イスラエル旅行記 2月20日 - ガリラヤへの旅

1.カイザリヤ
2.カルメル山
3.メギド
4.ナザレ


 私たちは毎朝、出発前にデボーションの時間を持ちました。牧者また牧者の訓練を受けている兄弟が私を含めて四人いますが、お三人に代わる代わるお願いしました。この日はヨシュアさんでした。朝食の時は恭仁子さんのテーブルに行き、改めて挨拶しました。そして7時半には出発です。冬ですから日が暮れるのが早く、イスラエルは国立公園や施設が夏季よりも一時間早く閉まるので、出発時間を30分早めてもらいました。TAL HOTELからカイザリヤまでは、このルートになります(Google)。

 ところで、これまでの旅行記で、同じところに行きそこで説明したものが多いので、今回の旅行記では、私が恭仁子さんの説明で強く感じ取ったことや、新しい情報を書き留めていきたいと思います。

1.カイザリヤ

カイザリヤの説明(2008年旅行 ・ 2010年旅行
作成した冊子の説明からの抜粋

  • ヘロデが建てたローマの貿易都市。
  • ユダヤ属州の首都。総督はここに住み、ユダヤ人の祭りの時にアントニア要塞に駐屯。
  • 風紀の悪い町
  • 異邦人への宣教
    • 伝道者ピリポの滞在地(使徒8:40,21:8)
    • 百人隊長コルネリオの回心(10章)
    • ヘロデ・アグリッパ一世の死(12:19‐23)
    • パウロ、ローマへの道(使徒27:1)
    • パウロの幽閉(23:22‐35)
    • 三つの裁判(24−26章) 

 私たちは、半円形劇場の前で大まかなカイザリヤの説明を聞きました。「ヨッパが港だったところがここにこのような港町を建てて、エルサレムの破壊後は、ここが最も大きな町になったとのこと。半円形劇場に入り3000-4000人が収容できるもので、現在も使用されているので原型が分からないほどにまで修繕されている。円形劇場にはグラディエーターや獅子を放つ等残酷なものがあったが、ここは文化的なものであった。ヘロデは理想的な港をまず作り、競馬場などもローマ式のものが移してきた。舞台の下には、水のないこの場所に水の設備が残っている。ミグダルにおけるユダヤ人反乱の舟を出して戦ったことを演劇にして水を出していたと言われる。こうした娯楽の目的は、兵士を楽しませるためであり、ここにローマは軍事力を固めていた。」

 そして半円形劇場の裏手に左下の遺跡がありました。「これは、ポンテオ・ピラトがティベリウスに敬意を表して作った神殿の後だとのこと。ヘロデ大王がカイザルに捧げた宮は向こう側にあるが、これはポンティオ・ピラトのだと言われている。」
  
 そして総督の官邸に移りました(右上写真)。「パウロは軟禁であったので、この官邸のどこかの部屋に入れられていたのではないかと言われている。」そして競馬場が見えるところに移りました。「ベン・ハーの時代は、ここの競馬場でしかない。作者がキリスト教を覆すために資料を調べたら、イエスを信じるようになった。イスラエルの考古学者はよく出来た映画だと言っている。真ん中に楕円形のものがあって、そこから馬が出てくる。今の遺跡はヘロデ時代のものだが、ローマ、ビザンチン時代はさらに栄えて、後ろのバナナ畑のところに遺跡が見つかるほどである。十字軍が征服したが、その規模は当時のほどではなかった。教会を三つ建てたが、かつてアウグストにヘロデが建てた宮のあったところと言われている。」

 そして私は、ヘロデ・アグリッパが死んだところは半円形劇場だと思っていましたが、そうではなく、競馬場の手前にある、ユダヤ人が直談判のために出たところがそうです、と恭仁子さんは訂正してくださいました。

 そしてポンテオ・ピラトの名の記されている石版を見ましたが、「26年から36年までの何でもない人だったということ。ここの重要性は、ここだけに彼の名があり、大した存在ではなかったことが分かる。先ほど見た半円形劇場のところから見つかったが、それは神殿の上に掲げてあったものが落ちて劇場にその石が使われたのではないかと思われる。」

