レビ記23章 「主への祭り」


アウトライン

1A 春の祭り 1−22
   1B 聖なる会合 1−3
   2B 麦 4−22
      1C 種なしのパンの祭り 4−8
      2C 初穂の祭り 9−14
      3C 五旬節 15−22
2A 秋の祭り 23−44
   1B ラッパを吹き鳴らす祭り 23−25
   2B 贖いの日 26−32
   3B 仮庵の祭り 33−44
      1C 火によるささげもの 33−38
      2C 喜びの祝い 39−44


参照サイト:イスラエルの例祭についての表

本文

 レビ記23章をお開きください。ここでのテーマは、「主への祭り」です。

 

 イスラエルの民は、今、シナイ山のふもとにいます。神は、モーセをとおして、イスラエルをエジプトから贖い出してくださり、シナイ山にまで導かれました。モーセはシナイ山に上って、主から、十戒をはじめ、さまざまな戒めと定めを伺いました。それから、主の命令にしたがって、幕屋を造ります。幕屋が造ったとき、主の栄光の雲が幕屋に満ちました。そして主は、モーセを呼び寄せて、会見の天幕の中から声をかけられました。そこで主がお語りになった、その言葉集がレビ記です。

 

 レビ記のテーマは、一言で言いますと「聖」です。主は、「わたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者となりなさい。」と何度も何度もお命じになりました。「聖」はもともと、「分離される」とか、「別のものにされる」という意味です。聖書においては、「この世にあるものから、分離・分別されて、神のものとされる」という意味になります。イスラエルの民は、神によって贖われて、主なる神のものとなりました。他の諸国の民と区別され、分離し、神の民として歩みはじめます。そのために必要な戒めを、主はモーセをとおしてイスラエル人に与えられました。私たちクリスチャンも同じです。この世から聖め別たれて、神のもの、キリストのものとされました。この世に生きているのですが、この世のものではなくなりました。神の子どもとして、光の子どもとして、聖なる者として、キリストとともに歩んでいくのです。

 

 聖なる歩みをするために、初めに、どのようなことをしなければならないでしょうか?たばこを吸わないことですか?お酒を飲まないことですか?違います。聖なる者となるために初めにしなければならないのは、いけにえをささげることです。神と人との間には、隔ての壁があります。人は罪を持っているので、そのままの姿では神に近づくことができません。そこで、罪がきよめられる必要があるのです。罪がきよめられるためには、血が必要です。いのちを表す血が流されることによって、聖なる神が、ご自分に近づく人を受け入れることがおできになります。私たちの主、イエス・キリストの流された血によって、私たちは聖なる者とされ、神の大胆に近づくことができるのです。そこで、レビ記は、火による家畜のいけにえから、話が始まります。牛や羊のからだすべてを祭壇の上で焼き尽くす、「全焼のいけにえ」、またいけにえに添えてささげる「穀物のささげもの」、それから、神との交わりを楽しむところの「和解のいけにえ」あるいは「平和のいけにえ」があります。そして、罪を犯したときの、「罪のためのいけにえ」と「罪過のためのいけにえ」があります。

 

 このような、いけにえによって神に近づくことがレビ記の前半部分1章から16章までに書かれており、それから、聖なる神とともに歩むため、汚れたものに近づかず、聖さを保つための方法が後半部分に書かれています。ですから、私たちがこれから学ぶ23章は、イスラエルの民が、聖なる神とともにいるための、一つの方法が書かれています。

 

1A 春の祭り 1−22

 それでは1節をごらんください。

1B 聖なる会合 1−3

 ついで主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。あなたがたが聖なる会合として召集する主の例祭、すなわちわたしの例祭は次のとおりである。

 

 聖なる会合として集まりなさい、と主は命じておられます。そして、それは例祭、つまり例年、決められた時期に行なうべき祭りとして守ります。過越の祭り、種なしのパンの祝い、初穂の祭り、五旬節、ラッパを吹き鳴らす会合、贖罪日、そして仮庵の祭りです。合計7つあります。このうち代表的なものは、過越の祭り、五旬節、仮庵の祭りの三つです。これは、世界中にいるユダヤ人成年男子が、必ず出席しなければいけない祭りとして、数えられています。

