第二回目 相馬救援旅行 4月15日

これで最終日です。仙台の実家を出発しました。(二回にも渡って、お父さん、お母さん、家に泊めてくれてありがとう!)母に前もって、先週お手伝いした、彼女の友人の農家に問い合わせてもらったところ、また手伝って欲しいとのことだったので、東京に帰る途中、また立ち寄りました。

ナビは仙台宮城インターから入り、仙台南部道路、仙台東部道路、それから常磐道へと導いていました。常磐道はなんと、相馬市の近隣の町である山元町までつながっていました。かなり新しい道路です。先週はここを通らなかったので時間がかかりましたが、本当に助かりました。(利用券もここまでの申請をしていなかったのですが、料金所でOKでした!)

途中、名取川付近を通りましたが、あの有名な津波が押し寄せる映像の場所です。一ヵ月後の今も壊滅的でした。

そして途中のコンビニの駐車場で早めの昼食を取り、午前11時には農家に到着しました。一週間前の状況よりも、はるかに改善していました。けれども、今回はもっと大変な作業でした。ヘドロの山を外の畑に持っていって捨てる作業です。ヘドロがこんなにも重かったのかと驚きました。

山東さんが25分の作業、5分の休憩というサイクルでアラームを設定してくださり、どんどん作業は進めることができましたが、最後はへとへとになりました。時間が来てしまい、頼まれたことを完全に終わらせることができなかったのでちょっと残念です。

そして帰宅です。悠さんはそのまま成田のホテルに向かい、翌朝出発の飛行機でバンコクに戻りました。山東さんと悦子さんは、電車に乗り帰宅へ。そして魯牧師と朴さんも車で帰宅です。

私の両親も含めて、今回の旅は、私たち以外は互いに初めての人たちなのに、本当にそれぞれが神から大切な任務が与えられ、それぞれが御霊の働きを経験し、主をほめたたえた麗しい時でした。東北救援旅行には、未信者の人々への御霊の業のみならず、信者間の互いの一致と愛が育まれる神のご計画があるような気がしてなりません。本当に主をほめたたえます!

第二回目 気仙沼救援旅行 4月14日

気仙沼は、地元仙台の人たちにとっては身近な所ですが、私は一度も行ったことがありませんでした。全く新しい所です。けれども、姉の高校・短大の同級生がそこでボランティアで働いておられること、またLCFの悦子さんの知人の親戚の方がそこにおられるということで、そこに行くことに決めました。

最短は、三陸道また海岸沿いの国道45号線を北上することですが、情報によると今は非常にそこが混雑しているとのこと。岩手県の一関ICまで東北道まで北上し、それから国道で気仙沼に入る道を通りました。2-3時間かかります。

気仙沼は典型的な三陸の町です。「リアス式海岸」といって、高台に囲まれた湾岸があり、その湾は非常に入り組んでいます。そのため、津波の勢いも非常に激しかったのだと思われます。また、岸に海水が漏れて入ってくるほど地盤沈下を起こしていました。

被災者の方々から出てきたのは、チリ地震津波のことでした。その経験から津波そのものは予想できたものの、これほど高波になるとは想像すらしていなかったという感想です。それで大丈夫だろうと思って家に引き返したり、逃げるのを遅らせたりした人が波にさらわれた、とのことです。

まず悦子さんの知り合いの親戚のご夫妻のところに救援の品々をお渡ししました。単一電池が売り切れて困っていたとのこと。涙を流して喜んでおられました。最後に山東さんがお祈りしました。

そして、その方の情報に基づいて、南町そして魚町が、物資が必要であろうということでした。まず、南町に行ってみました。そこは少し海岸から離れていた商店街ですが、家は半壊もしくは全壊です。そこに家の整理をしている人々がかなりいました。一人のおばさんに声をかけたら、たいそう喜んでくださり、またすぐ傍の近所の方も来て、喜んでくださいました。そして山東さんが最後にお祈りでしめました。