 さらに、海に突き出しているヘロデの宮殿を見ました(左下)。海の水を取り入れて、宮殿の真ん中が海のプールになっていた。モザイクが残っているが、ヘロデは建築の感覚の中に、ユダヤ教の影響を見る。人目に触れないところに飾りをつける。ヘロデの治世は紀元前37年から紀元前4年まで、この年号を覚えておくと何かと役立つ。」
  
 そして官邸の中にある穴(右上)を見ましたが、「パウロが一時期、幽閉されていたかもしれないと言われている窪みがある。けれども、いくつかあるのでここかどうかは分からない。それに未だに何に使われたかは分かっていない。」とのこと。ここで私は御言葉を語りました(音声)。「異邦人への宣教」をテーマにしました。恭仁子さんも後で、ここの港は500トンの船が着くことができ、パウロはここから最後の船出をした、と話しました。

 そして今後の学びのために、私はユダヤ人反乱がここから66年に始まったことを指摘しました。ヨセフスが元々ガリラヤ地方を指揮する軍人であったこと、ミグダルがガムラと並んでユダヤ人の徹底攻勢をしたところであること、そして70年のエルサレム神殿破壊、さらに73年のマサダ陥落を持って終了する一連の反乱です。イエス様が、山上の垂訓で語られたメッセージや、ユダヤ人信者がなぜ一人も死ななかったのかなど、福音書の根幹的な背景になった歴史的出来事であります。こちらに、ユダヤ反乱についての概略を書いていましたので、お読みください。

 そして私たちは導水橋に移りました(写真は、高村さんご夫妻と)。ここで十分間ほど時間を過ごします。「これは近くの泉から出てくる水をこの町に取り入れるものであった。」とのこと。後で道を北上した時に、その泉のあるアラブ人の村を通り過ぎました。

 そして私たちはカルメル山に向かいます。行路はこちら(Google)。

2.カルメル山

カルメル山の説明(2008年旅行2010年旅行
冊子の説明

  • 北西から南東へ、なだらかな山の連なり。
  • カルメル=「神のぶどう園」
  • アシェル・ゼブルン・イッサカル・マナセの境
  • エリヤとバアル預言者の対決(1列王18:18‐46)
    • レバノンのツロやシドンとは経済的友好関係
    • 山によってバアル信仰が入って来ていなかったが、アハブ王がシドン王の娘イゼベルを妻にすることによって導入。
  • エリシャの滞在(2列王2:25;4:25)
  • 詩歌や預言書
  • 美しさ(雅歌7:5)、豊かさ(イザヤ35:2)、威光(エレミヤ46:18)、繁栄と幸福(同50:19)
  • 神の裁き(ナホム1:4、イザヤ33:9)

 私たちは、カルメル派修道院の「ムフラカ」に行きます。ここがカルメル山中で最も高い所です。ムフラカはアラブ語で「火」を意味します。エリヤとバアルとアシュタロテの預言者が対決したところです。初めに、地中海とイズレエル平原を一望しました。


 海沿いの道(ヴィア・マリス)とヨクネアム峠、キション川の位置を説明されました。キション川を追うのは、緑が生えている線を辿ればよいのです。「そしてイスラエルは山地なので思う存分、戦うことができなかったが、エラの谷などで戦い、イズレエル平原は古戦場であり近代にまで至る。メギドの丘が「ハルマゲドン」である。」と説明されました。私は、タボル山、モレの山、ガリラヤのナザレの位置の説明を求めたところ、メギドに行けば目の前にはっきり見える、とのことでした。ここで私は、物理的な戦いならず、霊の戦いが繰り広げられたことを話しました(音声)。そして修道院の説明をしてくださいました。英国統治時代に多くの修道院ができたが、これはその一つとのこと。そして、ここには小さな庭があり、きれいな花が咲いている様子を見ました。

