詩篇25−29篇 「私の救い」


アウトライン

1A 憐れみによる救い 25
   1B 待ち望む 1−3
   2B 道を示していただく 4−15
      1C 祈りによって 4−7
      2C 主のご性質によって 8−15
   3B 苦しむ 16−22
2A 誠実な歩み 26
   1B 主の試み 1−8
   2B 罪人からの救い 9−12
3A 敵の前で 27
   1B 救いの確信 1−6
      1C とりでなる主 1−3
      2C 主の家での時間 4−6
   2B 忍耐 7−14
      1C 御顔を求める 7−10
      2C 道を求める 11−14
4A 悪者からの救出 28
   1B 主への叫び 1−5
   2B 主からの助け 6−9
5A 主の声 29
   1B 栄光の献上 1−2
   2B 洪水時にある御座 3−11

本文

 詩篇25篇を開いてください、今日は25篇から29篇までを学びます。ここでのテーマは、「私の救い」です。前回は、メシヤの働きが中心に描かれた詩篇を読みました。25篇からは、個人的な祈りの詩篇に入っていきます。それでメッセージの題は、単なる救いではなく、「私の救い」という個人的なものであることを強調しています。

1A 憐れみによる救い 25
25 ダビデによる

 第25篇は、ダビデがアブシャロムに追われて、エルサレムを後にして逃げているときの祈りではないかと言われています。

 これまで読んだ詩篇は、サウルに追われて逃げていたものが多かったです。そこでは、自分の潔白を主に証明していただき、主が正しくさばいてくださいますように、という主の正義、公正を願うものがほとんどでした。けれどもこの詩篇では、神の恵みとあわれみによって、アブシャロムの手から救い出されることを願っています。

 その違いは、アブシャロムが自分を追っているのは、自分が犯した罪に遠因があるからです。ナタンが、ダビデがウリヤの妻を奪い取った罪を指摘したとき、ダビデは罪の告白をしました。そしてナタンはその罪が主によって赦されたことを宣言しました。

 しかし、その罪によって次のような災いが来ることをナタンは預言しました。「主はこう仰せられる。『聞け。わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす。あなたの妻たちをあなたの目の前で取り上げ、あなたの友に与えよう。その人は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる。』(2サムエル12:11」ダビデの妻たちと寝たのは、自分の息子アブシャロムであり、それをそそのかしたのは、彼の議官アヒトフェルでした。

 ですから、ダビデは自分がアブシャロムに追われている苦境から救い出されるために、自分の潔白さを主に訴えることはできませんでした。主の恵みとあわれみによって救われることを祈ったのです。

1B 待ち望む 1−3
25:1 主よ。私のたましいは、あなたを仰いでいます。25:2 わが神。私は、あなたに信頼いたします。どうか私が恥を見ないようにしてください。私の敵が私に勝ち誇らないようにしてください。

 「私の敵」は、今説明しましたようにアブシャロムの陣営です。彼らが勝ち誇らないように、と願っています。

25:3a まことに、あなたを待ち望む者はだれも恥を見ません。

 「待ち望む」という大切な言葉が出てきました。私たちの祈りや願いは、すぐにその答えを見るわけではありません。だから、私たちは何度でも主の前に出ていきます。主に何度でもお願いします。答えを見なくても、ずっと主に期待します。この状態を「待ち望む」と言います。主からの救いを望んで、待っている状態です。

25:3bゆえもなく裏切る者は恥を見ます。

 「ゆえもなく裏切る者」とは、アブシャロム、アヒトフェルなどの敵どもです。彼らは微妙な立場にいます。今、話したように、遠因はダビデの罪によるものですが、だからといってアブシャロムやアヒトフェルが行なっていることが正当化されるのではありません。彼らが行なっていることは、直接的には、ゆえもない裏切り、謂れのない裏切りです。彼らはダビデによって直接被害が与えられたわけでもなく、自分たちの悪い心で行なっているものです。

 自分は被害を受けている立場なのだから、何を行なっても構わないという理屈が、悪いことを行なっている人々の間にまかり通っています。確かに、自分がおかれていた環境はひどかったでしょう。けれども、そのような不遇の中でも、愛と希望と信仰を持つことができるようにする力と自由が、主イエス・キリストの中にはあります。自分の罪を環境や他の人のせいにするのではなく、自分が犯したものであると責任を認めたときに、初めて私たちに罪からの解放が与えられます。

