詩篇1−5篇 「正しい者と悪者」


アウトライン

1A 幸いなこと 1
   1B 水路のそばの木 1−3
   2B もみ殻 4−6
2A 逆らう国々 2
   1B メシヤの即位 1−6
      1C 集合 1−3
      2C 嘲笑い 4−6
   2B メシヤの統治 7−12
      1C 御子への相続 7−9
      2C 御子への口づけ 10−12
3A 取り囲む盾 3
   1B 多くの敵 1−4
   2B 主の救い 5−8
4A 安らかな眠り 4
   1B 私の義の神 1
   2B 人の子ら 2−5
   3B 心の喜び 6−8
5A 朝明けの祈り 5
   1B 神の家へ 1−7
      1C うめく祈り 1−3
      2C 悪と住まない神 4−7
   2B 神に導かれて 8−12
      1C 悪者の罪 8−10
      2C かばう愛 11−12

本文

 詩篇1篇を開いてください、今日は1篇から5篇までを学びます。今日のメッセージの題は、「正しい者と悪者」です。

 私たちは、聖書の大きなセクション、部分の二番目、詩歌のところに入っています。詩歌の最初のヨブ記は前回学び終えました。これから学ぶ詩篇はその二番目です。私たちは前回の学びで、長い議論の後、主ご自身がヨブにご自身を顕現され、ヨブがちりと灰の中にひれ伏して、自分のいたらなさを告白した部分を読みました。人間の間の議論から、神と人との間の交わり、神のご臨在の中での礼拝へと変わりました。そして詩篇は、まさに人を神の臨在の中に導いてくれる書物です。

 詩篇を書いた人はいろいろです。その中でもダビデは73の詩篇を書きました。彼がどのような性格、霊性を持っていたか思い出してください。エルサレムの町をエブス人から奪取した後、彼は契約の箱を賛美と喜びの歓声を挙げながら運びました。神の前で裸  といっても王服ではない、亜麻布のエポデをまとっていましたが  で、力の限り踊りました。

 彼が神殿を神のために建てたいと願った人物です。そして彼は戦いにおいても、その礼拝の心を持っていました。三人の勇士が、王のためにベツレヘムの井戸から水を汲んできたときのことを思い出してください。王が昔を懐かしがってベツレヘムの水を飲みたいと言ったのを聞いて、ペリシテ人が陣取っているのに、命がけで水を取ってきました。何とダビデはそれを地に流したのです。イエス様に高価な香油を注いだマリヤと共通していますね。自分の心をすべて主に明け渡す人でした。

 ダビデは、人の心の琴線に触れるようなことも見事に言葉で表現する能力を持っていた詩人でありました。神から与えられた賜物ですね。詩篇は、いろいろな体験の中で抱く感情を、ほとんどすべて網羅しています。そしてそれらをすべて、神への告白、感謝、願い、礼拝、そして賛美へと昇華させています。

 そして、自分の体験を預言にまで昇華させたときもあります。そららは「メシヤ詩篇」とも呼ばれます。神の御霊が、ダビデまた他の著者が取っている体験を使って、将来来られるキリストについての言葉を与えておられます。詩篇の中に、私たちの主でありメシヤのお姿を見ることができます。

1A 幸いなこと 1
 それでは1篇を読んでみたいですが、第一篇はこの後のすべての詩篇に通じるテーマです。

 あっ、その前に初めに「第一巻」とありますね。詩篇全体は、五つの部分にまとめられています。1−41篇が第一巻、42−72篇が第二巻、73−89篇が第三巻、90−106篇が第四巻、107−150篇が第五巻です。それぞれの巻の最後が頌栄になっています。例えば第一巻の最後は「ほむべきかな。イスラエルの神、主、とこしえから、とこしえまで。(41:13」です。最後の第150篇はすべてが頌栄になっています。

1B 水路のそばの木 1−3
1:1 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。

 「幸いなことよ」という言葉から始まっています。私たち人間はだれもが幸福を求めますが、神がおっしゃられている幸いな人、幸福な人はどんな人でしょうか?三つの否定語で表現されています。「悪者のはかりごとに歩ま」ない人、「罪人の道に立た」ない人、そして「あざける者の座に着かな」い人です。この三つを比較すると非常に面白いです。主語が「悪者」→「罪人」→「あざける者」と変わっています。そして、「はかりごと」→「道」→「座」と変わっています。そして動詞が「歩む」→「立つ」→「着く」あるいは「座る」に変わっています。

