レビ記4−5章 「罪を犯したとき」


アウトライン


1A 神に対して 4
   1B 代表者の罪 1−21
      1C 祭司の罪 1−12
      2C 会衆の罪 13−21
   2B 個人の罪 22−35
      1C 上に立つ者の罪 22−26
      2C 一般の人の罪 27−35
2A 人に対して 5−6:7
   1B 目に見えない傷 1−13
   2B 目に見えるもの(償い) 5:14−6:17
      1C 主の聖なるもの 14−16
      2C 主の命令 17−19
      3C 人の財産 6:1−7

本文

 レビ記4章をお開きください。今日は、4章と5章、そして6章の最初の部分を学びます。ここでのメッセージ題は、「罪を犯したとき」です。

 私たちは、今、いけにえとささげものについての教えを学んでいます。1章においては、全焼のいけにえ。2章は穀物のささげもの。そして3章では、和解あるいは平和のいけにえについて学びました。それぞれ、キリストへの献身、キリストのいのち、そして、キリストの平和を表わしていることを知りました。そして、この3つのささげものは、「主へのなだめの香り」として知られています。主は、このいけにえが火で燃やされるその香りをかいで、それを喜ばれるからです。けれども、4章と5章には、そのような表現は出てきません。なぜなら、人の罪に関することだからです。神は、どのようなときも、罪を受け入れることはできません。その罪が何らかのかたちで処理されないかぎり、神は私たちを受け入れることはできないのです。そして、最初の3つのいけにえは、自発的なものでした。主が行なってくださったことに対する、私たちの応答だからです。けれども、4章と5章に記されているいけにえは、「しなければならない。」という、選択肢のないものになっています。「クリスチャンとして、この罪を手放そうか、どうしようか。」と考える問題ではありません。罪は、私たちと神との関係に危機をもたらす深刻なものであるからです。

 いけにえは二種類あります。罪のいけにえと、罪過のいけにえです。罪のいけにえと罪過のいけにえの違いは、罪のいけにえは、神のおきてに反する「違反」が強調されているのに対して、罪過のいけにえでは、自分の行為にもたらされる神や人への「損傷」が取り扱われています。ですから、罪のいけにえでは、私たちを悩ます罪意識から解放を与えます。罪過のいけにえでは、神や人との壊れた関係が修復します。そして、この二つのいけにえは、エジプトの苦役から贖い出されたイスラエル人に向けられたメッセージであることを思い出してください。彼らはすでに救われているのです。けれども、救われたあとで罪を犯すことがあり、そのために罪と罪過のいけにえが必要になります。ですから、4章と5章は、救われるための罪の告白と赦しではなくて、神にきよめていただき、神との交わりを保つための罪の赦しであります。今から読むレビ記の箇所を学んで、私たちが、罪を清めていただく生活を確立し、赦しと回復をともなった祝福を手に入れましょう。

1A 神に対して 4
1B 代表者の罪 1−21
1C 祭司の罪 1−12
 ついで主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。もし人が、主がするなと命じたすべてについてあやまって罪を犯し、その一つでも行なった場合、もし油そそがれた祭司が、罪を犯して、民に罪過をもたらすなら、その人は、自分の犯した罪のために、傷のない若い雄牛を、罪のためのいけにえとして主にささげなければならない。」

 油注がれた祭司が罪を犯したばあいのことについて語られていますが、その前に、「罪」について考えてみましょう。罪とは、「主がするなと命じた」ことに違反することであります。主の命令、主のおきてに反することを行なったばあい、それを「罪」と呼びます。私たちが判断することではなく、神がこれをしてはいけない、と判断されることが大事なのです。ですから、私たちがクリスチャン生活を送るときに、自分の思いに頼ってはいけません。自分自身でさえ、自分の状態を知ることができないのです。預言者エレミヤは、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。(
17:9」と言いました。ですから、ダビデが祈った祈りを、私たちの祈りとしましょう。「神よ、どうか、わたしを探って、わが心を知り、わたしを試みて、わがもろもろの思いを知ってください。わたしに悪しき道のあるかないかを見て、わたしをとこしえの道に導いてください。(口語訳 詩篇139:23−24