2B 道を示していただく 4−15
1C 祈りによって 4−7
25:4 主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください。

 これからどう動いていけばよいのか、その道を主よ、教えてくださいという祈りです。私たちがよかれと思ってやることが、必ずしも正しい道ではありません。むしろ、滅びの道、暗闇であることが箴言の中に書かれています。「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。(16:25」だから、自分の行くべき道を絶えず、主に確認しなければいけません。

25:5a あなたの真理のうちに私を導き、私を教えてください。

 正しい道だけでなく、真理も神だけに存在します。本当のこと、真実は何であるのか、偽りではなく本当の事に自分をゆだねたい、という願いは多くの人にあると思います。しかし、それも自分だけでは知ることはできません。聖書には、ご聖霊が私たちを真理に導かれることが書かれています。「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。(ヨハネ16:13

25:5bあなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望んでいるのです。

 先に話しましたように、祈りの答えがすぐにないように見えたら、待ち望みます。一日中待ち望みます。

25:6 主よ。あなたのあわれみと恵みを覚えていてください。それらはとこしえからあったのですから。25:7 私の若い時の罪やそむきを覚えていないでください。あなたの恵みによって、私を覚えていてください。主よ。あなたのいつくしみのゆえに。

 先に言いましたように、ダビデは自分がウリヤから妻を奪い取った罪が遠因で、これらのことが起こっていることを知っていました。それで、「若い時の罪やそむきを覚えないでください。」と祈っています。

 恵みとあわれみが、とこしえからあったという真理はとても大切です。エペソ1章に、世界の基が置かれる前に、私たちはキリストにあって選ばれたことが書かれています。主は私たちのことをすべてご存知で、私たちの失敗もみな知っておられて、なおかつキリストにあって選んでくださった、という事実です。

 だから私たちは、罪を犯し、過ちを犯した後も、立ち直ることができます。主がこの自分がこれだけ恐ろしい罪を犯すのをご存知でなおもキリストにあって選んでくださったのなら、そのあわれみに応答して、聖い生活をこれから歩んでいこうという勇気が与えられます。

 そして、「あなたの恵みによって、私を覚えていてください。」という祈りも大事です。私たちは、キリストにあって義と認められています。私たちが裸のまま神に見られたら、どうしようもない状態にいるのですが、神の恵みによって、キリストにあって見られるとき、神は私たちが何も罪を犯したことがない状態に見ておられます。だから、恵みによって覚えていてください、と祈るのです。

2C 主のご性質によって 8−15
25:8 主は、いつくしみ深く、正しくあられる。それゆえ、罪人に道を教えられる。25:9 主は貧しい者を公義に導き、貧しい者にご自身の道を教えられる。

 神の恵みによって、人は初めて正しい道を歩むことができます。恵みを強調しすぎると、放縦に陥ってしまうのではないか、と言う人たちがいます。けれども、「恵み」の意味が分かっていないので、そんなことが言えます。なぜなら、恵みを本当に知るためには、まず自分が罪人、心の貧しい者であることに気づく必要があるからです。

 神の正しいさばきを知らずして、自分が死んで、死後に神のさばきを受けることを知らずして、恵みを知ることはできません。自分はさばかれない、大丈夫だと安逸をむさぼっている人に、神の恵みにすばらしさを味わうことはできないのです。

 主がとても良い方であるから、私たちは悔い改めることができます。その愛に応答して、聖い、正しい生活を歩むことができます。ローマ2章4節に「神の慈愛があなたを悔い改めに導く」とあります。また、ご自分のところに来た女について、主は、「この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。(ルカ7:47」と言われました。

25:10 主の小道はみな恵みと、まことである。その契約とそのさとしを守る者には。

 「恵み」だけでなく「まこと」です。私たち人間が罪人で、死に、神のさばきを受けることが真理ですが、キリストにあって罪が赦され、正しい者と認められるのが「恵み」です。

