箴言10−11章 「正しい者と悪者」

アウトライン

1A ソロモンの格言 10
  1B 正義による救い 1−3
  2B 無精者 4−5
  3B 正しい者の名 6−7
  4B 知恵の口 8−14
  5B 財産 15−16
  6B 訓戒 17
  7B 言葉 18−21
  8B 豊かさ 22
  9B 期待と望み 23−25
  10B なまけ者 26
  11B 不動 27−30
  12B ねじれた舌 31−32
2A 格言の続き 11
  1B 秤 1
  2B 高ぶり 2
  3B 破滅 3−8
  4B 町 9−11
  5B 中傷 12−13
  6B 助言 14
  7B 保証 15
  8B 栄誉 16
  9B 報い 17−19
  10B 主の喜び 20
  11B 悪い約束 21
  12B 女の美しさ 22
  13B 願い 23
  14B 大らかさ 24−26
  15B いのちの実 27−31

本文

 箴言10章を開いてください、今日は10章と11章を学びます。ここでのテーマは、「正しい者と悪者」です。

1A ソロモンの格言 10
 10章は、「ソロモンの箴言」という言葉で始まっています。これまでもソロモンの箴言または格言でしたが、これまでは父が子に語る訓戒の形式で話が進んできました。けれどもここからは、一つ一つの短い格言集になっています。

 格言の多くが対比になっています。正しい者はこうこうこうであるが、悪者はこうである、という対比です。詩篇第一篇でもそうでしたね、正しい者は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそれを口ずさむから、何をしても栄えるが、悪者は風が吹き飛ばすもみ殻のようだ、とありました。このような、正しい者と悪者の対比が続いています。

 一節一節が自己完結した格言になっているので、順番に読んだら一貫した流れがありません。けれども、繰り返し持ち出される話題、トピックがあります。これらの話題を考えながら、私たちの生活における知恵を見出しましょう。

1B 正義による救い 1−3
10:1 ソロモンの箴言  知恵のある子は父を喜ばせ、愚かな子は母の悲しみである。

 ソロモンは九章までにおいて、「わが子よ、知恵を得よ」と命じていました。そうした知恵を受け入れる子は父の喜びです。息子を愛する父が、自分の子を自慢する姿が思い浮かびます。

 それと対照的に、「愚かな子は母の悲しみ」です。愚かな子がいれば父は口をつぐみます。何も話さないだけです。アムノンを殺したアブシャロムに父ダビデは会うことをしませんでしたが(2サムエル13:39)、父の口はつぐみます。けれども、母には直接的に悲しみがもたらされます。母が直接、被害を受けます。

10:2 不義によって得た財宝は役に立たない。しかし正義は人を死から救い出す。

 何か自分の身に危険や危機が襲ってきた時に、その人を助けるのはその人の正義である、ということです。不義で得た財宝が、本当の危機のときに自分を救い出すことはできません。役に立ちません。バブルが弾けて、多くの人がどうなったかを思い出せば分かるでしょう。しかし誠実に生きてきた人のその正義は、そのような逆境で自分を救い出すものとなります。

10:3 主は正しい者を飢えさせない。しかし悪者の願いを突き放す。

 これは大切な約束ですね。主に自分自身を捧げる時に、それによって自分は飢えてしまうのではないか、困窮してしまうのではないかと心配します。けれども、決してそんなことはないと神様は約束してくださっています。空の鳥や野の草を見なさい、と言われた主の御言葉を思い出すと良いでしょう。

2B 無精者 4−5
 次は怠惰についての教えです。

10:4 無精者の手は人を貧乏にし、勤勉な者の手は人を富ます。

 パウロの書簡の中で、「働きたくない者は食べるな(2テサロニケ3:10」という命令がありました。教会の人たちが貧しい人、困っている人たちのために物質的に助けているのですが、その支えに甘んじて、仕事をしないでおせっかいばかりしている人々が、教会の中にいたのでパウロがこう戒めました。恵みによって、信仰によって救われたからといって、それが自分を怠惰にすることでは決してありません。

