「人」ではなく「神」 2007/06/28

主のみわざは偉大で、そのみわざを喜ぶすべての人々に尋ね求められる。(詩篇111:2

 ここの「尋ね求められる」の言葉は、英語の聖書だと”studied”つまり、「勉強されている」「研究されている」と訳されている。神のみわざを喜ぶ人々が、神のみわざをしっかりと学んでいる、という意味になる。

 これが人の業が中心になるとき、それを聖書は罪と呼び、バベルの塔という出来事が起こり、終わりの日の「六百六十六」という数字になる(6は人間を表す数字)。そして今、人間が中心となる世界になりつつある。


歴史的に見る日本の教会

 日本はもともと、神ではなく人を見る精神土壌があるため、キリスト教が広まらないでいる。カトリックが入ってきた時は、戦国時代という不安定な社会だった。人間に対して、根本的な不信を抱いていた。このような時は、自分だけを追及し、自分の利益だけを求めていくしかなくなるが、その逆に神を求め、神の義を求める選択も与えられる。

 彼らの関心事の中に、「神」「死後の世界」「霊」などがあった。神父と仏僧の論争の話題は、このような真理の中核を成す内容であった。キリシタンの幼子は、「パライソ(=パラダイス)」と言って、刀が自分の首に振り落とされる直前まで、満面の笑みを絶やすことはなかったそうである。「地上」の事柄ではなく「天」であり、「肉」の事柄ではなく「霊」の事柄を求めていたのだ。

 二百五十年ぐらいの鎖国を経て、開国されてから、プロテスタントの宣教師が入ってきた。宣教師は学校を設立させていった。信仰者の多くが知識人であった。そしてその神学は自由主義神学という、聖書の言葉を全てそのまま信じるのではなく、自分の心の中にだけとどめておく考えが主流になった。福音的な考えや根本主義は、常に周辺に追いやられていた。

 そして仏教の世界の中でも起こった事だが、「教え」ではなく「教えている人」に焦点が行く傾向を持つようになる。現代でも伝道をすると、伝道相手から「そのような言い方をすると、人々に信じてもらえませんよ。」などと言うアドバイス(?)を受ける。伝道している内容(神について、罪について、イエス・キリストについてなど)は関心事になりにくい。核心へと至らせることを許さない、強固な悪魔の要塞が日本には横たわっている。

 当時の文部省によって、キリスト教の根本的教義が一つ一つなし崩しにされていった。復活は馬鹿らしい話なので話さないように、というお達しが来た。また再臨は心の中でキリストが主となる霊的再臨であるという言い逃れを、教役者が裁判の場で行なっている。

 それが実となって現われたのが、神社参拝である。大勢のキリスト者が参拝に出かけた。一握りの人々が拒んだら、マスコミに取り上げられ、ついにキリスト教会の者たちまでが拒んでいる人々を冷ややかな目で見るようになった。


教会の中で「心理学」や「精神医学」がもてはやされる理由

 アメリカにいる無神論者は、高い比率で、その職業がソーシャル・ワーカー、心理学者、精神学者、社会学者であるそうである。その理由は、最初に引用した詩篇の箇所とは反対のこと、つまり、神ではなく、堕落した人間を対象に研究しているためである。

 これらの学問は基本的に神を学ぶキリスト教とは相容れない。けれども、いつしか教会の中にこれらの学問が取り組まれるようになった。実際、「神は誰か」「神はどのような働きをされるのか」の類の神を対象にする本は、キリスト教書店で隅に追いやられる。小難しい神学や教理の本として、まるで神学生や教役者のみによって読まれる本であるかのように扱われる。

 代わりに、人間関係や人間の心を扱った本を出版するや、その本は数多く売れる。人々の心が、「神」ではなく「人」に向かっているためだ。

 そして、クリスチャン対象に語られたとしても、人の心理や精神構造を取り扱うとき、細心の注意を払わなければ、容易にバランスを崩す。なぜなら、キリスト教の基盤である聖書は、人ではなく神の御業に焦点を当てているからだ。そして聖書が語る知恵とは「人」に注意を払うことではなく、神に細心の注意を払うことであり、それが「神を恐れる」ことなのだ。