 そして次に、この罪は「あやまって」犯したものであると書かれています。これは、故意に犯した罪と区別されており、故意に犯した罪に対しては罪の赦しはありません(民数記15:22参照)。けれども、自分が罪人であると認めて、主の十字架と復活を信じ、イエスさまを自分の主であると告白している人は、故意に罪を犯すことはできません。新生した人は、罪を犯したときに、自分が主を悲しませていることを知って、自分自身も悲しむからです。ですから、私たちが犯す罪はみな、あやまって犯すものであり、そこには罪の赦しが備えられています。イエスさまの十字架が負い切れない重い罪は、何一つありません。だから、罪を犯したときは、主から逃げるのではなくて、主に向かって走って来てください。主は必ず、赦してくださいます。

 そして、ここでは、祭司が罪を犯した場合について取り扱われていますが、13節以降は、会衆全体の罪について、22節以降は世俗の支配者に対して、27節以降は、個々人が犯す罪について取り扱われています。同じ罪なのですが、このように人の立場によって分類されているのは、責任の違いがあるからです。責任が大きいと、それだけ罪を犯した場合の重大性が大きくなるのです。そこで、祭司の罪が初めに取り扱われているのは、祭司がイスラエルの中でもっとも責任ある立場にいるからです。この原則は、新約聖書においても変わりません。新約においては、イエスを信じる者すべてが祭司となりました。クリスチャン一人一人が、他の未信者の方よりも、政治家よりも、さらに主に対して非常に大きな責任を負っています。イエスさまは、「多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。(ルカ12:48)」と言われました。私たちはこのようにして、ずっと聖書の学びをしておりますが、その知識に対して大きな責任が課せられています。そして、教会の指導者たちの責任はさらに大きいです。ヤコブが言いました。「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。(ヤコブ3:1」ですから、祭司の罪のためのいけにえについて、もっとも高価な、傷のない若い雄牛をささげるように命じられています。

 そして次から、罪のいけにえのささげ方が教えられています。その雄牛を会見の天幕の入口の所、主の前に連れて来て、その雄牛の頭の上に手を置き、主の前にその雄牛をほふりなさい。

 これは、全焼のいけにえと平和のいけにえと同じやり方です。第一に、いけにえを会見の天幕の入口のところまで持っていかなければいけません。幕屋の門はただ一つです。他のところから勝手に入ることはできません。イエスは、「わたしは門です。」と言われました。私たちが罪を犯したとき、悩み、苦しみもだえ、どうすれば赦されるのだろうかと思いますが、そのときはいつでも、どこでも、主イエスさまを思いだし、イエスさまがなされたみわざを思い出してください。この方のみが、罪を清めることがおできになります。そして、第二に、いけにえの頭の上に手を置きます。これは、自分をこの動物と同一化することです。これによって、自分の罪がこの動物に転嫁することを意味します。私たち人間は、自分の犯した罪は時間が立てば忘れることができると思いますが、それは大間違いです。ヨセフの兄たちのことを思い出してください。父ヤコブが亡くなったあとも、罪意識にさいなやまされていたことを思い出すでしょう。罪は、正しい方法で取り除かないかぎり、必ず残るのです。しかし、他のいのちある存在がその罪の責任を肩代わりすることによって、初めて罪責感から解放されます。そして、第三に、自分で雄牛をほふります。自分の罪が、この高価な牛を死へ至らしめました。私たちは、自分のしたことを人のせいや、状況のせいにして正当化しているかぎり、罪責感から解放されることはありません。罪意識から解放してくれるのは、まず、自分の罪が神のひとり子を死に至らしめた、と自分の責任にするところから始まります。「私が、こういう罪を犯しました。」と責任の所在を明らかにしてください。そして最後に、これらのことが、「主の前」で行なわれていることに注目してください。私たちが罪を犯すのは、神に対ししてであります。人に罪を犯すときであっても、究極的には、その人を愛しなさいという戒めを与えられた神に対して罪を犯しているのです。ですから、神が自分に死刑を宣告する裁判官であるし、また、その罪をご自分で肩代わりする慈悲深い父親であるのです。

