詩篇11−16篇 「主が避け所」


アウトライン

1A 逃げない信仰 11
   1B 追い迫る敵 1−3
   2B 見逃さない主  4−7
2A 言葉の攻撃 12
   1B へつらい 1−4
   2B 純化された御言葉 5−8
3A 続く悩み 13
   1B 主の目 1−4
   2B 豊かな恵み 5−6
4A 「神はいない」という者たち 14
   1B 腐敗 1−3
   2B 救いの叫び 4−7
5A 主とともに住む人 15
   1B 口における義 1−3
   2B 金銭における義 4−5
6A 主がすべて 16
   1B 自分の幸い 1−2
   2B ゆずりの地所 3−7
   3B すぐそばにおられる方 8−11

本文

 詩篇11篇を開いてください、今日は11編から16篇まで学んでみたいと思いますが、今日のメッセージ題は「主が避け所」です。それではさっそく11篇から読んでみたいと思います。

1A 逃げない信仰 11
11 指揮者のために。ダビデによる

 聖歌隊の指揮者のためのダビデの詩です。

1B 追い迫る敵 1−3
11:1 主に私は身を避ける。どうして、あなたたちは私のたましいに言うのか。「鳥のように、おまえたちの山に飛んで行け。

 ここの箇所はおそらく、ダビデがサウルから逃れているときに知人や友人らが語っている部分ではないかと思われます。鳥が危険を感じたら山々に飛んでいきます。同じように、身の危険があるから遠くに逃げていけば良いのでないか、と勧めています。

 ダビデがサウルから逃げている経路をたどると、彼は、初めは異邦人の地に行くことなく、イスラエルの地にとどまっているのが分かります。逃げているとき、モアブの王に自分の父母を託しました。けれども自分はユダの地に帰りなさい、という預言者の言葉を聞いてユダの地でサウルの手から逃げていました(1サムエル22:35参照)。彼は遠くに逃げようと思えばできたのですが、主がイスラエルに与えてくださった地に踏みとどまることを決断したのです。自分で逃げ場を探すのではなく、主を自分の逃げ場として踏みとどまりました。

 私たちが信仰の歩みの中で逃げ出したい気分になるときがあります。けれども、神さまの約束があるのですから、主の中に踏みとどまることが必要です。

11:2 それ、見よ。悪者どもが弓を張り、弦に矢をつがえ、暗やみで心の直ぐな人を射ぬこうとしている。

 世の中において「正直者は馬鹿を見る」と言葉があるように、心の直ぐな人はだまされ、馬鹿にされる傾向があります。悪者がそのような人たちの魂を射抜こうとしています。

11:3 拠り所がこわされたら正しい者に何ができようか。

 この拠り所とは何でしょうか?正しい者が頼っているのは、主ご自身です。そして主のみことばと約束があります。世において、これらのものが強いようには見えません。私たちの教会の集まりや祈り、聖書の言葉が、力強いものには到底思えません。

 今日も、巷では「ダビンチ・コード」なるものが出て、キリスト教の根幹を揺さぶるようなキャッチ・フレーズがあります。これまで隠されていたものが今、暴露されるようなでまかせを言っていますが、論拠としているものはみな、かつて出てきた古い異端の教えであり、とっくの昔にゴミ箱行きとなっているものです。

 しかし新しくクリスチャンになったばかりの人にとっては、信仰が揺らぐニュースであるかもしれません。自分が信じているものが真実であるのは聖書にある神の約束ですから、聖書の真正性、信憑性が揺らげばすべてが揺らぐことなる、ということです。はたしてそうでしょうか?

2B 見逃さない主  4−7
11:4a 主は、その聖座が宮にあり、主は、その王座が天にある。

 主は、人間の議論という箱の中に収まっているような方ではありません。この方は天の御座におられるのです。「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。(マタイ24:35」と主は言われました。彼らはちょっとした議論で、神を殺すことができると思っていますが、それは正反対で、彼らが拠り所としているこの地上、自然界が滅んでも、神とその言葉は残っているのです。私たちが目で見ている、もっとも強固で安定したもの以上に、天は強固で不動のところなのです。

11:4bその目は見通し、そのまぶたは、人の子らを調べる。

 主は人々をさばくために、ご自分の目で調べます。興味深いのは、まぶたが調べている、とかかれているところです。小さなものをじっくり観察するとき、眉をひそめて見ますが、それのことです。ちょうど研究者が顕微鏡を覗いているそのまぶたの動きを表しています。