10:5 夏のうちに集める者は思慮深い子であり、刈り入れ時に眠る者は恥知らずの子である。

 二つの対比があります。一つは「」のと「刈り入れ時」です。もう一つは「集める」と「眠る」です。夏の時に眠り、刈り入れ時には集める、であれば、「一夜漬け」という言葉もあるとおりまだ救いがありますが、刈り入れ時に眠ってしまってはお仕舞いです。

 けれどもこれは、怠惰の性質をよく表しています。自分の部屋で雑然としているところを思い出してください。それらは何も片付けるのが非常に難しい類いのものではなく、少し手を動かせばすぐ片付くものばかりです。けれども、手を伸ばさない。いつまでもいつまでも、そこに残っています。

 ですから仕事量の問題ではありません。やらなければいけないことが多すぎるからやっていない、のではありません。心の問題ですね。心のベクトルと言っても良いでしょう。「これをやりこなそう」という気になれば、どんどん自分の手が早くなっていきます。そして、ここに書いてあるとおり、夏のうちにすでに集める作業をします。「面倒くさい」ということでやらなければ、いつまでもやならくなります。「刈り入れ時に眠る」のです。

3B 正しい者の名 6−7
10:6 正しい者の頭には祝福があり、悪者の口は暴虐を隠す。

 祝福は頭にある、とあります。これは上から、神から来る、という意味です。祝福は、私たちが勝ち得るものではありません。一方的に、神から恵みとして与えられるものです。

 そして悪者についてですが、その暴虐はいつも口に隠されています。表に出して言うことはありません。私たちが悪事を行えば、必ず欺きの罪を犯します。その悪事を口に出さないで、隠しているからです。しかし、「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(1ヨハネ1:9

10:7 正しい者の呼び名はほめたたえられ、悪者の名は朽ち果てる。

 正しい者も悪者も死んだ後に、その名は覚えられます。正しい者については良い記憶が、悪い者には軽蔑が残ります。あるいは、二度と思い出されないような忘却の彼方にその名は送られるでしょう。

4B 知恵の口 8−14
 次は、人が話す言葉、「口」についての格言です。

10:8 心に知恵のある者は命令を受け入れる。むだ口をたたく愚か者は踏みつけられる。

 箴言では、命令や叱責を受け入れることが知恵であることが、繰り返し、一貫して語られています。英語にはteachableという言葉があります。「教えを受けることができるほど、へりくだっている」という意味合いがあります。パウロがテサロニケの人たちにこう書きました。「あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。(1テサロニケ2:13

 その反面、愚か者は語ります。聞いて、教えを受けることができません。むだ口をたたきます。

10:9 まっすぐに歩む者の歩みは安全である。しかし自分の道を曲げる者は思い知らされる。

 私たちが災いに遭わず平穏に暮らしたいと思ったら、ここにそれができる回答があります。「まっすぐに歩む」ことです。まっすぐに歩むとは、神から与えられた良心に従って生きる、ということです。自己保身になってその道を曲げたところで、真実は後で明らかにされます。思い知らされます。

10:10 目くばせする者は人を痛め、むだ口をたたく愚か者は踏みつけられる。

 ここの「目くばせ」は、人と話しているのに自分の仲間に目をやって、合図をする意味での目配せです。相手は真実を語ってもらえていないことを知り、心を痛めます。

10:11 正しい者の口はいのちの泉。悪者の口は暴虐を隠す。

 口には力があります。人を生かす力があります。ここに「いのちの泉」とあるように、私たちが主にあって、恵みの言葉を語るなら、その人の人生に回復をもたらすことさえできます。ヤコブが手紙の中で、小さなかじで大きな船を動かすことができるように、舌を制御できたら体全体もりっぱに制御できる、と話しました(ヤコブ3:2,4)。

