民数記25−29章 「新しい相続地に向かって」


アウトライン

1A 地上のものへの死 25
   1B 偶像礼拝 1−9
   2B 主のねたみ 10−18
2A 主のあわれみ 26−27
   1B 主の厳しさ 26
      1C 人口減少 1−62
      2C 古い世代の不在 63−65
   2B 願いを聞かれる主 27
      1C 相続地 1−11
      2C 後継者 12−23
3A 主への礼拝 28−29
   1B 現在において 28
      1C 日々のささげもの 1−15
      2C 記念 16−31
   2B 将来において 29
      1C 罪のきよめ 1−11
      2C 主の祭り 12−40

本文

 民数記25章を開いてください。ここでのテーマは、「新しい相続地に向かって」であります。

 前回の学びのことを思い出してください。今、イスラエルはヨルダン川の東の地域にある諸国と戦い、勝利していきました。そして、モアブの草原に宿営していました。それを見たモアブの王バラクが、イスラエルを恐れて、バラムというまじない師を雇いました。彼にイスラエルを呪ってくれとお願いしたのです。ところがバラムは、イスラエルをのろうどころか祝福してしまいました。そして、バラクは非常に怒り、バラムと別れて、それぞれが自分のところに帰りました。これが前回学んだ個所のあらすじです。

1A 地上のものへの死 25
1B 偶像礼拝 1−9
 ところが、イスラエルの宿営では、一つの事件が起き、そのために2万4千人の死者が出てしまいました。25章は、その話から始まります。

 イスラエルはシティムにとどまっていたが、民はモアブの娘たちと、みだらなことをし始めた。娘たちは、自分たちの神々にいけにえをささげるのに、民を招いたので、民は食し、娘たちの神々を拝んだ。こうしてイスラエルは、バアル・ペオルを慕うようになったので、主の怒りはイスラエルに対して燃え上がった。

 宿営の中にモアブ人の娘たちが入ってきました。そして、イスラエル人の男たちを誘い込み、そして共に寝ました。そして、自分たちが拝んでいる偶像をその男たちに見せ、彼らは偶像バアルを拝んでしまいました。そのため、主の怒りが燃え上がって、神罰によって死者が出ました。

 モアブの娘たちをイスラエルの宿営に入れさせたのは、他の誰でもないバラム自身の助言があったからです。民数記31章には、モーセがイスラエル人に、モアブのミデヤン人たちをことごとく殺すように命じ、こう言いました。「ああ、この女たちはバラムの事件(助言)のおり、ペオルの事件に関連してイスラエル人をそそのかして、主に対する不実を行なわせた。それで神罰が主の会衆の上に下ったのだ。(16節)」そして、イエスさまご自身が、ペルガモにある教会に対して、バラムの教えについて次のメッセージを送られています。「あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた。(黙示録2:14)

 バラムは、バラクに、イスラエルを自分がのろうことはできないことを話しました。けれども、バラムは考えたようです。イスラエル自身がつまずいて、主から罰を受けるようになればよいではないか、と。そこで、モアブの王バラクに、女たちをイスラエルの宿営の中に送り込むようにアドバイスをしたようです。このアドバイスは功を奏したのです。それゆえ、バラムは後にイスラエル人の剣によって殺され、それゆえイスラエル人やクリスチャンに対して、バアルは不義の報酬を愛した者として思い起こされています。

 モーセとイスラエル人の全会衆が会見の天幕の入口で泣いていると、彼らの目の前に、ひとりのイスラエル人が、その兄弟たちのところにひとりのミデヤン人の女を連れてやって来た。自分たちが罪を犯したことを、主の前で悔い改め、泣いて祈っていたところに、公然とモアブの女を連れてやってきたイスラエル人がいました。祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスはそれを見るや、会衆の中から立ち上がり、手に槍を取り、そのイスラエル人のあとを追ってテントの奥の部屋にはいり、イスラエル人とその女とをふたりとも、腹を刺し通して殺した。するとイスラエル人への神罰がやんだ。この神罰で死んだ者は、二万四千人であった。

 この神罰については、使徒パウロがコリントにある教会に手紙を書いたときに、彼らに教えています。「また、私たちは、彼らのある人たちが姦淫をしたのにならって姦淫をすることはないようにしましょう。彼らは姦淫のゆえに一日に二万三千人死にました。(Tコリント10:8)」二万三千人という数字が、ここの民数記25章の数字二万四千人と異なりますが、コリント人への手紙では、「一日に」二万三千人となっています。ですから、一日のうちに死んだのが二万三千人であり、残りの千人は、次の日か、その後の日に死んだものと思われます。

 このようにして、イスラエルは、バラムによる、どのようなのろいからも守られていたのですが、自分たちが罪を犯したときに弱くなってしまいました。私たちは前回、御霊による歩みと霊の戦いについて学びましたが、敵は私たちを肉の欲の中に引き込もうとします。ですから、私たちがしなければならないのは、自分の心を見張ることです。

