「想定外」は私たち皆

昨夜、恵比寿バイブルスタディの帰りに兄弟たちと少し交わりましたが、みなが救援活動をしているので、少し福島の話題になりました。単に天災である地震と津波はある意味ですっきりしています。けれども原発事故は「人災」の要素もあるので、以前も記事に書きましたが非常に複雑です。放射性物質の数値さえ、専門家によって変わってしまうという状況で、福島県民の方々はいったいどういう思いをされているのかな、という話をしました。

ところで政府や東電が行っている一つ一つの挙動を、鬼の首をつかんだかのように怒り、責める姿に正直、辟易しています。私は東電に対するイメージは単純に「お役所みたいなところ」ということでした。巧妙な隠蔽工作などできる暇がなかっただろうし、東電の方々には申し訳ありませんが、そんな悪魔的に(?)頭脳明晰な人はそこにはいないと思います。

役所であれば、今の被災地でも本当に機能していない姿を見てきました。また個々の避難所においてでさえ、そこのリーダーの手腕によってまるで状況が変わってくるのです。

「なぜ、今頃メルトダウンが分かったのか?」という怒りの声はもちろん理解できますが、そのような杜撰な姿は、皆さんの身近な所でもこれまでいくらでも起こってきたと思うのです。役所のようなところに行けば、きちんと対応してくださる職員の方も大勢おられますが、2-3分で終わるような手続きで1時間ぐらいかかったり、相手に非があるのにこちらが悪いと逆に責めてくるとか・・・。小さなレベルでは沢山あるのです。

私たちも同罪

はたして私たちは今回の地震は「想定」していたでしょうか?また地震の事前防災はされていたでしょうか?水、食糧、避難場所がどこにあるかなど、分かっていた方はどれだけいたでしょうか?あれだけ買いだめしたのは、今回の地震が「想定外」だったからではないのでしょうか?

(私も、3月11日の二日前、沖縄カルバリーチャペルの水曜礼拝で説教の奉仕でした。ある方が、「仙台で震度4だったって。」と仰っていましたが、私は、「いつもの事だから。」と言って親に連絡しようとはしませんでした。だから、地震が起こって通信不能になった時に後悔しました。)

私たちでさえ混乱したのですから、人間の集まりである東電という企業もまた政府も混乱し、収拾がつかなくなったというのは容易に想像できます。

そして津波で死んだ方について言いますと、死んだ人々に鞭打つことになってしまいますが、被災地で生き残った方々の声を聞くと、多くの場合「そんな大きな津波ではないだろう」と思って、自分の家に戻ったり、混雑した道路にずっと止まっていたり、つまり「想定」していなかったからなのです。

そして、「福島県民のことを考えろ!」という怒号も聞こえます。けれども、福島県民こそ、長いこと原発推進の歴史をたどってきた人々であり、実に東電やその下請けで働いている人たちが大勢いるのです。県民の方のブログにはこう書いてあります。

原発事故の被害を受けている福島の人々は、「こんな被害を受けているのに、それでも原発をとめたくないという人は、私たちの気持ちがわからない」という気持ちでいっぱいのことだと思います。
しかし、私は、原因究明なしには、それを言える段階にはありません。確かに、自然とは共存しえないものだということは人間としてはわかるのですが、どうして想定外のことが、地球に何基もあるのにわざわざこの福島で起きてしまったのかということを知らなければ、これまで福島県が原発を誘致してきた意味がなくなってしまいます。今、原発とともに福島が歩んできたのがなぜか、わからなくなってしまいます。世の中で今、言われているように、「安全だから」という思考停止に陥ってしまったから、受け入れてきたというだけなのでしょうか。私にはなんとなく、そうは思えないのです。それを知らない以上、原発反対に足を踏み入れることはできません。
私が一番腹が立つのは、被害を受けていない人で、いきなり原発反対に目覚めた人たちです。微量たる放射性物質被害を受けているからそう感じているのか、それとも福島県民に同情せんがためにそう感じているのかは定かではありませんが、真に福島のことを思うのならば、そのように安易に原発反対に舵を切れることはないはずです。これこそ、思考停止の最たるものであり、私はそういう方々を軽蔑します。
http://blogs.yahoo.co.jp/iizakaumare/35372712.html

ここで言われているように、津波の被災者が「これだけの津波がなぜ三陸に、そしてこの時に起こったのか?」と言っているのと同様、「地球に原発が何基もあるのに、わざわざこの福島で起きてしまったのか」が大きな疑問であり、これはまさに霊的困惑である「神がおられるなら、なぜ・・・」という問いなのです。こちらに私たちキリスト者はもっともっと、心を使って祈っていくべきであり、その答えを聖書の神は持っておられることを、心を砕いて伝えていくべきではないかと思います。