 雄牛をほふったあとは、次に血を注ぎます。油そそがれた祭司はその雄牛の血を取り、それを会見の天幕に持ってはいりなさい。その祭司は指を血の中に浸し、主の前、すなわち聖所の垂れ幕の前に、その血を七たび振りかけなさい。祭司はその血を、会見の天幕の中にある主の前のかおりの高い香の祭壇の角に塗りなさい。その雄牛の血を全部、会見の天幕の入口にある全焼のいけにえの祭壇の土台に注がなければならない。

 
私たちが聖書を読んでいて、「血」という言葉を発見するときは、深い意味と意義があることを忘れないでください。なぜなら、「血」はそのいのちを表すと、聖書では教えられているからです。だれかが自分の代わりに、良い行ないをしてくれたらと言って、罪意識から解放されるのではありません。血に代表されているいのちが注ぎ出されることによって、初めて罪が赦されます。「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。(ヘブル
9:22」とヘブル書の著者は言いました。ですから、イスラエル人が、今まで飼ってきた尊い家畜がほふられ、血が流されるのを見るとき、その人は、罪の責めからの安堵を得るのです。けれども、動物には限界がありました。ヘブル書の著者は続けて、「雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。(10:4」と書きました。罪はおおうことはできても、取り除いて真っ白くしてくれることはない、と言うことです。それを可能にするのは、もちろん、神の御子ご自身の血です。この方の流された血によって、完全に罪は取り除かれ、拭い去られ、忘れ去られ、雪のように真っ白くされるのです。聖歌の歌詞には、「罪の汚れを洗い清むるは、イエス・キリストの血潮の他なし。イエスの血潮、ほむべきかな。我を洗い、雪のごとくせり。(447番)」とあります。

 そして、祭司の罪について流されたいけにえの血は、聖所と至聖所を仕切る垂れ幕のところで7回振りかけられます。さらに、その垂れ幕に接している香壇の角に血が塗られます。祭司は、聖所で主に奉仕するものですから、その奉仕の場で罪が清められていなければいけません。私たちも同じです。私たちが神を礼拝するときに、罪は障害になります。礼拝というかたちは取っていたとしても、クリスチャンとして祈りをし、聖書を読んだとしても、心は神から離れてしまいます。主との生き生きとした交わりができなくなり、私たちの心はからからになってしまうのです。ですから、信仰と良心をもって主を礼拝するためには、罪が清められる必要があるのです。

 血を注いだあとに、いけにえの脂肪を祭壇の上で焼きます。その罪のためのいけにえの雄牛の脂肪全部を、それから取り除かなければならない。すなわち、内臓をおおう脂肪と、内臓についている脂肪全部、二つの腎臓と、それについていて腰のあたりにある脂肪、さらに腎臓といっしょに取り除いた肝臓の上の小葉とを取り除かなければならない。これは和解のいけにえの牛から取り除く場合と同様である。祭司はそれらを全焼のいけにえの祭壇の上で焼いて煙にしなさい。

 
ここに書いてあるとおり、脂肪を焼いて煙にするのは和解のいけにえと同じです。脂肪は最善の部分を表します。脂肪が焼かれるのは、神さまが最善の部分をお取りになることを意味します。

 ただし、その雄牛の皮と、その肉の全部、さらにその頭と足、それにその内臓と汚物、その雄牛の全部を、宿営の外のきよい所、すなわち灰捨て場に運び出し、たきぎの火で焼くこと。これは灰捨て場で焼かなければならない。

 
これが、罪のいけにえにしか見ることのできない手順です。脂肪以外の部分は、宿営の外に運び出されて、灰捨て場で焼かれます。この動物のからだは、罪を負っているからです。罪あるからだを主は受け取ることはできないので、祭壇の上では焼かれません。そして、イスラエルの民の中に罪を入れておくことはできないので、宿営の外で処理されます。

