キリスト者が考えるべき「エジプト」 - ②聖書預言

それでは、聖書を信じる者たちが、またキリスト者たちが、今のエジプトの混沌とした状態をどのように見ていけばよいのか、神の御言葉と御霊の働きから、希望を得たいと思います。

エジプトは、創世記10章の「ミツライム」から出てくる聖書において重要な国です。この国の行く末を、かつて預言者イザヤが語りました。イザヤ書19章です。

エジプトに対する宣告。見よ。主は速い雲に乗ってエジプトに来る。エジプトの偽りの神々はその前にわななき、エジプト人の心も真底からしなえる。わたしは、エジプト人を駆り立ててエジプト人にはむかわせる。兄弟は兄弟と、友人は友人と、町は町と、王国は王国と、相逆らって争う。エジプトの霊はその中で衰える。わたしがその計画をかき乱す。彼らは偽りの神々や死霊、霊媒や口寄せに伺いを立てる。わたしは、エジプト人をきびしい主人の手に引き渡す。力ある王が彼らを治める。・・万軍の主、主の御告げ。・・

1節から4節の言葉です。これは、当時イザヤがいた時の、アッシリヤ帝国によってエジプトが侵略されるまでの経緯を表している箇所ですが、けれども聖書預言にあるように、この出来事を型として終わりの日に向かうその国の特徴や流れを表しています。

エジプト人同士の間で立ち向かわせる状態は、当時のエジプトを表しているだけでなく、まさに今の状態も暗示しています。

そして4節にある「きびしい主人」また「力ある王」は、ムバラク大統領が辞退してもさらにイスラムによる圧制を強いるムスリム同胞団に移り変わる可能性にも見えてきます。そして終わりの日には、反キリストがエジプトにまで進出します(ダニエル11:42)

そして、5節から15節までもお読みください。5節から7節にナイル川が干上がる神の裁きがありますが、アスワン・ハイ・ダムの建設により、下流地域で灌漑による塩害の発生や土砂の流出の問題が発生していています。

さらに、エジプト人たちが誇ってきた指導者や知者たちの知恵は、これらの出来事の前でむなしいものになります(8-15節)。08年の私たちのエジプト旅行記にも書きましたが、近年のエジプトも、古代エジプトの過去の栄光によりすがる末期エジプトのように、実質を伴わないのに中東の大国としての自信を過剰に持っている姿を見ました。これを神が取り除かれる姿にも見えてきます。

そして16節以降から、このように弱くされたエジプトに対する神の救いの預言が始まります。20節には、こう書いてあります。

彼らがしいたげられて主に叫ぶとき、主は、彼らのために戦って彼らを救い出す救い主を送られる。

これは、紛れもなく再臨のイエス・キリストご自身です。

そしてエジプトはアッシリヤと共に、イスラエルを中心にして主を礼拝する、神の国の姿が最後に描かれています。

したがって、エジプトは主の厳しい御手の中で試みに会いますが、けれども、その試みの中で、イスラエルの神に拠り頼むようになる御霊の流れがあり、そして主の来臨の時には、国民的な回心を果たすという希望を持っているのです!

英語の分かる方は、ぜひ、ジョエル・ローゼンバーグ氏によるショート・メッセージをご覧ください。
What Bible Prophecy Say about the Future of Egypt?

キリスト者が考えるべき「エジプト」 - ①情勢分析

昨日と今日、無事にLCFの初回の礼拝を終えました。さらに新しい方々が来られて、主の新鮮な御霊の働きを感じました。

ところで、続けてエジプトの事についてお話したいと思います。日本人の牧師さんで、この問題について次のようにまとめておられる方がいました。

(1) アメリカ、イスラエル、欧米諸国はこれまで、エジプト国民から見れば「独裁者」の印象が強いムバラク大統領を、「中東の盟主」として支持し、莫大な軍事的・財政的援助を行ってきた。