 「悪者のはかりごと」とは何でしょうか?悪いことをする企みですね、簡単に言うと。これは私たちの思いから始まります。悪いことをするように、私たちの肉が、またこの世の制度が、また悪魔自身が私たちに語りかけます。その声に聞きしたがって行動に移せば、それが「悪者のはかりごとに歩む」ということです。

 そして「罪人の道」とは何でしょうか?神と人の前で罪だとみなされている事柄ですね。嘘であるとか、貪欲であるとか、姦淫であるとか、ドラマや映画、小説、またニュースでもいいですが、人が辿るパターンはみな同じです。これが罪人の道です。私たちが悪者のはかりごとに歩んだら、それを習慣的に、計画的に、半ば公然と行なっていきます。そのとき罪人の道に立ちます。その先どうなるかは決まっています。

 そして最後に「あざける者の座」ですが、神の道に立っている人、神のはかりごとに歩んでいる人たちを傍観して、あざける人たちのことです。完全に神を無視し、反対し、認めない立場のことを言います。

 私たちが罪の道に歩み、そのまま堕落したらこの道を歩むことになります。初めは思いから行いへ、次に行ないから習慣、計画へ。そして神を捨て、神に関する事柄をあざける無神論者となります。この道を歩まない人、それが幸いな人です。

1:2 まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。

 主の教えは、私たちを悪から罪から引き離します。詩篇119篇9節にこうあります。「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。」私たちが御言葉を喜びとしているとき、私たちは自ずと神の憐れみの中に導かれます。神の憐れみの中で罪の悔い改めをすることができ、罪から離れることができます。

 しかし、主の教えを聞くだけでは不十分です。「昼も夜もそのおしえを口ずさむ」とあります。この「口ずさむ」は「思い巡らす」とか「心に留める」と言い換えることができます。「昼も夜も」です。朝に会社に出勤する前に読んだ聖書の言葉を、会社から戻って家に帰ってきたときにはもう忘れている、なんてことありませんか?ヤコブは手紙の中で、「みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。(1:23」と言いました。

1:3a その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。

 主の教えを喜びとし、それを思い巡らす結果が、ここに書かれているとおりです。私たちは、「植えられた者」です。神によって、命の水の源であられるキリストの中に植えられた者であり、命の御霊によって実を結びます。新約聖書にも似たようなたとえがたくさん出てきますね。良い土地に落ちた種は、三十倍、六十倍、百倍の実を結ばせます。また、イエス様がぶどうの木で私たちが枝であり、みことばに私たちがとどまるなら多くの実が結ばれます。

 そしてこの世の終わりに、新しいエルサレム、天のエルサレムが建てられるとき、これは文字通り実現します。「都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。(黙示22:2

1:3b その人は、何をしても栄える。

 モーセがヨシュアに死ぬ間際に告げた最後の言葉の中に、ここの詩篇と同じように、「この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。(ヨシュア1:8」とあります。そしてその後でモーセは、「そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。」と言いました。

 この繁栄は、少しずつであることを忘れないでください。木から実が結ばれるのに時間がかかるように、繁栄にも時間が必要です。そして、自分の行為によって繁栄するのでもありません。自分の仕事はただみことばを自分に蓄えること、主の教えを喜びとしていることです。

2B もみ殻 4−6
1:4 悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。

 水路のそばに植えられた木の対比ですね、風が吹き飛ばすもみ殻です。小麦など脱穀するときによく見かける風景です。

1:5 それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、罪人は、正しい者のつどいに立てない。

 これは明確ですね、イエス様がラザロのことを話されたとき、金持ちはアブラハムのふところに行くこともできなかったし、またラザロが金持ちのところに行くことはできませんでした。黙示録22章にも、新しいエルサレムについて「犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者はみな、外に出される。(15節)」と書かれています。

1:6 まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。

 この「知っておられる」というのは単なる知識ということではありません。交わりという意味も含めた、信頼関係、親密な関係があるという意味での「知っている」です。終わりの時に多くの者が、「主よ、主よ」と叫んでも、主は「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ものども、わたしから離れて行け。(マタイ7:23」と言われましたね。その「知る」という意味です。

 私たちは、主に知られていることを知るとほっとします。人に認められていなくても、人が見ていなくても、主は見ておられ、私たちが主にあって行なったことをすべて覚えておられます。私たちが主に対して行なったことはみな、終わりの時に主からの報いを受けます。

