ヒリピ人への手紙1章 「キリストにある喜び」

 
アウトライン

1A 祈りの中で 1−11
2A 苦しみの中で 12−30
   1B 福音の前進 12−18
   2B 生きることはキリスト 19−26
   3B 信仰のための奮闘 27−30

本文

 ピリピ人への手紙を開いてください。私たちは、今日からピリピ人への手紙を学びます。今日学ぶ1章は、「キリストにある喜び」です。

 1A 祈りの中で 1−11
 キリスト・イエスのしもべであるパウロとテモテから、ピリピにいるキリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、また監督と執事たちへ。

 パウロは、「ピリピ」にいるクリスチャンたちに手紙を書いています。ピリピの町は、小アジヤとギリシヤの間にある、マケドニヤ地方にあります。使徒行伝の話を思い出してください(以下16章参照)。パウロはアンテオケから二回目の宣教旅行に出かけました。第一回目において巡り歩いた小アジヤ地方を回りました。けれども、あるとき、聖霊がアジヤでみことばを語ることを禁じられました。そして、ある夜、夢を見ました。マケドニヤ人が現われて、「マケドニヤを渡って来て、私たちを助けてください。」と言ったのです。そこでパウロとテモテ、シラス、そしてルカなどの一行は、すぐにマケドニヤ地方に行きました。これがヨーロッパへの初めての福音宣教です。そして、彼らが初めに来た町が、このピリピです。  

 ピリピには、ユダヤ人が、ほとんどいませんでした。ユダヤ教では成年男子が10人以上いる町において、シナゴーグを持つことができることになっていましたが、ピリピにはシナゴーグがありませんでした。そこでパウロは、祈りの場があると思われた川岸に行きましたが、そこには女たちがいました。そこで、紫布の商人のルデヤが信じ、その家族も神を信じてみながバプテスマを受けました。それから占いの霊にとりつかれている女から悪霊を追い出したら、ユダヤ人ということで彼らはむち打たれ、牢屋の中に入れられてしまいました。しかしパウロとシラスは、牢の中で神に賛美をささげていたら、大地震が起こり、囚人の鎖が切れてしまいました。看守は自害しようとしましたが、パウロは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言って、看守とその家族がみな信仰を持ちました。これが、ピリピにおける初穂であります。 

 そして、パウロは、この手紙を、聖徒たちだけではなく、「監督と執事たち」とも書いています。監督というのは、教会を監督する任務についている人です。そして、執事というのは、教会の物質的な事柄において、奉仕をしている任務についている人でした。この監督と執事にも手紙を宛てているということは、ピリピにおいて教会が堅実に形成されていたことを表しています。さらにまた、パウロとテモテは、自分たちのことを「しもべ」と呼んでいます。パウロの他の手紙では、彼は自分のことを「使徒」と言っていますが、ピリピにおいてはそのような必要はありませんでした。これはパウロがピリピの人々によって、使徒であることがすでに認められていたからです。パウロは、「使徒であるパウロから」といちいち書かず、兄弟愛をもって、親しみを感じながら、ある意味で「気軽」な手紙を書いているのです。 

 そこでこのピリピ人の手紙を読むと、エペソ人への手紙にあるような、体系的な教えについては書かれていません。教会についての、もっと実際的な事柄について語られています。エペソ書においては、私たちがキリストにあって天にあるすべての霊的祝福を受けているという真理について書かれていましたが、ピリピ書においては、その真理をすでに受け入れている者たちが、喜び、感謝し、苦難とともにするという、クリスチャンたちの生き方について書いてあります。パウロは、この手紙の至るところで、「私は喜びます」と表明し、「喜びなさい」と薦めています。それは、キリストにいっぱいに満たされているパウロが、同じようにキリストに満たされているピリピ人たちに対して、その喜びを分かち合っているからです。 

 どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。

  他の手紙と同じようにあいさつをしています。父なる神と主イエス・キリストからの恵みと平安です。そして次に、パウロがピリピ人のために祈りをささげていることを書いています。

  私は、あなたがたのことを思うごとに私の神に感謝し、あなたがたすべてのために祈るごとに、いつも喜びをもって祈り、あなたがたが、最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来たことを感謝しています。 

 パウロは、ピリピ人たちのことで、神に感謝をささげていました。それは、彼らが福音を広めることにあずかってきたからだ、と言っています。これは、ピリピの教会が、パウロに物質的・金銭的な支援を何度となく送っているからです。4章を読むと具体的にそのことが書かれています。パウロはピリピから離れてテサロニケに行ったときも、その贈り物をしていることが書かれています。また、パウロは今、投獄されています。ローマにおいて投獄されていました。つまり、エペソ人への手紙を書いていたときと同じところから書いているのです。そこに、ピリピからエパフドデトという人がやって来ました。彼はおそらく、ピリピの教会における牧師のようです。彼がピリピから再び物資的・金銭的支援を持ってきたのです。そこでパウロは、今、このようなささげものを受け取っていることについて、神に感謝して、喜んで、ピリピ人に対してさらなる愛情を抱いているのです。 