 

 これらの祭りは、収穫祭であります。初穂の祭りは、春の初めに収穫される大麦の初穂を、主におささげする祭りです。五旬節は、春の終わりに収穫する小麦の初物を、主におささげまします。そして秋の仮庵の祭りにおいては、いちじくの木の実、オリーブ、ぶどう、なつめやしなどの収穫の後に行なわれます。今、イスラエルが、シナイ山の荒野のふもとにいることを思い出してください。これらは、彼らが約束の地に入ってから、与えられるところの収穫を前提にして、主がお語りになっているのです。私たち人間は、荒野にいるときには、水や食料などの備えのために、主に必要を満たしていただくために、祈り、主に拠り頼みますが、豊かになるときに神を忘れてしまいます。そこで、主は、収穫物をご自分にささげるように命じられることによって、イスラエルがいつまでも、主を信じ、主のうちにとどまることを学ばせようとしました。

 

 そして、これが春、夏、秋、冬という季節ごとに、年ごとに行なわれていることに注目してください。私たち人間は、季節に合わせた行事なり、祭りを持つことによって、自分の生活のリズムを合わせますね。日本人であれば、正月から始まり、節分があり、次にひな祭り、彼岸、端午の節句、七夕、そして盆があります。今の時期ですね。それから、七五三があり、最後に晦日があります。これらはみな、祖先の霊を迎えたり、供養したりと、自分の人生観や死生観に深く結びついています。クリスチャンになれば、これらの先祖のしきたりから解放され、これらの儀式は偶像礼拝なので行なわないようになります。けれども、それでは、私たちは、それらに代わる新しい死生観、あるいは人生観を持っているでしょうか?日々の生活の中で、自分が何から始まり、何によって成り立ち、そしてどこに至るのかを意識しながら、生きているでしょうか?私たちクリスチャンは、はっきりとした時間の流れを持っています。初めから終わりまで、神がキリストによって与えられているところのプログラムがあります。私たちは、このプログラム、あるいはご計画の中で生き、存在しています。そして、このご計画がみなさんの心と思いの中ではっきりとしているときに、自分が日々どのようにして生きればよいか、神のみこころを理解できるようになるのです。これまでもし、クリスチャン生活がもやもやしていると思われていたなら、ぜひ、主への例祭の学びをとおして、みなさんに与えられた神のみこころを知ってください。

 

 これから説明していきますが、レビ記23章で主がお与えになっている7つの祭りはすべて、キリストのみわざを予め示しているものです。神は、紀元前15世紀にすでに、キリストが行なわれることを、イスラエルが守るべき例祭の中に、型として残されていました。

 

3節をごらんください。六日間は仕事をしてもよい。しかし七日目は全き休みの安息、聖なる会合の日である。あなたがたは、いっさいの仕事をしてはならない。この日はあなたがたがどこに住んでいても主の安息日である。

 

 主は、例祭についての教えの前に、週ごとに守られるべき安息日についてお語りになっています。このときは、いっさい仕事をしてはならず、みなが集まって主を礼拝します。そして、それが「聖なる会合」であり、主にあって聖いことなのです。これから読んでいく例祭においても、全き休みを得なさいという命令を読むことでしょう。なぜ、主は、休むことをそこまで強く命じられて、これを「聖なる会合」と及びになっているのでしょうか?それは、安息するとは、自分の働きではなく、主ご自身の働きを認めることだからです。自分の行ないをやめ、主の行ないを認めることです。私たちが、だれかのことを知りたいと思うとき、自分が動くことをやめ、立ち止まって、その人の姿や行なっていることを、じっくりと見るでしょう。それと同じことです。私たちが、主にあって聖なる者と認められるには、自分ではなく主ご自身の姿やお働きをじっくりと見、ながめることが必要なのです。

 

