自由主義神学(リベラル)について

このブログ、また教会に来られている兄弟姉妹は、「福音派」という言葉を私の口から聞かれていることでしょう。英語ですとevangelicalであり、「キリストの福音」を聖書に書かれている通り、強く信じている信仰です。

けれども、そのように信じていない人たちもいるというのが、キリスト教の世界全体を見回すとかなりの割合で存在するというのも実情です。先にカトリックについて述べましたが、聖書の最高権威においてかなり違った見方をしています。「教会の伝承の中に聖書がある」という見方です。だから、伝承でマリヤ様が神の母とされているから、聖書ではマリヤが一人の信仰者にすぎないことが書かれていても、彼女を讃えています。

そして、もう一つ「自由主義神学」という言葉も私の口から聞かれたことがあるかもしれません。それは、「聖書に書かれてあることは自分の心の中のこと」で、それが客観的な真理でなくとも良いとする立場です。理性で把握できるものだけを受け入れ、科学において一般に受け入れられているものはそのまま受け入れて、聖書が書かれていることをそのまま信じることはない、とする立場です。

これが実は、「プロテスタントの主流派」と呼ばれている人々の立場です。そして、「聖書に書かれてある全てが神の息吹きによる言葉であり、誤りがない」とする福音派は、「諸派」の中に数えられています。

私は信仰がまだ浅い時に、ウィリアム・バークレーという有名な聖書注解者の第二ペテロの手紙の注解書を読みました。(彼は自由主義神学を全面的に信奉していたわけではありませんが、福音主義でもありませんでした。)そこには、「ペテロが書いた手紙ではなく、紀元二・三世紀の弟子によって書かれた」というようなことが書かれていました。それで何気なく私が教会の兄弟にそれを話すと、彼は黙って「聖書を開いてご覧」と言ってくれました。そこに書いてあるのは、「イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから(ペテロ第二1:1)」とあります。私は唖然としました。こんな明白なことをどうして私は見逃していたのだろうかと、自分が悔しくなりました。けれども、一度入ってしまったその情報は、聖書を読むたびになかなか離れることがなく、ひどく苦労したのを覚えています。

進化論的な天地創造の解釈、心理学の教会への導入、地獄はないとする考え、キリスト再臨の過小評価、カトリックとの対話など、少しずつ福音派と呼ばれている諸教会の中にもじわじわとその影響が入り込んできています。いろいろな形でやってきます。特に頭の良い人々がいろいろな知識をもって説明するので、「自分は単純だから、まだ知らないことがあるのでは・・・」と悪い意味で内省的になり、それを受け入れてしまう危険があるのです。教えの風(エペソ4:14)や人の哲学(コロサイ2:8)はしばしば吹き荒れますが、カルバリーチャペルから最近出版される本にも、その種類のものが増えています。(例:“New Evangelicalism: The New World Order” by Paul Smith

次のブログは、自由主義神学の嵐の中で、福音的な聖書信仰を堅持し、教会を牧会しておられる牧師さんによる記事です。特に、上の話で小難しさを感じられた方は、ぜひ一読してください。とても分かり易く説明しておられます。証しなので、文章はかなり長いですが、全部読む価値ありです。

聖書信仰に立つ  創世記3:1、マタイ4:3-4