「エルサレムに宗教の国連を」

CC西東京の山東さんのツイッターで拾いました。

Vatican exited: Jewish Chief Rabbi proposed new “UN in Jerusalem”

ウィキリークスが在バチカン米国大使館からの通信を発表し、その中に、2004年9月に、「エルサレムに宗教の国連を設立してはどうか」との提案を、イスラエルのチーフ・ラビが行なったそうです。世界の宗教の代表者が、国際情勢についての共同発表を出来るようにしたい、とのこと。下の写真は、イスラエルのチーフラビ(アシュケナジとスファラディ)が教皇を表敬した時の様子だそうです。

ここには三つのポイントがあります。

1)カトリックが強く推し進める「宗教間対話」は、異なる宗教を一つに結びつける「世界宗教」へと通じること。
2)世界宗教の動きが、世界各国を政治的にも一つに結びつける「世界政府」の動きと連動していること。
3)そして、これがエルサレムのユダヤ教の指導者から提案されていること。

これが、黙示録17章にある「大淫婦」の幻、そして11章にあるエルサレムの霊的堕落状態と相重なるのです。

「地の王たちは、この女と不品行を行ない、地に住む人々も、この女の不品行のぶどう酒に酔ったのです。」それから、御使いは、御霊に感じた私を荒野に連れて行った。すると私は、ひとりの女が緋色の獣に乗っているのを見た。その獣は神をけがす名で満ちており、七つの頭と十本の角を持っていた。この女は紫と緋の衣を着ていて、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものや自分の不品行の汚れでいっぱいになった金の杯を手に持っていた。その額には、意味の秘められた名が書かれていた。すなわち、「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン。」という名であった。(17:2-5)」

「彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。(11:8)」

そして、これはカトリック、イスラム、ユダヤ教の中で広まっているだけでなく、キリスト教福音派の中にも入ってきていることは、以前、「キリラム教アメリカで広がる」の記事でお伝えしました。

水曜日の恵比寿バイブルスタディでのテーマは、「神の御業を尋ね求め、神に絶大な信頼を寄せること」というものでした。(詩篇111-115篇音声)未信者の人々、いやキリスト者の中にも、「なぜ宗教は戦争をするのか?争うのか?」という強い疑問があります。私たちはたとえ、それへの完全な解答を伝えられなくても、「それでも私たちは主を信じる」という決意が必要です。

私たちが人間的に平和を求めようとすると、たちまち起こることは、キリストの栄光に覆いがかかる、ということです。この方の優越性と至上性を知ることによって、初めて人の魂は救いと平和を得るのに、それを押し潰すことによって得ようとする平和は突如の破滅をもたらしてしまいます。

「人々が『平和だ。安全だ。』と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。(1テサロニケ5:3)」

周囲の人々にキリストの証しを立てようとしている方は、じっくりと耐えて、根気よく、キリストの真理をお伝えください。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です