 コロサイ人への手紙2章には、「食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。(2:16-17」とあります。安息日は、本体であるキリストの影であると、使徒パウロは言っています。私たちは、クリスチャンとして聖なる歩みをするために、自分の働きをやめ、キリストが行なわれたみわざの中に休む必要があるのです。キリストがなされたみわざ、今、行なわれていること、そしてこれから行なわれることの中に休み、とどまり、自分の行ないを取り除くことが必要なのです。私たちは、自分が何らかの宗教的な行ないをしているから、自分が聖いと思ってはいやしないでしょうか?毎日一時間祈っているからとか、一週間に何人もの人に伝道したとか、奉仕活動をしているとか、そのような「行ない」を誇ることはないでしょうか?けれども、このような活動は、主にとって何一つ聖なる事柄として数えられず、むしろ、肉の行ないとして忌みきらわれることさえあるのです。主が望まれていることは、私たちが、キリストのみわざを認めることなのです。神がキリストにあって、行なってくださったことを認め、信じ、そして自分をキリストに明け渡すことであります。ですから、主への例祭はみな、全き休みが命令されているのです。

 

2B 麦 4−22

 それでは4節に入ります。

1C 種なしのパンの祭り 4−8

 あなたがたが定期に召集しなければならない聖なる会合、すなわち主の例祭は次のとおりである。第一月の十四日には、夕暮れに過越のいけにえを主にささげる。

 

 主への例祭は、過越の祭りから始まります。第一月とあるとおり、この祭りをもってユダヤ人の暦が始まります。実はユダヤ人にはもう一つの暦がありますが、それは後でご説明します。

 

 過越の祭りは、イスラエルがエジプトから贖い出されたことを祝うところの祭りです。出エジプト記12章に、その祭りについて詳しく書かれています。エジプトの王パロが、イスラエルの民をエジプトから出て行かせませんでした。主は、エジプトに9つの災いをお下しになりましたが、それでもパロは心をかたくなにしていました。そこで主は、最後の災いとして、エジプトの初子をみな殺すと言われました。初子とは、家畜にしても人間の子供にしても、最初に生まれた男の子のことです。けれども、主は、イスラエルに対して、傷のない一歳の子羊を用意して、それを食べなさいと命じられました。その血は、家の門の鴨居と門柱につけなさい、と命じられています。そして、イスラエルがそのとおりに行なうと、死の御使いは、血のついた家を通り越して、血のついていないエジプトの家だけに入り、男の子を殺しました。こうして、イスラエルの家には、主のさばきが通り越したのです。

 

 この祭りは、イエスさまが地上におられる時にも続いていました。イエスさまがバプテスマのヨハネに現われたとき、彼は、イエスさまを、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。(ヨハネ1:29)」と呼びました。そしてイエスさまが、十字架につけられる前夜、弟子たちと過越の食事をしておられました。パンを裂いたときに、「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを与えてこれを行ないなさい。」と言われ、ぶどう酒の杯は、「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」と言われました(ルカ22:20)。そして、イエスは、過越の祭りの日に十字架につけられ、死なれました。そうです、イスラエルが食べ、血を門の鴨居と門柱につけたその子羊は、イエス・キリストご自身を示していたのです。使徒ペテロは、「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。(1ペテロ1:18-19」と言いました。

 

 過越の祭りが、この後のすべての祭りの出発点になっており、この祭りによって他の祭りが成り立っています。すべての土台になる祭りです。私たちの主イエス・キリストが十字架の上で死なれ、血を流してくださった、このことが私たちの信仰の土台であります。私たちの奉仕は、どのような動機から始まっているでしょうか。「私は罪人であったのに、神はキリストを死に渡されることにより、ご自分の愛を示してくださったのだ。」ということから始まっているでしょうか?それとも、他のだれかに認められたいとか、自分の心理的欲求を満たしてくれるというような動機から始まっているでしょうか。私たちのすべての奉仕は、ただ「キリストの愛」に突き動かされているものでなければいけません。

 

この月の十五日は、主の、種を入れないパンの祭りである。七日間、あなたがたは種を入れないパンを食べなければならない。最初の日は、あなたがたの聖なる会合とし、どんな労働の仕事もしてはならない。七日間、火によるささげ物を主にささげる。七日目は聖なる会合である。あなたがたは、どんな労働の仕事もしてはならない。」