そして反原発運動の中でも、誠実な心から行っている人々はいます。(私は反原発に反対しているのではなく、一連のブログ記事で、「恐れ」「混乱」「裁き」「怒り」などの霊的問題を取り扱っています。)例えば、次の記事を見つけました。

反原発のキャンドル・ジュン、意外な言葉「原発を推進した人を責めないでください」東京電力の職員を思いやる

やはり私は、今回の大震災で思わされているのは、「神が憐れみによって、このことが起こるのを許してくださった。ヨブと同じように、全てがそがれた後で、それでも残る「命」そのものへの根本的問いを人々がすることができるようになるためだ。」ということです。そして、原発事故のことで必要以上に不安になる、混乱する、怒る、責め立てるなどの反応は、まだ、「旧態依然の安定した、物にあふれて、どこかが病んでいる日本の姿」のままでいるからだな、と感じるのです。

曾野綾子氏の過激発言

カトリックの小説家、曽野綾子氏がかなり叩かれているようですが、以下のような発言をしています。

瓦礫を薪にして暖を取れ

曽野 「原発や被災者支援などに対するマスコミの質問もおかしかったですよ。「明日はどうなるんですか」「物資は公平に配られていますか」ですって。もうやめてもらいたいですね。この非常時に、予定どおりの明日がくるなんて誰にも分からない。
 そして、電気が消えた時点で、民主主義というものは停止するんです。公平も平等も機能しないんです。それがわかっていない。もっとひどいのは、「その委員会はいつ立ち上げたんですか」。緊急の時に過去のことなんか聞くな、でしたね。
 私は報道に関しては、あれだけの地震や津波の映像をきっちり記録してすぐに国民に知らせたり、原子力保安員や東電がきちんとぺーパーをつくって毎日現状報告をしていることは、すばらしいことだと思う。」

(中略)

曽野 「私は、未だに答えのない疑問を持っているんです。「避難所が寒くて凍えそうだ」「低体温症で体調を崩している」「温かいものが食べられない」という報道がありましたが、あれはなぜ? そこらじゅうにあんなに薪があるじゃないですか。瓦礫の処理が大変だと言っていますが、どうして木片は燃やさないんですか。
 同じ高さの石を三つ積めば竈(かまど)ができるんです。そこに、あれだけ燃やすものがあるんだから、あとはどこからか鍋を拾ってくればいい。私だったら、あそこで薪を集めて食事をつくります。」
http://d.hatena.ne.jp/dj19/20110518/p1

 こうした一連の発言に対して激しい非難がありますが、コメントの中にはいくつか「一理ある」としてこういう意見を言っています。

「曽野綾子の念頭にあるのはアフリカとかの日々の食事もままならない所の話。これまでの取材の経験などから最悪の想定が常人とは少し違う。だから日本のこれまでのモノにあふれた日常が甘っちょろいのであって…と言う話。」

「電気がとまれば民主主義が停止する、は『アラブの心』という著作で言及されています。「瓦礫を薪に」というのもおそらく日本財団の関係で訪問した発展途上国で見た風景を二重写しにされているものと推測します。」

実は私もこれに同感なのです。まだ批判・非難が出来ているということは、本当に被災していないのです。本当に被災した人々は、ただ黙って動いています。

被災地を含めた今回の震災の日本と私が以前いたところでは、まだ前者の方が状況は良いのです。私も分刻みの東電や保安院の報告には驚かされました。国によっては、職員や労働者はすぐに逃げて放射能は垂れ流し、政府も一年後ぐらいに、どうしようもない報告を出すだけに留まるでしょう。(そうした発展途上国が今、ドイツのような先進国とは裏腹にどんどん原発を設置しようとしています。)

そういう所にいる人々は、どんなに政府が腐敗していようが、行政が全く機能しないであろうが、不平など言えないし、言ったところで変わらないし、下手をすると投獄されます。だから、ひらすら生きるだけです。ゆえに、たくましい。

だから、私も曽野さんのように「最悪の想定」がもっと違う変な日本人(?)かもしれません。「車が流された?まあ、わが奥さんも一時間ぐらいかけて、リュック背負って泥まみれになって買い出しに行ったしな。」停電も、「えっ計画?抜き打ちじゃないようにしてくれているんだ、すごい!」と驚いたし、放射能汚染の東京の水道水も「ものすごい厳格な基準値だね!この水のほうが、他の多くの国の通常の水より、ずっときれいじゃん。」と真面目に感じてしまいました。

ですから、私はこの基準の高い日本を神に感謝しているし、同時に、その感謝を忘れているから、不安とかストレスとか、怒りが生じて、日本人を精神的にそして霊的に摩耗させているのではないか、と感じます。