25:11 主よ。御名のために、私の咎をお赦しください。大きな咎を。

 ダビデは、主の道についての祈りの中で、さらに別の祈りを挿入しています。自分の罪が思い出されたからです。私たちも祈りの中で、一つのことを祈っているとき、それと関連している別のことを思い出して、挿入的にそのことについての祈りを神にささげることがあると思います。今ダビデは、それを行っています。

25:12 主を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる。

 道は「選ぶべき」ものであることが書かれています。道は選ぶもの、選択するものです。どっちを選んだらよいのか、主を恐れる人には教えられる、ということです。「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。(箴言3:6」とあるとおりです。

25:13 その人のたましいは、しあわせの中に住み、その子孫は地を受け継ごう。

 正しい道を選ぶことによる結果は、幸せです。また将来、地を受け継ぐ、つまり神の国を相続するという約束も与えられます。

25:14 主はご自身を恐れる者と親しくされ、ご自身の契約を彼らにお知らせになる。

 親しい交わりと、知識あるいは啓示には密接な関係があります。私たちが親しい友達には、自分のことを、ほかの人には言っていないことも明かすことがありますが、それと同じです。主と親しい交わりを持っている人に、主はご自分のことをお知らせになります。

 具体的にここでは「契約」をお知らせになる、との約束がありますが、ノアに対して、アブラハムに対して、モーセとイスラエルの民に対して、またダビデに対して、そしてエレミヤに対しても、主はそれぞれご自分の契約を示されました。そして弟子たちに対してイエス様は、食事をともにされ、新しい契約のしるしとして、ぶどう酒の杯を回されました。

25:15 私の目はいつも主に向かう。主が私の足を網から引き出してくださるから。

 主に目を向けているときに、仕掛けている敵のわなから引き出されます。敵のわなではありませんが、沈まずにいることができた人でペテロがいますね。ガリラヤ湖の上を歩かれている主に目を向けているときに、彼は水の上を歩くことができました。目を離したときに沈み始めました。

3B 苦しむ 16−22
25:16 私に御顔を向け、私をあわれんでください。私はただひとりで、悩んでいます。

 苦しみが再びダビデを襲ってきました。

25:17 私の心の苦しみが大きくなりました。どうか、苦悩のうちから私を引き出してください。25:18 私の悩みと労苦を見て、私のすべての罪を赦してください。25:19 私の敵がどんなに多いかを見てください。彼らは暴虐な憎しみで、私を憎んでいます。

 「暴虐な憎しみ」ですが、私たちはこの世において、この種の憎しみをよく見るようになりました。国内では自制心が利かなくなって、平気で人を殺す事件が多いですし、国外では自分を犠牲にしても、相手を殺したいと思うようにさせる、いわゆる自爆テロなどの事件があります。先にあったように、彼らはゆえもなく、自分が特に直接的被害を受けているわけでないのに憎みます。

25:20 私のたましいを守り、私を救い出してください。私が恥を見ないようにしてください。私はあなたに身を避けています。25:21 誠実と正しさが私を保ちますように。私はあなたを待ち望んでいます。

 非常に大切な祈りですね、憎しみと敵意で満ちている環境において、自分は誠実と正しさで支えられている必要があります。

25:22 神よ。イスラエルを、そのすべての苦しみから贖い出してください。

 ダビデは最後に、自分の苦しみだけでなく、イスラエル全体の苦しみのためにも祈っています。預言的な祈りです。イスラエルは将来、ダビデが通ったのと同じように、大きな試練にあいます。その中で、ダビデが祈ったのと同じように、苦しみの中で罪の赦しを願う祈りをささげるでしょう。大患難の中で彼らは練り清められ、主イエス様が再び地上に戻ってこられるときに、物理的な救いだけでなく、霊的な救いも経験します。

2A 誠実な歩み 26
26 ダビデによる

 ここの詩篇は、従来の神の公正を求める祈りです。ここは、ダビデの生涯の後期において、三年間の飢饉があったときに、ダビデがささげていた祈りではないかという人たちがいます。

 三年間、飢饉が続いたので、ダビデが主のみこころを求めると、主は、過去にサウルがギブオン人を殺した罪がある、と示されました。(サムエル第二21章に書いてあります)ギブオン人は、かつてヨシュアが彼らと平和の契約を結んで、彼らを滅ぼさない、殺さないと誓った人たちです。その契約はサウルの時代にも有効であったのに、サウルは勢いあまって彼らの一部を殺しました。