10:12 憎しみは争いをひき起こし、愛はすべてのそむきの罪をおおう。

 ここは、非常に重要な真理です。悪いことは明らかにされる、という真理はここ箴言にもあるとおり、絶対にあります。しかしそのことを盾に取って、人が犯した罪をことさらに露わにしていく時、問題となるのは「憎しみ」です。罪を告発している人たちを突き動かしているものがいったい何なのか、吟味する必要があります。

 確かに罪は明らかにしなければいけません。けれども、つねに愛という制御があります。主が、教会の中で罪を犯した兄弟について、初めは一対一で、次は二、三人の証人で、それでもだめなら教会全体で、と、その罪を明らかにすることに“ためらい”を置いておられます(マタイ18:1517)。「愛は背きの罪を覆う」からです。

10:13 悟りのある者のくちびるには知恵があり、思慮に欠けた者の背には杖がある。10:14 知恵のある者は知識をたくわえ、愚か者の口は滅びに近い。

 愚か者は、舌で失敗をしますから、杖、つまり懲らしめを受けます。そして懲らしめを拒んだら、残りは滅びです。「愚か者の口は滅びに近い」です。

5B 財産 15−16
10:15 富む者の財産はその堅固な城。貧民の滅びは彼らの貧困。

 貧困について、箴言では多くを語っています。また聖書でも多く語っていますが、箴言では貧しい人を助けることだけでなく、貧しい者自身の問題についての指摘があります。もちろん、やむを得ない状況の中で貧しくなることがあるでしょう。けれども、そうではない例があります。怠惰であるため、働くことを疎むために貧しくなっている場合もあります。

 ホームレスの人に中にも、クリスチャンになって自分の手で働くことを覚え、アパート住まいをすることができるようになったという証しもあるでしょう。その反対に、助けられてもいつまでも酒を飲み、その日限りの生活をしている人もいるでしょう。「貧民の滅びは彼らの貧困」なのです。

10:16 正しい者の報酬はいのち。悪者の収穫は罪。

 「報い」についても、箴言で多くが語られています。正義の後には命があります。そして悪の後には罪があり、そして死があります。これはローマ人への手紙にも書かれていることです。「しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。(ローマ6:22」このことに従うと、「自分はイエス様を信じて天国に行ける、永遠のいのちをもらったから、罪の中に生きていてもよい。」ということは成り立ちません。罪から解放されて、聖潔へと進み、その結果として永遠のいのちがあります。

6B 訓戒 17
10:17 訓戒を大事にする者はいのちへの道にあり、叱責を捨てる者は迷い出る。

 先に話したとおり、神の命令、訓戒を受け入れることが知恵であり、そしていのちへの道です。

 今日の文化では、教えや命令を受け入れることを許さない、強いものを人々が持っています。「相手の気持ちを配慮しなければいけない。不快にしてはいけない。」という、気持ちや感情を絶対化するような、当然の権利であるかのような雰囲気があります。英語ですと、political correctnessという言葉がありますが、少数派の人々のことを配慮して言葉を選ばなければいけない、という考えです。

 この考えに基づくと、私たちは、人間に罪がある、人は死んで死後に神の裁きを受ける、キリストが十字架において血を流された、というような言葉は語れなくなります。そして実際に、このような言葉を使うことを避ける動きが教会の中にあります。

 しかし聖書では、感情や気持ちを絶対化していません。たとえ不快でも、たとえ心を刺し、心を痛めるような言葉でも、神の戒めをそのまま受け入れるようなことが、私たちの魂に喜びと平安を与えるというのが約束です。

7B 言葉 18−21
 再び人が話す「言葉」についての格言です。

10:18 憎しみを隠す者は偽りのくちびるを持ち、そしりを口に出す者は愚かな者である。

 これも、先ほどの「憎しみは争いを引き起こす」に通じる、大事な真理です。憎んでいる人は、往々にして自分が憎んでいることを偽ります。「あなた、あの人のこと憎んでいるでしょ?」と聞いても、「いや、愛しているよ。」と答えます。自分を偽っているのです。