そして、何軒か同じ通りの人々も同じような反応で、私たちの分担がだんだん決まってきました。私が、道案内と車から降りて声をかける係り。山東さんが祈り係。その他の人はワゴン車から必要なものを取り出す係です。山東さんがどれだけの未信者の人たちのために祈られたか知れません!とにかく、涙を流して喜んでくださいました。物だけでなく、祈ったことによって、心にも贈り物を渡せたのではないかと思います。

次に行った魚町も同じ反応です。水が出ないところもあるので、水を持っていく人、また給水車までの水のポリタンクもかなり渡せました。そして缶詰などの食料、ふりかけなども重宝がられました。

そして今回最も喜ばれたのが「キムチ」です。前日の東松島でバーベキューのために韓国の教会の方が二百人分作ってくださったのですが、かなり余ったので渡すことが出来ました。ご飯と味噌汁というような生きるための食べ物はあるのですが、避難生活も長期化しているので、このような嗜好品に飢えている感じです。

そして、岸辺のところで荷物整理をしていましたが、そこでも私たちを三階の建物から見下ろしていたおばあさん二人が支援物資を取りに降りてこられました。

そして鹿折(ししおり)地区に行きました。ここは「鹿折川」が流れている所で、いわゆるニュースで出てきた全壊地域、船が陸地に乗り込んで、また火事が起こった跡が残っています。

そして、姉の同級生の人からの情報で、寝たきりのおばあさんの家にお伺いしました。けれども、いませんでした。隣の家の人によると、ちょうどその日の朝、入院されたそうです。

そして気仙沼湾の方面に向かうと、鹿折地区と同様、全壊状態で道も寸断されています。これでは物資援助もできないので、「それでは南町に戻ってみよう」ということになりました。そうすると、やはり人がいます。それでそして最も大きな避難所の気仙沼小学校のふもとにある、小さな避難所にも行き、そこでキムチ等をお渡ししました。

さらに南町の商店街を巡り、数多くの人々に渡すことが出来ました。一つの陶器を売っているところは、重要文化財になっている蔵が残っており、ここら辺では津波に流されずただ一つ残っていたものだ、とおっしゃっていました。

そして最後に九条小学校に向かいました。内側にあるので、かえって見過ごされている避難所です。そこの長の人にお会いすると、なんと校長先生でした!21日から新学期が始まるとのこと。これは大変です。

そして私たちは、一関経由で仙台に戻りました。

第二回目 奥松島・東松島救援旅行 4月13日

この日は朝5時に起床、6時過ぎに私の実家の家を出発しました。仙台の市街地のラッシュ・アワーを避けるためです。

今日は、第一回目で関係の築けた、東松島の地区センターで一日を過ごす予定ですが、その前に手前にある奥松島を立ち寄りました。松島を過ぎて、東松島に入ると宮戸島があります。初めの記事に書きましたが、ここは私が幼い頃と大人になってから姉と甥といっしょに来たところで、非常に思い出深い所です。津波で無残な姿となった野蒜から右折して入ると、道は寸断されており、酷い状況でしたが、かろうじて砂利道による細い道が新たに作られていました。

そして月浜海岸に到着すると、そこで家の瓦礫で作業をしている方がおられたので、武道館に避難されている方の名前を告げると、「ああ、こちらですよ」と案内されました。家は数メートル全体が土台から外れてずれていて、一階部分は全壊、二階だけがかろうじて残っていました。中にも入って、写真を撮りました。

そして東松島の石巻寄りまで来て、地区センターに到着しました。なんか、ずっと前から知っている場所のような感じがして、親近感が持てます。今回は山東さんが元料理人とあって、手際いくハンバーガーなどをバーベキューで焼きました。

私たちは午後に家の片付けを申し出ていたのですが、そのセンターの長の方は、「それは本格的に来週に(来週はトラビスと沖縄宜野湾のチームが来ます)してもらうことにして、ぜひ私たちの地域の家々を見てください。」とのこと。廻っていきましたが、全壊や半壊の家がずっと並んでいます。土台だけでほとんど形跡のない所もあります。ちょうど、畳出しをしておられる家庭があったので、それを手伝いました。