 そこでギブオン人が、不満がたまっていたところを、主は飢饉という手段によって、ダビデに示されたわけです。

 だから、三年間の飢饉について、自分にはこの災いをもたらす不義が見出せない、公正に裁いてください、とダビデは祈った、と考えられます。この詩篇から私たちは、潔癖に生きること、あるいは誠実さにしたがって生きることについて学ぶことができます。

1B 主の試み 1−8
26:1 私を弁護してください。主よ。私が誠実に歩み、よろめくことなく、主に信頼したことを。

 誠実に歩むには、まず主に信頼していることが必要になります。自分の判断ではなく主の判断を仰ぎ、自分の力ではなく主の力にたより、主の前でへりくだり、主がいつも自分の前におられる状態であるときに、初めて誠実に歩むことができます。

 品行方正という言葉が日本語にありますが、私たちクリスチャンもともすると、この世が定める潔癖さ、誠実さを求めてしまいがちです。けれども肉、すなわち自分の力によっては、決して神を喜ばせることはできません。主に信頼するものが誠実の中で歩むことができます。

26:2 主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。

 誠実な心は、いつも自分を吟味して、正しい道に歩んでいるかどうか確かめるときに保たれます。ダビデは、他の詩篇の箇所で「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(詩篇139:23-24」と言いました。

26:3 あなたの恵みが私の目の前にあり、私はあなたの真理のうちを歩み続けました。

 誠実、潔癖に歩むには、「恵み」が必要です。自分ではなく、神の義を身に付けて生きることなしに、正しい生き方はできません。

26:4 私は、不信実な人とともにすわらず、偽善者とともに行きません。26:5 私は、悪を行なう者の集まりを憎み、悪者とともにすわりません。

 悪者たちと関わりを持たないのも、誠実な人の歩み方です。自分の手で悪を行なわなくても、行なっている者と交われば、行なっているのと同様であることを聖書には書いてあります。私たちが見ているテレビ番組、私たちが職場で聞いている下品な話題、それらに接触するのはやむを得ませんが、それらを楽しみ、引き寄せられたら、その人は誠実、潔癖であると言えません。「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。(6:14-15」と使徒パウロは言いました。

26:6 主よ。私は手を洗ってきよくし、あなたの祭壇の回りを歩きましょう。26:7 感謝の声を聞こえさせ、あなたの奇しいみわざを余すことなく、語り告げましょう。26:8 主よ。私は、あなたのおられる家と、あなたの栄光の住まう所を愛します。

 誠実に歩む人は、礼拝を愛する人です。6節の、「手を洗ってきよくし、祭壇の回りを歩く」というのは、山上の垂訓で、祭壇にささげ物をするときそのささげ物を置いて、兄弟と和解するという教えにつながります。礼拝行為が日常生活に反映され、また裏づけがなければいけません。

 そして7節の、「語り告げましょう」の言葉は、礼拝が証し、宣教につながっていることを示しています。誠実、潔癖というと、自分の内の正しさに聞こえますが、外側に対する働きかけも関わります。

2B 罪人からの救い 9−12
26:9 どうか私のたましいを罪人とともに、また、私のいのちを血を流す人々とともに、取り集めないでください。26:10 彼らの両手には放らつがあり、彼らの右の手はわいろで満ちています。

 「取り集めないでください」と祈っているということは、取り集められる危険を感じているからです。自分が周りの悪に影響されて、同じ死への道を歩んでしまうかもしれないという危惧を感じています。自分は大丈夫だ、と安心していること自体が、その人は潔癖でないことを意味しています。自分の弱さを常に意識して、神の恵みによって強くしていただくことが誠実への道です。

26:11 しかし、私は、誠実に歩みます。どうか私を贖い出し、私をあわれんでください。

 自分は誠実の中に歩むけれども、今の試練、誘惑の状態から自分を助け出してください、という祈りです。私たちにできることは少ないです。けれども、その数少ない、誠実に歩むということを行なって、後は主が自分を救い出してくださると信じて、忍耐し、待ち望むことです。