 しかし悪者は滅びうせます。そして、この両者の対比が、詩篇全体に貫いているテーマです。白と黒がはっきりしています。人は、悪者か義人かのどちらかの宿営にしかついていないという二者択一です。

2A 逆らう国々 2
 第二篇に入ります。この詩篇も他の詩篇のテーマを含有しています。それは、神の統治です。

 ダビデのことを再び思い出してください。サウルそして自分の時代からイスラエルは王政が始まりましたが、彼は強烈に神がこの世を治められることを意識していました。自分は王であるが、自分自身は神を王とし、イスラエルもまた神が王であると認めていました。「ダビデは、主が彼をイスラエルの王として堅く立て、ご自分の民イスラエルのために、彼の王国を盛んにされたのを知った。 」とサムエル記第二5章12節に書いてあります。イスラエルは自分の王国であるが、その王国は神の統治の中にすっぽり入っていることを意識していたのです。

1B メシヤの即位 1−6
1C 集合 1−3
2:1 なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。2:2 地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者とに逆らう。2:3 「さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう。」

 ここの「油注がれた者」とはもちろんメシヤ、キリストのことです。国々が神と神がお立てになったメシヤに逆らうために、相集まります。そして、神とキリストが定めた制約、かせや綱を取っ払ってしまおうと企みます。この世界がまさにそれを物語っていますね。国々は相逆らっていますが、こと神の支配や統治、イエス・キリストのことになれば彼らは一致することができます。共通の敵ができるからです。

 思い出してください、ユダヤ人がイエス様をピラトのところに連れてきたとき、ピラトはイエス様がガリラヤ出身であることを知り、この方をヘロデのほうに送りました。ヘロデはイエス様をピラトのところに突っ返しましたが、ルカ2312節には「この日、ヘロデとピラトは仲よくなった。それまでは互いに敵対していたのである。」とあります。

 この出来事を思い出して祈っていた人たちがいました。初代教会の聖徒たちです。ペテロやヨハネがサンヘドリンで尋問を受けたことを知り、彼らはこう祈りました。「主よ。あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です。あなたは、聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの先祖であるダビデの口を通して、こう言われました。『なぜ異邦人たちは騒ぎ立ち、もろもろの民はむなしいことを計るのか。地の王たちは立ち上がり、指導者たちは、主とキリストに反抗して、一つに組んだ。』事実、ヘロデとポンテオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民といっしょに、あなたが油を注がれた、あなたの聖なるしもべイエスに逆らってこの都に集まり、あなたの御手とみこころによって、あらかじめお定めになったことを行ないました。(使徒4:24-28

 そして、国々が相集まって反抗することは、終わりの時にも起こります。最後のハルマゲドンの戦いのときです。互いに敵対し合っている国々は、反キリストの旗印の下、一致してイスラエルの平原メギドに集まってきて、再臨されるキリストに対して戦争を引き起こします。

2C 嘲笑い 4−6
2:4 天の御座に着いておられる方は笑う。主はその者どもをあざけられる。

 私も神様のあざ笑う声が聞こえてきそうです。天地万物を造られた、全知全能の神に対して、核ミサイルであろうがその他の大量破壊兵器であろうが、まったく無力です。その光景はあまりにも滑稽です。

2:5 ここに主は、怒りをもって彼らに告げ、燃える怒りで彼らを恐れおののかせる。

 主は、世界の軍隊をご自分の口から出てくる言葉一つ一つで、ことごとく滅ぼされます。イスラエルの地は、死体の山となり、血に満ち溢れます。反キリストは、燃える火と硫黄の池に投げ込まれます。

2:6 「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに。」

 イエス様が世界の王として君臨される、神の国が始まります。

2B メシヤの統治 7−12
1C 御子への相続 7−9
2:7 「わたしは主の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。』」

 この箇所は、メシヤが神の御子であることを明確に宣言しているところです。イザヤ書の中にも明確にしている箇所があります。9章6節です。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」ここの「男の子」は単に「子」と言う意味であり、メシヤが神の子であり神である方であることを意味しています。

 「生んだ」という表現は、あたかも御子が父なる神の創造物であるように聞こえます。事実、エホバの証人などは、イエス・キリストを神が最初に創造した被造物であるとします。しかし、ここでの意味はそうではありません。