 そして憎んでいる人は、「そしり」を口に出します。謗りの中には、完全に虚偽のものもあれば、少しの過ちについて誇張して、そこからありもしないことを並べ立てる類いのものもあります。世の中では週刊誌などを始めとして、謗ることが当たり前にされていますが、私たちがその習慣に毒されてはいけません。

10:19 ことば数が多いところには、そむきの罪がつきもの。自分のくちびるを制する者は思慮がある。

 これは説明不要ではないでしょうか?私たちが体験的に知っていることではないでしょう。再びヤコブの手紙を引用すると、「私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。(3:2」とあります。私たちが、「ああ、あの一言を言って置かなければ、今の災いは避けられたのに。」と後悔することがありますね。

 後で、箴言で、何も語らないでいるところに知恵があることが出てきます。口を閉じておけば、それらの災いから免れることができます。

10:20 正しい者の舌はえり抜きの銀。悪者の心は価値がない。10:21 正しい者のくちびるは多くの人を養い、愚か者は思慮がないために死ぬ。

 何も語らない、と言っても、本当に何も語らないのではありません。ここにあるように、正しい者の言葉は良く練られており、多くの人を養うものである、とあります。コロサイ書には、「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。(4:6」とあります。

2B 豊かさ 22
10:22 主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。

 先ほど話しましたが、祝福は頭に来るもの、上から来るものです。主が与えられるものであり、そこに人の苦労は加えることはできません。晩年に、この知恵から離れてしまったソロモン本人が、労苦から何も得られない、むなしいと告白しています(伝道者2:1821)。

 先ほど勤勉な者について見ましたが、このことについて日本人には一つ誤った考えがあります。世界の中でも最も勤勉な国民であると言われる私たちは、同時に最も鬱が多い国の一つでもあります。なぜか?それは、祝福と富は主から来るものであることを知らないからです。自分の手で、目の前にある複雑で込み入った仕事を行ない、すべて自分でやり繰りしようとする肉が私たち日本人にはあります。だから、働けば働くほど、感謝ではなく心労が増えるのです。

 確かに私たちは自分の手を動かします。けれども、その後は主ご自身がなされるのだということを知らなければいけません。ヤコブの生涯を思い出してください、彼はラバンの下で働きましたが、彼自身一生懸命働きましたが、ラバンよりももっともっと富み、祝福されたのは主の御手によるものです(創世30:4331:91242参照)。

9B 期待と望み 23−25
10:23 愚かな者には悪事が楽しみ。英知のある者には知恵が楽しみ。

 英語ですとここの「楽しみ」はsportつまりスポーツと書かれています。スポーツを観戦するように、私たちの楽しみは、エンターテイメントは何になっているか、です。英知のある人は知恵を得ることが楽しみです。愚か者は悪事です。

10:24 悪者の恐れていることはその身にふりかかり、正しい者の望みはかなえられる。

 興味深いですね、「恐れていること」と「望み」の対比です。

 悪者は、自分が行ったことが自分の身に降りかかってくることを、うすうす分かっています。なぜならこれは、神が置かれた一つの法則であるからです。士師記に、ユダ族とシメオン族がカナン人を倒した記録があります。その王アドニ・ベゼクを捕らえたユダとシメオンは、彼の手足の親指を切り取りました。そして王がこう言いました。「私の食卓の下で、手足の親指を切り取られた七十人の王たちが、パンくずを集めていたものだ。神は私がしたとおりのことを、私に報いられた。(士師1:7」自分が七十人の王たちの手足の親指を切り取ったとき、自分も同じようにされるかもしれないという恐れが植えつけられていたのです。

 けれども、正しい者の「望み」は裏切られません。私たちは、主が与えてくださっている希望がはたしてそのとおりになるのか、それを信じる闘いが内側であります。一向にそのようにならない今を見て、そのように落胆しかけるのです。けれども、神は悪者に対するように、私たちになさいません。私たちが主にあって抱いている希望は必ずその通りになります。