 また、シティムというところで、イスラエル人が不品行をとおして偶像礼拝をしたという事実に注目してみたいと思います。シティムとは、ヨルダン川のすぐ東にあり、そこから後にヨシュアがスパイをエリコの町に遣わした町でもあります。つまり、イスラエルはこれから戦いの中にはいり、約束の地を自分たちのものとしていく、臨戦状態の中に入りつつあったのです。そのときに、肉の欲望が彼らを捕らえてしまいました。これは決して偶然のことではありません。イスラエルを恐れたバラクの王のように、御霊によって導かれて、私たちが主にあって前進しているとき、必ずこのような敵の攻撃があるのです。

 そして、これが偶像礼拝につながりました。当時の異邦の民のならわしには、性的交渉が自分たちの宗教儀式の一部になっていました。自分たちが拝んでいる像の宮の中には、神殿娼婦と神殿男娼がいて、彼らと性的交わりをすることによって、その神を拝むようになっていたのです。さらに、このような結果生じた赤ん坊を、鉄を火で真っ赤にしたバアルやモレクの像の上に乗せて、赤ん坊をささげました。それゆえ、神は、これら異邦の民にさばきをお下しになることをお決めになられたのであり、そのさばきの器としてイスラエルを選ばれていたのでした。

 けれども今でも、肉の行ないと偶像礼拝はつながっています。私たちが御霊にあって勝利しているときに、必ず私たちは、肉の誘惑を受けます。神ではなく、他のものを拝んでしまう誘惑があるのです。有名になりたい、というのが一つの誘惑でしょう。また他人の助言を聞かず、お金において失敗をする人もいます。さらに、自分の妻との交わりを第一にせず、教会における活動を一番にするため、教会にいる姉妹と性的罪を犯すこともあります。これらは、まことの神ではなく、他の何かを大事にしてしまうからです。普段なら拝まないそのような神々を、主によって祝福されているとき、御霊によって勝利を得ているときに拝んでしまいます。

2B 主のねたみ 10−18
 今、祭司エルアザルの子ピネパスガが、公然と罪を犯しているイスラエル人とモアブの女をテントの中で殺しました。このピネパスの行為について、主が次のようにおっしゃられています。

 主はモーセに告げて仰せられた。「祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスは、わたしのねたみをイスラエル人の間で自分のねたみとしたことで、わたしの憤りを彼らから引っ込めさせた。わたしは、わたしのねたみによってイスラエル人を絶ち滅ぼすことはしなかった。それゆえ、言え。『見よ。わたしは彼にわたしの平和の契約を与える。これは、彼とその後の彼の子孫にとって、永遠にわたる祭司職の契約となる。それは彼がおのれの神のためにねたみを表わし、イスラエル人の贖いをしたからである。』」

 ピネハスがしたことは、永遠の義に値することでした。ピネハスからの祭司職が今後、ずっと続くことが約束されました。しかし、彼の行動は、一見、残虐にも見えかねません。しかし、これは私たちの霊的歩みにおいて、きわめて大切なことなのです。コロサイ書3章5節をごらんください。「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」パウロは、「殺してしまいなさい」と勧めています。これらを丁重に扱いなさい、とか、押さえつけなさい、とか、分析しなさい、とか言わないで、「殺してしまいなさい」と言っています。私たちクリスチャンが唯一、これらの誘惑を退けることが出来る方法は、殺す、あるいは、死んでいるとみなす、という行為なのです。90パーセントは拒否しますが、10パーセントは楽しませてください、では殺していることになりません。自分の思いに、これらのむさぼりが出てきたときに、私たちは、「これらの情欲に対しては、私はすでに死んでいる。キリストにあって、私は新しく造られたのだ。」と思い、また宣言していかなければなりません。キリストはすでに、私たちの肉の欲望と情欲とともに十字架につけられたのですから、私たちが信仰をもって、自分が死んでいるとみなすとき、その誘惑に抵抗する力が与えられます。

 その殺されたイスラエル人、ミデヤン人の女といっしょに殺された者の名は、シメオン人の父の家の長サルの子ジムリであった。また殺されたミデヤン人の女の名はツルの娘コズビであった。ツルはミデヤンの父の家の氏族のかしらであった。

 公然と罪を犯していたのは、男も女も、それぞれの長の息子・娘でありました。

 主はモーセに告げて仰せられた。「ミデヤン人を襲い、彼らを打て。彼らは巧妙にたくらんだたくらみで、あなたがたを襲ってペオルの事件を引き起こし、ペオルの事件の神罰の日に殺された彼らの同族の女、ミデヤンの族長の娘コズビの事件を引き起こしたからだ。」

