第三回目 奥松島・東松島旅行 5月4日

宿泊した湯治宿は、自炊の出来る台所もあるので、女性たちは朝食の準備をしました。電気炊飯器も持っていったので、暖かいご飯が食べられて幸せでした。

そして私たちが始めに向かったのは、奥松島の宮戸島です。松島から27号線の海岸沿いの通りを走ると、しばらくして野蒜が出てきます。その駅の目の前に運河が走っていますが、200名ほど津波で亡くなったそうです。

そこから宮戸島に入ります。この一帯は、「奥松島」として知られているところです。松島は日本三景で有名ですが、仙台などの地元民は松島よりも奥松島を好みます。私が幼い時に訪れた月浜海岸は、舟からではないとアクセスのできない小さな浜辺が、プライベートビーチのように点在しているのを見て、感動した覚えがあります。

そこに入り、中央部にある縄文村歴史資料館で避難されている住民の所に行きました。千葉さんの知り合いがたくさんいます。そこに私たちはキムチなどの食糧、またその箱の中にトラクトも入れたものを置かせていただきました。

宮戸島の人たちは、確か一人を除いて全員助かったそうです。聞く所によると、学校の建物の高台に避難したとのこと。また噂では、沖に船を進ませたとも聞いています。「宮戸島の私たちは、津波はすぐに来ると思っていたが、野蒜の人たちは自分たちのところまでまさか、という思いがあったかもしれない。また逃げるために車に乗って渋滞してしまったが、車から降りて逃げるべきだった。」と述懐しておられました。

そして月浜海岸地区に向かいました。そこにも避難している小さな集落があります。少しお話した後に、月浜海岸にある木村家に行きました。木村さんの目的は、趣味で収集しておられる日本刀をはじめとする貴重品を取り出すことです。一階は完全になくなっていますが、二階が残っています。そこから、出るわ出るわ、幕末からの真剣だというものも拝見しました。

そして、私たちは松島で昼食を取ろうとしました。ところが、ゴールデンウィークの松島は観光客でごった返していました。4月初めに来た松島はまだ漂着した車がそのままにされていたり、被災の傷跡が深かったですが、もうこれだけ復旧しています。作業服の私たちはちょっとミスマッチでした。

そして東松島の牛網に行きました。そこでは、リッチたちがたまたま清掃を必要としていた家の人と出会い、そこでずっと作業をしていたそうです。リッチは夕食を取らなければいけないので、二・三人を除いてみながそちらの準備のために戻り、私たちが引き継ぎました。その庭には腐ったお米の臭いが立ち込めています。津波の時にどこかしらか、やってきたそうです。でも、たくさんの人数で行なったのでほぼすべてヘドロを取り除くことができました。

そして夕食は、リッチが再びハワイ風の醤油味のチキンをメインに、サラダを作り、私たちはキムチを用意しました。とてもおいしかったです。

そしてその後、イブニング・ショーを避難所の中で行ないました。リッチの奥さんキャンディスがフラダンスを披露し、被災者の方々二名も参加されました。その後、カルバリー府中から三輪さんというご家族が全員でバンドを組んで、ジャム・セッションをしてくださいました。20歳の息子さん、そして三人の十代の娘さん、そしてお父さんお母さんの構成です。最後に二番目の娘さんが、手品も披露してくれました。

そして私たちは全員、避難所に宿泊する人も含めて、お風呂に入るために湯の原温泉に行きました。他の松島のホテルに泊まっていた女性五人も今晩は同じ宿に泊まります。