神の怒りの現われ 2001/03/05

「あなたは民に言わなければならない。あすのために身をきよめなさい。あなたがたは肉が食べられるのだ。あなたがたが泣いて、『ああ肉が食べたい。エジプトでは良かった。』と、主につぶやいて言ったからだ。主が肉を下さる。あなたがたは肉が食べられるのだ。あなたがたが食べるのは、一日や二日や五日や十日や二十日だけではなく、一か月もであって、ついにはあなたがたの鼻から出て来て、吐きけを催すほどになる。」(民数記11:18-20)

先週の土曜日は、民数記11-12章を学びました。
1章から10章までにおいて、主が、イスラエルの民のために、その旅立ちの準備を事細かく行なってくださったところを読むことができます。しかし11章から14章までには、イスラエルの民がすぐに不平を鳴らし、ついに荒野で滅んでしまうところを読みます。そしてこの出来事は、コリント書第一10章、ヘブル書3章にて、肉の行ないと不信仰に対する警告として引用されています。

イスラエルがエジプトを出たとき、彼らに混じってともに出てきた外国人が、シナイの荒野の旅において、激しい欲望にかられ、「肉が食いてえ!」と叫んだ者たちです。イスラエルの民も、彼らに影響されて同じようにつぶやきました(11章4節)。この欲望に対して神が怒りを現わされたのですが、それは、彼らに肉を一ヶ月も与え続けるところに現われました。彼らが貪ることを許し、それによって自ら滅んでいくようにされたのです。肉を食べている本人は、思う存分食べられることをうれしがっていたことでしょう。けれども、疫病で死ぬという結末が待っているのを知りませんでした。

同じことが、ローマ人への手紙1章にも書かれています。「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。(18節)」とあり、その怒りは、「それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。(24節)」とあります。

神が怒られるというと、とかく私たちは、自分にとって不快なことが起こることを想起してしまいがちです。病気になるとか、会社が倒産するとか、失恋するとか、交通事故にあうとか、そのような事柄を「怒り」と考えます。しかし、神は、そのあわれみのゆえに私たちを懲らしめることがあるのです。自分にとって悲しむべきことが起こっても、それは罪から離れるための愛のむちなのです。

むしろ、もっとも恐ろしいことは、何も干渉されないことであります。人は、「私は、自分の好き放題のことをすることができている。とくに何も悪いことは起こっていない。神の裁きなどはない。」と言って自分を欺くのです。しかし、神は人が滅びることを願っておられません。そこで私たちにとって不快なこと、辛いこと、痛々しいことが起こるのを許し、目をさましてご自分に立ち返るように、呼びかけてくださいます。


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