26:12 私の足は平らな所に立っています。私は、数々の集まりの中で、主をほめたたえましょう。

 祈りの中でダビデは、平らなところに立っています。何の障壁もない、楽なところです。祈りによって、周囲に悪があっても自由にされている状態です。すばらしいですね、私たちも祈りと信仰による、この自由が与えられています。

3A 敵の前で 27
27 ダビデによる

 この詩篇は、アブシャロムの企みが破れて、ダビデたちに勝利が与えられたときに歌われたものではないか、と言われています。25篇で、彼が試みを受けていましたが、その試みを抜け出したときの祈りと考えられています。

1B 救いの確信 1−6
1C とりでなる主 1−3
27:1 主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。

 ものすごい大胆な祈りであり、そして信仰者に与えられたすばらしい特権です。パウロが、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。(ローマ8:31」と言いましたが、信仰者には、本質的に恐いものはありません。

27:2 悪を行なう者が私の肉を食らおうと、私に襲いかかったとき、私の仇、私の敵、彼らはつまずき、倒れた。

 アブシャロムの陣営が倒れたときのことを言っているのだろうと思われます。

27:3 たとい、私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない。

 陣営が張られて、相手からの攻撃が開始されても、恐れないし、動じないという告白です。戦いの中で、最も大きな敵は「恐れ」と言われます。恐れによって、相手が一の力しかないのに十に見えたりします。主はしばしば、イスラエルの敵を争われるとき、恐れによって敵の陣営を混乱させたことを思い出していただければ、お分かりになると思います。信仰によって、この恐怖を克服することができます。

2C 主の家での時間 4−6
27:4 私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。

 ダビデは、アブシャロムによってエルサレムから離れているとき、ただ一つのことを願っていました。それが、主の家に住まうこと、主の麗しさを仰ぎ見、その宮で思いにふけることでした。そして、「いのちの日の限り」と言っているように、ダビデは一生涯、ただこのことだけやっていても構わないと思っていました。

 彼はいろいろことをする活動家でした。もちろん一国の王であり、戦士であり、詩歌を書くことができ、預言者でもありました。けれども彼がその活動の中でいつも、主の家に住まうことを慕い求めていたのです。

 今、私たちが行なっている活動がすべてなくなったとして、どうでしょうか、主のことを思うことが私たちの願いになっているでしょうか。それとも、活動そのものが私たちの生きがいになっているでしょうか。マリヤが主の御足のところで、みことばを聞き、また高価な香油をイエス様に注いだように、私たちが主への注ぎの供え物になっているかどうか、吟味してみなければいけません。

27:5 それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私を上げてくださるからだ。

 ダビデがカミング・アウトすることができた理由は、隠れ場に隠していただいたこと、幕屋のひそかな所でかくまってくれたからです。聖徒の中で、そのような人物で思い出すのは、ヨセフです。彼はエジプトの宰相となるまで、エジプトの奴隷、そして牢獄という隠れ場にいました。そこで、ヨセフは、幕屋、すなわち主との交わりを持っていました。主が共におられた、という言葉がそれを物語っています。

 その他、モーセもそうでしょう。40歳から80歳まで、彼は羊飼いをして生きていました。隠れたところにいて、それから岩の上に上げてくださる神の働きの中にいたのです。隠れたところが大切です。隠れているような人生もあるでしょうし、表に出ても、隠れたところでの生活、主との交わりが大事です。

27:6 今、私のかしらは、私を取り囲む敵の上に高く上げられる。私は、その幕屋で、喜びのいけにえをささげ、歌うたい、主に、ほめ歌を歌おう。

 圧倒的な勝利を歌っています。敵が取り囲んでいるけれども、かしらはその上に高く上げられている状態です。パウロが、どのようなときでも圧倒的な勝利者であると宣言した、あの状態です。

2B 忍耐 7−14
1C 御顔を求める 7−10
27:7 聞いてください。主よ。私の呼ぶこの声を。私をあわれみ、私に答えてください。

 圧倒的な勝利の宣言から、再び祈りの姿勢にダビデは移っています。

27:8 あなたに代わって、私の心は申します。「わたしの顔を、慕い求めよ。」と。主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。