その後、地区の長の方とその助っ人の方と団欒の時を持ちました。支援物資はかなり来ているようです、団欒をしていた和室には物資が積み上がっています。それから、家を建て直す人以外は、後片付けは一ヶ月ほどで終わりそうです。けれども、仮設住宅ができ、そこに移り住むまでは長い期間を必要とし、避難生活そのものは一年以上続くのではとほのめかしておられました。これから、どのような形で接していけばよいのか祈り始めなければいけません。

その助っ人の方は、石巻の病院で入院中だったのこと。首のところまで津波の水が来て、浮かんでいる死体を掻き分けながら難を逃れたそうです。今でこそ、避難民の方々は冷静さを保っておられますが、一人一人に心の傷は確実に残されているはずです。そのようなケアもこれから長期的な視野で行なっていきたいと願いました。


(写真は、センターの長の方の家の中です。他の人々のために動いていたので、彼の家だけは片づけがなされず、そのままになっていました。)

第二回目 仙台救援旅行 4月12日

今回の旅行は、私たちを除いては互いに知り合いではない人々の構成でした。LCFのメンバーの姉妹の悦子さん、カルバリー西東京の牧師の山東さん、近所の韓国人教会で「綾瀬東部教会」の魯牧師と執事の朴さん、そしてCC Bible Collegeの卒業生で今はタイ在住の悠さん、最後に私たち二人です。けれども、主にあって一つになることができ、本当に祝福された旅でした。

今、東北地方の高速道路は、被災地救援車両に対して利用券を発行しています。足立区では、現地の公の機関からの確認の連絡があれば、発行してくれます。これは大変助かりました。

まず、私たちは仙台にあるサマリタン・パースの倉庫に行きました。夕食作りとこの倉庫行きに分かれました。その支援物資の量と、無償貸与あるいは授与の気前よさには驚きました!これで、東京で入手できないもの、またその時間がなかったり、資金が足りない人でも十分にここに来ればまかなえます。貸与のものとしては、今回の災害に合わせた「泥出しキット」というものがあります。津波によって泥を家から取り出す時に必要な道具一式です。

そして夜に、近所の人たち二人がいらっしゃって、聖書の学び会をしました。一人はお父さんでイエス様を信じたばかり、もう一人の娘さんは求めておられます。非常に有意義な分かち合いの時となりました。

第二回目、東北旅行にあたって・・・すでに始まっている神の御業

第一回目の旅行は、なんと言ったら良いでしょうか、主が恵みの油を滴らせた豊かなあぜ道を歩いた、という感じでした。しかし、二回目の旅にも非常に期待をかけています。

そして、昨日の日曜日ですが、その近所にある韓国の教会で三度、説教の奉仕にあずからせていただきました。私たちの教会の人たちも、いつもは自宅でやっている第二礼拝を合同でそこで持つことになりました。この教会は、以前、FBでも書いたことのある、足立区の東京武道館に住んでいる福島原発の避難者の方々のために、その場所を開放している人々です。なかなか人が来ず、牧師さんも少しがっかりしていました。

ところが、午前中の第一回目の説教の後、昼食の時間に、一人の女性が熱心に話しこんでいました。最近、赤プリの避難所に引っ越したとのことですが、福島いわき市から避難された方です。私が説教の前置きで、自分が仙台出身であること、そして救援旅行に行ってきたことを分かち合っていました。まさか、こんなところで自分に直接関わりのあることを聞けるなんて・・と感動されていたのです。彼女は教会に一度ぐらい行ったことがあるぐらいの未信者の方であるのに、なんと礼拝にずっと参加されていたのでした。「私には仙台や石巻にたくさん友人・知人がいる。私もいつか、旅行に参加したい。」と仰っていました。

そして、第二礼拝が終わり、壮年の男性の方とそのお母さんのコンビの方が、ロゴスの教会の人たちが交わっている場に来られました。お二人も武道館に住んでいるとのこと。そして何と、東松島からの被災者だというではありませんか!もっと聞くと、月浜海岸で民宿をされていたといい、私は幼少の頃と大人になってから、その辺りで宿泊したことがあります。お二人も、まさかこんなところに身近な人がいるとは・・と感激されていました。