11:5 主は正しい者と悪者を調べる。そのみこころは、暴虐を好む者を憎む。11:6a 主は、悪者の上に網を張る。

 先ほどは、悪者が正しい者のたましいを射止めようとしている場面がありましたが、今は、主が悪者の上に網を張って捕らえようとされています。

11:6b火と硫黄。燃える風が彼らの杯への分け前となろう。

 火と硫黄、また燃える風は、主が不義を裁くときに用いられるものです。ソドムとゴモラが火と硫黄で滅ぼされました。そして地獄、ゲヘナは火と硫黄があるところです。そしてエゼキエル書38章には、終わりの日にイスラエルの地に侵攻してくるゴグ・マゴグの預言があります。イスラエルは窮地に立たされますが、主がご介入されて、ご自分の怒りの火を吹きつけ、火と硫黄を降り注がせる、と言われています(19,22節)。

 私たちが窮地に立ったとき、私たちが逃げるのではなく、主がこれらの悪者をさばいてくださる信仰に立たなければいけない、ということです。

11:7 主は正しく、正義を愛される。直ぐな人は、御顔を仰ぎ見る。

 窮地に立たせられるとき、敵の顔を見るのではなく主の御顔を仰ぎ見ます。エズラ記にて、神殿の建築をしているユダヤ人たちに、周囲の住民たちが嫌がらせや脅しをかけました。一度目、彼らはその脅しに屈して止めてしまいましたが、預言者ハガイとゼカリヤの励ましによって再開しました。そのとき敵が再び詰め寄ってきたのですが、彼らはそのまま建築を継続しました。これが御顔を仰ぎ見る人々の姿です。遠くの山に逃げるのではなく、主を見上げながら踏ん張るのです。

2A 言葉の攻撃 12
12 指揮者のために。八弦の立琴に合わせて。ダビデの賛歌

 再び、礼拝の賛美で使う歌です。

1B へつらい 1−4
12:1 主よ。お救いください。聖徒はあとを絶ち、誠実な人は人の子らの中から消え去りました。

 周りに信仰者がいなくなってしまった、と叫んでいます。ダビデは、聖徒や誠実な人が殺された知らせを受けたことがあります。祭司アヒメレクとその他85人の祭司が殺されたことです。エドム人ドエグが手を出しました。

12:2 人は互いにうそを話し、へつらいのくちびると、二心で話します。12:3 主が、へつらいのくちびると傲慢の舌とを、ことごとく断ち切ってくださいますように。

 サウルの耳に言い含める者たちはみな、サウルにへつらっていました。サウルを心から尊敬していたのではなく、ただへつらっていたのです。こうした言葉を、ことごとく断ち切ってしまいますようにとダビデは祈っています。

12:4 彼らはこう言うのです。「われらはこの舌で勝つことができる。われらのくちびるはわれらのものだ。だれが、われらの支配者なのか。」

 人は言葉で同じ人間を支配することができます。この世の権力者、また金持ちはどれだけその雄弁な口によって人々を動かしてきたことでしょうか。言葉には力があります。そこで彼らは、舌と唇でもって勝つことができる、と高ぶっているのです。

 私たちもダビデと同じように、周りにクリスチャンがおらず孤独感を味わったことがあるかもしれません。人々が語っている言葉には真実がありません。ただ表面をすべらすだけの言葉しか聞こえません。そのようなとき、私たちは何に頼れば良いでしょうか?そうですね、人の言葉ではなく、神の言葉です。

2B 純化された御言葉 5−8
12:5 主は仰せられる。「悩む人が踏みにじられ、貧しい人が嘆くから、今、わたしは立ち上がる。わたしは彼を、その求める救いに入れよう。」

 悩み人や貧しい人の嘆きの声を、主はきちんと聞いてくださっています。現代でこそ、弱いところに置かれた人々が訴える場が少しは与えられていますが、それはごく限られています。しかし、主は聞いてくださっています。

 出エジプト記にて、イスラエル人たちがエジプトでの労役でうめき、わめいていたその声が神に届いて、神が救いのご計画を実行されることが書かれています(2:2324)。ヤコブへの手紙には、畑の刈り入れをした労働者の未払い賃金が叫び声をあげ、問いいれをした人たちの叫び声が万軍の主の耳に届いている、と書かれています(5:4)。彼らは必ずしも、祈りという形で叫んでいるのではなく、ただ叫んでいるのです。その声は普通なら空気の中に消えていくと私たちは思うのですが、主は聞いておられるのです。