 そして、これは実に、私たちの主イエスさまがどこで十字架につけられるかの預言なのです。ヘブル書には、次のように説明されています。「動物の血は、罪のための供え物として、大祭司によって聖所の中まで持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるからです。ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。(13:11-12」イエスさまは、城壁で囲まれているエルサレムの町の外で十字架につけられました。現在、イエスさまが死なれた場所として、いくつかの候補があります。伝統的なのは、聖墳墓教会です。現在は城壁の中にありますが、当時の城壁では外にありました。また、私たちプロテスタントの信者がよく訪れるのは、現在の城壁よりもさらに外にある、ゴードンという人が買い取った園の墓の場所です。この二つが代表的ですが、いずれにしても、エルサレムの町の門の外であることには間違いなく、罪のいけにえが宿営の外で焼かれたのは、イエスさまの十字架の場所を予告していました。

2C 会衆の罪 13−21
 ここまでは、祭司が罪を犯した場合のことが書かれていました。次は、会衆全体が犯した罪について述べられています。また、もしイスラエルの全会衆があやまちを犯した場合、集団はそのことに気づかなくても、主がするなと命じられたことの一つでも行なって、罪に定められる場合には、彼らが犯したその罪が明らかになったときに、集団は罪のためのいけにえとして若い雄牛をささげ、会見の天幕の前にそれを連れて来なさい。

 会衆が全体として犯した罪は、祭司が犯した罪の次に重大なことでありました。それは、
22節以降に出てくる、政治や司法をつかさどる者たちよりも、さらに大きな責任を負っていることに気づいてください。会衆が全体として間違った方向に向かったとき、だれか特定の人の責任ではなく、その構成メンバー全員が責任を負っています。聖書には、個人へのさばきのほかに、集団としてのさばきがあります。家族へのさばき、民族へのさばき、国民へのさばき、そして世界全体へのさばきが終わりの時に下ります。私たちは、教会に対してもさばきがあることを忘れてはいけません。ペテロは、「なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。(Tペテロ4:17」と言いました。また、黙示録では、教会の単位でイエスさまが、叱責のことばを語られています。私たちの頭では、他人がやっていることは関係ないと考えたいですね。政治が腐敗しているのは、政治家が悪いのであって、私とは関係ないと思いたいのです。けれども、そうした政治家を選んだのは国民であり、また、そのような国民にしてしまったのは、霊的には私たち教会なのです。一例を取れば、韓国では、テレビなどでいやらしい場面を見せることをほとんどしません。それは、テレビ局のなかにクリスチャンがたくさんいるし、また、不道徳なものを流さないように、クリスチャン団体が監視しているからです。ですから、イスラエル会衆が犯した罪について、祭司のときと同じように、若い雄牛をささげなければいけませんでした。

 そこで、会衆の長老たちは、主の前でその雄牛の頭の上に手を置き、その雄牛を主の前でほふりなさい。

 会衆全員が主の前に出ていくことはたくさんいるので、リーダーである長老が複数名出ていきます。そして、祭司のときとおなじように、雄牛の頭に手を置いて、それを主の前でほふります。

 油そそがれた祭司は、その雄牛の血を会見の天幕に持ってはいり、祭司は指を血の中に浸して、主の前、垂れ幕の前に、それを七たび振りかけなさい。彼は、その血を会見の天幕の中にある主の前の祭壇の角に塗らなければならない。

 手順は、祭司のときと変わりません。

 彼はその血の全部を、会見の天幕の入口にある全焼のいけにえの祭壇の土台に注がなければならない。脂肪全部をその雄牛から取り除き、祭壇の上で焼いて煙にしなければならない。この雄牛に対して、彼が罪のためのいけにえの雄牛に対してしたようにしなさい。これにも同様にしなければならない。こうして祭司は彼らのために贖いをしなさい。彼らは赦される。

 
「赦される」と宣言されています。これは権威をともなった宣言です。イエスさまが、天上から運び込まれた中風の者に対して、「あなたの罪は赦されました。」と同じことです。私たちは、罪が赦されたのなら、「ほんとうに赦されたのだろうか。」と悩んではいけません。本当に赦されたからです。私の罪は、雪のように白くされました。東が西と遠く離れているように、私の罪も遠く離されました。海の深みに、私の罪は沈みこみました。もう罪は拭い取られたのです。この権威ある宣言によって、私たちは良心をきよくしていただき、主との交わりを再会することができます。