 パウロが宣教旅行を始めて間もないころ、シナゴーグで彼はこう説教しました。「神は、イエスをよみがえらせ、それによって、私たち子孫にその約束を果たされました。詩篇の第二篇に、『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。』と書いてあるとおりです。(13:33」神がイエス様を死者の中からよみがえらせた、復活させたことが、「わたしがあなたを生んだ」という意味になるのです。

 ローマ人への手紙1章においても、パウロはこう述べています。「御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。(3-4節)」復活は、神が、イエスが神の御子であることを公に示した箇所であります。

2:8 わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。

 主が再臨されて地上に戻って来られた後、父なる神はすべてのものをご自分の子にゆだねられます。主が、実際に、王の王、主の主となられ、全世界の君主になられるのです。

2:9 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする。

 千年王国における統治は、今の統治と異なります。イエス様の絶対的な権威によって、あらゆる不義を鉄の杖で粉々にされます。ですから、私たちが毎日聞く悪いニュースは千年王国では全く聞かれなくなります。完全な正義が地に満ちるからです。

2C 御子への口づけ 10−12
2:10 それゆえ、今、王たちよ、悟れ。地のさばきづかさたちよ、慎め。

 将来のことをふまえて、今、王たちがキリストである神の御子であられる方に歯向かってはならない、と戒めています。

2:11 恐れつつ主に仕えよ。おののきつつ喜べ。

 王の前に出るときは、このような感情が伴いますね。一つは恐れです。恐れといっても恐怖のほうではなく畏怖です。そして、喜びです。自分が慕い、あがめている王にまみえるのですから喜びが伴います。

2:12a 御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている。

 御子に口づけするとは、御子の絶対権威を認め、服従することのジェスチャーです。これは、人間の歴史において世々に渡って、王たち、国の権威者らが知らなければいけない教訓です。

 ローマ人への手紙13章1節には、「神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。」とあります。自分が権威の座に着いているのは全権者であられる神の許しがあってのことです。だから、自分が支配者であっても自分も支配されていることを知らなければいけません。

 
ところが、そのことを省みないで自分が神の領域に入ろうとします。自分が絶対権威者であろうとします。この過ちを犯したルシファーが天から突き落とされました。そして、数々の王たちがこの間違いを犯したので、倒れていきました。

2:12b幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。

 本当にそうですね。国々の高ぶりやそれに対する神さまの怒りなど、主に身を避けている人は経験せずに安らかでいることができます。

3A 取り囲む盾 3
 そして次は、敵に囲まれている中で安らかでいることができるダビデの賛歌です。

3ダビデがその子アブシャロムからのがれたときの賛歌

 覚えていますね、アブシャロムがエルサレムの門のところで、さばきのために王のところに来たイスラエル人を言いくるめて、彼らの心を盗みました。そして「お父さん、ヘブロンに行ってくる。」と言った後、ヘブロンで自分が王であると宣言させました。そのときアブシャロムに与するイスラエル人はかなり多くて、ダビデの議官アヒトフェルもアブシャロムのほうに付きました。そこで、ダビデと家臣たちが王宮を出て、オリーブ山を歩いて上っていき、ヨルダン川の方へ逃げていった話です。

1B 多くの敵 1−4
3:1 主よ。なんと私の敵がふえてきたことでしょう。私に立ち向かう者が多くいます。3:2 多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼に神の救いはない。」と。セラ

 ダビデが実際に人づてで聞いたことなのか、それとも彼の心の中で、彼らの行動を見て彼らが思っていることを判断した言葉なのか、どちらか分かりません。どちらにしても、ダビデにとってもっとも我慢できなかったのは、神ご自身が彼を救うことはできないという、神を無視するかのような発言です。

 私たちも、このような声を至るところで聞くのではないでしょうか?私たちの信仰にチャレンジを与えるような声や言葉を聞きます。神を無視した、神を押しのけるような高ぶった声です。

 そして、「セラ」という言葉がありますね。これは一呼吸おいていることを表します。「彼に神の救いはない」という声を聞いて、それに対する次の言葉を控えています。けれども、その沈黙の中でダビデは敵から主のほうに目を注ぎます。

3:3 しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。

 主がどのような方であるかを彼は思い出します。自分を守ってくださる方であり、自分にとって栄光であり、また自分を卑しいところから引き出し、かしらを高く上げてくださる方であることを思い出しています。