10:25 つむじ風が過ぎ去るとき、悪者はいなくなるが、正しい者は永遠の礎である。

 悪者は過ぎ去り、生きながらえるのは正しい者、というのは聖書全体に貫かれている原則、真理です。もちろん黙示録の最後を読めば、悪者が締め出されているところの天のエルサレムの姿を見ることができます。使徒ヨハネは、その他にも手紙の中でこう書きました。「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。(1ヨハネ2:17

10B なまけ者 26
10:26 使いにやる者にとって、なまけ者は、歯に酢、目に煙のようなものだ。

 使いに出しても、その用事をやって来ないとき、使いにやった者の気持ちです。「目に煙」という痛くて目に染みる、あの不快な気持ちは良く分かりますが、「歯に酢」というのは面白い表現です。


 妻が、東北地方にある私の実家に一緒に行って寝泊りしたとき、夜、寝室があまりにも寒かったので、朝起きたとき「歯が寒い」と言いました。それを聞いた母は笑っていましたが、もちろん歯そのものが寒いのではありません。歯が外気で冷えて、その冷えた歯が歯茎に伝わって、その寒さを感じました。これと「歯に酢」というのは同じ表現でしょう。酸っぱいものが自分の口の中に入ったときの、あのつらさです。

11B 不動 27−30
10:27 主を恐れることは日をふやし、悪者の年は縮められる。

 父母を敬う者は寿命が増えるという約束がありますが、それだけでなく主を恐れることによって日が増えます。霊的には永遠の命によって、長寿が私たちに約束されています。

10:28 正しい者の望みは喜びであり、悪者の期待は消えうせる。

 正しい者の望みはかなえられるので、大いなる歓喜と喜びが沸き起こります。けれども悪者の期待は裏切られます。

10:29 主の道は、潔白な人にはとりでであり、不法を行なう者には滅びである。

 同じ主の道なのですが、ある人には砦として守る役目を果たし、ある人には滅びをもたらすものです。同じ主イエス・キリストでありますが、信じる者には救いの力であり、信じない者には後に神のさばきを受ける基準になります。

10:30 正しい者はいつまでも動かされない。しかし悪者はこの地に住みつくことができない。

 先ほどの「永遠の礎」と同じ考えです。詩篇にも終わりの時、終末が強く意識されていましたが、箴言も同じです。神の国が建てられるときに、正しい者がこの地上に住みます。悪者はそこにはいません。

12B ねじれた舌 31−32
10:31 正しい者の口は知恵を実らせる。しかしねじれた舌は抜かれる。10:32 正しい者のくちびるは好意を、悪者の口はねじれごとを知っている。

 再び、「口」についての格言です。私たちが語る唇によって、神からも人からも好意を得るようになることは幸いですね。

2A 格言の続き 11
1B 秤 1
11:1 欺きのはかりは主に忌みきらわれる。正しいおもりは主に喜ばれる。

 昔、市場で物を買うときにお店の人たちがしていたことを思い出してください。秤を使っていましたね。一方に重石を載せて、もう一方に品物を載せて、その品物の重さを量るわけですが、その重石を偽って、品物が実際よりも重く見せる不誠実な商売人もいたわけです。

 私たちの商取引で、そのような不正をしてはいけない、という戒めです。仕事をしている人はもちろんのこと、私たちは例えば税金を支払う時に正直に申告しているでしょうか?電車に乗るときに、キセルをしないで正規のお金を払っているでしょうか?正しい重りは主に喜ばれます。

2B 高ぶり 2

11:2 高ぶりが来れば、恥もまた来る。知恵はへりくだる者とともにある。

 高ぶりは、以前、主が忌み嫌われるものの第一番目に挙げられていました。高ぶるとき恥を見る、とありますが、イエス様がパリサイ人や律法学者が招かれた場で上席を選んでいる様子に気づかれて、こう言われました。「婚礼の披露宴に招かれたときには、上座にすわってはいけません。あなたより身分の高い人が、招かれているかもしれないし、あなたやその人を招いた人が来て、『この人に席を譲ってください。』とあなたに言うなら、そのときあなたは恥をかいて、末席に着かなければならないでしょう。(ルカ14:8-9」自分を高めるとき、このように恥を見ることがよくあります。