12:6 主のみことばは混じりけのないことば。土の炉で七回もためされて、純化された銀。

 ここです、主のみことばは、人間のへつらい、傲慢の舌とは対照的に、純化されています。どんなにどんなに試されても、それでもなお真理として残っている言葉です。なんとすばらしいことでしょうか!私たちは、この誰の言葉もまともに信じられない世において、この方の言葉には全幅の信頼を寄せることができるのです。

12:7 あなたが、主よ、彼らをお守りになります。あなたはこの時代からとこしえまでも彼らを保たれます。12:8 人の子の間で、卑しいことがあがめられているときには、悪者が、至る所で横行します。

 悪者がはびこるときは、必然的なものであるとダビデは言っています。卑しいことが一般にあがめられているときに、悪者が横行するのです。新聞で、凶悪犯罪などを糾弾する社説などが掲載されりしますが、なんと浅はかなことであろうと思います。子供を性的に痛めつけ、殺したことを非難するなら、なぜ幼児ポルノをはびこらせている今の体制を糾弾しないのでしょうか?自分たちが可愛いからです。性についてだらしないからです。結婚まで貞潔を守ろうとしている人、中絶に反対している人たちを馬鹿にしているからです。卑しいことがあがめられているために、悪者もはびこるのです。

3A 続く悩み 13
13 指揮者のために。ダビデの賛歌

1B 主の目 1−4
13:1 主よ。いつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。いつまで御顔を私からお隠しになるのですか。13:2 いつまで私は自分のたましいのうちで思い計らなければならないのでしょう。私の心には、一日中、悲しみがあります。いつまで敵が私の上に、勝ちおごるのでしょう。

 ここに四回も、「いつまでですか」という言葉があります。この13篇は、長く、持続的になっている試練、困難に耐えているときの詩歌です。

 ダビデは、主が自分に顔を向けてくださっていないと感じています。私たちも困難の中にあるときに、主がどこにおられるのかわからないという感覚を持つと思います。その時に、自分自身の中で苦悶しなければいけません。だから、「自分のたましいのうちで思い計っている」とダビデは言っています。

13:3a 私に目を注ぎ、私に答えてください。私の神、主よ。私の目を輝かせてください。

 主が自分に目を注いでくださったら、また主が答えてくださったら、自分の目が輝くことができるのに、と言っています。私たちはどんな状況のときにも、主が自分に語ってくださっているという確信を持つことができたら、目を輝かすことができます。私たちの課題は、自分の状況が良くなることではなく、主からの明確な言葉をいただくことです。

13:3b私が死の眠りにつかないように。13:4 また私の敵が、「おれは彼に勝った。」と言わないように。私がよろめいた、と言って私の仇が喜ばないように。

 三つのことをダビデは話していますね。一つは「死の眠りにつかないように」ですが、実際に死んでしまう危険を彼は感じていました。二つ目は、敵が自分に勝利が与えられたと思わないようにです。主のうちにいる者たちは、圧倒的な勝利者であるとパウロはローマ人への手紙8章の中で言っています。けれども、敵が勝利したかのような状況ができてしまったら、どうするのですか?という問いかけです。

 そして三つ目に、自分がよろめくことによって仇が喜ばないように、です。私たちが霊的によろめいたら、敵が喜びます。ダビデがバテ・シェバと寝て、その後ウリヤを殺したことで、預言者ナタンは、「主の敵に大いに侮りの心を起こさせた(1サムエル12:14」と言いました。そうならないように、どうか目を輝かせてください、とダビデは祈っています。

2B 豊かな恵み 5−6
13:5 私はあなたの恵みに拠り頼みました。私の心はあなたの救いを喜びます。

 祈りは聞かれたようです。ダビデは、「恵み」に拠り頼みました。私たちが自分の今の状態、自分の行ないや力に拠り頼んだら、耐えることはできません。けれども、自分の功績ではなく一方的に好意を寄せてくださっている神の好意によりすがるなら、耐えることがでいます。

 そして、「あなたの救いを喜びます」とあります。明らかにダビデは、まだ困難な状況の中にいて救われていない状態です。しかし、主が語りかけてくださったから、救われる確信が与えられたのです。こうやって私たちも守られます。パウロは、後に来る神の栄光を思って大いに喜びましたが、「患難さえも喜ぶ」と言いました(ローマ5:2)。