 

 過越の祭りはすぐに、種を入れないパンの祭りに続きます。ここでいうパン種とは、パンをふくまらせるところのイースト菌のことです。イスラエルの民は、この祝いの前に、家の中にあるパン種をくまなく探し、家の中からパン種を取り除きます。そして七日間、種のないパンを食べます。初めの日と最後の日は仕事をしてはなりません。そして、この七日間、火によるささげもの、つまり、牛や羊、やぎなどの家畜を祭壇にて火で焼くようにします。

 

 聖書において、パン種は悪いものの型となっています。少しイースト菌を入れると、それがパン全体に広がるように、罪は、わずかであっても全体に広がる性質を持っています。そこでパウロは、コリント人たちに手紙を書いたときに、こう言いました。「あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。(Tコリント5:6」したがって、種を入れないパンを食べることは、罪が取り除かれたことを示していたのです。パウロはコリント人たちに、続けてこう言っています。「新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種のはいらない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。(1コリント5:7-8」したがって、種なしパンの祝いは、キリストの血によって罪赦され、罪が取り除かれたことを祝っているのです。

 

 私たちの罪は取り除かれました。単に覆われただけではありません。それは旧約の時代のことです。主イエス・キリストの血は、私たちの罪を取り除き、私たちを完全にきよめてくださったのです。ですから、私たちと、神との間に、何ら隔ての壁になるようなものは一つもありません。子供がお父さんやお母さんのところに走りよっていくように、私たちも大胆に、父なる神に大胆に近づくことができるのです!「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル4:16」とヘブル書にはあります。

 

2C 初穂の祭り 9−14

 そして、この祭りの間に、もう一つ別の祭りがあります。それが初穂の祭りです。9節をごらんください。ついで主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。わたしがあなたがたに与えようとしている地に、あなたがたがはいり、収穫を刈り入れるときは、収穫の初穂の束を祭司のところに持って来る。祭司は、あなたがたが受け入れられるために、その束を主に向かって揺り動かす。祭司は安息日の翌日、それを揺り動かさなければならない。

 

 先ほど話しましたように、これは大麦の収穫の初穂を、主におささげする祭りです。祭司がそれを、主の前に前後に揺り動かして、この収穫を主に受け入れられるようにします。これは、安息日の翌日、つまり日曜日であり、過越の祭りの三日目に行なわれます。

 

 イエスさまが、死なれてから三日目に行なわれたことを思い出してください。主が過越の祭りの日に死なれ、墓に葬られました。安息日が終わり、日曜の夜明けに女たちが、イエスに香料を塗ろうと墓にやって来ました。墓の石は取り除かれており、そこに御使いがいて女たちにこう言いました。「この方はここにはおられません。よみがえられたのです。」そうです、初穂の祭りは、イエス・キリストの復活を表していたのです。使徒パウロはこう言いました。コリント人への手紙第一15章20節です。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

 

 キリストのみわざは、私たちのために死んでくださり、その血によって罪を赦し、きよめてくださっただけではありません。よみがえってくださり、そして今、私たちのうちに住んでいてくださっているのです!使徒パウロは言いました。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。 (ガラテヤ2:20」ここで、パウロは自分自身は、キリストとともに十字架につけられており、死んでいる、と言っていることに注意してください。私たちはすでに死んでいるのです!このことに気づかないと、いつまでも、自分を改善しよう、良くしようと思ってしまうのです。そして、改善しようと思っても、むしろ罪を行なっている自分を発見して、パウロのように、「ああ、私はなんとみじめな人間なのでしょう。」と嘆いてしまいます。しかし、すでに私たちは死んでいます。キリストとともに十字架につけられています。このことを信仰によって、みなしていく必要があります。誘惑があるときに、「この古い私は、キリストとともにすでに二千年前に十字架に釘付けにされて、死んでしまったのだ。」とみなし、宣言するのです。そして、キリストのいのちにある新しい歩みをすることができます。

 

