ネヘミヤ記4−6章 「反対への抵抗」


アウトライン

1A 戦いの備え 4
   1B 嘲り 1−6
   2B 祈りと行動 7−15
   3B 用心 16−23
2A 内部の不満 5
   1B 同胞への重荷 1−5
   2B 叱責 6−13
   3B 模範 14−19
3A 個人への攻撃 6
   1B “話し合い”への誘導 1−9
   2B つまずきの石 10−14
   3B 勤勉の実 15−19

本文

 ネヘミヤ記4章を開いてください、今日は4章から6章までを学びます。ここでのテーマは、「反対への抵抗」です。私たちは前回、ネヘミヤの心にエルサレム再建という神の御思いが置かれて、彼が涙と祈りをもって城壁の再建の願いを神に打ち明けたところを読みました。それから彼がエルサレムに到着したとき、自分の使命を他の誰にも言わないで城壁の偵察のためにその周りを巡回したところを読みました。

 そして三章では、ネヘミヤの志に同調したユダヤ人の人たちが、それぞれ与えられた区分にて城壁を修繕し始めたところを読みました。ですから、城壁があらゆる所から一斉に建て上げられたのであり、建築のスピードは極めて速かったと言えます。私たちは、神さまの働きをするとき、もちろん祈って待つときもありますが、主から実行に移すために号令をかけられたら一気に走らなければいけない時もあります。主にあって勤勉な姿は、聖書に出てくる聖徒たちの大きな特徴です。彼らは戸が開かれたときには、つかみ取ることができる機会を貪るようにしてつかみ取り、その働きに一切の妥協を許しませんでした。そして振り返ってみると、こんなにも早く、また程度も大きく成し遂げられるものかと、私たちは驚愕するような神の偉業を見ることができます。

 ネヘミヤも同じように、神の御名によって大きな事業を成し遂げました。けれども、それは決して何の問題もなく成し遂げられたのではありません。むしろ、激しい反対に遭いました。主の働きをするときに、必ず直面するのは「反対」です。悪魔は、非常に狡猾な方法で私たちが主のみこころを行おうとするのを妨げにやって来ます。その反対する動きに私たちがいかに抵抗して、主の働きを行っていくことができるのか、ネヘミヤから学び取ることができます。

1A 戦いの備え 4
1B 嘲り 1−6
4:1 サヌバラテは私たちが城壁を修復していることを聞くと、怒り、また非常に憤慨して、ユダヤ人たちをあざけった。4:2 彼はその同胞と、サマリヤの有力者たちの前で言った。「この哀れなユダヤ人たちは、いったい何をしているのか。あれを修復して、いけにえをささげようとするのか。一日で仕上げようとするのか。焼けてしまった石をちりあくたの山から生き返らせようとするのか。」4:3 彼のそばにいたアモン人トビヤもまた、「彼らの建て直している城壁なら、一匹の狐が上っても、その石垣をくずしてしまうだろう。」と言った。

 前回の学びにおいても学びましたが、反対者がまず仕掛けてくる攻撃は「嘲り」です。そしてその嘲りは、私たちの肉の弱さに訴えてくる性質のものです。確かに、人間的な目で見たら、ユダヤ人たちが行おうとしている働きは、無謀であったことでしょう。

 サヌバラテは、「いったい何をしているのか」と問いかけていますが、そのとおり、自分たちがいったい何をしているのかという思いが、主にあって新しいことを行っている人の頭をよぎります。そして、「一日で仕上げようとするのか」と言っていますが、信仰の一歩によって前進したものの、行わなければいけないことは延々と何百日もかかってしまう、途方もない大事業です。そしてトビヤが、「狐が石垣をくずしてしまうだろう」と言っていますが、仮に大きな働きを成し遂げられたとしても実質のない弱々しいものになるかもしれない、ということです。

 これらすべてが人間的に見たら正しそうな見方なので、私たちの肉に訴えるのです。的を射ていない嘲りであれば気にならないのですが、悪魔は私たちの肉を刺激して何とかして主の働きを止めさせようと仕向けていきます。そこで私たちはまず、何をしなければいけないでしょうか?