 彼はその雄牛を宿営の外に運び出し、最初の雄牛を焼いたように、それも焼きなさい。これは集会の罪のためのいけにえである。

2B 個人の罪 22−35
1C 上に立つ者の罪 22−26
 ここまではイスラエル全体の罪が取り扱われていましたが、次に個々人の罪が取り扱われています。上に立つ者が罪を犯し、その神、主がするなと命じたすべてのうち一つでもあやまって行ない、罪に定められた場合、または、彼が犯した罪が自分に知らされたなら、彼はささげ物として、傷のない雄やぎを連れて来て、そのやぎの頭の上に手を置き、全焼のいけにえをほふる場所で、主の前にそれをほふりなさい。これは罪のためのいけにえである。

 上に立つ者とは、世俗の政治や法律をつかさどる人々のことです。雄牛よりは少し安価であり、雄やぎをささげるように命じられています。けれども、一般の人よりは責任が重くなっています。国王や政治家や官僚など、上に立つ人はみな、自分に権威が所在していると考えるときに腐敗します。自分はあくまでも、権威が任されたものであり、権威に服従することを知っている者が上に立つべきなのです。ヨシュアを思い出してください。ヨシュアはモーセの従者として半生を過ごしましたが、その従者がイスラエルの指導者となりました。不信者であっても、ダニエル書によれば、主権が神であることを認めなければならないことが教えられています。自分が支配されていることを知っている者が、支配者になる資格を持っています。パウロは、「神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。(ローマ
13:1」言いました。

 祭司は指で、罪のためのいけにえの血を取り、それを全焼のいけにえの祭壇の角に塗りなさい。また、その血は全焼のいけにえの祭壇の土台に注がなければならない。また、彼は和解のいけにえの脂肪の場合と同様に、その脂肪を全部、祭壇の上で焼いて煙にしなければならない。祭司は、その人のために、その人の罪の贖いをしなさい。その人は赦される。

 
祭司と集会が罪を犯したときは、聖所の中の香壇の角に血が塗られましたが、その他の個々人の罪は、外庭にある青銅の祭壇の角のところに血を塗ります。

2C 一般の人の罪 27−35
 次に、一般の人が犯した罪について取り扱われています。

 また、もし一般の人々のひとりが、主がするなと命じたことの一つでも行なって、あやまって罪を犯し、罪に定められた場合、または、彼が犯した罪が自分に知らされたなら、彼は犯した罪のために、そのささげ物として、傷のない雌やぎを連れて来て、その罪のためのいけにえの頭の上に手を置き、全焼のいけにえの場所で罪のためのいけにえをほふりなさい。


 一般の人は、雌やぎをささげなければいけません。上に立つ人は雄やぎですが、一般の人は安価になっています。

 祭司は指で、その血を取り、それを全焼のいけにえの祭壇の角に塗りなさい。その血は全部、祭壇の土台に注がなければならない。また、脂肪が和解のいけにえから取り除かれる場合と同様に、その脂肪全部を取り除かなければならない。祭司は主へのなだめのかおりとして、それを祭壇の上で焼いて煙にしなさい。祭司は、その人のために贖いをしなさい。その人は赦される。


 他のいけにえのささげかたと同じ手順です。ただ、ここの場合、主へのなだめのかおりとして、焼かれた脂肪が主によって受け入れられていることが書かれています。

 もしその人が罪のためのいけにえのために、ささげ物として子羊を連れて来る場合には、傷のない雌羊を連れて来なければならない。

 やぎではなく、羊を連れて来た場合も、それを受け入れる教えがここに書かれています。

 その罪のためのいけにえの頭の上に手を置き、全焼のいけにえをほふる場所で、罪のためのいけにえとしてほふりなさい。祭司は指で、罪のためのいけにえの血を取り、それを全焼のいけにえの祭壇の角に塗りなさい。その血は全部、祭壇の土台に注がなければならない。また、和解のいけにえの子羊の脂肪が取り除かれる場合と同様に、その脂肪全部を取り除かなければならない。祭司はそれを祭壇の上で、主への火によるささげ物の上に載せて焼いて煙にしなさい。祭司は、その人のために、その人が犯した罪の贖いをしなさい。その人は赦される。