 これが、教会の本来あるべき姿です。主の働きのために労している人たちのことを労い、具体的に愛のサポートをします。そして、それを受け取った人たちは、これを単に物が与えられたから喜ぶのではなく、自分のことを気にかけてくれて、自分と同じ思いになってくれているという霊的祝福を喜んでいるのです。真実と行ないをもって愛するところに、私たちはキリストのからだとして、互いに結び合わされ、建て上げられ、キリストにあって成長していくのです。 

 パウロがここで、どのように祈っているかに注目してください。「あなたがたのことを思う」とありますね。彼らのことについて祈っているのは、それだけ彼らのことを思っていたからです。私たちも、兄弟たちの中で、愛の交わりをしていることができている人のことは、いつも考えていますね。「ああ、彼はいま、どうしているかな〜。」と。そしてその思いを神に対して祈りをもって表していきます。 

 あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。

  パウロは、ピリピの人たちが初めから自分の福音宣教の働きを支えていてくれていることを思って、今、この良い働きは神によって起こされたもので、キリスト・イエスの日、つまりイエスさまが再び教会のために戻ってきてくださるときまでに、完成されると言っています。これを、私たち一人一人に対する神の約束としたいものです。神が私たちのうちで良い働きを始めてくださいました。そして、その働きは、イエスさまが戻ってきてくださるときまでには完成させてくださるのです。 

 私があなたがたすべてについてこのように考えるのは正しいのです。あなたがたはみな、私が投獄されているときも、福音を弁明し立証しているときも、私とともに恵みにあずかった人々であり、私は、そのようなあなたがたを、心に覚えているからです。 

 「福音を弁明し立証している」というのは、ローマ総督やヘロデ王の前で、彼が立たされていたときのことを指しています。裁判の被告人の席にパウロがいるのですが、彼に弁明の時間が与えられると、彼は聖霊によって、イエス・キリストの福音を弁証したのです。そのようなときも、また投獄されているときも、ピリピの人たちが彼の支えでした。ここで、「心に覚えているからです」とありますが、これは、「心の中にある」と言い換えても良いでしょう。パウロの心には、いつもピリピの人たちのことがあったのです。しばしば考えていただけではなく、心の中に抱いていたのでした。

  私が、キリスト・イエスの愛の心をもって、どんなにあなたがたすべてを慕っているか、そのあかしをしてくださるのは神です。

 パウロは、心の中にピリピの人たちを抱いていただけではなく、キリストの愛の心をもって慕っていました。すばらしいですね。パウロのうちに住まわれるキリストが、ピリピ人たちに対する愛をパウロの気持ちの中に現われてくださっているのです。こうやって、教会には、キリストが宿ってくださいます。イエスさまは、愛がなくなったエペソの教会に対して、燭台を取り除く、つまりそこから離れていくと言われます。しかし、愛があるところにはその真ん中に宿っていてくださいます。 

 そしてパウロは次に、願いの祈りを神にささげています。私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。 

 愛というのは、ほわほわしたものではありません。具体的な私たちの人間関係において、真の知識と識別力があることによって、いよいよ豊かになります。ピリピの教会はまったく問題がなかったというわけではありませんでした。そのことを後でパウロが取り扱いますが、そこで真にすぐれたものを見分けることができるように祈っています。 

またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現わされますように。 

 ここの「キリストの日」というのは、もちろんイエスさまが教会のために再び戻ってきてくださる日のことです。パウロは、ピリピ人への手紙において、何回もイエス・キリストの戻って来られる日について言及しています。それほど、パウロの思いの中にはキリストが戻って来られることが支柱となっているのです。

 エペソ書においては、私たちはすでに、キリストとともに天においてすわる者とさせられていることについて学びました。私たちは、キリストにあってすべてのものを持っており、もうこれ以上必要とするものはないのです。キリストによって、洗われ、聖なる者とされ、義と認められました。ですから、後は、これらの目に見えない霊的真理が目に見えるかたちとなって現われる日を、待ち望むばかりなのです。クリスチャンが、キリストが自分のために来られる日を考えないで、クリスチャンとして生きていくことはできません。 

2A 苦しみの中で 12−30
 こうして、パウロは祈りの中で、主にある喜びを表していました。次に彼は、現在受けている苦しみの中において、大いに喜んでいることについて書いています。 

1B 福音の前進 12−18
 さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたいと思います。私がキリストのゆえに投獄されている、ということは、親衛隊の全員と、そのほかのすべての人にも明らかになり、また兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことにより、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆に神のことばを語るようになりました。 