4:4 「お聞きください、私たちの神。私たちは軽蔑されています。彼らのそしりを彼らの頭に返し、彼らが捕囚の地でかすめ奪われるようにしてください。4:5 彼らの咎を赦すことなく、彼らの罪を御前からぬぐい去らないでください。彼らは建て直す者たちを侮辱したからです。」

 祈りです。ネヘミヤは、嘲りに対して祈りで抵抗しました。ネヘミヤは祈りの人でした。涙と祈りをもってエルサレムのために祈ったところから始まり、王の前で自分がエルサレムに戻りたいことを告げる前に、心の中で数秒祈りをささげたところもあり、すべてを主への語りかけの中で行いました。嘲りによって、私たちの肉は反論したり、自己弁明に走るように刺激されますが、そうではなく祈りによって自分の悩みを主に持っていくのです。

 そしてネヘミヤの祈りですが、かなり過激ですね。これは詩篇の中にも多く見られる、裁きと復讐を願う祈りです。私たち新約時代に生きているキリスト者は、主から「敵のために祈り、その祝福を祈りなさい。」と命じられています。けれども、確かに主に仕えている者に害を与える者たちに対する裁きは、黙示録を筆頭に新約聖書の中にも数多く書かれています。

 ここで大事なのは、ネヘミヤが神さまの視点から祈りを持っていることです。「彼らは人間のレベルで物事を語っているが、私たちが行っているのは神の事業です。だからそれらがすべて当てはまらないし、その働きを拒む者は神ご自身を拒むのです。」という意味の祈りです。そして、復讐は主のものですから神さまに復讐をお任せし、自分で仕返しをしないためにも祈りが必要でした。

4:6 こうして、私たちは城壁を建て直し、城壁はみな、その高さの半分まで継ぎ合わされた。民に働く気があったからである。

 ネヘミヤが祈りをもって応答した結果、極めてすばやく城壁の修繕が進んでいきました。そしてここに大事な言葉があります。「民に働く気があったからである」という言葉です。いわゆる「士気」ですが、主にある士気を私たちは保っていなくてはいけません。心と思いが守られる祈りが、私たちには必要です。

2B 祈りと行動 7−15
4:7 ところが、サヌバラテ、トビヤ、アラブ人、アモン人、アシュドデ人たちは、エルサレムの城壁の修復がはかどり、割れ目もふさがり始めたことを聞いたとき、非常に怒り、4:8 彼らはみな共にエルサレムに攻め入り、混乱を起こそうと陰謀を企てた。

 反対者の反対は、主の働きが進められたときになおのこと激しくなりました。言葉で駄目なら、物理的に行使して修復を阻止しようと企んでいます。反対者の規模も増えています。サヌバラテとトビヤだけでなく、アラブ人、アモン人、アシュドテ人にまで広がっています。

4:9 しかし私たちは、私たちの神に祈り、彼らに備えて日夜見張りを置いた。

 ここでネヘミヤは祈りましたが、祈るだけでなく行動に移しました。「神に祈り」そして、「彼らに供えて日夜見張りを置い」ています。ここは非常に大事な箇所です。クリスチャンの中に、祈ることと、実際的な行動を取ることがまるで相容れないことであるかのように考える思いが、多少なりともあります。「祈ったのだから、あとは神さまに任さなければいけないのに、まるで神さまがやってくださらないように、自分たちで行動するのですか。」と言います。まるで、棚ぼた式に主がすべてのものを与えられるかのように話します。けれども、常識的な行動を取ることができる頭も神さまは私たちに与えてくださっているのです。

 逆に、祈らないで自分の勝手な思いで物事を決めていき、後で大変なことになってから主に叫び始める人もいます。そうではありません、バランスが大事なのです。まず祈ります。そして、願ったことに沿った行動を人間のほうでも取っていきます。

4:10 そのとき、ユダの人々は言った。「荷をになう者の力は衰えているのに、ちりあくたは山をなしている。私たちは城壁を築くことはできない。」

 敵の攻撃が、功をなしてきました。まず、ユダヤ人の気持ちの中に疲れと焦燥感と落胆の思いが押し寄せてきました。「行なっているけれども、前進しているように見えない。」という思いです。私たちが引っ越すときにこんな思いをしたことがありませんか?ダンボールに家財道具を入れても入れても、一向に減っているようには思えない。そんな思いを霊的にも私たちは持ちます。伝道の働きを行なっても行なっても、その成果が一向に見えてこない、・・・そんな思いです。