3:4 私は声をあげて、主に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えてくださる。セラ

 ダビデは声を上げました。私たちは、回りくどく祈ることがよくあります。そのまま主に、「助けたください」とか「お救いください」とか一言呼べばよいときがたくさんあります。ダビデと主との関係はそれだけ近しかったのです。私たちキリストのうちにいる者たちは、もっと近しい関係の中に入れられているのです。

 そして、「聖なる山」とはシオンのことです。私たちキリスト者は、天の聖所から祈りの答えがきます。

 ダビデは祈った後に、また一呼吸おいています。「セラ」と書いています。

2B 主の救い 5−8
3:5 私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから。3:6 私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。

 ものすごい平安の状態ですね。主が支えておられるのであれば、幾万の民を恐れることはありません。その余裕が深い睡眠をもたらしたと言えます。

3:7 主よ。立ち上がってください。私の神。私をお救いください。あなたは私のすべての敵の頬を打ち、悪者の歯を打ち砕いてくださいます。

 ちょうど喧嘩のときに、相手を思いっきりぶん殴ったら歯が折れた状態のように、主が彼らを打ち砕かれることを願っています。

 ダビデは果たして、文字通りアブシャロムの歯がぼろぼろに折れてしまうことを願ったのでしょうか?彼が死んだことを聞いたら、ダビデは愛する息子を失って激しく泣きました。彼は、人が血を流すのを喜ぶような人では決してありませんでした。むしろ、ここでダビデが言っているのは総体的な敵です。それは、アブシャロムたちを突き動かしている神を省みない思いであり、考えです。あるいは、自分に襲ってくる「神は自分を救わない」という心の中の囁きかもしれません。

 そこで私たちが詩篇を読むときに覚えておきたいのは、ダビデやイスラエルの民が敵に囲まれて、そこからの救いを願ったように、私たちも悪魔、世、また自分自身の肉、罪という敵からの救いを願うということです。

 私たちクリスチャン生活は、あるいみ戦争状態に入ったと言っても過言ではないでしょう。信仰による義、救いについて述べたローマ人への手紙の中で、私たちは罪に対して死んだもの、また古い人はキリストとともに十字架につけられた、と書かれています。御霊に導かれれば、肉の行ないを殺すことができる、と書いてあります。自分が生きるか死ぬかという、一般的には戦闘の極限状態でしか使わない言葉が、クリスチャン生活を述べているときに頻繁に出てくるのです。

 ダビデが敵の頬を神が打ち、歯が打ち砕かれるのを願いましたが、私たちは自分を死と滅びへと向かわせる、肉の思いに対して祈ることができます。自分で格闘しても、それは肉で肉を制しようとしているわけで不可能です。主に祈り、自分の肉の問題を処理していただくことを願うのです。

3:8 救いは主にあります。あなたの祝福があなたの民の上にありますように。セラ

 今話したように、自分で自分を救うのではなく、主が救ってくださいます。そして、神の所有の民とされている者たちに対する神の祝福を願う祈りで終わっています。ダビデの、主との密接な関係、主に対する情熱的な思いが伝わってきます。

4A 安らかな眠り 4
 第四篇は、第三篇と似た詩篇です。主にあるゆとり、そして主が契約を結ばれて、所有とされている民に対する主の愛についてダビデが歌っています。

4 指揮者のために。弦楽器に合わせて。ダビデの賛歌

 「指揮者のために」とあります。ダビデが神殿を建てたいと願って、主はあなたの子がそれを建てると言われました。そしてダビデはその子ソロモンのために、神殿を建てるためのあらゆる準備をしてあげました。その神殿には、賛美が一つの大きな奉仕でした。聖歌隊が組まれました(1歴代25章参照)。そして、それを指揮する人たちに与えられたのがこの詩篇です。

1B 私の義の神 1
4:1 私が呼ぶとき、答えてください。私の義なる神。あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました。私をあわれみ、私の祈りを聞いてください。

 主に呼ばわると、あなたはゆとりを与えてくださいます、というのは先ほどと同じことです。そしてここではさらに、「私の義なる神」と呼んでいます。自分の義が神であるというのは、どういうことでしょうか?自分の周りには、いろいろ自分を評価する人たちがいます。そして私たちは、人々と自分を比較しながら生きています。しかし神を信じる者は、比較の対象はあくまで神ご自身です。参上の垂訓の中で、祈るときも善行をするときも、ただ御父からの報いを気にしなさいということをイエス様は述べておられます。自分をさばくのは主なのだ、というのが「私の義なる神」の意味です。