 パウロは、自分の喜びを表す手紙を書いているのですが、ここに書いてあるとおり、実は軟禁されている家の中で、鎖につながれながら書いていたのです。考えられるでしょうか、このような状態の中で、彼は喜びに満たされていました。思えば、彼がローマに来るまでの道のりは、苦難の連続でした。エルサレムにおける騒動から始まり、カイザリヤにおいてローマ総督たちの政治的道具に利用され、ローマに向かう船に乗っていたときは、大きな嵐に見舞われ、死の危険を味わいました。そして今、ローマ皇帝ネロの前に出なければいけないのです。しかし、彼は喜んでいました。それは、自分を鎖でつないで、監視しているローマ兵たちが、次々とイエスを自分の主として受け入れていたからです。パウロの家は、訪問者が来ても良いことになっていました。それでパウロは、神の国について語っていましたが、ローマの看守はそれをずっと聞かなければいけなかったのです。また、ローマ近辺にいる兄弟たちも、パウロの投獄によって力づけられ、大胆にみことばを語っています。 

 これが主にある喜びの力です。聖書では、「主を喜びなさい」という勧めがあります。人間的には、悲観的になり、落胆するようなことがたくさん起こります。けれども、エペソ書で学びましたように、キリストにあってはすべてのものを得ているのです。罪の赦し、神の子どもとなっていること、神の家族の一員となっており、神のものとキリストとともに相続すること。このことを思うとき、私たちは喜ばざるを得ません。キリストのことを考えれば考えるほど、私たちは喜びに満たされ、苦境の中にあっても力づけられるのです。ですから、キリストで自分をいっぱいにすることです。 

 そして、自分の周りで主がどのようなことを行なわれているかを見る目が与えられます。どこに目を向ければ良いかが分かってきます。パウロは、福音が宣べ伝えられているところに目がとまりました。そこで、投獄されたことは、実は益なんだということを知ったのです。ローマ8章にも、「神を愛する人々のために、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」とあります。 

 パウロの喜びは、さらに一歩深みに入っています。次をごらんください。人々の中にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいますが、善意をもってする者もいます。一方の人たちは愛をもってキリストを伝え、私が福音を弁証するために立てられていることを認めていますが、他の人たちは純真な動機からではなく、党派心をもって、キリストを宣べ伝えており、投獄されている私をさらに苦しめるつもりなのです。 

 キリストを宣べ伝える者たちには、パウロをおとしめようとしている者たちがいました。コリント人への手紙にもガラテヤ書にも、彼らの存在が言及されていましたね。パウロの使徒職への信用を傷つけて、それで自分たちの教えていることを認めさせようとしている者たちがたくさんいました。ですから、彼らの存在は自分を苦しめていました。 

 すると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。

 なんと、キリストが宣べ伝えられているから、という理由で、このことも喜んでいるのです!これが、キリストのすばらしさでいっぱいになってしまっている者の姿です。キリストのことばかり考えているので、キリストの立場にたって物事を考えるようになってしまっています。自分の信用を引き落としていることは苦しいが、けれども、こんなにすばらしいキリストが、宣べ伝えられているのだ。これに変わる喜びはない、と思っているのです。  

 これは私も肝に銘じなければいけないと思います。自分に対して、ひどいことを行なったクリスチャンがこれまでに何人かいました。けれども、彼らによってキリストが大胆に宣べ伝えられています。自分と考え方が違うかもしれません。けれども、とにかくキリストが宣べ伝えられているのです。これはすばらしいことであり、喜ばしいことなのです。 

2B 生きることはキリスト 19−26
 パウロは、自分に言い聞かせるようにして、「このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶでしょう。」と言っています。それには理由があります。19節をごらんください。 

 というわけは、あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の助けによって、このことが私の救いとなることを私は知っているからです。 

 喜ぶことが、自分の救いになると言っています。この救いとは、罪からの救いということではありません。自分のことを考えることからの救い、と言えます。そこで次のように言います。

 それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。

 「キリストのすばらしさが現われること」これが、パウロの究極の願いでした。そして、これが私たちの生きている唯一の理由です。神は、私たちがどのような状況の中にいても、私たちによってキリストのすばらしさが現われ出るように導かれます。パウロの苦境をとおして、私たちはキリストのすばらしさを見ることができました。他の聖徒たちの生涯をとおしても、私たちはキリストを見ることができます。聖書人物だけではなく、去年の秋、天に召された3歳のカレブ君の生涯は、まさにキリストのすばらしさの証しでした。チューブにつながれ、身動きできない状態のときに、お母さんは十字架につけられたキリストを見たそうです。
 