4:11 一方、私たちの敵は言った。「彼らの知らないうちに、また見ないうちに、彼らの真中にはいり込んで、彼らを殺し、その工事をやめさせよう。」4:12 そこで、彼らの近くに住んでいたユダヤ人たちがやって来て、四方から十回も私たちに言った。「私たちのところに戻って来てほしい。」

 落胆だけでなく、恐れも彼らの思いの中に入ってきました。悪魔が頻繁に使う主な二つの道具です。落胆と恐れです。

4:13 そこで私は、民をその家族ごとに、城壁のうしろの低い所の、空地に、剣や槍や弓を持たせて配置した。

 城壁の低いところがもちろん、一番攻撃に脆弱なので、そこに武器を持たせました。当然ですが、霊的にもこれは当てはめることができます。私たちが誘惑にまけて罪を犯してしまうような、弱い分は人それぞれに違います。だから、それぞれが自分の弱い部分のところに、祈りとみことば、そして祈りとみことばに基づく行動をもって防御を固める必要があります。

4:14 私は彼らが恐れているのを見て立ち上がり、おもだった人々や、代表者たち、およびその他の人々に言った。「彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、自分たちの兄弟、息子、娘、妻、また家のために戦いなさい。」

 ネヘミヤは、いろいろな対抗策を取りましたが、それでも民の心から恐れが取り除かれなかったので、ついに、励ましと勧めのことばをかけました。励ましと勧めは、主の働きのためには非常に大切なものです。エペソ書4章に、キリストによって立てられる指導者の中に「預言者」がありますが、預言をする者は「徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。(1コリント14:3」とあります。それは、勧めや慰めの言葉が単なる気休めではなく、実質的にキリストのからだが建て上げられていくのに不可欠な要素だからです。迫害がひどかったユダヤ人のキリスト者らには、ヘブル書の著者はこう促しています。「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。(ヘブル10:23-25

4:15 私たちの敵が、彼らのたくらみは私たちに悟られ、神がそれを打ちこわされたということを聞いたとき、私たちはみな、城壁に帰り、それぞれ自分の工事に戻った。

 ネヘミヤが反対に対して取っている行動によって、着実に問題をクリアしています。敵の攻撃は打ち壊されました。けれどもネヘミヤは注意深く、打ち壊したのは神であることを明記しています。

3B 用心 16−23
 そして敵からの攻撃に対して、私たちがしばしば忘れてしまうのは、戦いの勝利のあとの行動です。勝利をしたので解放感でいっぱいになり、その後に敵が再び自分たちを攻撃するかもしれないことを忘れてしまいます。ネヘミヤは、敵が攻撃をしてこなくなったことを知った後でも武器を下ろすことをユダヤ人にさせませんでした。

4:16 その日以来、私に仕える若い者の半分は工事を続け、他の半分は、槍や、盾、弓、よろいで身を固めていた。一方、隊長たちはユダの全家を守った。4:17 城壁を築く者たち、荷をかついで運ぶ者たちは、片手で仕事をし、片手に投げ槍を堅く握っていた。4:18 築く者は、それぞれ剣を腰にして築き、角笛を吹き鳴らす者は、私のそばにいた。

 半分は護衛に就かせました。残りの半分も、運搬係は片手に武器を、建築係は剣を腰に着けさせました。

4:19 私はおもだった人々や、代表者たち、およびその他の人々に言った。「この工事は大きく、また広がっている。私たちは城壁の上で互いに遠く離れ離れになっている。4:20 どこででも、あなたがたが角笛の鳴るのを聞いたら、私たちのところに集まって来なさい。私たちの神が私たちのために戦ってくださるのだ。」

 ネヘミヤは自分のそばに角を吹き鳴らす者を就かせましたが、それは戦わなければいけないときにその号令を出すためでした。聖書では、戦いの時の号令のときに、しばしば角笛が用いられていますね。

