キリストのいのちにあずかれない、その交わりを楽しむことはできない、ということです。クリスチャンらしく、ふるまうことはできるでしょう。けれども、同居しているだけでは食べることができないのです。

 祭司に金で買われた者は、これを食べることができる。また、その家で生まれたしもべも、祭司のパンを食べることができる。


 これは、とても大切ですね。同居人は食べることはできないのに、金で買われた人は食べることができます。ここに「贖い」の概念があるのです。私たちは買い取られることによって、主の交わりにあずかることができるのです。自分がどんなにみじめで、神の祝福にあずかることが到底できないような存在であっても、主イエス・キリストが流された血の代価を見つめれば、その交わりに即座にあずかることができます。私たちが一生懸命、きよい生き方をしようとふるまっても決してだめなのです。そうではなく、はっきりと自分は、キリストの血潮によって買い取られた、と信じて意識する必要があるのです。そして、自分はもはや神のものであり、自分自身のものではない、と信じることによって、神の祝福のすべてを受け取ることができます。


 祭司の娘が一般の人と結婚したなら、彼女は聖なる奉納物を食べてはならない。祭司の娘がやもめ、あるいは離婚された者となり、子どももなく、娘のときのように再びその父の家に戻っていれば、その父の食物を食べることができる。

 ふたたび、結婚関係について出てきました。娘は、一般の人と結婚したら、聖なる物は食べることはできませんが、離婚されて、子どもがいなければ、父の家に戻ることができます。これは、神のあわれみの現われです。もし一人身であれば、それは死を意味しますから、神はその食べ物を食べて良いと言われているのです。それに、一般の人との交わりから解けています。その汚れからも解けているのです。


 しかし、一般の者はだれも、それを食べてはならない。だれかが、あやまって聖なるものを食べるなら、それにその五分の一を足して、その聖なるものを祭司に渡す。

 
あやまって食べたとき、五分の一を加えます。私たちはだれかに害を与えてしまったとき、それに等しい償いをすればよい、と考えてしまいます。例えば、一万円の損を与えてしまったとしたら、一万円分の償いをすればよいと考えます。しかし、聖書の教えは異なります。神は、人のいのちを初めとして、人に与えられた財産をとても尊ばれます。それゆえ、害を受けた人は、その物理的な被害以上に、大きな損傷を受けます。それへの償いであり、害を与えた額よりも、さらに加えられた額で償わなければいけないのです。

 イスラエル人に、その主に奉納する聖なるものを汚し、聖なるものを食べて、その罪過の咎を負うようにさせてはならない。わたしは彼らを聖別する主だからである。」


2B ささげることができない動物 17−33
1C 欠陥のある動物 17−25
 次に、ささげ物そのものが聖いものでなければならないことを、神は教えておられます。

 ついで主はモーセに告げて仰せられた。「アロンとその子ら、またすべてのイスラエル人に告げて言え。だれでも、イスラエルの家の者、またはイスラエルにいる在留異国人がささげ物をささげ、誓願のささげ物、あるいは進んでささげるささげ物として、全焼のいけにえを主にささげるなら、あなたがたが受け入れられるためには、それは牛、羊、あるいはやぎのうちの傷のない雄でなければならない。欠陥のあるものは、いっさいささげてはならない。それはあなたがたのために受け入れられないからである。


 傷のないもの、欠陥のないものを、ささげ物にしなければいけません。それは、ささげ物も、神ご自身を現わしているからです。あるいは、神の供え物であるイエス・キリストを表しているからです。完全な方には、完全ないけにえが要求されます。


 また、人が特別の誓願を果たすため、あるいは進んでささげるささげ物として、牛か羊の中から和解のいけにえを主にささげるときは、それが受け入れられるためには傷のないものでなければならない。それにはどのような欠陥もあってはならない。

 全焼のいけにえをささげるときだけではなく、誓願を果たすささげものにも、欠陥があってはなりません。

 盲のもの、折れたところのあるもの、傷のあるもの、あるいは、うみの出るもの、湿疹のあるもの、かさぶたのあるもの、あなたがたはこれらのものを主にささげてはならない。また、これらのものを主への火によるささげ物として祭壇の上にささげてはならない。牛や羊で、足が伸びすぎているか、またはなえ縮んだものは、進んでささげるささげ物とすることはできるが、誓願のささげ物としては受け入れられない。あなたがたは、こうがんの押しつぶされたもの、砕けたもの、裂かれたもの、切り取られたものを主にささげてはならない。あなたがたの地でそのようなことをしてはならない。

 
完全な方には、完全ないけにえが要求されます。私たちは、このことを知らなければいけません。神に受け入れられるために、私たちはあらゆる努力をします。けれども、それらがみな不完全であることは、百も承知です。私たちは、完全な方には、完全ないけにえをささげる、つまり、イエス・キリストにつながれた自分を見ること以外に、神に受け入れられることはできないのです。主とともに葬られました。自分はもう罪に対して死んでいます!そして、キリストとともによみがえりました!このように、キリストに結びつけられた自分を主の御前にささげるときに、初めて主は、私たちを受け入れてくださるのです。主の御前に、ありのままの自分で出てきてください。これが、本当の献身です。