 そして時間的に早いですが、私たちはドルーズ派の人たちの住むDaliyat al-Karmelというところにあるレストラン"Samir"で昼食を取りました。

 とてもおいしかったのですが、イスラエルの旅に初めて来た人は、食べ物が本当においしくて日本人の口にも合っていると絶賛していました。ただ私は、旅の終わりまでこのように美味しい料理が続いたので、最後はお腹が疲れてきます。:)

3.メギド

Daliyat al-Karmelからメギドまでの行路(Google)
メギドの説明(2008年旅行 ・ 2010年旅行
冊子の抜粋

  • カルメル山脈の終わりにあり、海沿いの道(ヴィア・マリス)がツロ行きの北道とダマスコ行きの東道に分かれる。
  • イズレエル平原が東に広がる。
  • テル(古代遺跡の丘)は25層 →古代から現代、そして将来に至るまでの戦いの集結場。
    • カナン時代
  • アマルナ書簡(エジプトの王とカナン人の王との戦い)
  • ヨシュア、メギドの王を倒す(ヨシュア12:21)
  • カナン人、力を維持(士師1:27)
  • シセラとの戦いの一部(士師5:19)
  • ソロモンの要塞の町(1列王4:12,9:15)
    • アハズヤ王、エフーに追われ倒れる(2列王9:27)
    • ヨシヤの死(2列王23:29-30,2歴代35:22-24,ゼカリヤ12:11)
    • アッシリヤ王が占領(2列王15:29)
      近代と将来
  • オスマン・トルコに対して英軍将軍アレンビーが決定打、「メギドの主」という称号。
  • ハルマゲドン=メギドの丘(黙示16:12-16)
  • 終わりの日、神とキリストに対して世界の軍隊が集結することは、旧約聖書のテーマの一つ。(例:詩篇2篇) 

 カルメル山を南東に下るとメギドがあります。まず模型のある室内に入って話を聞きました。初めに、古代の地図にあるメギドを、メソポタミアとエジプトの間にあることを示した後に、模型に移りました。「メギドは、ここでハツォルを通ってメソポタミアを行くか、あるいはヨクネアムを通ってダマスコに行くかのどちらか。交通の要衝であり、水源がある。そして場所が少し高くなっていて攻められにくく、イズレエル平原という肥沃な土壌がある。それで20層以上の丘状遺跡になった。トトメス三世(エジプトのパロ)が攻めてから、イスラエルが来るまでエジプトの管轄にあった。百年も前から発掘が始まっている。」「模型を見ると分かるが、神がイスラエルの民に拝んではならないと厳に戒めていた、『聖なる高台』(注:新共同訳、新改訳では「高き所」)の遺跡が見つかっている。」

 ここでテルの説明をされているので、冊子にあるテルの時代区分についてご紹介します。

新石器時代 6000-4300B.C.
銅石器時代 4300-3300B.C.
旧青銅器時代 3300-2000B.C.
中青銅器時代 2000-1550B.C. 族長時代(アブラハム、イサク、ヤコブ)
後青銅器時代 1550-1200B.C. モーセ、ヨシュア、士師
鉄器時代T時期 1200-1000B.C. 士師後期、統一国家(ダビデ、ソロモン)
鉄器時代U時期 1000-586B.C. 南北王朝(イスラエルとユダ)
鉄器時代V時期 586-300B.C. ペルシヤ(バビロン捕囚と帰還)
ヘレニズム時代 300-50B.C. 中間期(旧約と新約時代の間)

 そして遺跡に行きました。初めにカナン時代の正門を見ました(写真左下)。「要塞化されていなかったので、象徴的な意味合いがあった。すぐに宮殿がある。木の棒が入っているのは、壁を強化するためのオリーブの木が炭化されていたところだ。セメントは下が発掘されたもので、上は史料による再現したもの。この、青銅器時代後期から380もの象牙細工が見つかった(写真右下)。街の一つが貝殻で敷き詰められていたなど、栄えに栄えていた。それがイスラエルの民にとって、誘惑となった。」
  
 そしてカナン人の高き所に向かいました。途中にナツメヤシの木が生えています。これは百年前から始まった発掘で、労働者がピタパンを食べながらナツメヤシを食べて、その種を捨てたものがここまで成長してしまった、とのこと!