3B 破滅 3−8
 次は悪者が滅ぼされて、正しい者が救われるという対比が行われています。

11:3 直ぐな人の誠実は、その人を導き、裏切り者のよこしまは、その人を破滅させる。

 誠実さによって導かれます。反面、よこしまは破滅をもたらすだけです。

11:4 財産は激しい怒りの日には役に立たない。しかし正義は人を死から救い出す。

 激しい怒りの日とは、主が終わりの時に下される裁きのことです。どんなに財産を持っていても、それによって神を印象づけることはできません。この世には賄賂というものがありますが、それは神には通用しません。

11:5 潔白な人の道は、その正しさによって平らにされ、悪者は、その悪事によって倒れる。

 潔白な人は、今、どんなに困難な状況にいたとしても、いずれは平らな道へと導かれます。でこぼこ道が平らな道へと変えられます。けれども悪者はその反対で、つまずきの石が多い道になっていきます。そして最後に倒れます。

11:6 直ぐな人は、その正しさによって救い出され、裏切り者は、自分の欲によって捕えられる。

 欲望は私たちを捕えます。自分の欲を制御することはとても難しいです。一度、それを自分の思いの中で許すと、自分が欲求をコントロールするのではなく、欲が自分を支配するようになります。ヤコブ書にこうあります。「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。(1:14-15

11:7 悪者が死ぬとき、その期待は消えうせ、邪悪な者たちの望みもまた消えうせる。

 正しい者の望みは永らえるのに対して、悪者はその人が死んだ時点で終わります。そして悪者に連なる邪悪な者たちの望みもそこで途絶えます。黙示録18章でバビロンがどのように崩壊するかを思い出してください。あの女に連なっていた王たちが嘆き、商人たちがもう儲けられないので嘆き、船で貿易をして利益を得ていた者たちも嘆きました。

11:8 正しい者は苦しみから救い出され、彼に代わって悪者がそれに陥る。

 非常に興味深い格言です。タラントのたとえを思い出します。五タラント主人から与えられた僕は、五タラント儲けて十タラントになりました。一タラント受け取った僕は、なまけてそれを地の中に隠しました。そこで戻ってきた主人は彼から一タラントを取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい、と言いました(マタイ25:28)。

 もう一つ、この格言に関する出来事があります。ダニエルが獅子の穴に投げ込まれた時のことです。彼は何の害も受けずに、次の朝、その穴から引き出されましたが、ダニエルを訴えた者たちが代わりにその穴に投げ込まれて、穴の底に落ちないうちに、彼らは獅子に食い殺されました。終わりには、神の逆転があります。

4B 町 9−11
11:9 神を敬わない者はその口によって隣人を滅ぼそうとするが、正しい者は知識によって彼らを救おうとする。

 隣人とともに住む時における知恵です。私たちはいつも独りでは生きておらず、共同体の中に生きています。ですから隣人がいるのですが、人間は不思議にも隣人に悪を行ないたいという欲望があります。隣人が悪い境遇に陥れば、それを喜ぶどす黒い心があります。

 しかし知恵はそのようなことをしません。むしろ助けます。自分の力や与えられている知識を用いて、困難の中にいる人を助けるべく働きかけます。

11:10 町は、正しい者が栄えると、こおどりし、悪者が滅びると、喜びの声をあげる。11:11 直ぐな人の祝福によって、町は高くあげられ、悪者の口によって、滅ぼされる。

 町全体が、正しい者と悪者によってどのように反応するかが書かれています。どちらも喜ぶのですが、正しい者については彼が栄えるとき喜びます。悪者については滅びるとき喜びます。理由は正しい人が祝福されると町全体が高く上げられ、悪者によって町は滅ぼされてしまうからです。

