光あるうちに ― 道ありき第3部 信仰入門編

本の紹介ですが、これは私が大学一年生の三月頃に読み、二年生に入る直前に信仰を公にした、大きなきっかけを与えてくれた本です。かなり前に読んだ本であり、もう手元にないのですが、自分にとっては記念すべき本なので、ここに書き記しておきます。

この本についての推薦が次のブログ記事にあるので、内容はそちらでお読みください。

「光あるうちに-道ありき第三部 信仰入門編」を読みました

私にとって、そしておそらくは多くの日本の人にとって、キリスト教信仰に対するつまずきは「罪」であろうと思います。これまで、「聖書には良いことが書いてあるが、どうしてキリストだけなのか?」「十字架を強調しているが、どうしてなのか?」「自分が本当に駄目になったのであれば、信じるかもしれない。」など、いろいろな疑問や質問を聞いてきましたが、それは行き着くところどれだけ「罪」を理解しているかにかかっています。

三浦綾子さんの本書における説明が、私の罪概念を一気に変えました。そして、はっきりと「私は罪人だ」と断言できるようにしてくれました。

罪とは、義のものさしについて二重基準を持っていること、そのもの。」という趣旨が書かれていました。この本は元々、主婦向けの雑誌に掲載されていたものらしいのですが、それで主婦の視点になった例話が多いのですが、井戸端会議で、ある奥さんが他の女性が浮気していることについて、「なんと汚らわしいことでしょう。」と非難しているくせに、たいした月日も経っていないのにある男と付き合うようになり、「こんな愛、初めてだわ。」と言って、ぜんぜん矛盾を感じていない姿、ということです。

今となっては、ローマ2章1節の言葉の内容であることが分かります。「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。」その他のいろいろな例えも読み、聖書の言っている罪とは、単に何らかの行為ではなく、人の体の中に染み付いている性質そのものであることが分かりました。まさに、自分が「救いようのない存在」であることが体感できました。

彼女は、他の小説「氷点」において、これを原罪として描いていますが、原罪は私たちの償いによっては拭い去ることができません。原罪は、完全な方が罪人として罰せられることによって、つまりキリストが十字架に付けられたことによって、取り除きえるということです。ゆえに、やはり「キリストのみが救いの道」であり、他の宗教でも善行でも道徳でもない、ということです。

ちなみに三浦綾子さんは、男女関係、結婚についても数多くのエッセイを残しておられます。MGF教会の牧者、菊池一徳さんが、三浦夫婦の結婚観について詳しく紹介しています。

三浦光世・三浦綾子クリスチャン夫妻の聖書的結婚観・夫婦論