あなたがたは、束を揺り動かすその日に、主への全焼のいけにえとして、一歳の傷のない雄の子羊をささげる。その穀物のささげ物は、油を混ぜた小麦粉十分の二エパであり、主への火によるささげ物、なだめのかおりである。その注ぎのささげ物はぶどう酒で、一ヒンの四分の一である。あなたがたは神へのささげ物を持って来るその日まで、パンも、炒り麦も、新穀も食べてはならない。これはあなたがたがどこに住んでいても、代々守るべき永遠のおきてである。

 

 先ほど言及させていただきました、全焼のいけにえ、穀物のささげものを、初穂の祭りのときにもささげます。そして注ぎのささげものというのもあり、これはぶどう酒をささげます。祭壇の上の火によって、これらが燃やし尽くされるとき、主がそのいけにえをお受け取りになったことを示しています。

 

3C 五旬節 15−22

 こうして第一月に行なわれる例祭について見てきました。次に、少し期間が置かれます。あなたがたは、安息日の翌日から、すなわち奉献物の束を持って来た日から、満七週間が終わるまでを数える。七回目の安息日の翌日まで五十日を数え、あなたがたは新しい穀物のささげ物を主にささげなければならない。

 

 五旬節です。五旬というのは50日のことですが、それは初穂の祭りから7週を数え、さらに一日を加えた日数であります。ところで、先ほどから7という数字がたくさん出てきているのに、お気づきでしょうか。七日目の安息日、七日間の種なしパンの祝い、そして、七週間後の五旬節です。7は、主ご自身のことを表しています。主のみわざが完全であり、完成されていることを示します。このときには、小麦の収穫の初穂を、主の前におささげします。

 

あなたがたの住まいから、奉献物としてパン・・主への初穂として、十分の二エパの小麦粉にパン種を入れて焼かれるもの・・二個を持って来なければならない。

 

 パンを二つ、主の前にささげます。不思議なことに、このパンにはパン種が入っています。ふわふわとした、私たちが普通に見るパンです。これはなぜでしょうか?また、なぜ二つのパンなのでしょうか?

 

 この五旬節のときに、ある大きな出来事が起こったことを思い出してください。主イエスさまがよみがえられ、弟子たちの前に40日間現われて、彼らは祈り始めました。10日後、五旬節のときに、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こりました。そして、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまりました。そして彼らは聖霊に満たされて、外国の言葉で話し出したのです。この日に、ペテロの説教を聞いて、3千人が弟子となり、バプテスマを受けました。そうです、教会が誕生したのです。したがって、五旬節は、聖霊が降って、教会が誕生することを予め示していたのです。

 

 このパンにパン種が入っているというのは、まだ罪をこのからだに宿す私たちの間に、キリストが宿ってくださり、キリストのからだが形成されていることを示しています。私たちは不完全ですが、その不完全な中にキリストがおられるのです。しかし、互いにキリストにあって赦し合い、仕え合い、励まし合い、教え合っていくなかで、成長し、キリストの身たけにまで成長することができます。今日、聖霊の賜物と言って、一人の能力や才能がもてはやされる風潮を、キリスト教会は持っています。しかし、それは間違いです。私たちは一人一人、弱いけれども、互いに結び合わされたこの御体に仕える者たちなのです。自分の周りを見回してください。そこには、あなたをとおして、主がミニストリーを行いたいと思われている、兄弟姉妹がいます。その人たちを主にあって愛して、その人のために祈り、あるときは励まし、教えてください。このいたわり合いが、種のはいったパンがまさに象徴していることなのです。

 

 そして「二つのパン」でありますが、これは、ユダヤ人と異邦人という二者が、キリストの十字架によって一つにされたことを意味しています。パウロは、エペソ書2章で、「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。(エペソ2:14-15」と言いました。キリストにあって、ユダヤ人も異邦人も、隔てなく交わりをすることができます。男も女も、自由人も奴隷も、すべての人がキリストにあって一つとなりました。私たちは、クリスチャンの間に、互いにぎくしゃくしたものがあり、なかなか交わることができない隔ての壁を感じているのであれば、それは、キリストではなく、自分自身が前面に出てしまっているからです。自分ではなく、キリストが第一になって、キリストのことが語られ、キリストが中心になっているとき、両者の違いは妨げとならなくなります。キリストが私たちの平和であり、二つのものを一つにしてくださいました。