 ここの訳ですが、英訳もまた他の日本語訳も異なる訳を施しています。例えば新共同訳では、こうなっています。「心よ、主はお前に言われる/「わたしの顔を尋ね求めよ」と。主よ、わたしは御顔を尋ね求めます。」主に代わって自分が言っている、というよりも、主がかつて言われた、御顔を求めなさいという言葉を思い出し、それに従っている状態です。

 主のご臨在、主との交わりを求めています。

27:9 どうか、御顔を私に隠さないでください。あなたのしもべを、怒って、押しのけないでくださいあなたは私の助けです。私を見放さないでください。見捨てないでください。私の救いの神。

 主の御顔が見えない状態、主をはっきりと見ることができない状態、主を求めているのに、その臨在を感じられない状態です。

27:10 私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる。

 これは、「たとえ」という言葉を前に付けたら理解できるかと思います。たとえ、父母が自分を見捨てたとしても、主は決して見捨てられない、ということです。つまり、父母が自分を見捨てることはないのであれば、なおさらのこと主は自分を決して見捨てられない、ということです。

2C 道を求める 11−14
27:11 主よ。あなたの道を私に教えてください。私を待ち伏せている者どもがおりますから、私を平らな小道に導いてください。

 これと同じ内容の御言葉が、新約聖書の中にあります。パウロがコリントにいる教会の人たちに、こう言いました。「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。(1コリント10:13」ダビデの言った「平らな小道」と「脱出の道」です。

27:12 私を、私の仇の意のままに、させないでください。偽りの証人どもが私に立ち向かい、暴言を吐いているのです。

 ダビデがアブシャロムから受けている仕打ちを、サウルの子孫は、サウルから王位を奪い取った神の仕返しであると非難しましたが、そのときのことを言っているのかもしれません。シムイという男が、ダビデと家来に向かって石を投げて、「主がサウルの家のすべての血を、おまえに報いたのだ。」と言いました(2サムエル16:8)。

27:13 ああ、私に、生ける者の地で主のいつくしみを見ることが信じられなかったなら。・・

 この「・・」が大事ですね。今、敵の仕業でダビデは信仰が試されています。そして彼は、仮に主のいつくしみを信じないで、この世を生きたらどうなのだろうか、と、考えてみたわけです。敵に囲まれてもなおかつ主を信じて生きることと、主に希望を置かないで信じることとを、天秤にかけてみたのです。

 もちろん、信じられなかったら、人生は空しさでいっぱいです。すべてが無意味です。ダビデはいろいろな恐ろしいこと、暗やみを見たことでしょう。そこで彼はこう自分に言い聞かせます。

27:14 待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。

 聖書の中でいろいろなところで、主ご自身が、「強くなりなさい」という言葉をかけておられます。けれども、今、明確に主からの声が聞こえないとき、彼は自分自身に対して、「心を強くせよ」と言いかけています。主からの約束を、自分に言い聞かせているのです。

 先ほども話しましたが、「待ち望む」ことの大切さです。期待して待つことは、忍耐を要求します。心の中はうめきます。何も期待しなければ、ある意味、楽です。しかし、期待して待つ者に主は豊かな報いを用意しておられます。ヘブル書に、こう書いています。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。(ヘブル11:6

4A 悪者からの救出 28
28 ダビデによる

 28篇は、自分が悪者たちの中に数えられないように、救い出されるように祈るいのりです。

1B 主への叫び 1−5
28:1 主よ。私はあなたに呼ばわります。私の岩よ。どうか私に耳を閉じないでください。私に口をつぐまれて、私が、穴に下る者と同じにされないように。

 穴は、縦に深く掘ってある穴をイメージしてください。ここのヘブル語は、ちょうど井戸も意味する穴の意味で、「縦坑」の形をしています。ヨセフが兄たちによって、穴の中に入れられたときの穴も同じ言葉です。

 ここから聖書では、死者が行くところ、特に悪者が死んだ後で行くところとして「穴」という言葉を使っています(例:エゼキエル26:20など)。黙示録9章で、悪霊が底知れぬ所から出てくる場面がありますが、底知れぬ所は、「底がない縦坑」ということで、地獄の一部を意味しています。

 だから今、ダビデは、自分が地獄に行くような者たちといっしょにならないように、という祈りをささげているのです。もし主が口をつぐまれているなら、私は穴に下る者といっしょになってしまうよ、どうか私に語りかけてください、とお願いしているのです。

