I didn’t come to take sides; I came to take over.

上の題名の日本語訳は、「わたしはどちら側に付くために来たのではない。乗っ取るために来たのだ。」です。

この言葉は、「ハマスの息子」の著者モサブ・ハッサン・ユーセフ氏によるものです。ユダヤ人共同体の中でもイエスを信じる人が多く起こされ、またパレスチナ人の中でもたくさんイエス様を信じている人が起こされています。神がユダヤ人側に付くか、パレスチナ側に付くかではなく、どちら側に対してもその心を支配するために来られた、ということです。(その発言のビデオがこちらにあります。)

皆さんの中で、こういう経験はないでしょうか?自分にとって親しい人が、これまた自分にとって親しい人のことを批判している・・・。友人であれば、だれかから批判や非難を受けた時、その人を擁護するために立ち上がります。けれども、どちらも親しい人である時にはどうすればよいか迷います。

そして、それぞれの意見には一理あります。けれども、その判断はすべての事実に基づいておらず、一部だけを取り上げて話していることも分かります。意見そのものには同意できても、それが事実に基づかない判断から派生しているのも知っています。

その時に思い出すのが、上のユーセフ氏の言葉です。解決は、意見の擦り合わせや仲介も役立ちますが、それ以上に「主がどちら側も働きかけ、その心を乗っ取られる」ことによるものだと感じます。

ピリピ人への手紙にあるパウロの言葉の多くが、私には深く響いてきます。

1)パウロは感謝し、喜んでいた。

パウロがこの手紙を書いた時は、ローマの獄中にいました。けれども、この手紙には「喜び」が満ちています。彼は「獄中にいる」という否定的な要素を、親衛隊を始めとする周囲の人々が信仰を持つことになったという神の働きとして見ています。

しかも、彼が投獄されたことにより、福音を語り始める兄弟たちが一挙に増えました。中には、「党派心をもって、キリストを宣べ伝えている」という、相手を蹴落とすことによって自分の働きを広げようという、陰険な動きもあったにも関わらず、彼は、「あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。(1:18)」と言いました。

彼は、このように喜べる要素を知っていました。それは、「主にあって喜ぶ」ということ(4:4)。そして、「すべて真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われていること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。(4:8)」と言いました。主がすべての事柄において、たとえそれが否定的な要素であっても、生きて働いておられることを知って、そこから見えてくる真実、誉れ、正しさ、清さ、愛、評判、徳などに目を留める、ということです。

そのことができると、「あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。(4:5)」となることができます。どちら側に付くという狭い心ではなく、すべての人に心を広くすることができるのです。

2)自分をちりあくただと思う

パウロは感謝し、喜んでいられるもう一つの理由として、「私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それをちりあくたと思っています。(3:8)」と言っています。詩篇103篇14節にも、「主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。」とあります。

私たちがある人に対していらだたしく感じ、怒り、恨む時のきっかけは、「この人は私に対して、これこれ、こんなことをした。」という被害意識です。けれども、そもそも「私」は何者なのでしょうか?塵しか過ぎないと聖書は言っています。これらのことは、主の許しの中で、いや主ご自身が引き起こされた問題であり、「主が支配されているのだ」と分かれば、自己の世界の中で埋没せずに済むのです。自分のことはどうでも良いのです、大事なのは神の国とその義であります。

私たちは、他の人がしていることに対して、必要であれば、御霊の促しにより、戒めたり、責めたりする必要があります。けれども、それを行うときに実際は自分の判断が入り込んでいることが多く、自分自身が裁き主になっている時があります。その人は神の御手の中あり自分が直すのではない、ということを忘れてしまい、相手に介入しようとするのです。

思い出すのがヨブ記です。その物語は、神がサタンにヨブに触れるのを許された、という「神の領域」で起こったことに対して、ヨブの友人が自分の判断や意見を入れることによって介入し、またヨブ自身が友人の裁く言葉に反応することによって、神ご自身の義に立ち入るようなことをしてしまいました。

この時も主は、ヨブの側あるいは友人の側についたのではなく、嵐によって現れて完全に掌握されました。ヨブに神の自然界や動物界における力と知恵を見せつけることによって、彼が「ちりと灰」の中に伏し、悔い改めるように導かれました。そして友人らに対しては、「あなたがたがわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ。(42:7)」と言われました。まさにGod didn’t take sides; He took it over.だったのです!

3)敬意を払う

パウロは、ピリピにある教会で起こっている、二人の女性奉仕者の間にある意見の対立を意識してこの手紙を書きました(4:2-3)。それで、「私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。(2:2)」と言っています。

そのように一致を持つことのできる方法は、議論や擦り合わせ以上に、むしろその背後にある「へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」という態度です。そして、「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。(2:3-4)」と言っています。つまり、相手を尊重する心、敬意を払う心が必要です。

そうすれば、自ずと今まで自分が見えていなかった、相手についての事情が見えるようになり、相手への同情心や寛容な思いが芽生えるのです。