民数記21−24章 「わきいでる井戸」


アウトライン

1A 土地の占領 21
   1B 願いを聞かれる主 1−9
   2B 主の戦い 10−35
2A 祝福のことば 22−24
   1B 敵の策略 22
      1C のろい 1−20
         1D 恐れ 1−6
         2D 貪り 7−20
      2C 主による阻止 21−41
         1D 気違い沙汰 21−35
         2D 神のことばのみ 36−41
   2B 神の約束 23−24
      1C バラクへのことば 23
         1D 主が宣言されない滅び 1−12
         2D 偽りのない神 13−30
      2C バラムのことば 24
         1D イスラエルについて 1−9
         2D 諸国の民について 10−25

本文

 民数記21章を開いてください。今日は、21章から24章までを学びたいと思います。ここでのテーマは、「わきいでる井戸」です。

1A 土地の占領 21
1B 願いを聞かれる主 1−9
 ネゲブに住んでいたカナン人アラデの王は、イスラエルがアタリムの道を進んで来ると聞いて、イスラエルと戦い、その何人かを捕虜として捕えて行った。そこでイスラエルは主に誓願をして言った。「もし、確かにあなたが私の手に、この民を渡してくださるなら、私は彼らの町々を聖絶いたします。」主はイスラエルの願いを聞き入れ、カナン人を渡されたので、彼らはカナン人と彼らの町々を聖絶した。そしてその所の名をホルマと呼んだ。

 イスラエルの民は、カデシュ・バルネアから出発し、少し北上しました。ホル山というところで、アロンが死に、そこで弔いをしました。そして、その地域は、神がアブラハムに約束された、カナン人の土地に近くなっています。そこで、今、カナン人がイスラエルと戦いました。

 イスラエルは主にお願いをしました。主はその願いを聞いてくださり、カナン人に勝つようにしてくださいました。

 私たちはここで、前回までの民数記の話のあらすじを思い出さなければいけません。イスラエルの民は、カデシュ・バルネアで、不信仰になって約束の地に入ろうとしませんでした。主は、40年間イスラエルを、荒野でさまよわせて、彼らをさばかれました。そのとき、彼らは、「やはり、主が言われたように、カナン人の土地に攻め入ろう。」と言いました。けれども、モーセは警告しました。「上っていってはならない。主があなたがたのうちにおられないのだ。あなたがたが敵に打ち負かされないように。(民数14:42)」それでも彼らは言うことを聞かず、上っていきました。案の定、山地に住んでいたカナン人が彼らを追い出したのです。

 同じことを行なっているのですが、一方では彼らの願いは聞かれず、他方では祈りが聞かれています。この違いは、神が異なる取り扱いをなさっていることから来ています。民数記11章から、私たちは、イスラエルの民が約束の地に入らないで、荒野をさまようまでの、彼らが死に絶える姿を読んできました。肉の欲望にかられ、不信仰に陥り、さらに反逆までしようとしました。モーセとアロンでさえ、神の恵みを解せず、岩を二度も打ったりしました。これらすべてが、イスラエルの民が死んでゆく姿です。けれども、これが必要だったのです。なぜなら、彼らは死ななければ、新しく出発することができませんでした。イスラエルは、古い世代が死ぬことにより、初めてイスラエルは生きることができたのです。

 神は、死ぬことによって初めていのちを与えるという法則を持っておられます。私たちの古い人が死ぬことによって、初めてキリストにあって生きることができるようにしてくださっています。私たち自身を生かそうとすれば、神は必ず、それを死なせるように私たちを導かれます。パウロが、ローマ7章で、自分の内住の罪に葛藤を覚えていたようにです。

 しかし、私たちが死んだとき、そのときに神はご自分のいのちの御霊をもって、私たちを導いてくださるのです。以前は、罪と死の原理が働いていたのですが、今は、いのちの御霊の原理が働いています。この原理・法則を、私たちはこれから、イスラエルの新しい世代の中に見出すことができるのです。

 それでは続けて、このイスラエルの歩みを読んでいきましょう。彼らはホル山から、エドムの地を迂回して、葦の海(紅海)の道に旅立った。イスラエルは、エドムの地を通ろうとしましたが、エドムによってそれは阻止されました。そこでエドムの地を迂回しなければなりませんでした。

 しかし民は、途中でがまんができなくなり、民は神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」そこで主は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。民はモーセのところに来て言った。「私たちは主とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、主に祈ってください。」モーセは民のために祈った。すると、主はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。