28:2 私の願いの声を聞いてください。私があなたに助けを叫び求めるとき。私の手をあなたの聖所の奥に向けて上げるとき。

 クリスチャンの中で多くの人が、賛美の歌をうたっているとき、手を上げますが、それは聖書的な行為です。主から祝福を受ける意味を持っています。

 ダビデは「聖所の奥」に向けて手を上げていると言っていますが、聖所の奥には至聖所があり、そこには契約の箱の上に載せてある、贖いの蓋があります。英語だとMercy Seat、あわれみの御座です。主があわれみの御手を、そこから差し伸べてくださいます。

28:3a どうか、悪者どもや不法を行なう者どもといっしょに、私をかたづけないでください。

 悪の行為に加担することは、主を恐れている人にとって、地獄を予感します。罪から来る報酬は死であり、死後には神のさばきがあるという、罪がもたらすものを感じ取ります。だから、先に「穴に下る者と同じにされないように」と祈ったのです。

 自分は他の人たちといっしょに悪いことを行なって、「自分はクリスチャンで神さまから選ばれているから、この悪いことを行なっている他の人は地獄に行くけれども、僕は大丈夫だ。」という安心感は、主を恐れている人には与えられません。罪に触れたら、神の裁きを感じ、神の裁きを感じて十字架に逃げていく、というプロセスを通らなければいけないのです。

28:3b彼らは隣人と平和を語りながら、その心には悪があるのです。

 普通、悪いことは表に出てきません。ほとんどの人が普通に生活をし、平然と、平穏に暮らしています。それをダビデは、心には悪があるのに平和を語っていると言っています。

28:4 彼らのすることと、彼らの行なう悪にしたがって、彼らに報いてください。その手のしわざにしたがって彼らに報い、その仕打ちに報復してください。

 これは個人的な恨みや復讐の思いではなく、悪を憎み、善を愛していることの表明です。

28:5 彼らは、主のなさることもその御手のわざをも悟らないので、主は、彼らを打ちこわし、建て直さない。

 日本人の多くの人が、主イエス様を受け入れない言い訳として、「聖書の言っていることは分からない。」「イエス・キリストについては理解できない。」と、「理解できない」という言葉を使います。本当は、与えられた福音の光、啓示があるのに、それを拒んでいるに他なりません。

 この詩篇の箇所を読めば、理解しない人たちに対する神のさばきが書かれており、弁解の余地はないことを示しています。

2B 主からの助け 6−9
28:6 ほむべきかな。主。まことに主は私の願いの声を聞かれた。

 祈りが聞かれました。

28:7 主は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。それゆえ私の心はこおどりして喜び、私は歌をもって、主に感謝しよう。

 助けられた体験をもって、主に賛美の歌をうたっています。私たちが賛美するとき、主から祝福されるために祈っているでしょうか、それとも、主から祝福されたので、その応答として歌っているでしょうか。主からこれだけ良いことをされて、だから自分は歌いたいと願うのが、正しい賛美です。

28:8 主は、彼らの力。主は、その油そそがれた者の、救いのとりで。

 「油注がれた者」とは、ダビデ自身のことでもあるし、ダビデの子メシヤのことでもあります。王であるダビデにとって、主は救いのとりでです。けれどもこの「油注がれた者」をメシヤとして読むならば、主はメシヤの救いのとりでであられる、と読むことができます。

28:9 どうか、御民を救ってください。あなたのものである民を祝福してください。どうか彼らの羊飼いとなって、いつまでも、彼らを携えて行ってください。

 ここの祈りの順番が大事です。初めに「救ってください」と言っています。次に、「祝福してください」と言っています。私たちは信仰によって、救いを受けます。救いを受けたら、キリストにあるあらゆる霊的祝福が自分のものとなります。そして次に、「羊飼いとなって、携え行ってください」です。祝福を受けた人は、いつまでも牧者なるイエス様に導かれて、守られて、養われて生きます。

5A 主の声 29
29 ダビデの賛歌
 最後は、自然界における主の御声についての詩篇です。

1B 栄光の献上 1−2
29:1 力ある者の子らよ。主に帰せよ。栄光と力とを主に帰せよ。

 「力ある者の子ら」は、神の子とも呼ばれている御使いたちであろうと考えられます。御使いは、主からの栄光と、力と権威が与えられています。そのような者たちも、すべての栄光と力を主に帰しなさい、と命じられています。