5B 中傷 12−13
 今、悪者の口によって滅ぼされるとありますが、次も言葉についての格言があります。

11:12 隣人をさげすむ者は思慮に欠けている。しかし英知のある者は沈黙を守る。

 隣人によって不便や不快がもたらされるときがありますね。隣のステレオから出る音がうるさい。私の家の場合はつい最近まで、鳩が上の階の人のベランダにたくさん留まっていて、鳩対策で大変でした。けれども、もしそれで隣人をさげすんだら思慮に欠けています。英知のある人は、「これはたいした問題ではない。長い目で見れば、解決される。」と考え、沈黙を守るでしょう。

11:13 歩き回って人を中傷する者は秘密を漏らす。しかし真実な心の人は事を秘める。

 他の箇所で、人の噂はおいしいという内容のことが書かれていますが、私たちはある人について否定的なことを聞くと、それに飛びつき、他の人にも伝えたくなります。けれども全体に平和を求める人、神から来る平和を求める人は、ただそれを自分の心に秘めておきます。

6B 助言 14
11:14 指導がないことによって民は倒れ、多くの助言者によって救いを得る。

 指導また助言は非常に大切ですね。私も多くの人から助言を求めたことがあるし、また助言を求められたこともあります。最終的に主との間で決定するのは自分ですが、その過程で助言を受けることによって知恵ある行動を取ることができます。

7B 保証 15
11:15 他国人の保証人となる者は苦しみを受け、保証をきらう者は安全だ。

 以前も出てきました、保証人となることの危険について述べました。お金の貸し借りにおいても、私たちは基本的に相手に一方的に与えるという立場で貸さなければ、貸した相手との関係を良く保つことはできません。

8B 栄誉 16
11:16 優しい女は誉れをつかみ、横暴な者は富をつかむ。

 「横暴な者」とは「横暴な男」のことです。女と男との対比、また優しさと横暴の対比です。現実を描いています。しとやかな女性は誉れを受けます。けれども男の中で権力を得たいと願う者が多くおり、彼らはまず富を得ようとします。

9B 報い 17−19
11:17 真実な者は自分のたましいに報いを得るが、残忍な者は自分の身に煩いをもたらす。

 17節から19節は報いについての教えです。真実な者は、魂の救いを得ます。けれども残忍な者は死後、苦しみの中に投げ込まれます。地獄について興味深いことは、苦しみを感じることができる体を持っていることです。ラザロと金持ちの話に出てくる金持ちは、地獄の熱さで苦しんでいました。またイエス様が情欲を持って女を見ることを戒められたとき、「からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よい(マタイ5:29」と言われました。

11:18 悪者は偽りの報酬を得るが、義を蒔く者は確かな賃金を得る。

 報酬と言っても、それは実質のない報酬であり、綿菓子のようなものです。その時は大きく見えますが、真価が試されるときに、瞬く間になくなります。

11:19 このように、義を追い求める者はいのちに至り、悪を追い求める者は死に至る。

 「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。(2コリント5:10」という言葉がありますが、主にあって行なったことには確かな賃金、報いがあります。

10B 主の喜び 20
11:20 心の曲がった者は主に忌みきらわれる。しかしまっすぐに道を歩む者は主に喜ばれる。

 私たちにも、嫌悪感、また好意の感情を持っていますね。あるものを見たときひどく嫌な思いをして、あるときは好感を持ちます。主が嫌悪感を抱かれるときは、心が曲がった者をご覧になるときです。また主が好感を持たれるのは、まっすぐに道を歩む者をご覧になるときです。

11B 悪い約束 21
11:21 確かに悪人は罰を免れない。しかし正しい者のすえは救いを得る。

 「確かに悪人は」というのは、直訳では、「悪人が手に手を打つのは」となります。手に手を打つ行為は契約を結ぶときです。悪者同士の契約、約束事は罰を免れない、ということです。

12B 女の美しさ 22
11:22 美しいが、たしなみのない女は、金の輪が豚の鼻にあるようだ。

 すごい表現ですね。けれども女性にとって、内なる美がいかに大切であるかを教えています。また、男性が女性を見るときに、その外側の美だけを見て引き寄せられてはいけないという戒めでもあります。