 ここには、「赦される」という宣言があります。罪があるままでは、主に決して受け入れられないこと。けれども、その責任を認めて主のみもとに行く者には、それがどんなに重々しい罪であっても、豊かな赦しが用意されていることを覚えましょう。

2A 人に対して 5−6:7
 そして、5章は、罪過のいけにえについての教えです。罪過のいけにえとは、人が犯した罪が他者に損傷を与えるときのいけにえであります。この二つを区別しておくことは大切ですね。「赦し」というのは、聖書における最大のテーマの一つですが、神の御前で罪が赦されて、罪責感から解放されるということと、その罪によってもたらされた損害が修復されて、元通りになることとは別にしなければいけません。だれかの財産を盗んだとして、その罪を告白して神に赦していただいたから、もう何もしなくてもいいでしょ、ということではないのです。その盗まれた人が受けた損害や心の傷に対して、その人は償いをしなければいけません。また逆に、損害を与えた相手にいろいろな良いことをして、罪責感をいやそうとすることも間違いです。罪は神によって赦されます。そして、損害は神ご自身のみわざや私たちの償いによって修復され、回復されるのです。

1B 目に見えない傷 1−13
 最初に、損害を与える罪として、いくつかの場合が挙げられています。人が罪を犯す場合、すなわち、証言しなければのろわれるという声を聞きながら・・彼がそれを見ているとか、知っている証人であるのに・・、そのことについて証言しないなら、その人は罪の咎を負わなければならない。

 1つ目の場合は、真実をすべて明かさない罪です。これは、積極的に嘘を言うことと同じように罪あるものと定められます。これは、実は、私たちの生活で頻繁にやってしまっていることであることにお気づきでしょうか。人の噂ですね。ある人がしていることについて、確かに一面は本当なのだけれども、全部を伝えていないので、聞いている人は、まったく違った意味で受けとめてしまうのです。そして、噂は、自分の物が盗まれるのと同じくらい、いや、それ以上にその人の心を傷つけます。ですから、これはれっきとした罪なのです。目に見えないかたちで、他人に損傷を与えます。

 あるいは、人が、汚れた獣の死体でも、汚れた家畜の死体でも、汚れた群生するものの死体でも、すべて汚れたものに触れるなら、それに彼が気づかなくても、彼は汚れた者となり、罪に定められる。あるいは人の汚れに触れる場合、触れた人は汚れる。その人の汚れがどのようなものであっても、そしてそれに彼が気づかなくても、彼がそれを知ったときには、罪に定められる。

 これは、肉体の汚れについてですが、具体的には衛生上の問題について不注意であったことに基づく罪です。死体に付着している病原菌を、宿営に持ってきてしまったことに対して、責任が問われます。けれども、肉体の汚れを霊的な汚れとして新約聖書では適用させています(Uコリント
6:17;7:1)。私たちは、この世に生きているうちに、知らず知らずに汚れを心の中に入れてしまっています。それによって、周囲の人や教会を汚すことがあります。自分がしていること、言っていることは汚れていることだ、と発見した時点で、私たちは主の御前で出ていって、その罪について赦していただかなければいけません。

 あるいは人が口で軽々しく、悪いことまたは良いことをしようと誓う場合、その人が軽々しく誓ったことがどのようなことであっても、そしてそれに気づかなくても、彼がそれを知ったときには、これらの一つについて罪に定められる。

 
第三番目の場合として、言ったことを実行しない罪です。自分がこれを責任をもって行ないます、ということによって、他の人々が行動します。しかし、行なわなかったために、多大な損害が生じることはよくあることですね。これも、真実をすべて明かさない罪と同じように、口が犯す罪です。私たちは、この口によって、さまざなな危害を人々に加えてしまいます。だから、口がきよめられる必要があるんですね。ヤコブの手紙には、「舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲへナの火によって焼かれます。(
3:6」と書いてあります。