 私たちによく知られる、「青銅の蛇」の話です。主イエスが、ユダヤ人指導者ニコデモに、この話を引用して、ご自分の贖いのみわざをお語りになりました。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。(ヨハネ3:14−15)」旗ざおにつけられた青銅の蛇は、十字架につけられたイエスさまを表していました。十字架の上で罪を負われ、神からさばかれました。それは、罪によって霊的に死んでいる私たちが、新たに生まれ、永遠のいのちを持つためです。イスラエルの民が蛇を仰ぎ見たとき、生きたのは、十字架のキリストを自分のものとして受け入れる私たちの姿でもあります。

 ただ、今回の学びでは、イスラエルの民がこのようにして生かされていること、そのものに注目したいと思います。古い世代のイスラエルであれば、このような罪を犯したら、そのまま罪の中に生き、回復の道が与えられませんでした。けれども、今イスラエルは、すぐに罪を言い表し、悔い改めています。そして、神は彼らの願いを聞かれて、彼らを生かしてくださっています。罪と死の原理ではなく、いのちの御霊の原理がここでも働いているのです。

2B 主の戦い 10−35
 イスラエルの民はさらに勢いづいています。彼らはヨルダン川東岸にまで到達します。

 イスラエル人は旅立って、オボテで宿営した。彼らはオボテから旅立って、日の上る方、モアブに面した荒野にあるイエ・ハアバリムに宿営した。そこから旅立って、ゼレデの谷に宿営し、さらにそこから旅立って、エモリ人の国境から広がっている荒野にあるアルノン川の向こう側に宿営した。アルノン川がモアブとエモリ人との間の、モアブの国境であるためである。それで、「主の戦いの書」にこう言われている。「スパのワヘブとアルノンの谷川とともに、谷川の支流は、アルの定住地に達し、モアブの領土をささえている。」

 イスラエルはモアブの領土の周りを旅していることに気づいてください。このイスラエルの動きが、後にモアブ人の王バラクにとって脅威となります。

 彼らはそこからベエルに向かった。それは主がモーセに、「民を集めよ。わたしが彼らに水を与える。」と言われた井戸である。そのとき、イスラエルはこの歌を歌った。「わきいでよ。井戸。・・このために歌え。・・笏をもって、杖をもって、つかさたちがうがち、民の尊き者たちが掘ったその井戸に。」

 すばらしいですね、主は彼らに、水がわきでる井戸を用意してくださいました。荒野の中で、飲む水がなく不平・不満をもらしていたときのころと比べてください。新しい歩みをしているところには、このように、わきいでる泉が用意されています。イエスさまが、サマリヤの女に「わたしが与える水は、飲んでも決して渇くことなく、その人のうちで泉となり、永遠のいのちに至る水がわきでます。」と言われたとおりです。

 彼らは荒野からマタナに進み、マタナからナハリエルに、ナハリエルからバモテに、バモテからモアブの野にある谷に行き、荒地を見おろすピスガの頂に着いた

 ピスガの頂まで来ました。ここには、後で、バラクとバラムが上ってきて、イスラエルをのろおうとするところです。そして、また、モーセがここから約束の地を眺めて、天に召されるところでもあります。

 そして次から、イスラエル人はモアブの周辺の諸国と戦って勝利を収めていきます。

 イスラエルはエモリ人の王シホンに使者たちを送って言った。モアブの北には、エモリ人が住んでいました。「あなたの国を通らせてください。私たちは畑にもぶどう畑にも曲がってはいることをせず、井戸の水も飲みません。あなたの領土を通過するまで、私たちは王の道を通ります。」

 エドム人に対してしたように、その土地を通過する許可を得ようとしました。王の道は国際路なので、そこを通っても彼らの土地に侵入したことにはなりません。

 しかし、シホンはイスラエルが自分の領土を通ることを許さなかった。シホンはその民をみな集めて、イスラエルを迎え撃つために荒野に出て来た。そしてヤハツに来て、イスラエルと戦った。イスラエルは剣の刃で彼を打ち、その地をアルノンからヤボクまで、アモン人の国境まで占領した。アモン人の国境は堅固だったからである。エモリ人が住んでいるところの北にはアモン人が住んでいました。イスラエルはこれらの町々をすべて取った。そしてイスラエルはエモリ人のすべての町々、ヘシュボンとそれに属するすべての村落に住みついた。

 モアブの北に住んでいたエモリ人の土地には、イスラエル人が住むようになりました。そして次に、エモリ人がここに住むようになった経緯が記録されています。

 ヘシュボンはエモリ人の王、シホンの町であった。彼はモアブの以前の王と戦って、その手からその全土をアルノンまで取っていた。それで、ことわざを唱える者たちが歌っている。「来たれ、ヘシュボンに。シホンの町は建てられ、堅くされている。ヘシュボンから火が出、シホンの町から炎が出て、モアブのアルを焼き尽くし、アルノンにそびえる高地を焼き尽くしたからだ。モアブよ。おまえはわざわいだ。ケモシュの民よ。おまえは滅びうせる。その息子たちは逃亡者、娘たちは捕われの身である。エモリ人の王シホンによって。しかしわれわれは彼らを投げ倒した。ヘシュボンからディボンに至るまで滅びうせた。われわれはノファフまでも荒らし、それはメデバにまで及んだ。」