 以前、人間と人間の間に、越えてはならない、ある一定の心理的な線があることを話題にした本が出版された。私はそれに目を通した時、何ともいえないもどかしさを感じた。人間関係の改善が最終目的になっているような気がしたからだ。果たして、聖書に登場する義人や聖徒らは、人間と人間の間にあるその距離を健全に保てていたのであろうか?アベルはカインから殺された。ヨセフは、兄から憎まれた。ダビデはサウルからの憎しみを買った。そして何よりも、聖徒ではなく聖なる方ご自身であられる主が、パリサイ派や律法学者と仲良くなることは出来ず、彼らに殺された。また主に従うパウロは、ユダヤ人から憎まれ、追われた。聖書の最終目標は人間関係の改善でないことは、これらの例からでも明らかだ。

 おそらく、現在の心理学や精神学の分析を施せば、ダビデにもヨセフにも何らかの問題を見つけることができよう。けれども、聖書は、ヨセフが兄に自分の夢のことを無邪気に話したことを咎めていない。むしろ聖書は、その後の彼の人生に「主がともにおられた」ことを大きく取り上げている。そして、「あなたがたは悪を計ったが、神が善に変えてくださった。」という深遠で偉大な、神の主権と御業への賛美へと至っている。

 ダビデは、神に愛された者だった。けれども自分の心の中をこねくり回すことによって、神に愛されたのではなく、自分のありのままの姿でただ神の前に泣いて、悔い改め、へりくだり、ひたすら前に向かって進んでいっただけだ。そしてもっと大事なことは、一方的なあわれみで神がダビデを選び、その世継ぎの子をメシヤにされたという事実だ。この、とてつもなく大きい神の恵みが彼の生涯のテーマなのだ。

 「人の心」が聖書の中心なのではない。詩篇を読み続ければ、そこには害毒や傷があるだけだ。なのに、その心を健康状態にしようとあれこれいじろうとするのが、心理学であり精神医学だ。そうではなく「神の心」に注目すべきだ。「初めに、神は・・・」と聖書が始まるように神が主体であり、神が主人公であられるのが我々のすべてであり、そこにあわれみと恵みがある。

 これが分からなければ悔い改めさえもできない。「神の慈愛があなたを悔い改めに導く。(ローマ2:4」とある通りだ。聖書を使ったカウンセリングさえ、その対処法がどんどん、神の恵みに対する応答ではなく、恣意的で人為的な心の操作に陥る傾向を持っている。しかも、「聖書」とか「神」とか「キリスト」という名の下でそれが行なわれていく。


国民性

 神はそれぞれの国民を造り出され、特別にイスラエルを造られた。それぞれに特色があり、それはすばらしいことだ。しかし、それぞれは肉であり、肉の誇りとなってキリスト教会の中にも出てくる。日本でカウンセリングがはやっているのは、それは日本人の内向的な性格にも起因している。キリスト者である前に、日本人の気質が前面に出ているから、とも言える。

 ある韓国人の知り合いが以前、「なんで、日本ではカウンセリングがこうも流行っているんだろうね。」と言っていたが、韓国にもその民族的な弱さがある。「ヨルシミ(熱心)」という言葉を、韓国語が分からない人でも説教の中で何度も出てくることに気づくはずだ。熱心に祈って、熱心に教会に通って、となる。一見、活発に見える韓国の教会だが、そこにいると息苦しくなってくる。それは、人間の熱心によって、人に対する神様の熱情が見えなくなってしまうからだ。神さまがどれだけ愛してくださって、良くしてくださっているのかが見えなくなってきてしまうのだ。これもまた、神ではなく人に重点が置かれている為である。


Seeker Friendly

 そして人中心の動きは別の形でもアメリカから世界中に広がっている。いわゆるseeker friendly movement(求道者向けの友好的な運動?)だ。これは、教会の壁を外して、教会と別世界で生きている人々が教会に来ることができるように、快適な環境を提供する伝道方法だ。しかし、それは同時に「世」を教会の中に取り組むことになる。聖書の真理は、人々の心を突き刺すものだから、聖書がなかなか語れなくなる。また、「自分を否む」ことが弟子だから、弟子作りができなくなる。そして、礼拝はコンサートになり、テレビのショーを見ているのと同じエンターテイメントとなる。