4:21 こうして、私たちはこの工事を進めたが、その半分の者は、夜明けから星の現われる時まで、槍を手に取っていた。

 かなりの長時間労働です。昼の時間が長くなっている五月頃に日の出の直前から日没の直後まで護衛の役に就かせていました。

4:22 そのときまた、私は民に言った。「だれでも自分に仕える若い者といっしょにエルサレムのうちで夜を明かすようにしなさい。そうすれば、夜にも見張りがおり、昼には働くことができる。」4:23 私も、私の親類の者も、私に仕える若い者たちも、私を守る見張りの人々も、私たちのうちのだれも、服を脱がず、それぞれ投げ槍を手にしていた。

 エルサレムの町の外に住んでいる人たちには中で夜を明かすようにさせ、また中にいてもいつでも戦うことができるように寝巻きに着替えるようなことはしませんでした。

2A 内部の不満 5
 こうして外部からの攻撃には抵抗することができましたが、神の働きにとって最も大変な障害は内部における問題です。

1B 同胞への重荷 1−5
5:1 ときに、民とその妻たちは、その同胞のユダヤ人たちに対して強い抗議の声をあげた。5:2 ある者は、「私たちには息子や娘が大ぜいいる。私たちは、食べて生きるために、穀物を手に入れなければならない。」と言い、5:3 またある者は、「このききんに際し、穀物を手に入れるために、私たちの畑も、ぶどう畑も、家も抵当に入れなければならない。」と言った。

 抵当にしているのは、異邦人ではなく同胞のユダヤ人です。生活の糧を得るために借金をしていましたが、この経済的に逼迫している状況を利用して一部のユダヤ人が不動産業を営んでいたのです。

5:4 またある者は言った。「私たちは、王に支払う税金のために、私たちの畑とぶどう畑をかたにして、金を借りなければならなかった。5:5 現に、私たちの肉は私たちの兄弟の肉と同じであり、私たちの子どもも彼らの子どもと同じなのだ。それなのに、今、私たちは自分たちの息子や娘を奴隷に売らなければならない。事実、私たちの娘で、もう奴隷にされている者もいる。しかし、私たちの畑もぶどう畑も他人の所有となっているので、私たちにはどうする力もない。」

 税金も負担になってきたわけですが、問題はかなり深刻でした。抵当に入れるだけでなく、自分たちを身売りしなければいけない状態になっていました。そして一番の問題は、ユダヤ人を奴隷にしているのは同じユダヤ人だったのです。これは、明らかなモーセの律法違反です(申命記15:1218など)。覚えていますか、神はイスラエル人をエジプトの奴隷状態から連れ出したことによって彼らをご自分の民とされたのですから、神がもっとも望まれなかったのはイスラエル人が再び奴隷状態に戻ることでした。そのため、イスラエル人に下った最悪の裁きが外国人による捕囚であることをモーセは預言していました。けれども、こともあろうにこの奴隷関係がユダヤ人の間で起こっていたのです。

 これは霊的に起こることです。主の働きを行なっている中で、もちろん私たちには霊的、精神的、物理的な面で負担がかかってきます。その中で私たちキリストのからだは、互いに重荷を担いあい、特に強い人は弱い人の弱さを担うことを命じられています。ローマ書15章にこう書いてあります。「私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、『あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった。』と書いてあるとおりです。(1-3節)」ところが、キリストのからだの中で自分を喜ばせることを求めていくと、必ずしわ寄せがだれか、どこかにやって来ます。教会が愛と喜びのところではなく、会社のように、いや会社以上に負担となる場所になっていくのはそのためです。

2B 叱責 6−13
 そこでネヘミヤが取った行動に注目してみましょう。

5:6 私は彼らの不平と、これらのことばを聞いて、非常に怒った。5:7a 私は十分考えたうえで、おもだった者たちや代表者たちを非難して言った。「あなたがたはみな、自分の兄弟たちに、担保を取って金を貸している。」と。

 ネヘミヤの初めの反応は、激しい憤りでした。これはもっともなことです。けれどもネヘミヤは、時間を取りました。感情を爆発させるのではなく、主にあって冷静になり、必要な叱責をすることができるようにしました。「知恵のある者は用心深くて悪を避け、愚かな者は怒りやすくて自信が強い。 (箴言14:16」と箴言にあります。新約聖書にも、感情を爆発させる憤りは聖霊を悲しませることであることが書かれています(エペソ4:31)。