エモリ人は、この土地をモアブ人から取っていました。けれども今、それがイスラエル人の手に渡されました。今読んだことわざは、エモリ人賛歌とでも言いましょうか、自画自賛しています。しかし、主の前では、たちまち滅んでしまうのです。

 こうしてイスラエルはエモリ人の地に住んだ。そのとき、モーセはまた人をやって、ヤゼルを探らせ、ついにそれに属する村落を攻め取り、そこにいたエモリ人を追い出した。さらに彼らは進んでバシャンへの道を上って行ったが、バシャンの王オグはそのすべての民とともに出て来た。彼らを迎え撃ち、エデレイで戦うためであった。

 バシャンは、エモリ人とアモン人の住んでいるさらに北の地域です。イエスさまが地上におられたことは、ピリポ・カイザリヤがそこにあり、現在はゴラン高原がその地域です。

 しかし、主はモーセに言われた。「彼を恐れてはならない。わたしは彼とそのすべての民とその地とをあなたの手のうちに与えた。あなたがヘシュボンに住んでいたエモリ人の王シホンに対して行なったように、彼に対しても行なえ。」そこで彼らは彼とその子らとそのすべての民とを打ち殺し、ひとりの生存者も残さなかった。こうして彼らはその地を占領した。

 こうして、イスラエルはモアブの周辺地域を、次々と占領していきました。ここで、彼らが土地を占領するとき、彼ら自身が征服しているのではないことに注目してください。攻めて来たのは、諸国の民であり、イスラエル人たちは応戦したにしか過ぎません。彼らは平和に、その土地の王道を通って行きたいと願っていました。これは現代の中東問題でも同じなのですが、イスラエルが占領したのは、彼らが征服したのではなく、イスラエルを脅威に思ったアラブ諸国がイスラエルに攻撃をしたためであります。イスラエルは応戦したのですが、その結果、彼らの土地を占領することになりました。

 けれども、これは私たちクリスチャンの霊的歩みでもあります。宣教地域や、新しい開拓の土地、また新しく伝道を始めようとしている相手を、「征服しよう」という思いが働いてしまいます。けれども、それは神の御霊がなされることではありません。私たちは身を低くして、伝道をする相手のことを尊敬しながら接しなければいけません。そのときに、相手がいろいろ攻撃的な姿勢に出たり、反対したりするときは、私たちはイスラエル人のように決して屈してはならないわけです。この謙遜と信仰のバランスが、主にある霊的領域を広めていく原則になります。

2A 祝福のことば 22−24
 それでは22章に入ります。
1B 敵の策略 22
1C のろい 1−20
1D 恐れ 1−6
 イスラエル人はさらに進んで、ヨルダンのエリコをのぞむ対岸のモアブの草原に宿営した。さてツィポルの子バラクは、イスラエルがエモリ人に行なったすべてのことを見た。モアブの王バラクは、イスラエルの軍事行動をすべて見ていました。モアブはイスラエルの民が多数であったので非常に恐れた。それでモアブはイスラエル人に恐怖をいだいた。そこでモアブはミデヤンの長老たちに言った。「今、この集団は、牛が野の青草をなめ尽くすように、私たちの回りのすべてのものをなめ尽くそうとしている。」ツィポルの子バラクは当時、モアブの王であった。そこで彼は、同族の国にあるユーフラテス河畔のペトルにいるベオルの子バラムを招こうとして使者たちを遣わして、言わせた。「今ここに、一つの民がエジプトから出て来ている。今や、彼らは地の面をおおって、私のすぐそばにとどまっている。どうかいま来て、私のためにこの民をのろってもらいたい。この民は私より強い。そうしてくれれば、たぶん私は彼らを打って、この地から追い出すことができよう。私は、あなたが祝福する者は祝福され、あなたがのろう者はのろわれることを知っている。」

 バラクは、自分がイスラエルに戦っても、勝つことはできないことを知りました。しかし、あることを考えました。それは、物理的には戦えないけれども、霊的には戦えると思ったのです。そこで彼は、まじない師バラムを、雇います。彼がイスラエルをのろうことによって、イスラエルは弱くなり、そして自分たちは勝つことができると思ったのです。

 これが霊の戦いです。先ほど私たちは、イスラエルが、いのちの御霊の原理の中に入っていたことを学びました。この御霊のいのちの中にいたので、肉の領域においても勝利を収めていることができました。そのときから敵が攻撃を始めます。霊の領域において攻撃を仕掛け、そして神の民を滅ぼしてしまおうとします。