(2) エジプトにおける反政府デモの参加者は、アメリカ発の Facebook に代表されるようなオープンな通信手段を用い、これも従来アメリカが中東政策に関与する大義名分としてきた「自由」を要求した。それ故に、アメリカは表だっての反対はしにくい。

(3) その反政府デモを支持しているグループの一つに、イスラム原理主義の立場を堅守し、もし政権を取るならばイスラエルとの平和条約を破棄すると言明している「ムスリム同胞団」が加わっている。 もしその通りになれば中東のパワーバランスは一気に変化し、イスラエルは窮地に立たされ、アメリカの中東政策は崩壊する。
http://nobsplace.cocolog-nifty.com/hamuranokaze/2011/02/post-3b85.html

アメリカを中心軸にし、問題の原因としているところが私と視点が違うのですが、よく要点を簡略にまとめておられると思います。(私の見方 - 問題はエジプト国内にある、という自覚が真の民主化をもたらす。)

エジプトの騒乱 - 危険な振り子

無事に韓国から戻ってきました。
旅行中も目を離せなかったニュースは、エジプトの騒乱です。

エジプトは、私たちが2008年のエジプト・イスラエル旅行でたった数日だけれども、強烈な経験をした所です。

http://www.logos-ministries.org/israel/israel+egypt08_09.html
http://www.logos-ministries.org/israel/israel+egypt08_10.html

そこに書いていたことの一部を引用します。

確かにエジプトには、とてつもなくたくさんの観光客がいました。そしてイスラエルにも多いですが、エジプトには適いません。でも私はあえて、エジプトの気候や人々、土地の過酷さ強調しました。そしてイスラエルの美しさを強調します。この評価は普通の一般のとは、正反対でしょう。

そのとき、(モーセは)自分の同胞のひとりのヘブル人を、あるエジプト人が打っているのを見た。(出エジプト3:7)この打っている姿は、エジプトで起こった単なる一場面ではなく、その国の統治の性質を代表していたようです。エジプトという国の過酷さをよく表しています。

私はエジプトの現在の政治についての前知識は持っていなかったのですが、その感じたことがそのまま今回のデモによって「やはり、そうだったのか。」と確認した気分です。

アラブ諸国について、今のデモがそのまま民主化になるかというと決してそうではありません。イランのイスラム革命にあるように、初めは民主化の群れであったものが、イスラム勢力がその動きを乗っ取り、イスラム原理主義国にしていく危険が大いにあります。レバノンのヒズボラ、ガザ地区のハマスがその代表的な例です。

そして今、イスラム過激派のムスリム同胞団が、この国を乗っ取ろうとしています。

Middle East up for grabs(早い者勝ちの中東)Son of Hamas著者のヨセフ氏によるブログ記事)

そして、デモ行進の中で現れたエルバラダイ前国際原子力機関(IAEA)事務局長は、リンク先の朝日新聞の記事にあるように、ムバラクの次の指導者として前に出てきています。

けれども、この人物を「羊の毛皮をまとった狼」として呼んでいるのが、Inside the Revolutionの著者であるジョエル・C・ローゼンバーグ氏です。

WHO IS MOHAMED ELBARADEI? A wolf in sheep’s clothing.(モハメド・エルバラダイとは誰か? 羊の毛皮をまとった狼)
ジョエルの主張する要点は、次のとおりです。

1)イラン核兵器開発の擁護者である
2)反イスラエルの姿勢を貫いている
3)ムスリム同胞団の擁護者である

エルバライ氏はノーベル平和賞を取っています。世間はこの賞に弱いですが、金正日に金銭を渡して南北首脳会議を実現させ、この賞を獲得した金大中、近代テロリズムの父祖であるアラファトPLO議長など、まったくあてにならない賞であることは確かです。

「彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安、平安だ。』と言っている。(エレミヤ6:14)」

イスラム化ではなく、真の民主化に振り子が動くよう祈らざるを得ません。

オバデヤ書に見る「エドム根性」 - 甘えん坊ガキ「北朝鮮」

8月4日以前のオバデヤ書に見る「エドム根性」の記事の続きです。

副題に驚いたかもしれません。北朝鮮が「甘えん坊のガキ」って?皆さんのよく御存じの、北朝鮮の挑発行動の根っこにあるのは何であるかを考えると、この言葉が適切ではないかと思います。

日本はしばしば、その閉鎖性、内向性を「島国根性」があると言われますが、朝鮮半島は「半島根性」というものがあります。歴史を通じて、周囲の外敵に侵略され、踏み荒らされてきているので、自分たちだけで固まって、他の要素を寄せ付けない国民性を持っている、と言われています。

日本も鎖国などをしてこの島国を守ったのですが、日本の島国根性と朝鮮の半島根性の違いは、日本は本当に自活して島の中だけで生きていこうという独立性があるのに対して、半島は大陸と地続きなので、そこまで自国を閉鎖することはできず、侵略されつつも、その国々に拠り頼まなければいけない矛盾を抱えています。

ですから、「周囲の国々を巻き込みながら、かつ独立性を保っていく」という傾向が強くなります。

先日、首相が日韓併合に対する談話を発表しましたが、併合してから今年でちょうど100年です。それで今回の談話に野党だけでなく与党からも反発が出ていますが、その背後に「日韓基本条約」があります。先日、NHKスペシャルでこの条約が結ばれたドキュメンタリー番組がありました。大変、感動しました。お互いの日韓併合の意味づけに違いがあったけれども、微妙な言葉遣いのすり合せによって合意に至った経緯を知りました。

確かに日本が行ったことは、私も遺憾であったと思います。けれども、なぜ歴史認識に違いが出てくるのか?それは、日本が強制的に条約を結ばせたということもできるし、「いや、国内で積極的に結ぶことによって国の生き残りを図った人たちがいたからだ」という見方もできます。このような微妙な見方の違いは、「周囲の国々を巻き込む」けれども「独立を保とうとする」という、一見相矛盾するこの半島特有の行動に起因しているのです。

韓国に批判的な人々は、韓国の日本への挑発行為を取り上げます。竹島(独島)問題であったり、対馬を自国の領土に主張するとか。けれども、日韓基本条約のおかげで、そんな小競り合いにもならない感情的対立は、これまでの日韓の相互発展と膨大な交流の中で雲散霧消します。これを主導した岸信介と朴正熙は偉大な政治家だったと認識しました。

二人の行動は、それぞれ島国根性と半島根性を乗り越えた、数十年先を見越した大人の決断でした。そんな韓国でも前大統領の盧武鉉氏は、内向き外交に後退し、過去ばかりを見つめ、北朝鮮に対する片思いで終わってしまいました。

けれども国民は李明博氏を大統領に選び、国全体にバランス機能が働いています。ですから基本的に半島根性を乗り越えていると思いますし、日本も韓国をこれからとても大切にしていかなければいけないと思います。

問題は北朝鮮です。

北朝鮮の人たちが何百年も「自由」という空気を吸っていないことをご存知でしょうか?朝鮮王朝の時代は今で言う「独裁制」でした。強権であり、そこには自由はありませんでした。そして日本の植民地化です。それから今の金日成・金正日体制が始まりました。一般の人々がいつか自由の空気を吸うことができれば、と願ってやみません。

彼らは完全な閉鎖体制を作りました。外部からの情報も遮断し、ラジオも半田で他の局に合わせられないようになっています。そしてその柱になっている考えは「主体(チュチェ)思想」です。すべて自分たちの力だけで国を強大にしていくのだ、という考えです。

けれども、彼らは同時に外部からの援助を受けなければ死に絶えてしまうことをよく知っており、諸外国の援助は死活問題です。しかし、矛盾することに自分たちの国を完全閉鎖し、国の主体性を守らなければいけません。