 このモーセに対する命令は、民数記31章に詳しく書かれています。イスラエル人たちは、モアブのミデヤン人たちをことごとく殺します。

2A 主のあわれみ 26−27
 こうして一つの事件が解決したのですが、主はこれから、イスラエル人たちに再び人口調査を行ないます。民数記は、人口調査から始まりましたね。けれども、その調査を受けた20歳以上の男子はみな、荒野の中で死に絶えました。新しい世代がこれから約束の地にはいります。そこで、主はこの世代に対して、新しい備えを与えられようとしています。

1B 主の厳しさ 26
1C 人口減少 1−62
 この神罰の後、主はモーセと祭司アロンの子エルアザルに告げて仰せられた。「イスラエル人の全会衆につき、父祖の家ごとに二十歳以上で、イスラエルにあって軍務につくことのできる者すべての人口調査をせよ。」そこでモーセと祭司エルアザルは、エリコをのぞむヨルダンのほとりのモアブの草原で彼らに告げて言った。「主がモーセに命じられたように、二十歳以上の者を数えなさい。」

 そして次から、各部族の人数が記載されています。エジプトの国から出て来たイスラエル人は、イスラエルの長子ルベン。ルベン族は、エノクからはエノク族、パルからはパル族、ヘツロンからはヘツロン族、カルミからはカルミ族。これがルベン人諸氏族で、登録された者は、四万三千七百三十人であった。

 43730人です。第一回目のときの人数と比べてみると、ルベン族は46500人でした。つまり、2770人の減少で6パーセントの減少です。普通、人口というのは増加するものであり、とくにイスラエルに対する約束は、「あなたがたは星の数のように、海の砂のようになる」というものですから、この減少は異常です。

 そして、この減少に貢献した一つの事件を、著者モーセは記しています。パルの子孫はエリアブ。エリアブの子はネムエルとダタンとアビラムであった。このダタンとアビラムは会衆に選ばれた者であったが、彼らはコラの仲間にはいり、モーセとアロンに逆らい、主に逆らったのである。そのとき、地は口をあけて、彼らをコラとともにのみこみ、その仲間は死んだ。すなわち火が二百五十人の男を食い尽くした。こうして彼らは警告のしるしとなった。しかしコラの子たちは死ななかった。

 あのコラの反乱において、ルベン族の家族が死にました。そのため、その後増えていくはずだった子孫も含めて、ルベン族が増えなかったことの一因であると考えられます。

 同じようにして、他の部族の人口も記載されています。シメオン族は、22,200人です。第一回目の人口調査では59,300人でした。なんと、63パーセントの人口減少です。これは、ミデアン人の女を連れてきた男がシメオン族の長の息子だったからでしょうか、シメオン族が不品行を犯したとき、神罰を受けた主要な部族だったかもしれません。

 そして、ガド族は18節を見ますと、40500人で前回は45650人でした。11パーセントの減少です。それからユダ族ですが、22節には76500人とあります。前回は74600人だったので、増加していますね。イッサカル族も増加しています。25節には64300人とありますが、前回は54400人でした。18パーセントの増加です。ゼブルンは、60500人で、前回の57400人に比べると約5パーセントの上昇です。マナセ族が急激に増えています。今回は52700人ですが、前回は32200人でした。63パーセントの上昇です。エフライム族は32500人で、前回の40500人と比べると20パーセントも減少しています。ベニヤミンは35400人から45600人へと上昇、ダンも、62700人から64400人へと上昇、アシェルも、41500人から53400人へと上昇しています。ナフタリ族は減少しており前回は53400人だったのが、45400人になっています。

 そして合計が51節、「601,730人」です。前回が603550人でしたが、1820人減少しています。先ほど話しましたように、この40年間において、「あなたの子孫は星の数のようになる」「ふめよ、ふえよ」という約束が実現されることはありませんでした。

 52節から読みます。主はモーセに告げて仰せられた。「この人々に、その地は、名の数にしたがって、相続地として割り当てられなければならない。大きい部族にはその相続地を多くし、小さい部族にはその相続地を少なくしなければならない。おのおの登録された者に応じて、その相続地は与えられなければならない。ただし、その地はくじで割り当て、彼らの父祖の部族の名にしたがって、受け継がなければならない。その相続地はくじによって、大部族と小部族の間で割り当てられなければならない。」

 人数にしたがって、より大きな相続地が与えられます。大きい部族には大きな相続地を、小さな部族には小さな相続地を割り当てられます。

 次に、レビ族についての人口調査です。さてレビ人で氏族ごとに登録された者は、次のとおりである。ゲルションからはゲルション族、ケハテからはケハテ族、メラリからはメラリ族。レビ諸氏族は次のとおりである。すなわち、リブニ族、ヘブロン族、マフリ族、ムシ族、およびコラ族。ケハテはアムラムを生んだ。アムラムの妻の名はヨケベデで、レビの娘であった。彼女はエジプトでレビに生まれた者であって、アムラムにアロンとモーセとその姉妹ミリヤムを産んだ。