5:7b私は大集会を開いて彼らを責め、5:8 彼らに言った。「私たちは、異邦人に売られた私たちの兄弟、ユダヤ人を、できるかぎり買い取った。それなのに、あなたがたはまた、自分の兄弟たちを売ろうとしている。私たちが彼らを買わなければならないのだ。」すると、彼らは黙ってしまい、一言も言いだせなかった。

 先ほど話しましたように奴隷状態になっていたユダヤ人を、異邦人の手から買い戻すことを神から命じられていましたし、実際にそれを行なっていました。今は、逆のことを行なっている、と言って責めています。

5:9 私は言い続けた。「あなたがたのしていることは良くない。あなたがたは、私たちの敵である異邦人のそしりを受けないために、私たちの神を恐れながら歩むべきではないか。

 内部で問題が起こっているところで何が起こるかと言いますと、主の御名がそしられるということです。教会内で問題が起こったら、周囲の人々のキリストに対する信頼はなくなってしまいます。

5:10 私も、私の親類の者も、私に仕える若い者たちも、彼らに金や穀物を貸してやったが、私たちはその負債を帳消しにしよう。5:11 だから、あなたがたも、きょう、彼らの畑、ぶどう畑、オリーブ畑、家、それにまた、あなたがたが彼らに貸していた金や、穀物、新しいぶどう酒、油などの利子を彼らに返してやりなさい。」

 ネヘミヤは、先ほど話した「重荷を担い合う」ことの模範を示しています。指導者として、人々を支配するのではなく信者たちの模範となりました。これが真の指導者の姿です。「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。(1ペテロ5:2-3

5:12 すると彼らは、「私たちは返します。彼らから何も要求しません。私たちはあなたの言われるとおりにします。」と言った。そこで、私は祭司たちを呼び、彼らにこの約束を実行する誓いを立てさせた。

 祭司たちまでが、担保を取って金貸しをしている過ちを犯していました。

5:13 私はまた、私のすそを振って言った。「この約束を果たさない者を、ひとり残らず、神がこのように、その家とその勤労の実とから振り落としてくださいますように。このように、その者は振り落とされて、むなしい者となりますように。」すると全集団は、「アーメン。」と言って、主をほめたたえた。こうして、民はこの約束を実行した。

 発言させるだけでなく、実行するための誓いを立てさせています。言うこととそれを行なうことは違いますが、その差異を埋めるのがここでの決意です。英語ですとcommitmentといいますが、前に学んだとおりに責任を伴った行動のことです。

3B 模範 14−19
 四章にて、問題が起こった後も用心したところを読みましたが、五章でも同じです。ネヘミヤは、人々に負担をかけさせないようにするために、自分自身で模範を示しました。

5:14 また、私がユダの地の総督として任命された時から、すなわち、アルタシャスタ王の第二十年から第三十二年までの十二年間、私も私の親類も、総督としての手当を受けなかった。5:15 私の前任の総督たちは民の負担を重くし、民から、パンとぶどう酒のために取り立て、そのうえ、銀四十シェケルを取った。しかも、彼らに仕える若い者たちは民にいばりちらした。しかし、私は神を恐れて、そのようなことはしなかった。

 ネヘミヤはエルサレムに来てからすぎに総督としての地位が与えられたようです。当然ながら、その役職にかなう給与を得てしかるべきです。けれどもネヘミヤは、その当然享受すべき権利をも放棄して、この事業にあたっています。

 同じような姿勢で宣教の働きをしていたのが、使徒パウロです。彼は昼間は天幕作りをしてそれが終わったら夜にみことばを教えるという生活をしていました。けれども、福音宣教者としてその務めにふさわしい報酬を得ることができることを、コリント人への手紙の中で話しています(1コリント9:14等)。けれども、当時、巡回伝道の中で人々の献金をむさぼっていた偽教師らがいたので、パウロは少しでもつまずかせることがないために、無償での奉仕に徹したのです。

