「欧米キリスト教の盲点」を唱える「盲点」 その2

その1からの続き)

でもやっぱり「天国」と「地獄」はある

しかし博士は、西洋キリスト教にある歪みに注目するあまり、「天」そのもの「魂」そのものの聖書観にも手を触れてしまっています。つまり天また地獄を比喩的なもの、修辞的なもののように考える傾向があります。これに対して批判すると、確かに信じているように反論します。そうであれば、初めから既存の神学を批判しなければいいのに、やはり対抗的に論じていくのです。

ギリシヤ思想に影響されていなくても、聖書の「天」は確かに「上」にあります。物理的には創世記一章が描いている通りです。そしてシナイ山においては、神が上から降りておられ、それは恐ろしい光景でありました。聖なる神と、呪われた地との間には「隔絶」があり、地は確かに呪われたものです。ゆえに仲介が必要であり、動物のいけにえが必要であり、祭司制度が必要でありました。

そして預言者エリヤは天に「上っていった」のであり、地から離れていきました。イザヤは、神の御座を見て「ああ、私に災いが来る」と叫びました(イザヤ5:1)。絶対的な隔絶があります。

キリストが来られたのは、まさに幕屋になられるためでした(ヨハネ1:14)。この方にあって、ある意味で天が地に接することができるようになりました。しかし、イエスもよみがえられ、天に昇られました。そして、こう言われました。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」(使徒1:11)

キリストが体をもってこの地上におられないため、もうひとりの助け主を主は私たちに与えてくださいましたが、それでも体をもって主が戻って来てくださることを弟子たちは切に待ち望みました。そして使徒的教会は、主に待ち焦がれ、黙示録は花嫁として「主よ、来てください」という掛け声そして、その応答である主の、「しかりわたしは来る」で終わっているのです。

この花嫁としての待ち焦がれを、パウロは「天からの着物」を待っていると言い、地上の肉体を離れて「主のみもと」にいるほうがよい、と言っています(2コリント5:8)。天にこそ資産が貯えられているのであり(1ペテロ1:4)、「世を去ってキリストとともにいることが、はるかにまさっている(ピリピ1:23参照)」と言っているのです!地は罪で呪われており、やはり私たち信者は天にあこがれるのです!

黙示録は、イエス・キリストの最終的啓示です。その全体は、天が地に迫ってくる一連の出来事になっています。初めに栄光の御姿の主が現れ、ヨハネは死んだようになりました。これだけ隔絶されているのであり、天は畏れ多いところ、聖なるところであります。

そしてその天の尺度から見た地上の教会が、七つの教会です。そこでは、よみがえられた主がご自分の燃える目で見ておられ、悔い改めを迫っておられます。そして天における情景に4,5章は移ります。そこには天に引き上げられた教会の姿がありました。6章から地上への神の怒りが現れるが、それでも4,5章における天で御使いや四つの生き物や、長老らが叫び、主に栄光をおかえししています。

そして19章には天における小羊の婚姻があります。それから聖徒と共に主が地上に来て、地上の軍勢を倒されます。ここから地上における神の国が始まります。イスラエルに約束された神の至福はここで実現します。けれども、この千年期もまた中間地点です。千年の終わりに神は最後審判を行なわれ、行なわれた後で万物を一新し、新天新地において天からのエルサレムを新地にいる者たちに与えられます。

「天の完全性、地との隔絶、けれどもキリストの仲介による天と地の和解」が聖書の流れです。

地獄についても、ライト博士は「非人間化」という言葉を使って比喩表現に留まっていますが、当時のユダヤ人の思想背景も重要でしょうが、人間はどの時代に生きていてもやはり人間であり、同じ感覚を有しています。聖書はどの時代の人にも読むことができるように神が語られたものと信じています。そうでなければ、どうして異邦人への救いを神は約束されたのでしょうか?火と硫黄と言えば、旧約時代、ロトが住んでいたソドムの町は文字通り火と硫黄が降ったのです。その話を信じていた当時のユダヤ人が、「火と硫黄」と聞いたときに何を想起するかは容易に想像できます。

その3に続く)

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