 私たちが御霊に導かれるようになると、そのときから肉の戦いではなく、霊の戦いへと入ります。神のお仕事をしようとするときに、それを妨げる要因がいろいろ出てきます。ある時は病気になったり、交通事故にあったり、あるときは仲間割れなど、混乱や不安を私たちにもたらしてきます。私たちがまだ肉の弱さとの葛藤の中にいるときは、悪魔はとくに手を出しません。その弱さの中でもがいている私たちを見て、ただ冷笑しているだけでしょう。彼が恐れるのは、御霊によって歩み始めたときです。彼は自分の領域が侵されることを恐れ、そして御霊のうち歩むクリスチャンに挑みかかるのです。

2D 貪り 7−20
 占いに通じているモアブの長老たちとミデヤンの長老たちとは、バラムのところに行き、彼にバラクのことづけを告げた。するとバラムは彼らに言った。「今夜はここに泊まりなさい。主が私に告げられるとおりのことをあなたがたに答えましょう。」そこでモアブのつかさたちはバラムのもとにとどまった。

 神はバラムのところに来て言われた。「あなたといっしょにいるこの者たちは何者か。」バラムは神に申し上げた。「モアブの王ツィポルの子バラクが、私のところに使いをよこしました。『今ここに、エジプトから出て来た民がいて、地の面をおおっている。いま来て、私のためにこの民をのろってくれ。そうしたら、たぶん私は彼らと戦って、追い出すことができよう。』」神はバラムに言われた。「あなたは彼らといっしょに行ってはならない。またその民をのろってもいけない。その民は祝福されているからだ。」

 主はバラムに警告されました。イスラエルの民は祝福されているのだから、のろってはいけない。彼らとともに行ってはいけない、と言われています。

 朝になると、バラムは起きてバラクのつかさたちに言った。「あなたがたの国に帰りなさい。主は私をあなたがたといっしょに行かせようとはなさらないから。」モアブのつかさたちは立ってバラクのところに帰り、そして言った。「バラムは私たちといっしょに来ようとはしませんでした。」

 バラクはもう一度、前の者より大ぜいの、しかも位の高いつかさたちを遣わした。彼らはバラムのところに来て彼に言った。「ツィポルの子バラクはこう申しました。『どうか私のところに来るのを拒まないでください。私はあなたを手厚くもてなします。また、あなたが私に言いつけられることは何でもします。どうぞ来て、私のためにこの民をのろってください。』」しかしバラムはバラクの家臣たちに答えて言った。「たといバラクが私に銀や金の満ちた彼の家をくれても、私は私の神、主のことばにそむいて、事の大小にかかわらず、何もすることはできません。それであなたがたもまた、今晩ここにとどまりなさい。主が私に何かほかのことをお告げになるかどうか確かめましょう。」その夜、神はバラムのところに来て、彼に言われた。「この者たちがあなたを招きに来たのなら、立って彼らとともに行け。だが、あなたはただ、わたしがあなたに告げることだけを行なえ。」

 新約聖書の中で、バラムは、不義の報酬を愛する者、利益のために迷った者として紹介されています。前の者よりも、高いの位つかさが訪れて、さらに手厚いもてなしを受けると誘われました。彼はこの名声と金に目がくらみ、神が警告をされているのにも関わらず、それを無視してモアブに行こうとしています。

 ここで神が、「立って彼らとともに行け。」というのは、積極的に行きなさいということではありません。ここでは、バラムの心がすでに貪りに満たされており、その執拗な欲求と意志をそのままにされたからです。ここに、大切な教訓があります。それは、神は、私たちの自由意志を尊ばれているということです。神は警告をお与えになります。しかし、それ以上のことはなされないのです。神ご自身が自由意志をお持ちになって行動されているゆえ、神のかたちに造られた人間の自由意志も決して侵そうとはされません。したがって、私たちは神が警告されていることに、しっかり耳を傾けなければならないのです。私たちは無理やり止めさせられないので、それを神からの許可であると思い込みます。しかし、そうではなく、私たちが自らの意志で神を選び取ることができるようにしているためなのです。

2C 主による阻止 21−41
1D 気違い沙汰 21−35
 朝になると、バラムは起きて、彼のろばに鞍をつけ、モアブのつかさたちといっしょに出かけた。しかし、彼が出かけると、神の怒りが燃え上がり、主の使いが彼に敵対して道に立ちふさがった。バラムはろばに乗っており、ふたりの若者がそばにいた。