 人口調査なのですが、モーセは、自分の系図も記しています。出エジプト記にも、エジプトにあの10の災いが下る前に、この系図を書き残していました。モーセはレビ人であり、兄アロンから祭司職が出ました。

 アロンにはナダブとアビフとエルアザルとイタマルが生まれた。ナダブとアビフは主の前に異なった火をささげたときに死んだ。その登録された者は、一か月以上のすべての男子二万三千人であった。彼らは、ほかのイスラエル人の中に登録されなかった。彼らにはイスラエル人の間で相続地が与えられていなかったからである。

 レビ人は、20歳からではなく一ヶ月以上から数えられます。そして他のイスラエル人の中には登録されません。なぜなら、相続地が与えられないからです。彼らは主とともにいること、主を礼拝し、主にお仕えすること自体が相続であるので、必要な食料や物資は、イスラエル人のささげものによって賄われます。

2C 古い世代の不在 63−65
 63節です。これがモーセと祭司エルアザルが、エリコに近いヨルダンのほとりのモアブの草原で、イスラエル人を登録したときにモーセと祭司エルアザルによって登録された者である。しかし、このうちには、モーセと祭司アロンがシナイの荒野でイスラエル人を登録したときに登録された者は、ひとりもいなかった。それは主がかつて彼らについて、「彼らは必ず荒野で死ぬ。」と言われていたからである。彼らのうち、ただエフネの子カレブとヌンの子ヨシュアのほかには、だれも残っていなかった。

 ここに、イスラエルが神のさばきを受けた、厳しい現実が書かれています。モーセとアロンがシナイの荒野で登録したときのイスラエル人は、一人もここに登録されていません。「必ず死ぬ」という神のことばが実現しています。残されたのは、信仰の人ヨシュアとカレブだけです。

 ここから私たちは、肉によっては何一つ、受け取るものがない、という厳しい現実を学ばないといけません。私たちが、これは良かれと思って行なったことが、それが御霊ではなく肉によるものであれば、どんなに努力したとしても、神の前ではまったく意味がありません。私たちは、「努力すれば報われる。」という世界の中に生きているので、この現実を受け取ることが辛いです。けれども、こうやって、肉に対する死を経験しないかぎり、御霊の世界の中に入ることはできないのです。

2B 願いを聞かれる主 27
 けれども、このような厳しい現実の中、主は、ご自分のあわれみをお示しになります。27章は、そのような個所です。

1C 相続地 1−11
 さて、ヨセフの子マナセの一族のツェロフハデの娘たち・・ツェロフハデはヘフェルの子、ヘフェルはギルアデの子、ギルアデはマキルの子、マキルはマナセの子・・が進み出た。娘たちの名はマフラ、ノア、ホグラ、ミルカ、ティルツァであった。

 先ほどの26章の、マナセ族の人口調査の中で、ツェロフハデから出た娘たちの名が列挙されていました(33節)。部族や氏族の男子の名が系図、あるいは人口調査として残しておく名であり、娘は書き記されません。けれども、ここでは彼女たちの名が記されています。

 彼女たちは、モーセと、祭司エルアザルと、族長たちと、全会衆との前、会見の天幕の入口に立って言った。「私たちの父は荒野で死にました。彼はコラの仲間と一つになって主に逆らった仲間には加わっていませんでしたが、自分の罪によって死にました。彼には男の子がなかったのです。男の子がなかったからといって、なぜ私たちの父の名がその氏族の間から削られるのでしょうか。私たちにも、父の兄弟たちの間で所有地を与えてください。」

 彼女たちには、同じ父からの兄弟がいませんでした。それゆえ、ツェロフハデには何一つ相続地が与えられないことになります。けれども、彼女たちは、そのことによって相続が与えられないのはおかしい、とモーセに訴えました。この訴えを、主はどのようにお考えになっているでしょうか?次をごらんください。

 そこでモーセは、彼女たちの訴えを、主の前に出した。すると主はモーセに告げて仰せられた。「ツェロフハデの娘たちの言い分は正しい。あなたは必ず彼女たちに、その父の兄弟たちの間で、相続の所有地を与えなければならない。彼女たちにその父の相続地を渡せ。」

 この訴えは肉的なものでは決してなく、むしろ「正しい」ことであると主はみなされました。

 あなたはイスラエル人に告げて言わなければならない。人が死に、その人に男の子がないとは、あなたがたはその相続地を娘に渡しなさい。もし娘もないときには、その相続地を彼の兄弟たちに与えなさい。もし兄弟たちもいないときには、その相続地を彼の父の兄弟たちに与えなさい。もしその父に兄弟がないときには、その相続地を彼の氏族の中で、彼に一番近い血縁の者に与え、それを受け継がせなさい。これを、主がモーセに命じられたとおり、イスラエル人のための定まったおきてとしなさい。」