 そして次から、罪過のいけにえをささげる手順について書かれています。これらの一つについて罪に定められたときは、それを犯した罪を告白しなさい。

 
罪の告白です。これが第一歩です。私たちは、自分が他人にしてしまった過ちを、口でもってきちんと表現しなければいけません。「ごめんなさい。」の一言が、その傷ついた関係を修復さえすることもあるのです。イエスさまが、和解について次のように言われました。「だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。(マタイ
5:23-24」仲直りをすることは、礼拝や日々のクリスチャンの活動よりも大切であります。

 自分が犯した罪のために、罪過のためのいけにえとして、羊の群れの子羊でも、やぎでも、雌一頭を、主のもとに連れて来て、罪のためのいけにえとしなさい。祭司はその人のために、その人の罪の贖いをしなさい。しかし、もし彼が羊を買う余裕がなければ、その犯した罪過のために、山鳩二羽あるいは家鳩のひな二羽を主のところに持って来なさい。一羽は罪のためのいけにえとし、他の一羽は全焼のいけにえとする。

 子羊ややぎなら、雌を、また鳩でもよいとされていますが、これは経済的な理由からです。どんなに貧しい人であっても、このいけにえがささげられるように定められており、また逆に言うと、罪過のいけにえは、経済的な理由でささげることができないと責任を回避させないためです。鳩の場合は、二羽が用意されており、一羽は罪のいけにえ、もう一羽は全焼のいけにえです。これは、その人の罪が赦されて、さらに、その人がふたたび主に自分自身をおささげするという、再出発を意味しています。

 彼は、これらを祭司のところに持って行き、祭司は罪のためのいけにえとなるものを、まずささげなさい。彼はその頭の首のところをひねり裂きなさい。それを切り離してはならない。
鳥の場合は、家畜とは違って、切り裂いたり引き裂いたりすることはありません。それから罪のためのいけにえの血を祭壇の側面に振りかけ、血の残りはその祭壇の土台のところに絞り出しなさい。これは罪のためのいけにえである。祭司は次のものも、定めに従って、全焼のいけにえとしなければならない。祭司は、その人のために、その人の犯した罪の贖いをしなさい。その人は赦される。

 再び、「赦し」の宣言が書かれています。神との間に和解が生まれることは最も大切なことですが、私たちの間に和解が与えられることほど、大きないやしと喜びはありません。この赦しの宣言によって、関係が修復されたことを意味します。

 もしその人が山鳩二羽あるいは家鳩のひな二羽さえも手に入れることができなければ、その犯した罪のためのささげ物として、十分の一エパの小麦粉を罪のためのいけにえとして持って来なさい。その人はその上に油を加えたり、その上に乳香を添えたりしてはならない。これは罪のためのいけにえであるから。

 鳩さえもささげることのできない貧しい人のために、小麦粉を主は受け取られます。主は、罪過のいけにえについて、どの人もささげることを強く願われているようです。この場合、穀物のささげものにあったような油や乳香は添えられません。穀物のささげものは、いのちを表していました。けれども、ここでは罪を犯してしまったことを取り扱っているのですから、それらを添えることはできません。

 彼はそれを祭司のところに持って行きなさい。祭司はそのひとつかみを記念の部分としてそれから取り出し、祭壇の上で、主への火によるささげ物といっしょにそれを焼いて煙にしなさい。これは罪のためのいけにえである。祭司はその人のために、その人が犯したこれらの一つの罪の贖いをしなさい。その人は赦される。その残りは、穀物のささげ物と同じく、祭司のものとなる。
このようにして、すべての人が罪過のいけにえをささげるように命じられています。


2B 目に見えるもの(償い) 5:14−6:17
 そして、次は、目に見えるものについての罪が記されています。財産や所有物を侵害したばあいにどうするのかについて書かれています。

1C 主の聖なるもの 14−16
 ついで主はモーセに告げて仰せられた。「人が不実なことを行ない、あやまって主の聖なるものに対して罪を犯したときは、その罪過のために、羊の群れから傷のない雄羊一頭、聖所のシェケルで数シェケルの銀に当たるとあなたが評価したものを取って、罪過のためのいけにえとして主のもとに連れて来る。彼は、その聖なるものを犯した罪の償いをしなければならない。それにその五分の一を加えて、祭司にそれを渡さなければならない。祭司は、罪過のためのいけにえの雄羊で、彼のために贖いをしなければならない。その人は赦される。