 主は、バラムが再三の警告に耳を傾けなかったので、不思議なほうほうで罪をお咎めになります。

 ろばは主の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているのを見たので、ろばは道からそれて畑の中に行った。そこでバラムはろばを打って道に戻そうとした。しかし主の使いは、両側に石垣のあるぶどう畑の間の狭い道に立っていた。ろばは主の使いを見て、石垣に身を押しつけ、バラムの足を石垣に押しつけたので、彼はまた、ろばを打った。主の使いは、さらに進んで、右にも左にもよける余地のない狭い所に立った。ろばは、主の使いを見て、バラムを背にしたまま、うずくまってしまった。そこでバラムは怒りを燃やして、杖でろばを打った。

 バラムが頭にきています。今の彼は、貪りにとらわれており、それゆえ自分のろばにさえも、ひどい扱いをしています。

 すると、主はろばの口を開かれたので、ろばがバラムに言った。「私があなたに何をしたというのですか。私を三度も打つとは。」バラムはろばに言った。「おまえが私をばかにしたからだ。もし私の手に剣があれば、今、おまえを殺してしまうところだ。」ろばはバラムに言った。「私は、あなたがきょうのこの日まで、ずっと乗ってこられたあなたのろばではありませんか。私が、かつて、あなたにこんなことをしたことがあったでしょうか。」彼は答えた。「いや、なかった。」

 ろばが語りました。バラムがあまりにも貪りに満ちていたので、このような気違い沙汰を用いて、神はバラムの道を阻もうとされているのです。

 そのとき、主がバラムの目のおおいを除かれたので、彼は主の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているのを見た。彼はひざまずき、伏し拝んだ。主の使いは彼に言った。「なぜ、あなたは、あなたのろばを三度も打ったのか。敵対して出て来たのはわたしだったのだ。あなたの道がわたしとは反対に向いていたからだ。ろばはわたしを見て、三度もわたしから身を巡らしたのだ。もしかして、ろばがわたしから身を巡らしていなかったなら、わたしは今はもう、あなたを殺しており、ろばを生かしておいたことだろう。」

 バラムはろばを剣で殺すと言いましたが、実は自分自身が主の使いから剣で殺されそうになっていたのです。

 バラムは主の使いに申し上げた。「私は罪を犯しました。私はあなたが私をとどめようと道に立ちふさがっておられたのを知りませんでした。今、もし、あなたのお気に召さなければ、私は引き返します。」主の使いはバラムに言った。「この人たちといっしょに行け。だが、わたしがあなたに告げることばだけを告げよ。」そこでバラムはバラクのつかさたちといっしょに行った。

 主の使いは、「わたしが告げることだけ告げよ。」と言われています。「わたしの主が」と言っていません。つまり、主の使いは、主ご自身であられたのです。ここに、受肉前の主イエス・キリストの姿があります。新改訳ですと太字で「主」となっていて、「主の使い」と書かれてあるところは、イエスさまの受肉前の姿と取ってようでしょう。

2D 神のことばのみ 36−41
 バラクはバラムが来たことを聞いて、彼を迎えに、国境の端にあるアルノンの国境のイル・モアブまで出て来た。そしてバラクはバラムに言った。「私はあなたを迎えるために、わざわざ使いを送ったではありませんか。なぜ、すぐ私のところに来てくださらなかったのですか。ほんとうに私にはあなたを手厚くもてなすことができないのでしょうか。」バラムはバラクに言った。「ご覧なさい。私は今あなたのところに来ているではありませんか。私に何が言えるでしょう。神が私の口に置かれることば、それを私は語らなければなりません。」

 主の使いが立ち向かうという経験をとおして、バラムは、主のことばだけを告げることしかできなくなっています。

 こうしてバラムはバラクといっしょに出て行って、キルヤテ・フツォテに来た。バラクは牛と羊をいけにえとしてささげ、それをバラムおよび彼とともにいたつかさたちにも配った。朝になると、バラクはバラムを連れ出し、彼をバモテ・バアルに上らせた。バラムはそこからイスラエルの民の一部を見ることができた。

 今、イスラエルの宿営が見えるところにやって来ました。一部だけ見えています。

2B 神の約束 23−24
1C バラクへのことば 23
1D 主が宣言されない滅び 1−12
 バラムはバラクに言った。「私のためにここに七つの祭壇を築き、七頭の雄牛と七頭の雄羊をここに用意してください。」バラクはバラムの言ったとおりにした。そしてバラクとバラムとは、それぞれの祭壇の上で雄牛一頭と雄羊一頭とをささげた。バラムはバラクに言った。「あなたは、あなたの全焼のいけにえのそばに立っていなさい。私は行って来ます。たぶん、主は私に現われて会ってくださるでしょう。そうしたら、私にお示しになることはどんなことでも、あなたに知らせましょう。」そして彼は裸の丘に行った。神がバラムに会われたので、バラムは神に言った。「私は七つの祭壇を造り、それぞれの祭壇の上で雄牛一頭と雄羊一頭とをささげました。」主はバラムの口にことばを置き、そして言われた。「バラクのところに帰れ。あなたはこう言わなければならない。」

