前近代がむき出しになってくる世界、そして日本

(フェイスブックからの転載)

 今、ビズテリアの勉強会で毎月「激動の世界情勢を聖書から読み解く」そして、ゆうき牧師と、毎週「聖書から見る世界情勢」で、世界情勢についてお話しさせていただいていますが、最新では、ロシアのウクライナ侵攻危機を追っています。自分の心の内を明かすと、今は、「ついに来たか・・」という感じです。

ビズテリア・クラブ

ゆうき牧師のバイブルライフコーチング「聖書から読み解く世界情勢」

 かつて、聖書預言と言えば、古代の文書を今現在の情勢に当てはめること自体が、滑稽きわまりなく、時代錯誤だとされる見方が多かったです。けれども、そういった見方自体が、私は、「人類は進歩する」という誤った世界観であると思って、それに心の中で抗っていました。

 そういった信念に近いものが、聖書信仰者でも何でもない、一般の国際政治の専門家の口から、どんどん出て来て、ついにお茶の間のテレビ報道にも出てくる時代になっているので、驚いています。

 そのきっかけになった文章があります。

特集 帝国の崩壊と呪縛 巻頭言」から

むしろ、われわれは近代の歴史を帝国の崩壊、それも繰り返し起こる崩壊として見てみることで、視界が開けるのではないか。

われわれは近代の歴史を、なんらかの「発展」として捉えがちだ。主権国家や国民や、自由や民主主義や人権といった、近代の発展の目的に向かって、個人が、人間集団が、社会が、国家が、国際社会が、それぞれに発展していくものとして歴史を見出していく。そこに障害がある問題が現れれば、取り除き、先に進めばいい。そのように考えてきた。

しかしここに考え直してみる余地がある。近代史はむしろ、前近代から引き継いできたものの絶えざる崩壊と見る方がいいのではないか。崩壊の後に打ち立てたと思った何ものかも、さほど時を置かずしてまた崩壊する。そして崩壊のたびに、近代国家ではなく、その前の帝国の残骸が現れる。帝国は繰り返し崩壊することで近代にその残影を晒し続ける。帝国の呪縛にわれわれは今も囚われている。

(参照記事:「サイクス=ピコ協定 百年の呪縛」①

 私たちは、近代史から現代に至るまで、その教訓や失敗をふまえて、今の秩序を持っていると思っています。今、江戸時代にあったものを、まさか今現在によみがえらせる、ということは思ってもいないと思います。もちろん、江戸時代に培われた知恵や文化、社会的な構造は今も、伝統的なものとしては受け継いでいますが、例えば、鎖国制度は、まさか取らないのです。

日本にさえ見えてしまった前近代

 ところが、私は不気味に感じたことがありました。西側諸国が、オミクロン株の感染の広がりで、水際対策は有効ではないことをいち早く察知し、開国へ向かったのに対して、日本は来月3月に僅かに開国するという、極端な遅さになっています。英字の海外メディアは、江戸時代の鎖国の精神がよみがえったと論じ、また楽天CEOなども、同じ論評をしました。日本人にある閉鎖性、海外の激変に対して「閉じる」ということで生き残るその精神性が、今回のコロナ禍でよみがえってしまった、と、不気味なものを感じました。

 中東諸国や世界で、同じ方向に動いています。エゼキエル38章に出てくる国々で、最も中心的なのは、マゴグの地のゴグです。ロシア南部です。そしてペルシャであるイラン、またベテ・トガルマやゴメルなどのトルコです。それぞれが、第一次、第二次世界大戦を経た後の秩序が崩壊しています。イランは、独自のペルシア文明の復古と、シーア派のイスラム原理主義の復古による覇権であり、トルコは、オスマン帝国時代の栄華の復古、そしてロシアは、ロシア帝国の復古です。

 以下の記事は、まさに21世紀のリベラルな国際秩序と、むき出しの19世紀の帝国主義がガチンコしているのが、ロシアのウクライナ侵攻の深みであることを論じているものです。

「ウクライナ危機で露見、「ロシアは悪くない!」論者が無視する21世紀の国際規範 「向こうの事情もわかる」はなぜ危険なのか」

私は、権威は上から来ている、神から来ていると信じています。ゆえに、我が国、日本は、21世紀のリベラル国際秩序の中で動くことをしていかなければいけないと信じています。例えば、中国が沖縄諸島を軍事力で威圧して、日米同盟の解消を迫る交渉材料にはしてほしくないと願います。また、ロシアが今、ウクライナに行っているように、北方領土に極端な軍事増強をし、北海道の周囲を取り囲み、そこはロシアだと、こじつけで脅迫してくるようなことに対して、強く反対します。(そして、もちろん、たとえそうした秩序が崩壊した時でさえ、主の支配は続いていると信じます。)

 しかし、日本は日本の昔の精神がよみがえって、こういったことに「見ざる聞かざる言わざる」で対応しようとしているのではないか?と心配です。そして、力によるごり押しの開国で近代を日本が迎えたように、力によるごり押しの現状変更を、中露あたりから迫られるのではないか?と心配です。

※上部の写真は、日光東照宮の「見ざる聞かざる言わざる」の三猿です。これは、「物心のつく幼少期には、悪いことを見たり、言ったり、聞いたりしないで、良いものだけを受け入れ、素直な心のまま成長せよという教えが暗示されている」とのことです。けれども大の大人までが、国として、このままではいけないわけです。

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