13:6 私は主に歌を歌います。主が私を豊かにあしらわれたゆえ。

 「私を永久にお忘れになるのですか」と言ったダビデは、今、主に歌をうたっています。困難の中にいても歌うことができるのです。覚えていますか、パウロとシラスがピリピにて牢獄に入れられました。そのとき牢屋の中で彼らが神に賛美していたら、地震が起きたのです。そして、看守が悔い改め、主イエス様を家族といっしょに信じました。

4A 「神はいない」という者たち 14
14 指揮者のために。ダビデによる

1B 腐敗 1−3
14:1 愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。善を行なう者はいない。

 この「愚か者は、神はいない、と言っている」という言葉で、面白い思い出があります。アメリカは車社会で、人々はよく車のバンパーにステッカーを貼って、自分の主張や思いを他の人に表明したりします。クリスチャンはよく、魚のマークのステッカーを貼ります。魚の中にJESUSの名前があるものです。そこで、クリスチャンではない人は、その魚に足を付けて、DARWIN(ダーウィン)と書いてあるものです。そして、そのステッカーに対抗するクリスチャンのステッカーを見つけました。その足付きのダーウィンの魚が逆さに倒れていて、そしてここの箇所、「愚か者は、『神はいない』と言っている。」という御言葉が書かれているのです。

 その通りですね、ローマ人への手紙1章において、被造物において神の永遠のご性質が明らかにされているのに、神を神として認めず、思いをむなしくして心は暗くなった、と書かれています。その結果、偶像を作り、あらゆる忌まわしいことを行なっている、とあります。

 この社会に貢献しているもの、例えば病院であるとか学校において、無神論者が無神論を標榜して建てた病院や学校があるでしょうか?ないですね。無神論を信奉する国がありますが、その状態は荒廃しています。

14:2 主は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。14:3 彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐り果てている。善を行なう者はいない。ひとりもいない。

 ここは、パウロが全ての人が罪を犯したことを論じているところで、引用されている箇所です。善を行なう者は一人もいない、のところです。

 主は、自分のことを知っている人だけでなく、尋ね求めている人はいるかどうか探しておられますが、だれもいませんでした。求めることさえ、行なっていないということです。多くの人が、私は神のことは分からない、聖書のことは分からない、といって信じないことの理由にしていますが、まず求めることさえもしていないのが問題なのです。「神さま、あなたがおられるのでしたら、私に現われてください。」という一言の祈りさえささげていないのであれば、どうして神のことを知ることができるでしょうか?

2B 救いの叫び 4−7
14:4 不法を行なう者らはだれも知らないのか。彼らはパンを食らうように、わたしの民を食らい、主を呼び求めようとはしない。

 神を求めない者たちは、道徳的に腐敗するだけでなく、神の民を迫害するようになります。けれども、迫害をしながら彼らは信仰者を恐れるようになります。次をご覧ください。

14:5 見よ。彼らが、いかに恐れたかを。神は、正しい者の一族とともにおられるからだ。14:6 おまえたちは、悩む者のはかりごとをはずかしめようとするだろう。しかし、主が彼の避け所である。

 主を自分の避け所としている、その聖徒の姿を見て、迫害しているほうが恐れるようになります。ひどい目にあっているのに、その人からにじみ出てくる輝きがあります。威厳があります。ハマンがモルデカイを迫害していたとき、毅然としていたモルデカイに彼は恐れを抱いたことでしょう。

14:7 ああ、イスラエルの救いがシオンから来るように。主が、とりこになった御民を返されるとき、ヤコブは楽しめ。イスラエルは喜べ。

 神を信じない愚か者がいるとき、道徳な腐敗が蔓延しているとき、そして迫害があるとき、私たちはダビデと同じように、救いがシオンから来るように、と祈ります。主が、「御国が来ますように」と祈りなさいと言われたものと同じです。イスラエルが回復します。そしてその他のものも回復します。

5A 主とともに住む人 15
15 ダビデの賛歌

1B 口における義 1−3
15:1 主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。

 質問をしています。そして2節以降に回答があります。

 この「あなたの幕屋」とは何でしょうか?神殿が建てられる前に、契約の箱を安置するためにダビデが作った幕屋です。そして「聖なる山」とはシオンの山のことです。また、終末においては幕屋とは、主が住まわれる神殿であり、聖なる山とは主がおられるところのエルサレムです。霊的には、私たちクリスチャンが、神の御霊が宿られる神殿です(1コリント3:16)。