 それで、彼はバラクのところに帰った。すると、モアブのすべてのつかさたちといっしょに、彼は自分の全焼のいけにえのそばに立っていた。バラムは彼のことわざを唱えて言った。「バラクは、アラムから、モアブの王は、東の山々から、私を連れて来た。『来て、私のためにヤコブをのろえ。来て、イスラエルに滅びを宣言せよ。』神がのろわない者を、私がどうしてのろえようか。主が滅びを宣言されない者に、私がどうして滅びを宣言できようか。岩山の頂から私はこれを見、丘の上から私はこれを見つめる。見よ。この民はひとり離れて住み、おのれを諸国の民の一つと認めない。だれがヤコブのちりを数え、イスラエルのちりの群れを数ええようか。私は正しい人が死ぬように死に、私の終わりが彼らと同じであるように。」

 バラムは滅びを宣言するどころか、イスラエルのように死ぬことができればと言ってイスラエルをうらやんでいます。イスラエルは他の諸国の民のようではなく、数多い祝福された民であると言っています。

 バラクはバラムに言った。「あなたは私になんということをしたのですか。私の敵をのろってもらうためにあなたを連れて来たのに、今、あなたはただ祝福しただけです。」バラムは答えて言った。「主が私の口に置かれること、それを私は忠実に語らなければなりません。」

 主が語られることしか私は語ることはできません、と言っています。

2D 偽りのない神 13−30
 バラクは彼に言った。「では、私といっしょにほかの所へ行ってください。そこから彼らを見ることができるが、ただその一部だけが見え、全体を見ることはできない所です。そこから私のために彼らをのろってください。」

 バラクは場所を変えて、バラムにイスラエルをのろってもらおうとしています。

 バラクはバラムを、セデ・ツォフィムのピスガの頂に連れて行き、そこで七つの祭壇を築き、それぞれの祭壇の上で雄牛と雄羊とを一頭ずつささげた。バラムはバラクに言った。「あなたはここであなたの全焼のいけにえのそばに立っていなさい。私はあちらで主にお会いします。」主はバラムに会われ、その口にことばを置き、そして言われた。「バラクのところに帰れ。あなたはこう告げなければならない。」それで、彼はバラクのところに行った。すると、モアブのつかさたちといっしょに、彼は全焼のいけにえのそばに立っていた。バラクは言った。「主は何とお告げになりましたか。」

 バラムは彼のことわざを唱えて言った。「立て、バラクよ。そして聞け。ツィポルの子よ。私に耳を傾けよ。神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない。神は言われたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。見よ。祝福せよ、との命を私は受けた。神は祝福される。私はそれをくつがえすことはできない。

 ここに神にご性質について書かれています。神は思いを変えたりような、気まぐれな方ではない、ということです。ヤコブの手紙には、「父には移り変わりや、移り行く影はありません。(1:17)」とあります。日本人が持つ神意識には、カミは次に何をするかわからないというものがあります。しかし、聖書の神は、ご自分が約束されたことを、必ず守るところの契約にしばられた方です。

 ヤコブの中に不法を見いださず、イスラエルの中にわざわいを見ない。彼らの神、主は彼らとともにおり、王をたたえる声が彼らの中にある。

 すばらしいですね。神は、イスラエルを正しい者とみなしています。義と認められることにより、敵が決してイスラエルをのろうことができません。ここに霊的勝利の源泉があります。ローマ書8章でも、神が味方であるなら、だれが敵になることができるのか。選ばれた民を罪に定めるのはだれか、とパウロは言っています。キリストのうちにある者は、不法は見出されず、それゆえ悪魔が私たちを咎めることができないのです。

 彼らをエジプトから連れ出した神は、彼らにとっては野牛の角のようだ。まことに、ヤコブのうちにまじないはなく、イスラエルのうちに占いはない。神のなされることは、時に応じてヤコブに告げられ、イスラエルに告げられる。

 イスラエルは、まじないよりもさらにすぐれたものを持っています。それは、神のことばです。神のことばは、まじないよりも、さらに確かなものなのです。私たちには、神のことばである聖書があります。これほど明らかに啓示されているものはなく、私たちは何ら、占いなどにたよる必要はないのです。

 見よ。この民は雌獅子のように起き、雄獅子のように立ち上がり、獲物を食らい、殺したものの血を飲むまでは休まない。」

 イスラエルは、周囲の敵をことごとく滅ぼすということです。

 バラクはバラムに言った。「彼らをのろうことも、祝福することもしないでください。」バラムはバラクに答えて言った。「私は主が告げられたことをみな、しなければならない、とあなたに言ったではありませんか。」バラクはバラムに言った。「さあ、私はあなたをもう一つ別の所へ連れて行きます。もしかしたら、それが神の御目にかなって、あなたは私のために、そこから彼らをのろうことができるかもしれません。」バラクはバラムを荒地を見おろすペオルの頂上に連れて行った。