 彼女の訴えにもとづいて、主は、父が子を残さなかったときについての相続の教えを与えられました。子がいないという理由で、相続地がなくなってしまってはいけない、と主はお考えになっておられます。

 そして興味深いことに、この民数記は、この娘たちの訴えについての話で終わっています。36章です。ここは、マナセ族の諸氏族のかしらたちがモーセのところにやって来て、この娘たちが他の部族のところにとついだならば、マナセ族の相続地が他の部族のものとなってしまうため、彼女たちはマナセ族の男にとつぐようにさせてください、と訴えています。このこともモーセは、主にお伺いして、その訴えはもっともであると判断され、娘たちは、主がモーセに命じたとおりに行ないました。

 つまり、彼女たちの行為は、信仰によるもので、約束のものを得るときの模範になっています。さもなければ、このように大事にモーセが聖霊に導かれて記録するはずがありません。主が、アブラハムの子孫に、この地を与えると約束され、彼女たちは、その約束を自分のものとしたいと願いました。男が相続の名が与えられるという秩序があったのですが、その秩序がないという障壁にも関わらず、主の前に進み出て、大胆に願い出たのです。ここが、私たちが、彼女たちに見習わなければいけないところです。主は、キリストにあってすべてのものを施してくださる、という約束があります。私たちは、その約束にある祝福を、自分たちの勝手な判断で、求めないという過ちをしばしば犯すのです。けれども、大胆に願い求めることができます。信仰をもって願えば、主は惜しみなく与えてくださるのです。その願いは自己中心的なものではなく、主が願っておられることを自分の願いとしていくことです。

2C 後継者 12−23
 こうして、父が自分の罪によって荒野で死に絶えた、という厳しい現実がありながら、主があわれみを示してくださった一つの出来事を見ましたが、次の話もとても麗しいです。モーセの後継者が与えられます。

 ついで主はモーセに言われた。「このアバリム山に登り、わたしがイスラエル人に与えた地を見よ。それを見れば、あなたもまた、あなたの兄弟アロンが加えられたように、あなたの民に加えられる。ツィンの荒野で会衆が争ったとき、あなたがたがわたしの命令に逆らい、その水のほとりで、彼らの目の前に、わたしを聖なる者としなかったからである。」これはツィンの荒野のメリバテ・カデシュの水のことである。

 モーセも他のイスラエルの民と同じように、約束の地へ入ることができませんでした。これは、イスラエルの民以上に、彼にとって辛かったことでしょう。彼はこの120年間、ただイスラエルの民が解放され、約束の地にとどまることを夢とし、希望としていました。ところが、彼自身は入ることができなかったのです。

 けれども、彼は祈りました。それでモーセは主に申し上げた。「すべての肉なるもののいのちの神、主よ。ひとりの人を会衆の上に定め、彼が、彼らに先立って出て行き、彼らに先立ってはいり、また彼らを連れ出し、彼らをはいらせるようにしてください。主の会衆を、飼う者のいない羊のようにしないでください。」

 彼は、自分が約束の地に入れないことを思い、自己憐憫に陥るのではなく、あくまでもイスラエルの民のことを考えていました。自分がどうなるかは関係なく、神がお立てになったイスラエルの民のことを、親が子を思うように考えていたのです。彼は、「すべての肉なるもののいのちの神」と神を呼んでいます。「神よ、あなたがだれを会衆の上に立てるのにふさわしいかを、すべてご存知です。」という意味です。

 モーセは、自分の務めを自分の務めとしていませんでした。つまり、イスラエルを率いて、イスラエルの家をつかさどる務めは、あくまでも神から与えられたものであり、神が取り去ることだってあると考えていました。モーセは、これほどまでにイスラエルに自分の心と思いを投入していましたが、それでも、主から任された務めを果たしているにしかすぎない、と考えたのです。

 これは、すべて主に対して奉仕する者たちが、持っていなければならない認識です。私たちは思い入れが大きければ大きいほど、それを主のものではなく、私物化していきます。まじめになればなるほど、自分がいなければこの奉仕や活動は続かない、と思います。けれども、モーセのように、あくまでも自分は、神の前で、一人のしもべであり、一人の神の子どもであり、自分が生きていく過程の中で、今自分が、この賜物と務めが任されているにしか過ぎないのだという認識が必要です。