 先ほどカルメル山で話したイズレエル平原にある(右から)ギルボア、モレ、タボル、そしてガリラヤを一望しました。


 それから、カナン人の高き所を眺めながら、ハルマゲドンについての説教をしました(音声)。「相集まって戦う」がキーワードです。


 そして、北イスラエル王国が滅びる直前に作られた、この地の豊かさを示す穀物倉庫を見ました。45万リットル入れることができたそうです。らせん状の階段は、穀物が少なくなって、降りていくものです。どれだけの労働力が必要であったか、当時、奴隷の使用を考えながら町づくりをしなければいけないことを示しています。そしてソロモンあるいはアハブ王時代の馬の飼い葉?(おけ)を見ました。イエス様の時代の飼い葉桶も木ではなく、石で作られていたとのこと。「馬小屋はメギドに450頭を付けており、戦車に三頭の馬なので150台分の戦車です。預言者たちは、馬や戦車を世俗国家権力の象徴として強く戒めていた。」
  

 そして地下水道を通りました。「縦穴25メートル、横穴70メートルを掘ります。これで城壁の外にある泉から水を汲んでいきます。ちなみにハツォルの水道は地下水を汲み上げるもの、ベエル・シェバの地下水道は雨水を集めたものです。そして、これはすべて手仕事であり、水道を渡るときどれだけの労力だったのか、下ばかり見ないで上を見あげるとよい。そして水汲みは女性の仕事であった。棕櫚の聖日のとき、水汲みの男が出てくるが普通は女性である。」


 そして私たちはここから出て、バスに乗り、イズレエル平原を渡ります。イズレエル平原について、冊子を抜粋して紹介しましょう。

  • カルメル山の北(キション川が流れる)から東に広がる、イスラエル最大の谷。
  • 穀倉地帯
  • ヴィア・マリスの道であり、大陸間の行き来を可能にした。
  • 貿易と軍隊の衝突
  • ギリシヤ語名は「エスドラエロン平原」
  • イズレエルの谷を囲む山
    • 北:ガリラヤ地方(ナザレ等)
    • 東:タボル山
      • デボラとバラクのカナン人との戦い(士師4:12-16)
    • 南東:モレ山
      • ギデオンの戦い、メデヤン人の陣営(士師7:19-23)
      • シュネム(南)とナイン(北)の町。どちらも死者が生き返った。
    • 南南東:ギルボア山
      • サウル、ペリシテ人に敗れる(2サムエル28:4)
    • 南:エフライム山地
    • 西:カルメル山
  • 七つの峠(要塞の町があった)
    キション峠(北西)、ヨクネアム峠(西)、メギド峠(南西)、タナク峠(南)、サマリヤからのジェニン下り坂(南)、ベテ・シャン峠(南東)、タボル峠(北東、ガリラヤ湖へ)
  • イズレエル平原の名称:「イズレエル」
    • イッサカルの町(ヨシュア19:18)
    • サウルの陣営の一部(1サムエル29:1)
    • アヒノアム(ダビデの妻)の出身地(1サムエル25:43)
    • アハブ王の冬の宮殿(1列王21:1)
    • エリヤとアハブがここに行き着く(1列王18:45-46)
    • ナボテのぶどう園事件(1列王21:1-29)
    • エフーの反乱、イゼベルの死(2列王10:14-36)
    • ホセア書で覚えられるイズレエルの血(1:3-5)
  • 歴史で見る戦い
    • トトメス三世、ラメセス二世(古代エジプト)
    • ネブカデネザル(バビロン)
    • サルゴン、セナケリブ(アッシリヤ)
    • パロ・ネコ(エジプト)
    • アレキサンダー大王(ギリシヤ)
    • ティトス(ローマ)
    • リチャード一世(イングランド、十字軍)
    • サラディン(イスラム、十字軍との戦い)
    • ナポレオン(フランス)
    • アレンビー(英軍) 