 

そのパンといっしょに、主への全焼のいけにえとして、一歳の傷のない雄の子羊七頭、若い雄牛一頭、雄羊二頭、また、主へのなだめのかおりの、火によるささげ物として、彼らの穀物のささげ物と注ぎのささげ物とをささげる。また、雄やぎ一頭を、罪のためのいけにえとし、一歳の雄の子羊二頭を、和解のいけにえとする。祭司は、これら二頭の雄の子羊を、初穂のパンといっしょに、奉献物として主に向かって揺り動かす。これらは主の聖なるものであり、祭司のものとなる。

 

 和解のいけにえ、とは、「平和のいけにえ」とも訳すことができます。全焼のいけにえは、私たちのすべてを主におささげすること、献身を表しています。一方、和解のいけにえは、主との交わり、また互いの交わりを表しています。これは、喜びと感謝のときです。ともに交わって楽しんでいるときです。

 

その日、あなたがたは聖なる会合を召集する。それはあなたがたのためである。どんな労働の仕事もしてはならない。これはあなたがたがどこに住んでいても、代々守るべき永遠のおきてである。あなたがたの土地の収穫を刈り入れるとき、あなたは刈るときに、畑の隅まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂も集めてはならない。貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。

 

 収穫のときに、イスラエル人は、貧しい人、在留寄留者の人たちを顧みなければいけないことを教えられています。畑の隅々まで刈り取ることなく、それは残しておき、貧しい人たちが食べることができるように残しておきます。

2A 秋の祭り 23−44

 こうして初めの4つの祭りを見ることができました。そして次の祭りに入ります。

 

1B ラッパを吹き鳴らす祭り 23−25

 ついで主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。第七月の第一日は、あなたがたの全き休みの日、ラッパを吹き鳴らして記念する聖なる会合である。どんな労働の仕事もしてはならない。火によるささげ物を主にささげなさい。」

 

 ラッパを吹き鳴らす会合です。これが第七月であることに、まず注目してください。過越の祭りから五旬節までは、みな短い期間に行なわれました。今の太陽暦の、4月と6月に行なわれています。けれども、ここは9月です。長い中間期が空いていますね。初めの4つは春の祭りで、これからの3つの祭りは秋になります。

 

 私はこれから、このラッパを吹き鳴らす会合、贖罪日、そして仮庵の祭りが、キリストの再臨について示していることをご説明いたします。春の祭りは、キリストが初めに来られた時のことについてです。けれども、これからはキリストが再び来られるときについてです。春の祭りと秋の祭りの間が長いように、キリストが初めに来られた時と、再臨の間も長く続いています。実に2千年近く続いています。けれども、その間に生きる私たちは、キリストが行なわれた初めのみわざを思い起こすとともに、キリストがこれから行なわれるみわざに心を留めなければならないのです。

 

 この過去と未来の間にいる、現在の自分を見ることはとても大事なのです。過去に行なわれたキリストのみわざを見て、すべてのキリストにある歩みがスタートできるように、未来に行なわれるところのキリストのみわざを見て、キリストにある歩みがゴールします。目標点もなく走っている競走選手などいません。同じように、目標点も知らずに生きているクリスチャン生活など存在しないのです。

 

 キリストが自分のために十字架にかかってくださり、それで自分が罪赦されたことを知ることは、すべてのものにまさって大事です。けれども、キリストが自分のうちに生きておられ、聖霊が自分に賜物を与えておられることを知ることも、とても大事です。さらに、このキリストに仕える奉仕が、主にあって判断され、報われ、栄光の中に入れられることを知ることも、ものすごく大事なのです。このことを知らずにクリスチャン生活を過ごせば、それは目的を失ったものとなり、焦点がぼやけて、無味乾燥したものになっていくことは必至です。ですから、これから見る、秋の祭りにあるキリストのみわざを、しっかりと見つめていかねばなりません。