そこで彼らは、いわゆる「挑発行為」を行ないます。少し前はミサイルを打ち上げ、最近では、韓国海軍の哨戒船を沈没させ、そして中東諸国やテロリスト団体に武器技術輸出を行ない、この地域と世界全体を不安定にさせます。そしてこの安定化のために、米国、日本、そして韓国、また中東であればイスラエルをも動かせ、そして最終的に米国から援助を引き出すという戦法を、ここ何十年も取っています。

米帝とその傀儡の南朝鮮を打倒すると叫びながら、最も頼りにしているのは米国と韓国なのです。私たち日本人にはあまりにも歪んでいて、頭がおかしくなりそうな考えです。

でも、これを一言でいうと「甘えん坊のガキ」です。道端でだだを捏ねて、周囲の人に迷惑をかけることによって、自分の欲しいものを獲得する姿です。こうした国への対処法は何でしょうか?

進歩派の人たちは「対話と援助」と言っています。保守派は「圧力と経済制裁」と言っています。私は「完全無視」をしたら良いのかな?っなんて思っています。

そういう意味で、北朝鮮は少しパレスチナと似ていて、また、隣のイスラエル国に依存しながらも敵対したエドムにつながるものです。

オバデヤ書に見る「エドム根性」 - 国際援助に頼り切るパレスチナ人

そして、パレスチナ人にある問題は、闘争もさることながら、国際的な援助に頼り切っていて、自らの力で働くことを放棄してしまっていることがあります。

現実のガザは封鎖下には無い(エジプト人記者による報告 日本語訳)

イスラエルがガザを封鎖していて、それで酷い惨状であると騒がれていますが、上の記事と写真はそれを真っ向から否定しています。

もちろん一般のパレスチナ人には多くの人がまじめに働き、勉強している人もたくさんいると思いますが、パレスチナ人が働かないという不満と嘆きを、現地の人たちから、またパレスチナ援助団体の人たちからしばしば聞きます。

このことと、エドムがボツラの自然要塞、そして同盟者を抱えて安逸を貪っていたことと重なるのです。

あなたの心の高慢は自分自身を欺いた。あなたは岩の裂け目に住み、高い所を住まいとし、「だれが私を地に引きずり降ろせようか。」と心のうちに言っている。(オバデヤ書3節)

つまり、「弱者」であると言いながら、実はその立場を当然の権利として利用し、イスラエルを、そして世界を使い回し、弄んでいるのが現状ではないのでしょうか?オバデヤ書によると、このような生活の行く先は「破滅」しかありません。

私は、ここで反パレスチナの言説流布のために記事に書いているのではありません。今年5月の旅行でパレスチナの人たちに親近感を抱いたし、実際にその姿は好印象でした。けれども、今、世とマスコミが見せるその地域の姿では分からない、根本的な問題を聖書から検証したいのです。

ですからエドム人に見る気質は、パレスチナだけでなく人間全体にも見ることができるもです。次に、他の国々のこと、そして最後に日本人である私たち、そして個々人の生活に踏み込んでいきたいと思います。

オバデヤ書に見る「エドム根性」 - 世界貿易ビル倒壊を喜んだパレスチナ人

これはかなり前の出来事になりますが、人の受けた悲劇を見て、大喜びで飛び上がる人たちにある「復讐」の念は恐ろしいものがあります。もうお分かりだと思いますが、彼らの喜びと、バビロンによってエルサレムが破壊された時の喜びは、同じ根なのです。

イスラエル兵をリンチにしたラマラのパレスチナ人
(2000年、第二次インティファーダ勃発直後の事件)
http://en.wikipedia.org/wiki/2000_Ramallah_lynching

ハマスの子」の著者モサブ・ハサン・ヨーセフ氏は、自分がイスラエルの刑務所に入っていた時に、ハマス同士の虐待、リンチを見ました。これが、彼がイスラエルのFBIであるシンベトに協力しようと思った、大きなきっかけでした。彼がこう言っています。