「目的志向」の罠

 これは、「目的志向(Purpose Driven)」という名前でも知られている動きだ。Driven(=突き動かされる)という言葉自体に、何か後ろからせっつかれて、プログラムをこなしていく印象を持つが、まさにそれがこの動きの本質である。たとえ良い目的のためであっても、自分の行為をプログラム化させ、また教会の運営をプログラム化させていくうちに、ご聖霊がどのように導かれているか、その導きが見えなくなる。コリント第一12章にあるように、ご聖霊にも主権がおありで、ご自分がなされるままに賜物を与えられ、各人を通して働きを行なわれる。我々の行為が主体となるのではなく、神の行為が主体となっているのが教会だ。必ず、この中の動きでは「燃え尽き」が起こってくる。


人間の手による神の国??

 そして、これを環境や貧困問題など社会活動と結びつける動きも起こっており、これも人間の行為が主体となっている。そして神の国を人間の努力によってもたらすという終末のビジョンを描くようになる。その指導者は、世界の諸国の政治指導者と会見しているが、それは神の国の拡大の一環であると考えているからだ。

 このような運動は、今でも、迫害の中に生き、信仰の自由が保障されていない国々では適用できない。人々に自分たちの行為を見せるよって教会を知ってもらおうという方法をそのような国で取ったならば、たちまち取り締まりが入り、すべての教会活動は停止してしまうからだ。

 その代わりに、その指導者は世界の国の政治指導者と会見するという表舞台を選んでいる。しかしその相手は、その国で真の兄弟姉妹たちを迫害している専制君主である(例えばスーダン、シリア、北朝鮮など)。右の手でしていることを左の手に知られないようにしなさい、という主の御言葉に反してしているそれらの行為は、黙示録17章に現われるバビロンの大淫婦の行為と変わらなくなってしまうのだ。(彼女は、国々の王と結びつき、預言者や聖徒の流血に加担している姿を表している。)


「ポスト・モダンの時代に???」

 この商業的なseeker-friendly movementに次いで、「人間の行為」ではなく「人間の感覚」に訴えるEmerging Churchなどの動きも出てきた。これは、現代は、科学を信奉する近代・合理主義を通り越した「ポスト・モダニズム」の時代であるため、伝道方法も従来の言葉による勧めではなく、イメージに訴えたり、質問を引き出したりする手法を使う。強く訴え出ないのがその特徴だ。これもまた、人間の作為的な行為だ。


「傷ついた、貧しい者が祝福に」

 現代の「人間」を中心にした傾向が、どんどん福音を受け入れさせない素地を作らせている。実はかつてクリスチャンが増えた所でも、頭打ちか、下がり傾向になっているところで以上の動きが盛んなのだ。

 しかし現在、爆発的にクリスチャンが増えている地域がある。それは、貧しくて、疎まれて、誰の相手にもされていないであろう人々の間で増えている。イスラム教国や共産国、ヒンズー教や仏教の国々においてだ。マスコミは、これらの情報ではなくその反対の出来事をしきりに出しているため、クリスチャンでさえもがだまされて世が提唱する平和を信じ込んでいる。例えばイラクには、福音的な教会がいくつも建てられている。核危機で騒がれているイランでも、その激しい圧迫の中にも関わらず、地下教会が勢いを増している。

 詩篇の中でしきりに持ち出されているのが、抑圧された人々、圧迫された人々、神に対する希望を裏切られているようかに見える人々、貧しい人々だ。これらの人々に大きくな慰めと報いがあることが語られている。そこでは人間が中心になっていない。状況が状況だから、中心になりえないのだ。その代わりに神の栄光が際立つ。


日本にも苦しんでいる人が・・・

 日本においても同じだ。経済的には豊かそうで、社会的には安定しているかにみえる日本の中でも、苦しんでいる人々はたくさんいる。その人の心の飢え渇きがキリストによって満たされたら、たった一人でもなんという幸いだろうか!そしてその人をキリストに導く一人のクリスチャン、また伝道者や牧会者の働きは何と貴いことだろうか!!

 静かでいい、地道でいい、神のみことばとその恵みによって変えられる人々が出てくるとき、日本の状況が全然変わっていないように見えていながら、実は神の御業が広がっているという不思議を見ることになるだろう。


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