 2月下旬のイスラエルは、本当に花や草が咲き乱れる時期だということを実感しました。イズレエル平原の中途でバスから下車し、小さな花畑に立ち寄りました。

4.ナザレ

メギドからナザレの「突き落としの崖」までの行路:Google
ナザレの説明(2010年旅行
冊子からの説明

  • イエスの時代は120-150人の小さな村
  • ヨセフとマリヤの家(ルカ1:26-28)
  • 名もない町(ヨハネ1:45-46)
  • 公生涯時、二度戻っておられる ルカ4:16-30、マタイ13:54-58
  • 近隣に「セポォリス」という町。

 私たちはまず、突き落としの崖に行きました。実は、ナザレの町は外から見ただけで、この突き落としの崖も町の中も私は歩いたことがありませんでした。けれども2010年の旅行で、突き落としの崖を下から仰ぎ見ていました。ここからなら、イズレエル平原がまた眺望できると思ったのでここを訪れるようお願いした次第です。案の定、きれいな青空の中に、タボル山とモレ山が目の前に見えました。(左がタボル山、右がモレ山)
  

 恭仁子さんの説明が次のような感じです。「イエス様がナザレの会堂でイザヤ書を朗読して、そしてナザレの人が怒って彼を突き落とそうとしました。けれども、彼らの間をイエスは過ぎて行かれました。「この崖がナザレの町から一直線にあるところで、高い崖になっているところです。なぜ彼らが怒ったのか?異邦人に神が手を伸ばされたという言葉であったと思われる。ヨナがニネベを神が赦されたことに腹が立った。今のイスラエル人に通じるものがある。」それで、準備をしていなかったのですがメッセージをどうぞと恭仁子さんに誘われたので、彼らの怒りに関して「神の恵みというのは、人を怒らせる。なぜなら、自分の嫌いな人、憎んでいる人をさえ憐れむ神を見るからだ。」と説明しました(音声)。

 そして大きなプレゼントがありました。まだガリラヤ湖に行くには早すぎて、ナザレの町の中を見る時間があるとのこと!恭仁子さんは、受胎告知教会も見に行きましょう、とおっしゃってくださいました。私にとって初めての訪問になります。(行程Google

 Googleでは、Al-Bishara通りではなく迂回したルートを取っていますが、実際はここの手前でバスから降りて、歩いてこの通りを上がっていきました(注:地球の歩き方ではこの通りはCasa Nova st.となっています)。アラブ人の町ですが、キリスト教徒の多いところで、私は実に静かで穏やかな彼らの姿に驚きました。この感想を恭仁子さんにお話しすると、「彼らはイスラエル国籍を持っているので、基本的な生活が保障されているゆえ、商売にがめつくなる必要がない。」という説明をされていました。そしてキリスト教徒だということも手伝っていると私は感じました。旅行者たちは、下のお店でトイレを借りてその後、イスラエル名物の、絞り器から直接果汁を飲むジュースを買いました。

 受胎告知教会、また後で行く聖ヨセフ教会の敷地で、なんと当時のナザレの町をすっぽり覆うほど、ナザレは小さかったようです。ナザレから何が良いものが出てくるのかというナタナエルの言葉のとおり、ガリラヤの町を数えていたヨセフスにも、村とさえ数えられていなかったとのこと。近くには、この地域で発展したツィッポリがあり、恭仁子さんにイエス様はそこを訪れたことがありますね、と確認したら、そうでしょう、との回答でした。(写真左は、右の教会堂の反対向き、入口にいた仲間を撮ったところ。ザクロのジュースが本当においしかった!)