 今ネヘミヤは、民が城壁の修繕だけで十分重い労役であることを知っていました。彼は自分の地位ではなく人々を愛した、良い指導者でした。

5:16 また、私はこの城壁の工事に専念し、私たちは農地を買わなかった。私に仕える若い者たちはみな、工事に集まっていた。

 ネヘミヤのもう一つの特徴は、仕事への専念です。総督であり、高い地位にいるのですから、農地の一つ二つ買っても、何も咎められることはありません。いわゆるほかの生活の営みもやりながら仕事に当たることだって、出来たわけです。教会の指導者も例えば、自分の趣味を持つことに、なんら咎められることはありません。けれども、神に与えられた自分の重荷があるとき、人々に対する愛があるときに、誰にも強いられることなく完全に自発的な形で、当然ある自分の時間さえ犠牲にすることがあります。

5:17 ユダヤ人の代表者たち百五十人と、私たちの回りの国々から来る者が、私の食卓についていた。5:18 それで、一日に牛一頭、えり抜きの羊六頭が料理され、私のためには鶏が料理された。それに、十日ごとに、あらゆる種類のぶどう酒をたくさん用意した。それでも私は、この民に重い労役がかかっていたので、総督としての手当を要求しなかった。

 食卓から出てくる余計にかかっている費用は、すべて自腹を切っていました。これももちろん、総督の職務の一つとして請求することができたのですが、それもしませんでした。

5:19 私の神。どうか私がこの民のためにしたすべてのことを覚えて、私をいつくしんでください。

 再びネヘミヤが祈っています。四章で読んだ、復讐の祈りと同じようにここの祈りも、新約時代に生きている私たちには、なじみの薄い類のものです。神の恵みが明らかにされた今は、自分がしたことによって神のいつくしみを受けるという発想はありません。

 けれども、彼の祈りは主のみこころにかなったものです。なぜなら、確かに私たちが神の祝福と栄光にあずかるのは一方的な神の恵みによるのですが、地上で行なったことに応じて神からの報いがあります。タラントのたとえを思い出してください、小さなことに忠実であるときに、御国において主から大きなものを任されます。また、隠れて行なった善行、また祈りは父なる神が見ておられる、ということを主はお語りになりました。

 だから私たちは、動機を純粋に保って奉仕をすることができるのです。どうして、人目につかないところでもみこころにかなったことができるのでしょうか?それは、人からの評価ではなく神からの評価を気にするからです。だからネヘミヤのように、自分のしたことを覚えて、いつくしんでくださいという祈りは私たちにも当てはめることができます。

3A 個人への攻撃 6
 こうして、外部から、また内部からの攻撃に耐えることができました。次はネヘミヤ個人に対する攻撃です。

1B “話し合い”への誘導 1−9
6:1 さて、私が城壁を建て直し、破れ口は残されていないということが、サヌバラテ、トビヤ、アラブ人ゲシェム、その他の私たちの敵に聞こえると、・・その時まで、私はまだ、門にとびらを取りつけていなかった。・・

 ほとんど仕事は終わろうとしています。もう間もなく終わるという油断が出ても、まったくおかしくない段階にいます。けれども、敵からの攻撃は実はこのときが一番激しくなります。主にある歩みを全うすることが、聖書で奨励されていますが、本当に完全になるまで私たちは立ち止まることはできないのです。

6:2 サヌバラテとゲシェムは私のところに使いをよこして言った。「さあ、オノの平地にある村の一つで会見しよう。」彼らは私に害を加えようとたくらんでいたのである。

 オノは、ちょうど今のイスラエルのベングリオン国際空港がある所にある平地です。エルサレムからは車で一時間ぐらいかかる距離があります。そこで会見しようともちかけています。もっともらしいですが、ネヘミヤは彼らが自分を隠密に殺すか、その他の害を加えるかもしれないと察知しました。

 「会見しよう」というのは、もっともな言葉に聞こえるかもしれませんが、主の働きをしているときに、それを殺すようなことが良くあります。前回学んだように、主の働きは一人の人の心とその志から始まります。そして、主からの幻を受け取っていない人には、なぜその人が今していることを行なっているのかわからないことが多いのです。そこで、「話し合おう」などと行ったら必ず、神の意見ではなく人の意見のほうが強くなり、結果的に神の働きは止められます。