 主はモーセに仰せられた。「あなたは神の霊の宿っている人、ヌンの子ヨシュアを取り、あなたの手を彼の上に置け。彼を祭司エルアザルと全会衆の前に立たせ、彼らの見ているところで彼を任命せよ。あなたは、自分の権威を彼に分け与え、イスラエル人の全会衆を彼に聞き従わせよ。彼は祭司エルアザルの前に立ち、エルアザルは彼のために主の前でウリムによるさばきを求めなければならない。ヨシュアと彼とともにいるイスラエルのすべての者、すなわち全会衆は、エルアザルの命令によって出、また、彼の命令によって、はいらなければならない。」

 主はヨシュアを、モーセの後継者としてお選びになりました。主はヨシュアが「神の霊の宿っている人」と仰せになっていますが、その御霊の現われは、彼の生涯でどのように現われていたでしょうか。モーセの助手になっていたところですね。彼はとくに、めざましい働きをしていたわけではありませんでした。モーセのかばん持ちだったのです。モーセに言われたことを守り行ない、モーセが猫の手を借りたいとき、猫の手になり、難しい仕事も不平を言わずにこなし、とにかくモーセを助けていました。聖書では、このような働きを「助けの賜物」と呼んでおり、ヨシュアには、助けの賜物が与えられ、モーセに仕えていたのです。

 モーセは主が命じられたとおりに行なった。ヨシュアを取って、彼を祭司エルアザルと全会衆の前に立たせ、自分の手を彼の上に置いて、主がモーセを通して告げられたとおりに彼を任命した。

 みなの前で、ヨシュアがモーセの後継者であることを示しました。イスラエルがモーセが死んだあとに、ヨシュアこそ神から与えられた指導者であることを認めるためです。

 こうして、主はモーセの祈りを聞いてくださり、約束の地にイスラエルが踏み込むことができるようにしてくださいました。荒野で死ななければならないという厳しい現実がある一方で、主はこのようにしてご自分のあわれみをお示しになりました。

3A 主への礼拝 28−29
 28章に入ります。28章と29章は一続きになっています。ここでは、約束の地に入ったときに、イスラエルの民が主に、火によるささげものをしなければいけないことが述べられています。以前にも主がお語りになったことと重複しますが、今は約束の地を目の前にしている、新しい世代のイスラエルの民に対して語られています。

1B 現在において 28
1C 日々のささげもの 1−15
 主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に命じて彼らに言え。あなたがたは、わたしへのなだめのかおりの火によるささげ物として、わたしへの食物のささげ物を、定められた時に、気をつけてわたしにささげなければならない。

 主は、イスラエルがささげるささげ物を、「わたしの食物」とおっしゃられています。これは、神がむしゃむしゃ動物のいけにえをお食べになるということではなく、ご自分のものとしてお受け取りになる、という意味です。

 彼らに言え。これがあなたがたが主にささげる火によるささげ物である。一歳の傷のない雄の子羊を常供の全焼のいけにえとして、毎日二頭。一頭の子羊を朝ささげ、他の一頭の子羊を夕暮れにささげなければならない。穀物のささげ物としては、上質のオリーブ油四分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の一エパとする。これはシナイ山で定められた常供の全焼のいけにえであって、主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。それにつく注ぎのささげ物は子羊一頭につき四分の一ヒンとする。聖所で、主への注ぎのささげ物として強い酒を注ぎなさい。他の一頭の子羊は夕暮れにささげなければならない。これに朝の穀物のささげ物や、注ぎのささげ物と同じものを添えてささげなければならない。これは主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。

 火によるささげものには、三つの種類があります。一つは、全焼のいけにえです。小羊をすべて祭壇の上で焼きます。二つ目は、穀物のささげものです。これは油をまぜた小麦粉です。それから、注ぎのささげ物があります。これはぶどう酒ですね。全焼のいけにえをささげて、このいけにえに、穀物のささげものと注ぎのささげものを供えます。

 そして、これらは常供の供え物であります。すなわち、日ごとに、朝と昼にささげるささげものです。

 安息日には、一歳の傷のない雄の子羊二頭と、穀物のささげ物として油を混ぜた小麦粉十分の二エパと、それにつく注ぎのささげ物とする。これは、常供の全焼のいけにえとその注ぎのささげ物とに加えられる、安息日ごとの全焼のいけにえである。

 安息日ごとのささげものについてです。日ごとにささげるいけにえの他に、安息日のための供え物をします。

 あなたがたは月の第一日に、主への全焼のいけにえとして若い雄牛二頭、雄羊一頭、一歳の傷のない雄の子羊七頭をささげなければならない。

 今度は、月の第一日、つまり新月のときにも供え物をします。ここでの全焼のいけにえが中心となっています。

 雄牛一頭については、穀物のささげ物として、油を混ぜた小麦粉十分の三エパ。雄羊一頭については、穀物のささげ物として、油を混ぜた小麦粉十分の二エパとする。子羊一頭については、穀物のささげ物として、油を混ぜた小麦粉十分の一エパ。これらはなだめのかおりの全焼のいけにえであって、主への火によるささげ物である。それにつく注ぎのささげ物は、雄牛一頭については二分の一ヒン、雄羊一頭については三分の一ヒン、子羊一頭については四分の一ヒンのぶどう酒でなければならない。これは一年を通して毎月の、新月祭の全焼のいけにえである。常供の全焼のいけにえとその注ぎのささげ物に加えて、雄やぎ一頭が、主への罪のためのいけにえとしてささげられなければならない。