 イスラエルの宿営がすべて見えるところにバラクはバラムを連れて行きました。

バラムはバラクに言った。「私のためにここに七つの祭壇を築き、七頭の雄牛と七頭の雄羊をここに用意してください。」バラクはバラムが言ったとおりにして、祭壇ごとに雄牛と雄羊とを一頭ずつささげた。

2C バラムのことば 24
1D イスラエルについて 1−9
 バラムはイスラエルを祝福することが主の御心にかなうのを見、これまでのように、まじないを求めに行くことをせず、その顔を荒野に向けた。

 バラムは、主のみこころがあまりにも明らかなので、まじないをすることをやめました。そして、イスラエルの宿営のほうに顔を向けました。主のみこころがあまりにも明らかであり、確信に満ちています。私たちクリスチャンも、こうでありたいものです。イエスさまは、「祈るとき、異邦人のように、同じことばを、ただくり返してはいけません。(マタイ6:7)」と言われましたが、私たちもともすると、まじないをしているかのように、確信のない、言葉だけの祈りをしてしまいます。しかし、私たちの祈りは、聖書に啓示されている神のみこころにそったものであり、その言葉は確信に満ち、必ず聞かれているという安心感を持っているものです。

 バラムが目を上げて、イスラエルがその部族ごとに宿っているのをながめたとき、神の霊が彼の上に臨んだ。

 イスラエルが部族ごとに宿っている姿をバラムは見ています。民数記1章から4章までにならった、イスラエル12部族が、神の幕屋を中心にして東西南北に決められたところに配置している姿です。この光景はさぞかし美しかったことでしょう。

 彼は彼のことわざを唱えて言った。「ベオルの子バラムの告げたことば。目のひらけた者の告げたことば。神の御告げを聞く者、全能者の幻を見る者、ひれ伏して、目のおおいを除かれた者の告げたことば。

 先の二つは、バラムのバラクに対することわざでした。けれども、今は、バラクに語るのをやめ、ただ神のことばを告げています。

 なんと美しいことよ。ヤコブよ、あなたの天幕は。イスラエルよ、あなたの住まいは。それは、延び広がる谷間のように、川辺の園のように、主が植えたアロエのように、水辺の杉の木のように。その手おけからは水があふれ、その種は豊かな水に潤う。その王はアガグよりも高くなり、その王国はあがめられる。

 イスラエルの国の麗しさとすばらしさを、ほめたたえています。

 彼をエジプトから連れ出した神は、彼にとっては野牛の角のようだ。彼はおのれの敵の国々を食い尽くし、彼らの骨を砕き、彼らの矢を粉々にする。雄獅子のように、また雌獅子のように、彼はうずくまり、身を横たえる。だれがこれを起こすことができよう。あなたを祝福する者は祝福され、あなたをのろう者はのろわれる。」

 イスラエルが強い国になり、敵を打ち砕く姿が描かれています。そして、神がアブラハムに語られたことば、「あなたを祝福する者は祝福され、のろう者はのろわれる。」と宣言しています。

2D 諸国の民について 10−25
 そこでバラクはバラムに対して怒りを燃やし、手を打ち鳴らした。バラクはバラムに言った。「私の敵をのろうためにあなたを招いたのに、かえってあなたは三度までも彼らを祝福した。今、あなたは自分のところに下がれ。私はあなたを手厚くもてなすつもりでいたが、主がもう、そのもてなしを拒まれたのだ。」私はあなたに占い代金は払わないぞ、と言っています。バラムはバラクに言った。「私はあなたがよこされた使者たちにこう言ったではありませんか。『たとい、バラクが私に銀や金の満ちた彼の家をくれても、主のことばにそむいては、善でも悪でも、私の心のままにすることはできません。主が告げられること、それを私は告げなければなりません。』今、私は私の民のところに帰ります。さあ、私は、この民が後の日にあなたの民に行なおうとしていることをあなたのために申し上げましょう。」

 バアルは、こんどはモアブについて預言します。そしてここで、「後の日に」と言っています。終わりの時に、ということです。バアルは、今のモアブだけではなく、はるか遠くの終わりの時の姿を預言します。

 そして彼のことわざを唱えて言った。「ベオルの子バラムの告げたことば。目のひらけた者の告げたことば。神の御告げを聞く者、いと高き方の知識を知る者、全能者の幻を見る者、ひれ伏して、目のおおいを除かれた者の告げたことば。私は見る。しかし今ではない。私は見つめる。しかし間近ではない。ヤコブから一つの星が上り、イスラエルから一本の杖が起こり、モアブのこめかみと、すべての騒ぎ立つ者の脳天を打ち砕く。