私は、もしイスラエルが無くなったら、パレスチナ人は何をするのかと考えた。状況が1948年以前に戻り、イスラエル人が聖地を捨てて、また散らされたらどうなるのだろうか?私は解答を得た。パレスチナ人はまだ戦っているだろう。何の意味もないものの為に。スカーフを被っていない女性のことで。誰が一番力持ちで重要なのかを争って。誰が規則を作り、上席に座るのかについて。(124ページ)

この残虐行為は、イスラエルに対する憎しみから初めは生まれましたが、それが発展してうぬぼれ、高慢へと変遷した結果です。これもエドムの辿った道と同じなのです。

オバデヤ書に見る「エドム根性」 - エドム人とパレスチナ人

オバデヤ書」は、現代のヨルダン南部にいたエドム人に対する預言です。彼らの特徴は、次のようなものでした。

1)父祖エサウが弟ヤコブから受けた仕打ちに発している。長子の権利を奪い取られた憎しみと恨みが、その子孫代々に受け継がれた。

2)ヤコブまたその子孫のイスラエルに対して神は、エサウが兄だから争ってはならない、その土地を取ってもいけないと命じられ、イスラエルはそれに従ったが、エドム人は戦争も辞さない態度で対峙した。

3)神が「兄が弟に仕える」と言われたように、エドムは基本的にイスラエルに従属していた。士師の時代から絶えず戦っていたが、ダビデとソロモンによて従属し、そこで劣等感が強くなった。機会のある事にユダを攻撃した。

4)ユダがバビロンに滅ぼされる時に、彼らはエルサレムの破壊を見て喜び、苦しみ逃げる人々を封鎖し、城内の財宝を貪り、またユダの地を我が物にした。

5)エドムは自分の自然要塞ボツラで高慢になっていたが、根こそぎ滅ぼされた。

現在「パレスチナ人」と呼ばれている人々はアラブ人であり、エドム人とは民族的に異なりますが、私が危惧するのは同じ気質をもってイスラエルに対峙しているのではないかと、いうことです。

パレスチナ人は、「自分たちの土地が48年の戦争で奪われた」という強い怨念によって動いています。けれども、そこには47年の国連分割案をアラブ諸国が拒否したことによる悲劇であり、一重にイスラエルのせいではありません。

そしていくつかの戦争を経て、ようやく進んできた和平交渉の席を故アラファト議長が蹴り、第二次インティファーダを引き起こしました。けれども、それをもイスラエルは乗り越えて、現在、直接の和平交渉の場に呼び入れようとしています。ところが、現在のPLOの議長のアッバス氏は、こんなことを言っています(7月6日)。

If all of you [Arab States] will fight Israel, we are in favor. Palestinians will not fight alone because they don’t have the ability.(あなた方みながイスラエルと戦うのであれば、私たちはそれに乗ずる。パレスチナ人は独りだけで戦わない、その能力がないのだから。)
http://www.palwatch.org/main.aspx?fi=157&doc_id=2543

まだ闘争路線を捨てていないのです。

今のパレスチナがこの闘争を行っていないから、イスラエルは経済的支援も惜しみなく行ない、西岸はこれまでになく経済的に発展しているのです。私も実際、そのパレスチナ人の人々の顔を見て、何か希望を見た気持ちでした。

けれどもパレスチナ人の誇り、またアラブ人たちの誇りは、未だ「イスラエル打倒」の考えに依拠しており、イスラエルの国の存在を本質的に認めていません。彼らは実に、「自国の建設に対する情熱よりも、イスラエルを抹殺するという情熱の方が勝っている」のです(「つのぶえ誌」2010年8月号より)。

私はこれまでイスラエル側の記事も追ってきましたが、ユダヤ人が帰還した「シオニズム」から始まり、イスラエルの独立宣言においても、そこの住民を排除するという考えは初めからありませんでした。(右派のイルグンにはありましたが、彼らが主流になることはありませんでした。)そしてこの国是は今でも変わっておらず、パレスチナ人との共存をイスラエルは基本的に望んでいます。