 全焼のいけにえが中心ですが、新月のときは、罪のためのいけにえもささげられます。こうして、常供の供え物においても、安息日のいけにえも、新月のいけにえもみな、全焼のいけにえをささげ、穀物のささげ物、注ぎのささげ物をささげます。これらの戒めが、彼らが約束の地に入ってからのことであることを思い出してください。彼らは、今自分たちが立っている荒野とは異なる、乳と密の流れる地に行きます。そこで収穫があるのですが、これらのいけにえをささげることによって、主のことを思い、あがめ、礼拝をささげることになるのです。

 彼らは、約束の地にはいって大いなる祝福を受けるのですが、それらは、絶え間ない主への礼拝と献身によって祝福されるのです。「もうすでに約束のものが手に入っているのだから、これで十分だ。」ではなく、これら良きものに満たされて、自分のものを主にささげて、主との交わりを深めるのです。先ほど、主がこれらのささげものを、「わたしの食物」と言われましたが、ささげることによって主との交わりを深めることができます。

 私たちも実際に、主との交わりを深めるためには、自分をささげる必要があります。主がどのような方を知りたい、主の豊かさを知りたいと思うのであれば、何らかのかたちで自分自身を主におささげすることによってもたらされます。ただ聞いているだけ、ただ人にしてもらっているだけという第三者的な立場や傍観的な立場でいるならば、いつまで立っても、主の恵みを知ることはないでしょう。自分をささげることによって、しかもこのイスラエル人たちのように、生活に密着するかたちでささげることによって、主がどのように生きて働かれているかを知ることができます。

2C 記念 16−31
 日ごとにささげる必要がありますし、また安息日ごとにささげる必要があります。安息日は、私たちクリスチャンにとって、イエス・キリストご自身です。キリストの救いのみわざを思って、その完成されたみわざに憩うことが必要です。そして16節から、例祭のときのささげものについて、教えられています。

 第一の月の十四日は、過越のいけにえを主にささげなさい。この月の十五日は祭りである。七日間、種を入れないパンを食べなければならない。その最初の日には、聖なる会合を開き、どんな労役の仕事もしてはならない。

 例祭は過越の祭りからはじまり、そして続く種を入れないパンの祭りに入ります。

 あなたがたは、主への火によるささげ物、全焼のいけにえとして、若い雄牛二頭、雄羊一頭、一歳の雄の子羊七頭をささげなければならない。それはあなたがたにとって傷のないものでなければならない。それにつく穀物のささげ物として、油を混ぜた小麦粉を、雄牛一頭につき十分の三エパ、雄羊一頭につき十分の二エパをささげなければならない。子羊七頭には、一頭につき十分の一エパをささげなければならない。あなたがたの贖いのためには、罪のためのいけにえとして、雄やぎ一頭とする。

 他のときと同じです。全焼のいけにえ、穀物のささげ物、そして注ぎのささげものです。罪のためのいけにえもありますが、これはあくまでも付加的です。

 あなたがたは、常供の全焼のいけにえである朝の全焼のいけにえのほかに、これらの物をささげなければならない。このように七日間、毎日主へのなだめのかおりの火によるささげ物を食物としてささげなければならない。これは常供の全焼のいけにえとその注ぎのささげ物とに加えてささげられなければならない。七日目にあなたがたは聖なる会合を開かなければならない。どんな労役の仕事もしてはならない。

 種なしのパンの祭りの8日間、ずっといけにえをささげます。

 初穂の日、すなわち七週の祭りに新しい穀物のささげ物を主にささげるとき、あなたがたは聖なる会合を開かなければならない。どんな労役の仕事もしてはならない。

 これは過越の祭りの次に訪れる、大きな祭りで、五旬節、あるいはペンテコステであります。このときも全焼のいけにえをささげます。

2B 将来において 29
 それでは29章に入ります。例祭の続きですが、29章では「秋の祭り」について取り扱われています。今は、過越の祭りと五旬節について見ました。この二つの「春の祭り」です。思い出せるでしょうか、この春の祭りは、イエス・キリストが初めに地上に来られたときのことを示していました。過越しの祭りは、キリストの十字架について、五旬節は聖霊が降り、教会が誕生したことを示していました。したがって、これらは私たちにとって過去のことであります。けれども、秋の祭りは将来のことです。これはキリストが再び来られる時のこと、再臨のことを示しています。