 どのような形であれ、主とともにいて、主との交わりをする人はだれか、という質問をダビデはしています。

15:2 正しく歩み、義を行ない、心の中の真実を語る人。

 ダビデは、正しい人についての特徴を列挙しています。私たちは、恵みによって救われたのであり、もし完璧さを求められたら神と交わることはできません。けれども、不完全な中にいても、へりくだって、誠実に主に仕えている中で、神との交わりを楽しむことができます。ヨハネの手紙第一にこう書いてあります。「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。(1:5-7」御子の血によって罪をきよめられつつ、光の中を歩みます。

 そして具体的に、義を行なう方法として、心の中の真実を語る人とダビデは言っていますが、続けて口における正しさについて話されています。

15:3 その人は、舌をもってそしらず、友人に悪を行なわず、隣人への非難を口にしない。

 「そしり」をしない、ということです。友人に対してもそうだし、知り合いでなくても周囲の人、隣人について悪いことを言わない、ということです。

2B 金銭における義 4−5
15:4a 神に捨てられた人を、その目はさげすみ、主を恐れる者を尊ぶ。

 神が悪とみなされているものを悪とみなし、尊ばれているものを尊ぶ姿勢です。私たちの付き合いがどのようになっているでしょうか?自分の得になるからといって、自分自身は悪を行なわなかったとしても、悪いことをしている人と手を組むことはないでしょうか?霊的な事柄を優先させた付き合いになっているでしょうか?

15:4b損になっても、立てた誓いは変えない。

 約束、契約を守るということです。人との約束の中で、初めに約束したことより、後で出てきたことが良くなって、初めに約束した約束を取り消してもらうように連絡したことはないでしょうか?やむを得ず変えなければいけないことはあるでしょうか、自分の損得で変えるようなことがあってはいけません。

15:5a 金を貸しても利息を取らず、罪を犯さない人にそむいて、わいろを取らない。

 銀行などの利息そのものについての話ではなく、友人関係、特に教会におけるお金の貸し借りにおいて利息は付けてはいけません。ネヘミヤ記にて、ユダヤ人の間で同じユダヤ人を奴隷にしていたことが発覚し、それをネヘミヤはきつく叱りましたが、利息を付けることによって従属関係が生まれます。また利息をつけるのは商売をしているのと同じです。

 そして、もちろん賄賂は取ってはいけません。スポルジョンの詩篇についての注解を読んでいたら、「東洋にある習慣である」と書かれていましたが、その通りですね。東洋の人たちは、人間関係の潤滑油のために、お金であるとか接待であるとか、その他、賄賂に準ずるようなことをするのが当たり前になっています。しかし、賄賂はいけないことです。

15:5bこのように行なう人は、決してゆるがされない。

 以上のことを行っている人は、主の幕屋に住めるだけでなく、揺るがされることはないとの約束があります。第一ヨハネにこう書いてあります。「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。(2:17

6A 主がすべて 16
16 ダビデのミクタム

 ミクタムの意味は明らかではありません。詩篇の数箇所に出てきます。

1B 自分の幸い 1−2
16:1 神よ。私をお守りください。私は、あなたに身を避けます。16:2 私は、主に申し上げました。「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」

 これまで、敵からの守りについて祈りをダビデは行ってきました。主ご自身を避け所とすることについて話しました。そしてこの詩歌では、避け所としている主ご自身の中に、何があるかについて話しています。ダビデは、「私の幸い」があると言っています。すべての良きものが主の中にあります。「あなたこそ」「あなた」というふうに、主ご自身が幸いである、主が源であることを強調しています。

 ある私の知り合いのクリスチャンのところに、モルモン教の人が来ました。その人がクリスチャンであることを知って、モルモン教の人は「イエス様はあなたにとってどんな人ですか?」と聞いたそうです。彼は、「キリストはどんな人、というか自分にとっての全てだよ。」と答えました。私も、モルモン教の宣教師とハワイで会ったことがありますが、彼は、「日本にはもっと善良な人たちが必要だ。」と言いました。私は、「善良な人たちが必要なのではなく、イエス様が必要です。」と答えました。主ご自身に、すべての良きものがあるからです。

2B ゆずりの地所 3−7
16:3 地にある聖徒たちには威厳があり、私の喜びはすべて、彼らの中にあります。

 主をあがめている人々の中にいることは、喜びです。聖徒たちには威厳があるとダビデは言っていますが、パウロもテサロニケの信者に対してこう言いました。「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。(1テサロニケ2:19-20