2B 人の子ら 2−5
4:2 人の子たちよ。いつまでわたしの栄光をはずかしめ、むなしいものを愛し、まやかしものを慕い求めるのか。セラ

 第二編でも、国々が騒ぎたち、むなしくつぶやく、と書かれていましたが、ここでも一般の神を信じない者たちが、むなしいもの、まやかしものを慕い求めていることを指摘しています。

4:3 知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき、主は聞いてくださる。

 ご自分の聖徒に対する主の特別な取り扱い、特に祈りにおいて主が聞いてくださるという特権について、述べています。

 私たちは罪人であり、自分たちを特別視してはいけない、というような内容のメッセージをよく聞きます。そして未信者の人たちとの間の和睦を説くことが良くあります。もちろん私たちは、世に神の愛を示していくために、愛していかなければいけません。しかし、信者と未信者の間には明確な区別があります。その間を決して渡り歩くことができない淵があります。まさに天国と地獄との仕切りがあるのです。

 もちろんこのことを表立ってあらわすのではありません。私たちの心の中で、明確な線引きができていないければいけない、ということです。ダビデのように、私たちの霊の深いところで、神を退けた形で議論したり、語り合っているのを聞くと、無性に腹が立っています。すべて空しいことを知っているからです。

 そしてダビデと同じように、自分は祈りをすることができる特権にあずかっている聖徒であることを自覚する必要があります。この世において、その流れに巻き込まれることなく、熱心に祈ることができる秘訣はここにあります。

4:4 恐れおののけ。そして罪を犯すな。床の上で自分の心に語り、静まれ。セラ4:5 義のいけにえをささげ、主に拠り頼め。

 人の子らに対して、主の前で恐れおののけと戒めています。彼らに対して、神の権威を認めよと言っています。

3B 心の喜び 6−8
4:6 多くの者は言っています。「だれかわれわれに良い目を見せてくれないものか。」主よ。どうか、あなたの御顔の光を、私たちの上に照らしてください。

 この言葉は「だれ、我々に良いことをくれるのか。」という反語的な表現です。神を信じたところで何の益があろうか、という世の声です。

 そこでダビデは、不信者と自分たちの間に明確な違いを出すために、どうかあなたの光を私たちの上で照らしてください、と祈っています。私たちの切なる祈りですね。世の中がどんどん暗くなっていて、希望がないのですが、神に振り向く人たちは本当に少ないです。だから、本当に神に希望があるのだということを、私たちを通して現してください、という祈りをしたいです。

4:7 あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています。

 私たちに与えられている神の光とは、私たちの心にある喜びです。どんなときにも喜んでいられることは、クリスチャンの特権です。これが、どんなすばらしいご馳走よりもまさっているとダビデは言っています。

4:8 平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。

 先日、新聞の中に不眠症についての記事がありました。日本がいろいろ便利になっているため、あまり体を動かすことがないことを一つの原因に挙げていました。便利を追求したための不利益ですね。そしてもう一つは、人間関係によるストレスです。

 それに対する処方箋は、まさにここの詩篇です。まず主ご自身に自分を服すること。そして人の子らの間にあるむなしい話題や議論、それらのものをすべて主にお任せすること。情熱的な、神への思いと親しみ。これらがあれば、私たちはゆっくりと休むことができます。自分自身で、相手との関係を調整することを絶えず行なっている日本の社会の中では、このようにまっすぐ主に向かう祈りが必要です。

5A 朝明けの祈り 5
 次は朝にいのる祈りに変わります。夕方、寝る前だけでなく、朝一番にいのる祈りも大切です。

5 指揮者のために。フルートに合わせて。ダビデの賛歌

 再び神殿の賛美の中で歌われるものです。第四篇は弦楽器に合わせて歌う賛美でしたが、ここではフルートに合わせて歌います。

1B 神の家へ 1−7
1C うめく祈り 1−3
5:1 私の言うことを耳に入れてください。主よ。私のうめきを聞き取ってください。5:2a 私の叫びの声を心に留めてください。

 初めは「私の言うこと」それから「うめき」それから「叫び」に変わっています。そして「耳に入れてください」「聞き取ってください」それから「心に留めてください」に変わっています。祈りがどんどん切ない神への願いへと変わっていますね。