ユダヤ人が絶対に譲れないのは、「ユダヤ人主権の国家」と「その生存権」、また「首都エルサレム」です。それが壊されない限り彼らはパレスチナ人を排除しようという気は毛頭ありません。

このことと、エドム人の領土を、何の害も与えることなく通過だけさせてくださいと申し出たモーセたちと、それに敵愾心を露わにして対峙するエドムと通じるものを見るのです。

ネタニヤフ首相の和平努力

イスラエルの首相ネタニヤフ氏が訪米し、オバマ大統領との会見を済ませて、本日9日にイスラエルに帰国する予定だそうです。今回は、数多くのメディアに出ました。私は、CNNのラリー・キングのインタビューを見ました。

ネタニヤフ首相は、いつになく穏やかで、筋を曲げず、かつ紳士的に応答している姿が印象的でした。下はYoutubeの動画です。

パート1
パート2
パート3
パート4
パート5

たぶんパート3の最後の方でしょうか、彼がマスコミに出てこない和平への努力を力説している部分で、西岸地区における経済復興のことを言及していました。そして検問所をかなり除去し、経済が発展し、現代的なお店も出てきて華やかになってきた、というようなことを話しています。

私が今回のイスラエル・ヨルダン旅行で驚いたことの一つは、この西岸地区の検問の、信じられないぐらいの緩さと、パレスチナの人々の顔の明るさと穏やかさでした。事前に調べるナブルスへの旅行情報はすべてがイスラエルの占拠、貧しさ、検問の理不尽さなどでしたが、5月下旬時点では完全に間違ったものです。ラマラとナブルスの風景は、エルサレムなどの大都市に比べればあまりにも小規模ですが、それでも静かに発展している小都市の様相を呈していました。人々も普通に平穏に暮らしているという感じで、99年の第一回イスラエル旅行における、第二次インティファーダ前のベツレヘムの姿と似ていました。

パレスチナ情勢について語る人々は、本当に親パレスチナなのであれば、このパレスチナ人の姿をなぜ紹介しないのでしょうか?パレスチナを愛しているというよりも、イスラエルを憎んでいるその敵意が前面に出ています。

ナブルスを紹介する、パレスチナ人によるサイトがあります。ここにも、「マスコミには出てこない、パレスチナの文化や歴史を知ってほしい。」という普通の人々の生活、歴史遺産、文化を紹介しています。彼ら自身も、マスコミの扇動報道には辟易しているのです。

Nablusguide.com

私が「エルサレムの平和のために祈れ」という聖書的命令の中で願うのは、この両者の経済的、社会的発展です。現地の親パレスチナ活動家は本音では知っているでしょうが、パレスチナが自力で経済を復興させることは到底無理です。生活基盤もさることながら、人々に働こうという気力がないそうです。あまりもの援助を受けてしまったためでしょうか、援助から脱却できない体質があるのかもしれません。いずれにしても、ネタニヤフ首相がいま行なっているようにイスラエル側の積極的な働きかけを彼らは必要としています。

パレスチナ自治区を国家にすべきかどうかは私には分かりません。ハマスと自治政府の関係が悪化している今、イスラエルが国家を認知したところで内部分裂するのがおちでしょう。

けれども国家にしたいならば、そのための準備は指導層の和平交渉だけではなく、むしろ一般市民の絶え間ない勤労努力が必要です。自分たちの国を造るという真の愛国心が必要です。以前は、彼らはイスラエル領に出稼ぎに行くことができたのですが、そのような自由と良い治安の回復が一番必要だと思います。そして国家ができても、イスラエル領でアラブ人市民がその基本的権利を守られているのと同様、そこにいるユダヤ人入植者の基本的権利を守り、ユダヤ教やキリスト教の遺跡の保持にも努力するべきです。

・・・現在の時点では、そのような発想の転換は到底無理でしょう。国家にしたら、自分たちがイスラエルの占領を非難していたのと同様、多くの非難と批判に耐え得なければなりません。多くの責任が伴なうのです。