 どのような力のある者であっても、栄光に富んだものであっても、その力と栄光は主から来たものであることを認めなさい、という意味です。オリンピックやワールドカップなどで、主に対して祈ったり、主のおかげであると証ししたりする選手がいますが、彼らは自分の力が主からのものであることを実感しているからです。

29:2 御名の栄光を、主に帰せよ。聖なる飾り物を着けて主にひれ伏せ。

 「聖なる」というのは、主のものとなった、主のために別たれた、という意味です。祭司たちが聖なる装束を着て、聖所で仕えますが、同じように聖なるものを身に付けて、主にひれ伏せと命じています。

 新約聖書でも、同じことを主は命じておられます。ローマ12章1節に、「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。」と書いてありますが、自分の体を聖なるものとしてささげます。またローマ1314節には、「主イエス・キリストを着なさい。」と命じられています。

2B 洪水時にある御座 3−11
 御使いたちも、また世に力のある者たちも、みなが礼拝をささげなければいけない理由が、次から書かれています。

29:3 主の声は、水の上にあり、栄光の神は、雷鳴を響かせる。主は、大水の上にいます。

 ここの「水」は、雲の中に含まれる水分のことです。これから嵐が起こるけれども、その時の雷鳴は主の声である、とダビデは言っています。

 覚えていますかヨブ記において、エリフが持論を展開しているときに嵐がやってきました。主のご臨在の嵐でした。空が暗くなり、雨が降り始め、風の強くあり、稲妻が落ち、雷が鳴る自然現象を、エリフは主の威厳として論じていきました。まさにその通りであり、この自然現象は、主の力と威厳を如実に現す、主の声であるのです。

29:4 主の声は、力強く、主の声は、威厳がある。29:5 主の声は、杉の木を引き裂く。まことに、主はレバノンの杉の木を打ち砕く。29:6 主は、それらを、子牛のように、はねさせる。レバノンとシルヨンを若い野牛のように。

 雷によって、木が引き裂かれる様を話しています。そして引き裂かれるとき、大きな木片が牛が跳びはねるように飛び散っていく様子を描いています。

29:7 主の声は、火の炎を、ひらめかせる。

 これは稲妻のことです。稲妻が落ちて、火が出る様子を、主の声による火の炎であるとダビデは形容しています。

29:8 主の声は、荒野をゆすぶり、主は、カデシュの荒野を、ゆすぶられる。

 これは地震です。北ではレバノンの杉が雷で打ち砕かれていますが、南ではカデシュの砂漠が地震で揺れています。

29:9a 主の声は、雌鹿に産みの苦しみをさせ、大森林を裸にする。

 雌鹿がこれらの地震や雷、稲妻の恐ろしさによって、早産してしまいます。そして、大森林が裸になります。

29:9b その宮で、すべてのものが、「栄光。」と言う。

 自然界すべてが神の宮です。そして、そこですべてものが、神の栄光を表しています。

29:10 主は、大洪水のときに御座に着かれた。まことに、主は、とこしえに王として御座に着いておられる。

 このような自然災害の中で、主は御座に着いておられて動じません。ここが日本の宗教と、まことの神、主との大きな違いでしょう。日本でも台風、地震などの自然災害を多く経験するため、その自然そのものに畏怖の念を抱き、神としてあがめ、これらの神々を鎮めなければいけないと考えて、あらゆるところに祠があるのです。次に何をしでかすか分からず、人々の心は不安でいっぱいです。

 しかし、まことの神はその自然界の上におられる方であり、まったく混乱、不安などありません。

29:11 主は、ご自身の民に力をお与えになる。主は、平安をもって、ご自身の民を祝福される。

 私たち信仰者が忘れてはならないのは、自分に与えられる力、平安、祝福は、嵐と雷、地震をもたらしてご自分の声を発せられ、栄光を表す神からのものである、ということです。こんなに大きな方からの力であることを忘れて、自分が整理したきれいな祠から神を取り出すのと変わりないことを考えてしまいます。しかし、そうではないことを心に留めるべきです。

 以上です、祈りましょう。


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