1C 罪のきよめ 1−11
 第七月には、その月の一日にあなたがたは聖なる会合を開かなければならない。あなたがたはどんな労役の仕事もしてはならない。これをあなたがたにとってラッパが吹き鳴らされる日としなければならない。

 ラッパを吹き鳴らす会合です。このときも同じように全焼のいけにえをささげます。それでは7節に飛びます。

 この第七月の十日には、あなたがたは聖なる会合を開き、身を戒めなければならない。どんな仕事もしてはならない。

 第七月の十日になると、贖罪日です。このときは「身を戒める」すなわち、断食をします。この日に、大祭司が年に一度、至聖所に入り、イスラエルの民のために贖いをします。贖罪日も、全焼のいけにえをささげます。

 このラッパを吹き鳴らす日は、主が教会のために来られることが示されていると言われています。終わりのラッパとともに、私たちが一瞬のうちに変えられて、引き上げられて、空中に来られたイエスと対面する日です。そして贖罪日は、イスラエルが悔い改めて、その罪がきよめられる日であると言われています。教会が携挙されると、神は再びイスラエルに働きかけられます。イスラエルは、この地上で、これまでにないほどの苦難を受けますが、主が再び地上に戻ってきてくださり、イスラエルのために戦ってくださいます。そのとき彼らは、イエスこそが、待ち望んでいたキリストであることを知り、嘆いて悔い改めるのです。このときにイスラエルの贖いが成し遂げられ、「贖罪日」が実現するのです。

2C 主の祭り 12−40
 そして12節以降は、仮庵の祭りについてです。第七月の十五日には、あなたがたは聖なる会合を開かなければならない。どんな労役の仕事もしてはならない。あなたがたは七日間、主の祭りを祝いなさい。

 仮庵の祭りはもともと、イスラエルが約束の地に至るまで、神が彼らを守ってくださったことを祝う祭りです。この期間中、仮庵の中に住み、イスラエルを守られた神のことを思います。けれども、これにも預言的意味があります。主が再び来られ、そして神の国を立てられて、至福の千年王国が続きます。この神の国の至福を指し示していると言われます。

 そして、この祭りでは、一日ごとにたくさんにいけにえがささげられます。

 あなたがたは、主へのなだめのかおりの火によるささげ物として、全焼のいけにえ、すなわち、若い雄牛十三頭、雄羊二頭、一歳の雄の子羊十四頭をささげなさい。これらは傷のないものでなければならない。それにつく穀物のささげ物としては、油を混ぜた小麦粉を、雄牛十三頭のため、雄牛一頭につき十分の三エパ、雄羊二頭のため、雄羊一頭につき十分の二エパ、子羊十四頭のため、子羊一頭につき十分の一エパとする。罪のためのいけにえは雄やぎ一頭とする。これらは常供の全焼のいけにえと、その穀物のささげ物、および注ぎのささげ物以外のものである。

 雄牛が13頭ささげられます。これが二日目になると12頭に減ります。17節には、「二日目には、若い雄牛十二頭」とありますね。そして三日目は11頭、四日目は10頭としだいに減ってゆき、七日目には7頭になります。第一日目の13頭は、七日目に7頭になるように合わせているのかもしれません。

 そして8日目ですが、35節です。「きよめの集会」を行ないます。仮庵の祭りの初めの七日間は、祭司が水を流して、ハレル詩篇を歌います。けれども8日目は水を流しません。荒野の生活を終えてすでに約束の地に入ったので、水が与えられる必要がなかったからです。この日に、イエスさまが立って、大声で言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の腹から、生ける水の川が流れ出るようになる。(ヨハネ7:38)」これはもちろん、聖霊のことを言われていました。

 こうして仮庵の祭りには、いけにえがいつもよりも数多くささげられています。仮庵の祭りが神の国のことを示しているのであれば、これは何を意味するのでしょうか。そうです、神の国においても、私たちは主を礼拝し、主にお仕えするのです。いや、神の国だからこそ、私たちは地上にいるとき以上に、主を礼拝します。絶え間なく礼拝をささげ、主を賛美して、主に自分の栄光、尊厳、力、富など、すべてのものをささげます。ですから、よく「はやく天国に行きたいよな。」という倦怠的に話す人がいますが、天国というのは、神を礼拝するところなのです!神を礼拝したくない人にとって、天国ほどいずらいところはないでしょう。

 このように、イスラエルは約束の地にはいり、相続地を得ても、いや得ているからこそ主を礼拝します。これは私たちクリスチャンも同じなのです。約束のものを手にしているのですが、それは、積極的に自分を主におゆだねすることによって、自分のものとして楽しむことができます。ささげることなしに、この霊的交わりは起こらないのです。イスラエルのように、私たちも大胆に、主におささげしましょう。


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