6:3 そこで、私は彼らのところに使者たちをやって言った。「私は大工事をしているから、下って行けない。私が工事をそのままにして、あなたがたのところへ下って行ったため、工事が止まるようなことがあってよいものだろうか。」

 ネヘミヤが取った行動は、要求の一蹴でした。

6:4 すると、彼らは同じようにして、四度も私のところに人をよこした。それで私も同じように彼らに答えた。

 敵は執拗です。一度ことわっても、何度も何度も攻めてきます。彼らの目的は、このような執拗さによって、相手の思いや気力を弱めることです。自分が気にしているところを、何度も何度も突いて来ます。

6:5 サヌバラテは五度目にも同じようにして、若い者を私のところによこした。その手には一通の開封した手紙を持っていた。6:6 それには次のように書いてあった。「諸国民の間に言いふらされ、また、ゲシェムも言っているが、あなたとユダヤ人たちは反逆をたくらんでおり、そのために、あなたは城壁を建て直している。このうわさによれば、あなたは彼らの王になろうとしている。6:7 また、あなたはエルサレムで、自分について宣言させるために、預言者たちを任命して、『ユダに王がいる。』と言わせている。今にこのようなことが王に聞こえるであろう。さあ、来なさい。いっしょに相談しよう。」

 もちろんこれらはすべて嘘ですが、そのような噂は容易に信じられるような内容です。昔、神殿の再建のときに、ペルシヤの王クロスが発布したことによる神殿再建であったのにもかかわらず、地域の有力者の訴えによって新しいペルシヤの王は、その要求を聞き入れました。同じことがまた起こってもおかしくありません。

 しかも、サヌバラテは狡猾にもその手紙を開封させてよこしました。内容がすでに外に漏れていることを表しています。ここで一気に、彼の要求を飲んで実際に話さなければいけないという思いに駆り立てられます。サヌバラテはこの地域の有力者なのですから、彼と会合を持てばその噂の火消しはできるわけです。しかし、これが敵の巧妙な罠なのです。

6:8 そこで、私は彼のところに人をやって言わせた。「あなたが言っているようなことはされていない。あなたはそのことを自分でかってに考え出したのだ。」と。

 ここでも、相手の要求を一蹴、無視しました。

6:9 事実、これらのことはみな、「あの者たちが気力を失って工事をやめ、中止するだろう。」と考えて、私たちをおどすためであった。ああ、今、私を力づけてください。

 ネヘミヤの祈りが正直です。彼はこの執拗な攻撃によって弱まっていたのです。人の言葉、中傷がいかに人を弱くさせるか、聖書に書かれているあるとおりです。

2B つまずきの石 10−14
6:10 私がメヘタブエルの子デラヤの子シェマヤの家に行ったところ、彼は引きこもっており、そして言った。「私たちは、神の宮、本堂の中で会い、本堂の戸を閉じておこう。彼らがあなたを殺しにやって来るからだ。きっと夜分にあなたを殺しにやって来る。」

 シェマヤは預言者であり、ネヘミヤが彼の家に行って話を聴くぐらいまでは信用できる人でした。その人が、「あなたの身に危険が迫っているから、神殿の聖所では他の人たちが入って来られないからそこに身を隠しなさい、と警告したのです。

6:11 そこで、私は言った。「私のような者が逃げてよいものか。私のような者で、だれが本堂にはいって生きながらえようか。私ははいって行かない。」6:12 私にはわかっている。今、彼を遣わしたのは、神ではない。彼がこの預言を私に伝えたのは、トビヤとサヌバラテが彼を買収したからである。

 神の預言者また祭司には、霊的権威があります。神によって遣わされ、立てられているという権威があります。容易なことで、「あなたは神から遣わされたのではない」ということはできません。けれども、ネヘミヤはこれを見抜きました。