 

 ラッパを吹き鳴らす会合ですが、この時からユダヤ人の政暦が始まります。ヘブル語では、ロシュ・ハシュナと言います。新年のお祭りです。ラッパは、イスラエルの民にとって、神の声を表していました。荒野で旅するイスラエルの民が、列をなして行進を始めるとき、祭司がラッパを吹き鳴らしました。敵に戦いに出るときも、ラッパによって戦いました。ラッパによって、イスラエルの民が集められ、一つにされます。

 

 これは、新約聖書では、信者たちが空中に引き上げられ、主とともにお会いする携挙の時として預言されています。「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(1テサロニケ4:16-17」この出来事ののち、私たちは、キリストのさばきの御座の前に立ちます。そこは、私たちの罪がさばかれるのではなく、むしろ、私たちが主にあって行なったすべてのことについて、褒美をもらうときです。「よくやった、忠実な良いしもべよ。あなたは、小さな事に忠実であったから、大きなことも任せよう。」と主が言われて、みなさんを御胸で抱きしめて、みなさんを受け入れられるときであります。ああ、この日が待ち遠しいです!この真理を知れば、自分の奉仕が人の前で認められなくても、主の前で認められることを知ります。人の前で祈らなくても、独りで祈っている祈りが、父なる神の前に届いているのを知ります。隠れたことがあらわにされるのが、この時なのです。

 

 そして、このときは、自分がむだに行なったことが、きよめられ、火で焼かれる時でもあります。ですから、主が来られることを意識することは、私たちの心の動機にきよめをもたらし、本当に主に愛されている愛によって、自分が突き動かされているかどうかを点検する動機ともなるのです。

 

2B 贖罪日 26−32

 次は贖罪日です。ついで主はモーセに告げて仰せられた。「特にこの第七月の十日は贖罪の日、あなたがたのための聖なる会合となる。あなたがたは身を戒めて、火によるささげ物を主にささげなければならない。その日のうちは、いっさいの仕事をしてはならない。その日は贖罪の日であり、あなたがたの神、主の前で、あなたがたの贖いがなされるからである。その日に身を戒めない者はだれでも、その民から断ち切られる。その日のうちに仕事を少しでもする者はだれでも、わたしはその者を、彼の民の間から滅ぼす。どんな仕事もしてはならない。これは、あなたがたがどこに住んでいても、代々守るべき永遠のおきてである。これは、あなたがたの全き休みの安息である。あなたがたは身を戒める。すなわち、その月の九日の夕方には、その夕方から次の夕方まで、あなたがたの安息を守らなければならない。

 

 贖罪日は、第七月の十日にあります。そして、この日は自分を戒める日、言い換えると断食する日です。祈りと断食をして、自分の罪を言い表わし、悔い改め、主にきよめていただく日となります。この日については、レビ記16章に詳しく書かれています。大祭司が年に一度だけ、聖所の至聖所の中に入って奉仕する日です。彼は、二頭のやぎを用意します。一頭はほふります。そして、その血をたずさえて至聖所にはいり、贖いの蓋にその血を振り掛けます。こうして、彼は、イスラエルの民の罪の贖いをするのです。そして、大祭司は、残った一匹のやぎの頭に手を置いて、イスラエルの罪を告白します。それから、荒野にやぎを放ち、やぎがどこかに行って、それで罪の贖いが完成します。

 

 この日は、キリストの働きについて言えば、イスラエルの救いを表しています。教会が携挙された後、神は地上において、再びイスラエルを取り扱われます。「ヤコブの苦難」とも言われる時期であり、イスラエルに対する大きな迫害と苦難が訪れます。その時に彼らは、救いのためにメシヤを願い求めます。そのときに、イエスさまが聖徒たちとともに、天から地上に来られるのです。ゼカリヤ書12章には、このときの情景が預言されています。「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。(12:10」自分たちの先祖が、突き刺した、あのナザレのイエスがメシヤであられたことを、彼らはこのときに知るのです。そして、激しく泣き、悔い改めます。その結果、彼らにきよめが訪れて、御霊によって新たに生まれます。