16:4 ほかの神へ走った者の痛みは増し加わりましょう。私は、彼らの注ぐ血の酒を注がず、その名を口に唱えません。

 信仰から離れてしまった人々が持つ痛みについて話しています。金銭を愛することも一種の偶像ですが、パウロはこう言っています。「ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。(1テモテ6:10」激しい痛みをもとないます。

 そして、「血の酒を注がず」とダビデは言っていますが、レビ記にてイスラエル人は血を食べてはならないと、厳に戒められています。理由は、異教の神々に仕えるとき、儀式の中で血を飲むことがしばしばあったからです。そのような異教の神々に仕えるように見えることもしない、とダビデは言っています。

16:5a 主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。

 主ご自身がゆずりの土地です。ダビデは、主によって財産が与えられることよりも、主ご自身を財産だと考えていました。私たちは、主ご自身よりも、主についての祝福を喜ぶ傾向があります。しかしすべての祝福の源に目を留めるべきです。

16:5bあなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます。

 神様の私たちに対する相続は、堅く保たれています。ペテロがこう言いました。「また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。(1ペテロ1:4-5

16:6 測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。16:7 私は助言を下さった主をほめたたえる。まことに、夜になると、私の心が私に教える。

 ダビデは、主との秘めた交わりを、本当に喜び楽しんでいることが伝わってきます。夜に、静まったとき、主のことを考えて思いを巡らしていながら、主から語られ、助言が与えられます。それを彼は非常に喜んでいるのです。

3B すぐそばにおられる方 8−11
 そしてダビデは、主がともにおられることを今からとこしえまで楽しむという告白をしています。

16:8 私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。

 自分の前に主を置く・・・すばらしいですね。私はしばしば、自分の前に何も置かないで、人と話したりしてしまいます。そうすると、言わなくてよいことを言ってみたり、自分が言ったことで後悔してみたり、良いことはないです。けれども、自分の前にいつも主を置いていれば、そんな失敗はないです。

 主を前に置くことによって、主が右にいてくださいます。主がいろいろ助言してくださるし、主が助けてくださいます。

16:9 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。

 主が右にいてくださることによって、三つの結果が出ます。一つは「喜び」です。いつも喜んでいることができます。次に「楽しみ」です。うれしい、と言い換えてもよいでしょう。そして三つ目は、平安です。「安らかに住まおう」と言っています。

16:10 まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。

 復活の約束です。よみに捨てておかず、墓の穴も見せることはない、というのは生き返る、ということです。

 実はこの御言葉は、ダビデ自身のことを超えて、キリストの復活の預言であることをペテロは話しています。ペンテコステのとき、聖霊が祈っている弟子たちに臨まれました。彼らが外国の言葉で話し、世界中からペンテコステを祝うユダヤ人たちが驚いてその光景を見ていました。そこでペテロは立ち上がって、これはヨエルの預言の成就であることを話しました。

 そこは、ちょうどダビデの墓があるところです。彼はダビデが語ったこの詩篇について、ダビデ本人のことではないと言いました。使徒の働き2章を開いて、そこの箇所を読みましょう。「しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。ダビデはこの方について、こう言っています。『私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう。あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。 あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。』」今、私たちが読んだ詩篇の箇所です。

 兄弟たち。先祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。」ダビデの墓の上の部屋で彼は話していますから、説得力がありました。「彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。』と語ったのです。神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。2:24-32」それでは、最後の11節を読みましょう。

16:11 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。

 死んだ後にも生きることができ、主のご臨在を楽しむことができるという約束です。「いのちの道」とは永遠のいのちへの道のことですね。主を知ればいのちの道がわかるのは、主ご自身がいのちの道だからです。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。(ヨハネ14:6」と主は言われました。

 そして、「あなたの御前には喜びが満ち」とありますが、私たちが主にお会いするとき、顔を顔を合わせてお会いするとき、「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。(マタイ25:21」と言われます。この喜びは、私たちの喜びだけでなく、主ご自身の喜びでもあります。

 そして「あなたの右には、楽しみがとこしえにあります」とあります。主が地上に再臨された後、国々の民を選り分けます。右にいる者らにこう言われます。「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。(マタイ25:34」主の楽しみです。主が備えておられる相続です。

 私たちが、この世における歩みで、嫌になることがたくさんあります。周りのことで嫌になることもあれば、自分自身が嫌になることもあります。けれども、あなたの右には楽しみがとこしえにあるという御言葉を思い巡らしたいです。ダビデは、主を避け所とすることによって、そのようなあらゆるストレス、悩みから守られました。


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