 

 この教会は改築が比較的最近に行なわれたので、たいそうきれいな建物ですが、大事なのはナザレの洞窟を保存していること。他のカトリック教会(カペナウムやエルサレムの聖墳墓教会)もそうですが、建物で現場を見えなくさせてしまっているものの、そのおかげで現場が守られてきた、という面があるようです。

  

 左上の写真が教会の真ん中にある洞穴で、ここでマリヤがガブリエルから受胎告知を受けたとしているところです。その確かさはもちろん不明ですが、ここにナザレがあり、その洞窟の一つがこれであることは確かです。貧しい庶民はこのようにして洞穴に暮らしていました。後日、エルサレムで裕福な祭司の家の遺跡を訪ねますが、当時はこうした大きな家を建てるのに石切り場から石を取り出し、その結果できた洞穴に貧しい人たちが住んでいた、とのこと。主は私たちを富ますために、貧しくなられたわけです。そして、右上の写真はこの建物の下にある当時のナザレの発掘跡です。私たちが立っているところから数メートル下にありますが、それが当時の高さであり、今のナザレはそれだけ丘状化しているということです。修道僧たちは考古学に造詣が深く、自分たちで発掘したものだとのこと。

 そして隣接して「聖ヨセフ教会」にも行きました。ここにも地下にサイロや仕事場の跡があり、その上に教会が建っています。


 旅行者から、「当時は大工は石切りだったんですね。」という質問に、恭仁子さんは、「むしろ木が贅沢品であり、ソロモンは大変な浪費家であり、神殿だけでなく自分の宮殿にも杉をふんだんに使った。それで北の町をヒラムに渡さなければいけなかった、とも言われている。。」とのことで、今のイスラエル人も浪費家で、だいたい浪費のことで夫婦喧嘩が起こるのこと!三十年以上もここに住んでおられる恭仁子さんらしい洞察です。


ついにガリラヤ湖へ!

 そして私たちはバスに戻り、ガリラヤ湖へ向かいます(行程Google)。ロシア系ユダヤ人の多く住む新ナザレを通りました。安息日について、黒装束の人たちを除き、いかにイスラエル人が守り行なっていないかをしばしば語ってくださいました。例えばここでは、安息日になればアラブ人の旧ナザレで時間を過ごし、土曜の日没になる前に戻っていく姿を見る事ができる、という裏話も教えてくださいましたし、明後日のガリラヤ湖畔のクルシに立ち寄った時は、確かAfulaという町で豚肉レストランがあって、旅行客のほうがユダヤ人ガイドに申し訳ないと思っていたら、「この時を待っていました!」と返答があったとのこと。

 そしてティベリアに向かうところで離れていきましたが、カナを含め途中まで、イエス様がナザレからカペナウムへ歩かれた道とと同じ所を走っていました。Jesus Trailなど、ナザレからカペナウムまでを歩くハイキング・ツアーもあるそうですが、私たちにはもちろんその時間はありません。

 日が暮れかけた時に、Nof Ginossarに到着しました。カペナウムの西に広がるゲネサレ平野に位置するキブツ系ホテルです。なんと、「イエスの舟」の展示されているところと同じ敷地内にあるではありませんか!2010年は南端のキブツ系ホテル、マアガンに泊まりましたが、そこは施設は良かったですが、こちらは施設が良いだけでなく、食事もすばらしかったです。日本人の宿泊客をよく見かけましたが、ここは人気のあるホテルだそうです。私たちのグループは一階でしたが、バルコニーからそのまま芝生の庭に出ることができ、そこからガリラヤ湖やアルベル山が一望できます。みな、こんなすごいホテルに泊まれると思っていなかったらしく感動しておられました。(ホテル郡がティベリアにありますが、そこよりも自然に囲まれたキブツ系ホテルのほうが遥かに良いと私は思っています。

 私たちは毎夜、ミーティングを開きました。レバノンからのミサイルを避ける防空壕を無料で借りました。そして初日は、互いに自己紹介しました。そして一日の行程の復習と次の日の訪問地の予習をしました。前半は夕食後にミーティングを開いていましたが、みなの疲れが出てきたので、後半はホテルに着いたら直後に開き、夕食を取るスケジュールに変えました。