 主の聖なるものとは、聖別された幕屋の中身であるとか、油そそがれた器などのことです。それらに損害を与えたときの罪について取り扱われています。私たちは、教会にささげられたお金や伝道のために用いられるものについてなどには、最新の注意を払わなければなりません。私たちは会計において、会計士にしなくてもいいよといわれても、記録を取っているのは、そのためですね。そして、動物がいけにえとしてほふられることに加えて、償いをしなければならないことに注目してください。五分の一を加えて祭司に渡さなければならないと命じられています。ここが大事です。神は、人の所有権をとても尊ばれます。それを侵害することは、単に物が壊された以上の損傷を与えるのです。ですから、同じ額の償いをするだけでは不十分であり、
20パーセントの利子をつけて支払わなければいけないことが、ここから分かります。

2C 主の命令 17−19
 また、もし人が罪を犯し、主がするなと命じたすべてのうち一つでも行なったときは、たといそれを知らなくても、罪に定められ、その咎を負う。

 
ここでは、とくにどのような罪であるか特定されていませんが、おそらくは他人に物理的な損傷を与えた場合についての掟のことを言及しているのでしょう。

 その人は、羊の群れからあなたが評価した傷のない雄羊一頭を取って、罪過のためのいけにえとして祭司のところに連れて来る。祭司は、彼があやまって犯し、しかも自分では知らないでいた過失について、彼のために贖いをする。彼は赦される。これは罪過のためのいけにえである。彼は確かに主の前に罪に定められた。」

 自分が知らないことでも、罪に定められたことについて書かれています。「知らなかったら、しょうがないでしょう。」という論理は、聖書の論理ではありません。もちろん、神の前に罪は赦されます。けれども、損傷は必ず出ているのであり、それについても悔い改める必要があるのです。


3C 人の財産 6:1−7
 そして次は、人の財産についてのおきてです。ついで主はモーセに告げて仰せられた。「人が主に対して罪を犯し、不実なことを行なうなら、すなわち預かり物や担保の物、あるいはかすめた物について、隣人を欺いたり、隣人をゆすったり、あるいは落とし物を見つけても、欺いて偽りの誓いをするなど、人が行なうどれかについて罪を犯すならこの人が罪を犯して罪に定められたときは、そのかすめた品や、強迫してゆすりとった物、自分に託された預かり物、見つけた落とし物、あるいは、それについて偽って誓った物全部を返さなければならない。

 人のものを盗んだ場合についてですが、ここを読むと、借りたものを返さないのも盗みであり、また請求期日に返済しないことも盗みであり、また落し物を警察に届けないのも盗みであります。

 元の物を償い、またこれに五分の一を加えなければならない。彼は罪過のためのいけにえの日に、その元の所有者に、これを返さなければならない。この人は主への罪過のためのいけにえを、その評価により、羊の群れから傷のない雄羊一頭を罪過のためのいけにえとして祭司のところに連れて来なければならない。祭司は、主の前で彼のために贖いをする。彼が行なって罪過ある者とされたことのどれについても赦される。」

 償いをしたあとに、いけにえをささげていることに注目してください。人に返済することが、何よりも優先されなければいけないことがここから分かります。私が人から借りたものが、家の中でどこかに行ってしまったときがありました。それで、いつか見つかるだろうと思っていたのですが、急に、自分がとんでもないことをしている意識が押し寄せてきました。それで、「主を導いてください。借りたものがある場所に私を導いてください。」と祈りながら探しまわったら、あったんですね。それからその本を返却して、主の御前で出て、祈ることができました。所有物については、まず人に返すことが優先されます。

 こうして、私たちは罪のいけにえと罪過のいけにえについて学びました。私たちは罪が赦される必要があります。罪責感は、ほんとうに人を苦しめます。そして、心をきよくたもっておくことは、主との交わりに欠かせないことです。そして、私たちは周囲との関係にも注意を払い、修復できるのであれば、修復する方向に向かうことが必要です。基本的なことでありますが、この二つのいけにえによって、私たちは喜びと平和と聖霊に満たされた、祝福あるクリスチャン生活を送ることができます。


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