 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。  

 パウロは今、ローマ皇帝ネロの前に出るのを待っています。ですから死刑判決が下ることもあり得ます。そこでパウロは、死ぬことも今、考慮に入れています。

  しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。 

 パウロは、自分の投獄によってさらに福音が宣べ伝えられていることに、生きていることへの意義を感じていました。ですから、生きることはキリストであり、自分が生きていることによって、豊かな実が結ばれているのを知ります。けれども、パウロは、天に用意されているものが何であるかを、はっきりと知っていました。聖書の約束があるし、また彼は、第三の天にまで引き上げられた経験があります。あまりにもすばらしいので、言葉で言い表したら犯罪になるほどの栄光であったことを書いています。ですから、死ぬこともまた益なのです。そこでパウロは、二つの良いものの板ばさみになっていることを告白しています。

 これがクリスチャンとしての生きざまです。クリスチャンは、単に後の世のことを思って、この世で苦しみ悩んでいる存在ではありません。なぜなら、主にあって豊かな実が結ばれていくからです。けれども、同時に、この世には何の未練もありません。なぜなら、天に用意されているものが、どれだけすぐれているかを知っているからです。ここは苦しいから、はやく天国に行きたいでもないし、ここは楽しいから死にたくない、でもないのです。どちらも自分にとっては益なのです。 

 私はこのことを確信していますから、あなたがたの信仰の進歩と喜びとのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてといっしょにいるようになることを知っています。そうなれば、私はもう一度あなたがたのところに行けるので、私のことに関するあなたがたの誇りは、キリスト・イエスにあって増し加わるでしょう。 

 初代教会の言い伝えによると、パウロはローマ皇帝ネロの前に立ったとき、無罪であると宣告されたそうです。その後、エペソのほうに行ったのですが、ネロの気が変わり、パウロを再び捕らえて、死刑にしたそうです。ですから、彼が今ここで話していることは、言い伝えによるとそのとおりかなえらえたようです。 

3B 信仰のための奮闘 27−30
 こうして、パウロはピリピ人をほめましたが、次から勧めをしています。ピリピの教会には、ある問題がありました。 

 ただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい。 

 福音を語っているだけではなく、それにふさわしく生活しなさい、と勧めています。それは具体的には一つになることでした。

 そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、また離れているにしても、私はあなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにしてしっかりと立ち、心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘しており、また、どんなことがあっても、反対者たちに驚かされることはないと。 

 ピリピ人への手紙を読むと、一つになることが続けて勧めとして書かれています。4章に入ると、具体的に二人の女性の名前を挙げており、おそらくは女執事であったこの二人の姉妹が対立していたようでした。これは、コリントにあった教会のように、分派・分裂というような問題ではなかったようですが、競争関係のような感じがあったようです。そこでパウロは、霊を一つにして、心を一つにして福音の信仰のために奮闘しなさい、と勧めています。 

 私たちの教会の中にも、すばらしい御霊の一致の中に、このような対立心が芽生えます。すばらしい御霊の働きを受け入れて、それぞれが信仰において一致しているにも関わらず、細かいところの違いによって共に働けない、交わっていないということがあります。内輪意識、セクト化が起こってきます。けれども、そのときに考えなければいけないのは、パウロがここで話しているところの「反対者」です。私たちが本当に反対しなければいけないのは、教会内部ではなく外にある霊的勢力なのです。そのことを意識して、ともに一つになって奮闘する必要があります。

 それは、彼らにとっては滅びのしるしであり、あなたがたにとっては救いのしるしです。これは神から出たことです。

 福音は、反対者にとっては、罪に定めらえるところのメッセージであります。けれども、キリスト者にとっては、救いのしるしです。

 あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです。 

 パウロは、キリストのゆえに苦しむことについて多くを書いています。ローマ書においても、患難でさえも喜ぶと書き、今の苦しみは将来現される栄光に比べれば取るに足りない、と書き、コリント人への手紙第二では、苦しみの中で神の慰めを得たことを書いています。このように、キリストを信じる信仰だけでなく、苦しみをも賜っているのです。

 あなたがたは、私について先に見たこと、また、私についていま聞いているのと同じ戦いを経験しているのです。

 「私について先に見たこと」というのは、彼がピリピにいるときに、むちに打たれて、牢屋にいれられたことであります。彼の背中には打ち傷がありました。同じような戦いを、ピリピ人たちも経験しています。彼らは迫害を受けていました。ですから、戦いの中でしっかりと反対者がだれであるかを知り、一つになりなさいというのがパウロの勧めでした。苦しみのときに、友が生まれる、というとを箴言には書かれています。

 こうして、パウロはピリピ人への手紙を書き始めています。互いに思いやり、祈り、そして主にあって喜ぶ。キリストをすべてとし、また苦しみの中に一つになります。具体的な実践的な勧めです。こうして、教会はますます強められます。



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