破壊された家がどうなっているか、またそこにある家財がどうなっているか、津波を免れた仲間にもなかなか連絡が取れない・・・と仰っていたので、「明後日、東松島に行くんですよ。お家を見てきます。写真にも撮って、また家財らしきものがありましたら、拾ってきます。」と申し出ました。そうしたら、ぜひお願いしたいとのこと。

未信者のお二人ですが、何か感じられたのではないかと思います。まず、福島原発の避難者が集まっている武道館でたった二人、松島の地域から来ておられてかなり淋しかったようです。それで身近な人に会えたこと。それから、教会の人たちが場所を提供して下っていて、かなり嬉しかったようで、私がたまたまこの日に、旅に行く二日前に、説教の奉仕に来ていたことも奇遇であり、完全に神の導きです。

若林区&相馬救援旅行 4月7日

最後の日は、初めに若林区に行きました。そこにカルバリー所沢に通っておられた姉妹が住んでいるからです。そこで彼女から、地震と津波の時の体験談を伺いました。すぐ目の前まで、津波が迫っていたそうです。

それから福島県の相馬市に向かいました。母の知人の方が農家におられ、かなり津波被害を受けたそうです。行ってみたら、延々と続きそうな清掃に驚愕しました。けれども男たちが5人いるので、水と泥だらけになった畳を剥がし、指定のゴミ捨て場で捨て、納屋にあるものを外に出す、力の要る作業をすることができました。本当に感謝されて、私たちもぴったりの時期に、ぴったりの作業を与えてくださった主に感謝しました。

それから、本当は常磐道を通ればはやく帰れるのですが、原発の目の前を通らなければならなくなるので(というか常磐道が通行止めになっているので)、遠回りをして東北道まで山道を走らせて、帰りました。カルバリー・ホノルルのビルさんは、無事に羽田空港に行けて、深夜に出発する便に乗ることができました。

すべての旅について、主に栄光をおかえしします!

石巻・東松島救援旅行 4月6日

この日は両親も連れて、8名で行きました。

石巻に午前中行きました。石巻は意外に手ごわいです。少し内陸に入るとかなり復旧しており、救援物資を受け取ってくれません。けれども海岸部は激しい破壊状況で、今度は逆にあらゆる救援に対して心を閉ざしています。今回、被災地はこのように津波が来た所とそうでない所が、ある一線からちょうど国境のように一気にその風景が変わります。

ちょうど中間当たりの状況にいる人々を見つけられたら、物は受け取ってくれるでしょう。実際、病院の先生が食料はあるが患者さんに暖かいものが出せなかったということで、ガスコンロとボンベを渡すことができました。

海岸部で今必要なのは瓦礫を取り除くなどの作業だと思いますが、同日に石巻に行った国分寺カルバリーの兄弟によると、自動車が家の中に突っ込んであったりして、自衛隊が来るのを待つ必要があるとの事です。あと二週間ほどしたら、瓦礫除去や清掃のお手伝いができるでしょう。

そして2時に東松島に戻りました。カルバリー府中の兄弟が、トラックに洗濯機6台と、バーベキューの台、鶏肉を調達して東京から来てくださいました。私たちは前日ものすごい量のソーセージなど、他の食材を用意して持って来ました。それから再び、沖縄カルバリーの仲間がさらに衣料を中心とする物資を持ってきてくれました。

そしてすごいことが起こります。すぐ傍に津波でだめになったため捨てられていたピアノをトラビスが見つけ、これならピアノを弾ける、とのことでした。それを動かし、この地区センターの長の方が照明も設定してくださいました。これこそ、津波のよる破壊から音楽による希望を奏でる象徴的存在になりました。

バーベキューの準備が進み、長蛇の列が並びました。沖縄のリックたちは、袋に聖書を入れて、それに物品5品までということで、分け与えることができました。炊き出しをしている自衛隊の若者たちと本当に親しくなり、彼らにもバーベキューをあげることができました。

