「愛 - さらにまさる道」チャック・スミス著

以前、「チャック・スミスの日本語訳サイト」を本ブログ紹介させていただきました。実は、私の妻と教会の何人かで、次の本を翻訳・校正してきていました。

Love: The More Excellent Way

私たち夫婦が、アメリカにいたときから、「Pastor Chuckから何を教わっているのか?」ということを考えるときに、これぞと思われる本がいくつかあるのですが、一番大きいものの一つは「恵み」です。「恵みはなぜすべてを変えるのか」という本がサイトに出ています。

そしてもう一つは「愛」です。当時の若いヒッピーの世代に、どうして保守伝統を重んじるクリスチャン家庭で育った彼が、福音をもって彼らに届くことができたのか?現代の流行っている考えであれば、「今の時代に合わせていかなければいけない」という答えでしょうが、彼は云わば「ふり」をしませんでした。けれども、愛を持っていました。これは元ヒッピーのクリスチャンが口を揃えて証言することです。ヒッピーは反権力的で、年上の権威的存在に反発心を抱いていましたが、その壁を通り抜けることができたのは、他でもない、彼から流れる神の愛でした。

今、アメリカの若い世代のクリスチャンに広まっているのが、「人々を愛していこう」という動きです。その急先鋒に立つ本が、物義を醸した”Love Wins”という本だそうです。福音を受け入れなければ地獄に行く、という教えに対する反発が色濃い本になっており、そこで「正義」なのか「愛」なのか、という問いかけを、多かれ少なかれ、アメリカにいるクリスチャンはしているのだと思います。(参照サイト:ブライアン・ブローダソン(Brian Brodersen)牧師による”Love Wins”の検証

そして、私が日本で奉仕の働きをしていて、「人」に触れるということは、「愛する」っていうことを絶えず自問自答していくことなのだ、ということに気づきました。Loveの紹介サイトの副題にも、こういう言葉があります。

every person craves it, only God can supply it.
(誰もがこれに飢えている。神のみが満たすことができる。)

そこで、calvarychapel.comで紹介されていた本書の一部抜粋の記事を、そこだけすでに翻訳した部分を紹介します。一見矛盾する「正義」と「愛」が、実はその正義の中に愛があることを上手に説明しています。

これから、そのサイトの日本語訳のところに翻訳を掲載してもらうようお願いをしていきますので、どうか無事に掲載できるようお祈りください。よろしくお願いします。

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神の正義の中の愛(原題:Love in Justice)

正義においてでさえ、神は愛を示してくださることを言わずにはおかれません。愛をもって、危害が及ぶような決定や行動に対し、神は警告をお与えになります。自分を破滅させる方向へと導く私たちの堕落した性質から、私たちを守ろうとされます。

行動の中には、それに伴う裁きをもたらすものがあります。もし何か邪悪なことをするなら、当然の帰結として、それがもたらすひどい影響に苦しむことになります。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります(ガラテヤ六章七節)。行動や行為は、自動的にそれに見合った結果をもたらします。

聖書の中で与えられている神の律法を学ぶと、結局神は、破壊的な選択をすることを禁じておられることがわかります。その選択とは、健康、配偶者や家族、友人との関係を破壊するもの、そして神との関係を破壊するものです。当然ながら、あなたをだめにしてしまうものを神は不法とされました。一方で、神はあなたの徳を高めるもの、よりよい人にするもの、他の人との関係を良くするもの、神との関係をほめたたえることを命じておられます。

ですから、神の律法を咎めることはできません。聖書はこのように言っています。「主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。」(詩篇十九篇七節)。神の律法を咎めることはできません。それなのに私たちはとかくそれに反抗します。私の肉は神の律法が禁じていること、それ自体の性質のゆえに、自分をだめにしてしまうことをしたがります。神が私に命じておられるにもかかわらず私がそれをするなら、必然的に自分の反抗の結果に苦しむことになります。ですから、神はみことばの中で、もし私たちがそれをするなら、しかじかのことが起こると警告しておられるのです。神はご自分の律法を犯した結果をはっきりと私たちに警告しておられます。しかもそれは神が恵み深くないからではなく、恵み深い方だからです。

私はとかく、自分をだめにするようなことをします。それなのに、神は続けてあわれみをかけてくださいます。神は奮闘の渦中にいる私をご覧になります。私が悲しみのうちにいるのをご覧になります。悲嘆のうちにいる私をご覧になります。私が自分を破滅させるようなことを避けてほしいと神は願われました。そして、それを私が回避するのを手伝ってさえくださいました。しかし私は反抗したのです。結局、私はそのようなことをする選択をします。それで、私はその結果に苦しむのです。

しかし、そうであっても神は恵み深く、あわれみ深く、同情心に満ちておられます。「ああ、かわいそうに。なんでそんなことをしたんだい。」と神はおっしゃっているようです。そして、手を差し伸べて、私を穴から引き揚げ、再び私が自分の足で立つようにしてくださるのです。

これまでに、自分の子が深刻な間違いを犯すのに指をくわえて見ていなければならなかったことがあったでしょうか。それは両親が直面する苛立ちの中で、最たるものだと思うのです。 青年が自分で物事を決めていかなければいけない年齢に達したとき、その青年が取ろうとしている選択が間違っていて、その子をだめにしてしまうとわかっているなら、胸が張り裂けます。その子の決断が痛みや傷をもたらすことがわかっています。ですから、できる限りのことをして、その子がそうしないようにします。法律が許す目いっぱい、できる限りあらゆることをします。けがや破滅を未然に防ぎたいのです。来るべき恐ろしい痛みや悲しみから、その子を逃れさせたいのです。そのようなすべてのものから、その子を必死になって守りたいのです。しかし、ときに子どもは強情を張ります。意固地になり反抗して、あなたのよい判断に反する、あなたの願いに反する、あなたの忠告や助言、脅しにさえも反する行為をします。自分の計画を実行し、その子を止めることができるものは、何一つないのです。

ただその恐ろしい悪循環がひとりでに完了するのを傍観し、待つしかないのです。

計画が全くだめになり、その子がひどい痛みの中にあるのを見るときは、それはまさに避けてやりたいと思っていた苦悩です。介入して、バラバラになった人生を拾い上げ、回復するのを助けます。人の話を聞いてさえいれば、そのようなことはすべて避けることができただろうに!

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