 テレビに出てくる女優、タレント、アイドルは美しい人、かわいい人が多いですが、たしなみはあるでしょうか、ないでしょうか?そのような基準でこれから見ていく必要がありますね。

13B 願い 23
11:23 正しい者の願い、ただ良いこと。悪者の望み、激しい怒り。

 正しい人はただ良いことを願います。愛の章コリント第一13章にも、愛は「不正を喜ばずに、真実を喜びます(6節)」つまり、何か悪いことが起こるのではなく、つねに良いことが起こることを願っています。

 悪者はその反対、怒りを求めます。また、ここの「激しい怒り」とは彼ら自身の怒りでもあるし、また彼らが受ける神から来る激しい怒りでもあります。激しい怒り、憎しみが多い世の中になってきました。大事な格言です。

14B 大らかさ 24−26
 次は大らかさ、気前の良さについての格言です。

11:24 ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある。11:25 おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される。11:26 穀物を売り惜しむ者は民にのろわれる。しかしそれを売る者の頭には祝福がある。

 神の律法の中に、「あなたがたの土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂を集めてはならない。(レビ19:9」という教えがあります。これはもちろん、貧しい人が後で来てそれを取りにくることができるようにするためです。このように、神は良い意味で、大雑把になりなさいと命じておられます。そうすると、かえって主はその与える人を祝福してくださいます。

 この神の豊かさ、大らかさの原則を知らない国は、どんどん窮屈になり、いろいろな弊害が生じるのを見ます。今の日本はまさにそうです。会社で働いている者たちを、搾り取ることができるまで搾り使い果たしていくのは、もちろん不景気だからそうなのですが、それをやったらさらに乏しくなることを知りません。自分が今持っているものを、自分で守ろうとする窮屈な心、上からの祝福を完全に度外視しているところには、このあふれ出るような祝福は流れません。

15B いのちの実 27−31
 27節から最後まで、報いについて書いてあります。

11:27 熱心に善を捜し求める者は恵みを見つけるが、悪を求める者には悪が来る。

 「恵み」という言葉、いつ聞いても麗しいですが、善を捜し求めている人には必ず恵みが注がれます。悪を求める人には、その人自身に悪が来ます。

11:28 自分の富に拠り頼む者は倒れる。しかし正しい者は若葉のように芽を出す。

 正しい者はたとえ倒れてしまったかに見えても、再び芽を出します。起死回生するとき、しばしば「雑草のように芽を出す」と言いますが、正しい者はそのようなたくましさだけでなく、神が与えてくださるところの潤い、みずみずしさも加えられます。

11:29 自分の家族を煩わせる者は風を相続し、愚か者は心に知恵のある者のしもべとなる。

 家族を省みないのは不信者より悪いとパウロが言いましたが(1テモテ5:8)、風を相続するとここでは言っています。そして、愚か者は知恵ある者に仕えるようになります。ヤコブとエサウで、兄が弟に仕えるようになります。

11:30 正しい者の結ぶ実はいのちの木である。知恵のある者は人の心をとらえる。

 正しい人は命を与えます。人々に与えるのであり、吸い取りません。

11:31 もし正しい者がこの世で報いを受けるなら、悪者や罪人は、なおさら、その報いを受けよう。

 すごいですね、悪に対しては悪を報いると第二テサロニケ1章に書いてありますが、その度合いは正しい人がこの世でその義の報いを受ける以上のものである、ということです。

 ただ日本人の中には、「勤勉」について一つ誤った考えがあります。世界の中でも最も勤勉な国民であると言われる日本人ですが、同時に最も鬱が多い国の一つでもあります。後で出てきますが、「主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えられない。(10:22」なのです。自分の手で、目の前にある複雑で、込み入った仕事をやり繰りしようとする肉が私たち日本人にはあります。確かに自分の手を動かし勤勉に働くのですが、主の祝福がその人を富ませるのであり、私たちではないのだということを知らなければいけません。


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