 ヤコブからの一つの星、イスラエルからの一本の杖とは、まさしくメシヤなるイエスです。思い出してください、イエスがお生まれになってから、東方の博士たちが星を見ました。そして、星がベツレヘムにいるイエスがおられるところまで動きました。それはまさしく、このバアルの預言の現われであります。そして、イエスが再臨されるとき、モアブつまり現在のヨルダン国の一部が、さばかれ滅ぼされます。

 その敵、エドムは所有地となり、セイルも所有地となる。イスラエルは力ある働きをする。ヤコブから出る者が治め、残った者たちを町から消し去る。」

 イスラエルを通過させるのを拒んだエドムも、終わりの時にはイスラエルの所有地となります。エドムは現在のヨルダン国南部の地域です。

 彼はアマレクを見渡して彼のことわざを唱えて言った。「アマレクは国々の中で首位のもの。しかしその終わりは滅びに至る。」

 アマレク人は、初めからイスラエルに対する悪意に満ちた民でした。イスラエルの民が、シナイ山に向かっている途中、レフィディムでイスラエルに襲いかかったのも、アマレク人です。神はこのアマレクを、完全に滅ぼしなさいと命じられ、そして完全に滅びることが定められています。

 彼はケニ人を見渡して彼のことわざを唱えて言った。「あなたの住みかは堅固であり、あなたの巣は岩間の中に置かれている。しかし、カインは滅ぼし尽くされ、ついにはアシュルがあなたをとりこにする。」

 ケニ人は、ミデアン人の一部であるが、彼らはアシュル、つまりアッシリヤに滅ぼされます。紀元前8世紀に起こった、アッシリヤ捕囚をバラムはなんと預言しているのです。

 さらにすごい預言があります。彼はまた彼のことわざを唱えて言った。「ああ、神が定められたなら、だれが生きのびることができよう。船がキティムの岸から来て、アシュルを悩まし、エベルを悩ます。しかし、これもまた滅びに至る。」

 キティムとはキプロス島のことですが、おそらくは地中海沿岸地域全体を指すものと思われます。この船が、アッシリヤを悩まし、さらにエベル、これはヘブルのことです、アッシリヤとイスラエルを悩ますと言っています。これは、おそらくは西側の勢力であるローマが、この地域を攻めてくるということでしょう。バアルの口によって、さまざまなものすごい預言がなされました。

 それからバラムは立って自分のところへ帰って行った。バラクもまた帰途についた。

 バラムとバラクは、喧嘩別れになりました。バラムはメソポタミア河畔に帰り、バラクも帰途に着きました。けれども、実は話はここで終わりません。民数記31章、そして黙示録2章を読むと、バラムはバラクから結局、報酬を得ていることが分かります。バラムはバラクに、助言をしたのです。それは、イスラエルを攻撃するのではなく、自滅させる方法です。モアブの娘たちをイスラエルの宿営に送り、イスラエルの男たちと不品行を行なわせ、そしてモアブの神々を慕わせ、拝ませるようにすればよい、とそそのかしました。そこで次回読む、民数記25章の事件があります。イスラエルに神罰がくだりました。バアルの助言は見事、イスラエルに打撃を加えることができたのです。

 この後、バアルは確かにたくさんの褒美を、バラクから受け取ったことでしょう。しかし、彼の最後はあわれです。後でイスラエルの民が、ミデヤン人たちに主の復讐をします。そのとき、バラムの剣で殺されます。多くの財宝を得たのに、短い楽しみでした。これが、貪る者の最後であることを知るべきでしょう。

 そして、私たちは、イスラエルからも学ばねばいけません。イスラエルは雄獅子のように強かったのです。けれども、自分の内側で肉の欲にひきこまれて、弱くなってしまいました。私たちは霊の戦いのときに、もっとも気をつけなければいけない敵は、実は私たちのうちにあります。女たちに引き寄せられたイスラエル人の男たちのように、私たちの思いの中にある、高慢、情欲、憎しみなど、これらが破壊要因となるのです。「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。(箴言4:23)」と箴言にはあります。心が私たちの防衛すべき、要所であります。

 こうして、いのちの御霊の原理の中に生きる姿を、イスラエルから学びました。初めに、自分に対して死ぬこと。そして初めて生きることができること。そして、霊の戦いがあること。神が私たちを祝福されているので、悪魔は私たちに触れることはできません。けれども、私たちの肉を刺激します。私たちが心を見守り、そして、悪魔に立ち向かうときに、悪魔は逃げ去るのです。いのちの泉が湧き出る、その内側にある井戸を守りましょう。


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