そして、トラビスがピアノ、そしてギターで歌を披露します。人々の心がますます和んできました。一人の婦人の方が泣き出され、祈らせていただきました。そして大勢の方が、本当にありがとうという言葉をかけてくださり、印象的だったのは、「これで終わりに決してしないでください。復旧には一年以上、かかるでしょう。この地区は忘れられています。どうか、長期的に考えてください。」とのことでした。これこそ、私たちが祈り続けていたことですから、「分かりました」とはっきりと答えることができました。

地区センターの長の方のために、私たち牧師が手を合わせて最後、祈る時間を持つことができました。

この地域のために、主にある希望になりつづけたいと願っています。

東松島・石巻救援旅行 4月5日

今日は、東松島と石巻に行ってきました。松島はまだその美しさを保っていました。東松島に入ったら、愕然とさせる全壊の家が続きました。

そして、ある程度家が残っているところにきたとき、私はここでもしかしたら家々で困っている人たちがいるのでは?と思いました。それでサンクスの人に聞いたら、そこにいた人がある地区センターに連れて行ってくださいました。そこの避難所は自衛隊の人たちが水と基本的な食事を提供してくれる以外は、役所が見放している所でした。そこのリーダーの人たちとじっくり話して、洗濯機が必要とのことで、府中の方がなんと六台を安いのを購入して、次の日トラックでここまで来てくださいました!

それから、トラビスがバーベキューをやりましょう、ということにありました。それで同じ方が、肉とバーベキュー台をいっしょに購入して持ってきてくださいました。

そしてリックの沖縄のチームが後続で来ました。もっと援助物資がやってきたので、ここのいったいの人たちは大喜びでした。もちろんトラクトも配り、リーダーの人のために私たちは祈りました。

今後、家々の片付けのため4月下旬にハワイからチームを呼ぶことができるかもしれないという話し合いも、このリーダーの方と話すことができました。

それから石巻に行きました。沖縄・国分寺の人たちについていきましたが、石巻はまるで水の爆弾の空襲で廃墟となった町という感じでした。別世界です。ヨークベニマルの屋上に20人ぐらいの人が被災されています。水道、電気、ガスすべてがありません。わずかに電気が通っているところがありますが、・・・どうか、どうか、今、救援に行くべきか悩んでいる方はぜひ、来てください。石巻はまだまだ基本的物資も足りません。

死ぬまでのことはないのですが、その他のものが全然足りません。

次の日は、同じところにいくつもりです。石巻に始め行きそれから東松島にいきます。

仙台被災地救援旅行4月4日

一昨日の夜、無事に東京に戻ってきました。Facebookで書き残したノートを元にこちらに報告を残したいと思います。

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この日からガソリンの供給が仙台に本格的に入りました。ガソリンスタンドに車が並んでいません!!そしてガスまでが入り、両親はお風呂が久しぶりに入れるので、喜んでいます。

今日は七ヶ浜にある避難所に行きました。知り合いの知り合いの方がいたのですが、なんとその中に入り、救援物資のみならず、トラクト入りのお菓子袋も渡すことができ、トラビスは子供たちと遊びました。

そして、そこに女性の方が熱心にトラクトを読んでいます。尋ねてみたらクリスチャンだとのこと。なんと津波にさらわれ流されたのですが、間一髪で救われたそうです。みなで、その場で祈りました。

その後、七ヶ浜と多賀城の海岸地域を回りましたが、絶句しました。写真や映像よりも凄まじいです。

それから利府にいる姉のところを尋ね、彼女から直接津波の証言を聞きました。多賀城にある姉の会社の人はいったん、地震の指定避難所の運動場に動いたのですが、それはもっと海辺に近かったとのこと。津波警報を聞き、二つの建物に分かれて避難。一階はすべて津波が入ってきました。夜には屋根の上から助けを求める女性の悲鳴が・・・。次の日、ひざより上に深さの冷たい海水の中を歩き脱出。途中まで徒歩で歩き帰宅したとの事。

それから両親の家に戻りましたが、なんと四軒隣の方が娘さんといっしょに訪れてくれました。この方が昨日、イエス様を受け入れたのです!娘さんも救いにかなり近づいています。