 「うめき」は、私たちの言葉にならない心の状態です。ローマ8章26節にこう書いてあります。「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」私たちは、言葉にならないからといって祈りを止めてはいけないのです。また、言葉で祈っていても、何を言っているのかわからなくなってもいいのです。なぜなら、神はうめきを聞き取ることがおできになるからです。

5:2b私の王、私の神。私はあなたに祈っています。

 王であるダビデが、「私の王」と呼びかけています。自分がイスラエルの民の福利を考えて、民を守ることをいつも考えているように、神が自分自身を同じように守ってくださる願いをもって祈っています。

5:3 主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします。

 朝にいのる祈りは、うめきであり叫びであり、また備えや見張りをするような祈りである理由は次にあります。

2C 悪と住まない神 4−7
5:4 あなたは悪を喜ぶ神ではなく、わざわいは、あなたとともに住まないからです。5:5 誇り高ぶる者たちは御目の前に立つことはできません。あなたは不法を行なうすべての者を憎まれます。5:6 あなたは偽りを言う者どもを滅ぼされます。主は血を流す者と欺く者とを忌みきらわれます。

 これから敵がたくさんいるところに行くからです。神に敵対している世の中に出て行くからです。自分には決して対処することはできません。だからダビデは、言葉で、うめきで、また叫びで神に祈り始めたのです。

5:7 しかし、私は、豊かな恵みによって、あなたの家に行き、あなたを恐れつつ、あなたの聖なる宮に向かってひれ伏します。

 鮮やかな対比です。誇り高ぶり、不法、流血、欺きなどが満ちている世において、自分は神の家に、聖なる宮に行くと言っています。

 ここで注目していただきたい点は、ダビデは悪者に対する主のさばきを願う一方で、自分が神に近づくときは、「豊かな恵み」によるということです。悪者が悪者であり、自分が正しい者であるのは、相手よりも自分がよりすぐれているとか正しいからということでは決してありません。神によって正しくみなされたという神の恵みのゆえです。

2B 神に導かれて 8−12
1C 悪者の罪 8−10
5:8 主よ。私を待ち伏せている者がおりますから、あなたの義によって私を導いてください。私の前に、あなたの道をまっすぐにしてください。

 この世の中を歩めば、自分を襲いかかる悪者がたくさん潜んでいます。自分を高慢の中に、不義の中に、欺きの中に巻き込もうとする事柄がたくさんあります。

5:9 彼らの口には真実がなく、その心には破滅があるのです。彼らののどは、開いた墓で、彼らはその舌でへつらいを言うのです。

 口による誘いです。もっともらしいことを言いますが、実際は、死に至らしめるのです。

 ところでこの箇所はパウロがローマ書3章にて、全ての人が罪を犯して神の栄誉を受けることができないことを話すときに引用した言葉です。特定の悪人のことを話しているのではなく、人間全般がこのような堕落した性質を持っています。

5:10 神よ。彼らを罪に定めてください。彼らがおのれのはかりごとで倒れますように。彼らのはなはだしいそむきのゆえに彼らを追い散らしてください。彼らはあなたに逆らうからです。

 先に話しましたように、これは、これは自分の内にある不義との戦いの中で、悪いものを追い散らしてくださるようにお願いする祈りです。人に対する憎しみや仕返しの思いを吐露しているのではなく、神に逆らう要素が滅んでしまうように、という祈りです。

2C かばう愛 11−12
5:11 こうして、あなたに身を避ける者がみな喜び、とこしえまでも喜び歌いますように。あなたが彼らをかばってくださり、御名を愛する者たちがあなたを誇りますように。5:12 主よ。まことに、あなたは正しい者を祝福し、大盾で囲むように愛で彼を囲まれます。

 あらゆる不義の中で、主を信頼する者たちが神の愛の中で守られ、喜び歌いますようにと祈っています。新約聖書の中にも似たような祈りがあります。例えばピリピ1章にはこうあります。「私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現わされますように。(9-11節)」イエス様が現われてくださるときまで、彼らが霊的識別力をもって、純真で非難されることがなく、義の実にみたされるように、という願いです。

 こうして最初の五篇を読みましたが、恵みによって正しい者とされた私たちが、いつまでも神のみもとにいることができるように、神との親しい交わりができるようにという祈りであることが分かりました。悪者たちとの戦いがあります。それを自分で戦うのではなく、主が打ち砕いてくださるように祈ります。

「聖書の学び 旧約」に戻る
HOME