6:13 彼が買収されたのは、私が恐れ、言われるとおりにして、私が罪を犯すようにするためであり、彼らの悪口の種とし、私をそしるためであった。

 ネヘミヤが見抜くことができたのは、主のみことばを重んじていたからでした。主はご自分がすでに語られたことに矛盾して事を行わせることはなさいません。祭司だけが聖所で奉仕することができるのに、レビ系ではない自分が入ることはできない、と判断したのです。このような判断力が多くの人にあったら、今問題になっている教会のカルト化は起こりません。神のみことばが高められているかどうか、が決め手になります。

6:14 わが神よ。トビヤやサヌバラテのあのしわざと、また、私を恐れさせようとした女預言者ノアデヤや、その他の預言者たちのしわざを忘れないでください。

 ノデヤはここにしか出てきませんが、おそらくこの本堂の中に入りなさいという預言を確認して、他の預言者にも同じ預言をするように促したのかもしれません。預言者エレミヤが通った問題でもありますが、偽預言が存在します。

 こうしてネヘミヤは、自分自身がつまずくように最後は仕向けられました。パウロはテモテに、「自分自身にも、教える事にも、よく気をつけなさい。(1テモテ4:16」と言いました。敵は、私たちが勝手につまずくのを待っていますが、気をつけなければいけません。

3B 勤勉の実 15−19
 こうしてネヘミヤは数々の試練と誘惑に耐え抜くことができましたが、その結果を次に見ます。

6:15 こうして、城壁は五十二日かかって、エルルの月の二十五日に完成した。

 たったの五十二日です。彼らが初め、「一日で建て上げようとでもいうのか」と嘲りましたが、もちろん一日ではありませんが、ものすごいスピードで建て上げることができました。主から与えられた機会を十分に用いるとき、私たちの思いをはるかに越えて、事を行ってくださいます。

6:16 私たちの敵がみな、これを聞いたとき、私たちの回りの諸国民はみな恐れ、大いに面目を失った。この工事が、私たちの神によってなされたことを知ったからである。

 大いに面目を失いました。完成されたものに、敵はもはや手を触れることはできません。だから、キリストの救いの御業が完成した後、悪魔はキリストに結ばれている者に手出しすることができないのです。

 私たちに必要なのは、この時点に至るまでの抵抗です。ヤコブは、「悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。(4:7」と言いました。逃げ去るところまで立ち向かう必要があるのです。

6:17 また、そのころ、ユダのおもだった人々は、トビヤのところにひんぱんに手紙を送っており、トビヤも彼らに返事をしていた。6:18 それは、トビヤがアラフの子シェカヌヤの婿であり、また、トビヤの子ヨハナンもベレクヤの子メシュラムの娘を妻にめとっていたので、彼と誓いを立てていた者がユダの中に大ぜいいたからである。

 完成されて、後で分かったことをネヘミヤはここに書き記しています。エズラがかつて、周囲の住民との婚姻関係が発覚して血の気が失せましたが、ここにユダの人々、代表者らがトビヤとの親戚関係にいたことが暴露されています。アラフは、エズラとともにエルサレムに帰還した一行の一人です(エズラ2:5)。その義理の息子がトビヤです。メシュラムは城壁修繕に加わっていた者の一人です(ネヘミヤ3:4)。トビヤとメシュラムは、それぞれの自分の息子、娘の婚姻関係で結ばれていたのです。

 いかに異邦人との雑婚がイスラエルに危害をもたらしているか、ここからも分かります。不信者と信者のつりあわぬくびきについて、パウロは語りましたが、不義との交わりは私たちの霊的生活に致命的な打撃を与えるのです。

6:19 彼らはまた、私の前でトビヤの善行を語り、私の言うことを彼に伝えていた。トビヤは私をおどそうと、たびたび手紙を送って来た。

 悪はとことんまでどす黒いです。トビヤの善行を語っている人は、裏でトビヤが行なっていたことについて知らなかったかもしれません。けれども、ネヘミヤは彼の邪悪さを体験していたのですが、その時点では他の人に話すことができなかったこともあったでしょう。私たちがこの世と妥協するとき、結果的に私たち自身が他のクリスチャンの迫害に加担していることもあることを、肝に銘じたいと思います。

 こうして城壁は完成しました。私たちの霊的歩みの前進には、このように激しい反対行動があります。しかし強くなってください、ネヘミヤと同じように主によって立てられた志は必ず主が完成してくださいます。


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