 

 この時には、イエスは、反抗する世界の軍隊をことごとく滅ぼされ、オリーブ山に立たれます。天地は激しく揺れ、オリーブ山のあたりの地形も変化します。そして、諸国の民をさばかれ、新しく回復した世界で、エルサレムから世界の王として統治されるのです。これが、私たちが祈る、「あなたのみこころが、天になるごとく、地にもなさせたまえ。」という祈りの実現であります。ですから、贖罪日は、キリストが地上に再臨されることを表しています。

 

3B 仮庵の祭り 33−44

 そして最後は、仮庵の祭りです。

1C 火によるささげもの 33−38

 ついで主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。この第七月の十五日には、七日間にわたる主の仮庵の祭りが始まる。最初の日は聖なる会合であって、あなたがたは、労働の仕事はいっさいしてはならない。七日間、あなたがたは火によるささげ物を主にささげなければならない。八日目も、あなたがたは聖なる会合を開かなければならない。あなたがたは火によるささげ物を主にささげる。これはきよめの集会で、労働の仕事はいっさいしてはならない。

 

 仮庵の祭りは第七月の15日から行なわれます。七日間、火によるささげものをします。八日目もありますが、そのときは、きよめの集会です。

 

 以上が主の例祭である。あなたがたは聖なる会合を召集して、火によるささげ物、すなわち、全焼のいけにえ、穀物のささげ物、和解のいけにえ、注ぎのささげ物を、それぞれ定められた日に、主にささげなければならない。このほか、主の安息日、また、あなたがたが主にささげる献上物、あらゆる誓願のささげ物、進んでささげるあらゆるささげ物がある。

 

2C 喜びの祝い 39−44

 次に、仮庵の祭りについて、さらに詳しく主がお語りになっています。特に、あなたがたがその土地の収穫をし終わった第七月の十五日には、七日間にわたる主の祭りを祝わなければならない。最初の日は全き休みの日であり、八日目も全き休みの日である。最初の日に、あなたがたは自分たちのために、美しい木の実、なつめやしの葉と茂り合った木の大枝、また川縁の柳を取り、七日間、あなたがたの神、主の前で喜ぶ。

 

仮庵の祭りは、喜びの祭りです。秋の収穫の後に行なわれる祭りで、木の実、なつめやしの葉、木の大枝、柳などを取って喜びます。

 

 年に七日間、主の祭りとしてこれを祝う。これはあなたがたが代々守るべき永遠のおきてとして、第七月にこれを祝わなければならない。あなたがたは七日間、仮庵に住まなければならない。イスラエルで生まれた者はみな、仮庵に住まなければならない。これは、わたしが、エジプトの国からイスラエル人を連れ出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたがたの後の世代が知るためである。わたしはあなたがたの神、主である。」こうしてモーセはイスラエル人に主の例祭について告げた。

 

 仮庵の祭りは、イスラエルが荒野の旅を主が守っていてくださり、無事に約束の地まで導いてくださったこと祝う祭りです。彼らは、木の枝で仮住まいとなる庵をつくり、そこに住みます。そうして、神が荒野にいたイスラエルも守ってくださったことを思い出すのです。

 

 ゼカリヤ書14章を見ますと、主が地上に戻って来られ、エルサレムで王となられてから、諸国の民が仮庵の祭りに集うことが預言されています。「エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る。(14:16」したがって、仮庵の祭りは、主が立てられた、千年王国を表していることに気付きます。そこでは喜びが絶えることがありません。涙が笑いに変えられます。主によってすべてのものが回復し、新しくされ、神が意図されていたところの状態に戻されている時です。

 

こうしてレビ記23章を見ていきましたが、イスラエルの一年が、メシヤのみわざの初めから終わりまでを表していたことがご理解できたかと思います。私たちは、キリストにあって、聖霊によって、この初めと終わりのみわざを知る恵みにあずかっています。私たちはもはや、正月や盆などの行事ではなく、キリストにある完成されたみわざの中にとどまって、その中にあって生き、喜び勇むのです。



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