 また、あなたがたは、外国人の手から何かこのようなものを受けて、あなたがたの神のパンとしてささげてはならない。これらのものはそこなわれており、欠陥があるから、あなたがたのために受け入れられない。

 外国人は、イスラエル人に与えられた律法など知りませんから、平気で欠陥のある動物をささげるかもしれないでしょう。けれども、それをささげてはいけません。私たちも気をつけなければいけませんね。相手は善意でしてくれること、与えてくれるものがありますが、私たちは、それをそのまま受け入れることはできないのです。


2C 子と母 26−33
 そして、次に、いけにえをささげるときの注意について書かれています。ついで主はモーセに告げて仰せられた。「牛か羊かやぎが生まれたときは、七日間、その母親といっしょにしておく。八日目以後、それは主への火によるささげ物として受け入れられる。」

 七日間待つのは、この赤ん坊が乳離れをするためです。母親から赤ん坊を奪い取るようなことはしていけません。神は、動物にさえ、あわれみをお示しになっています。私たちの生きている世界は、合理化、効率化が進んで、このように弱いものに対する配慮を無視して、突き進んでいます。この前の学びでもそうですが、貧しい者たちをしいたげる者は、格別のさばきを受けます。今の日本は、そのような社会ではないでしょうか。テビーは、スーパーマケットにおいて売れ残った食べ物は捨てていることを聞いて、驚きました。アメリカでは、それらをホームレスの人たちにあげる場合が多いからです。あるスーパーマケットにおいては、従業員にさえ、残ったものを与えません。なぜでしょうか?その従業員にも、スーパーマーケットから物を買ってほしいからです。これを搾取といい、しいたげといい、むさぼりと言います。大らかさがない、搾り取るだけ搾り取る、このような社会の中に生きているので、日本には霊的な祝福がないのではないでしょうか。


 しかし、牛でも、羊でも、それをその子と同じ日にほふってはならない。ここにも、神の動物にたいするあわれみがあります。母親と同じ日にほふってはいけません。主に感謝のいけにえをささげるときは、あなたがたが受け入れられるように、それをささげなければならない。

 
ここは、自ら進んで、と訳すことができます。レビ記においては、繰り返し教えられています。自ら進んで、ささげ物をすることが聖いことなのです。強いられたり、いやいやながら行なうささげ物は、汚れており、神はそれを忌みきらわれます。したがって、私たちが自ら進んで行なうことは、特権でもあり、かつ義務でもあるのです。人から言われるから行なう、教会において、家庭において、神は自分に何と語られているのかを聞く努力をしない。「こうしなさい!」と命じられるまで、待っている。こうしたささげ物は汚れているのです。カルト宗教においては、多額の献金が集まります。キリスト教会には、実に少額の献金しか集まりません。それは、日本人の心に、「人から言われることによって、自分をささげる。」という思いが根強く残っているからです。その反面、聖書は、私たちが個人的に、神に自らささげることを求めています。

 その同じ日にこれを食べ、朝までそれを残しておいてはならない。わたしは主である。

 朝まで残すのは、次の日に食べ物がなくなるのでは、と思いわずらうからです。それをやめなさい、その日に与えられる者で養われなさい、と命じられています。思い煩い、これも私たちの心を汚しますね。私たちは日々、主に拠り頼み、主から新しい力、恵み、あわれみを受けなければいけません。


 そして、神はモーセに、しめくくりとして、これらの命令を守り行なうように、勧めています。あなたがたは、わたしの命令を守り、これを行なえ。わたしは主である。わたしの聖なる名を汚してはならない。むしろわたしはイスラエル人のうちで聖とされなければならない。わたしはあなたがたを聖別した主である。あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から連れ出した者、わたしは、主である。

 ここには、私たちがなぜ、聖なる歩みをしていけばよいのかについて知ることができます。まず、わたしの命令を「守りなさい」です。これは、すでに行なっていることを保っていなさい、ということです。私たちが日々、絶えず主に拠り頼まなければいけません。それから、「行なえ」です。これは、主の声を聞いたら、それに素直に応答することを意味します。そのときに応答しないで、あとで自分の都合に合わせて行なおうとすれば、決してうまくいきません。私たちは信仰によって生きています。ですから、神の声を聞いたそのときに従うことによって、生きるのです。そのときに、必要な力が与えられます。自分でこしらえて、自分なりに行なおうとすれば、力は与えられません。


 そして、命令を守り行なう理由ですが、「わたしは主である。」であります。先ほども説明しましたように、聖なる歩みとは、神に徹底的に生きていただくことにあります。私たちが、神の基準に到達することではありません。それから、最後に、「あなたがたをエジプトから連れ出した。」とあります。私たちも贖われた者、自分が神のものである、という意識を持っているときに、これらの聖なる歩みを行う機動力となります。

 こうして「祭司の聖なる歩み」を見てきましたが、私たちは幕屋の外にいるものではなく、幕屋の中にいるものです。このことに気付けば、私たちクリスチャンが手足を動かして、神と積極的に交わらなければいけないことが分かるでしょう。


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