私の予測する日本の迫害

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靖国神社:衆参168議員が集団参拝 春季例大祭

超党派議連168人が参拝 平成17年秋以来の規模安倍首相になってから、国の流れが閉塞感から不気味な安堵感へと変わっていると感じています。私は彼、また保守系議員の動きは典型的な復古主義がその根底にあると見ていますが、しかしながらこのことに単に批判を加え、反対することが真の霊的な戦いだと思っていません。なぜなら、彼らのしていることは、日本という国の成り立ちに関わる深い宗教的、そして霊的流れを、正直に言い表しているものだからです。すなわち、神仏一体や先祖供養など、日本人のあり方の根底をなす部分を、国の制度として表明しようとする試みに過ぎないからです。

私たちがキリスト者になるときに、親がクリスチャンでなければ、徹底的な自己の死が必要です。家族や周囲からの圧力があります。それを、「いや、それでも私は主に従う」と決断したからこそキリスト者であることができます。日本は政治的には自由を享受している国ですが、霊的には他の迫害国と変わりない抑圧を受けています。したがって、単に政治的に抑圧を受けている国であれば、そのまま目に見える形で迫害に耐えているキリスト者としての生き方をすることができるのですが、政治的、また社会的自由があるがゆえに、かえって霊的な抑圧があることを見失い、妥協をする、あるいは黙ることによって、また積極的に自らの信仰告白や証ししないことによって、霊的成長を阻んでいる、ということです。

日本国がこれから行なうであろう迫害は、私たちの信仰を否定するものではありません。キリスト教会に行き、礼拝を捧げることに彼らは決して口出しをしないでしょう。これは明治維新以降、日本国に保障されてきた、彼らの考える信教の自由です。日本国の迫害はそういうものではありません。「あなたはキリスト様を信じてくれてよいのだ。しかし、この儀礼だけは行なってもらいたい。」という、否定ではなく追加の迫害なのです。これはすでに公の場で実施されています。キリスト者で公務員の人々、特に教職員は君が代斉唱において、踏み絵を踏まされています。これが、徐々に国家公務員から公立学校の全生徒たちへ、と進んでいくでしょう。

自分はキリストをあがめていると思いながら、実は他の神々を拝むことによってこの方を否む、ということを行なうのです。そして私は今の日本のキリスト教会を見ていて、この巧妙な仕業を見分けているとはまだ思えません。

ちなみに今回の靖国参拝を構成する「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」の中には、カトリックでは麻生太郎副総理、プロテスタントの石破茂自民党幹事長、そしてVIPに集まる谷垣貞一自民党元総裁も、この会のメンバーです。週刊誌には安倍政権にクリスチャンが多い、と言われていますが、その実情はこうなのです。つまり「キリストをあがめるが、神仏もあがめるのだ」という過ちを国の指導者は行っており、この考えが連綿と続いているということを知る必要があります。ちなみに、皇族についても、明治維新以降、今現在に至るまで、中にそして周囲にキリスト教の影響が色濃くあります。けれども、彼らは今も神道の祭祀を取り持つ主体であり、もし皇族の中で真に信仰を持ったのなら皇籍を離脱して民間人になるしかありません。

ですから、「キリストを大いに受け入れるが、日本の神々も受け入れる」という摂取の姿勢が日本人の精神的支柱の一部になっており、これは到底受け入れられないといって良心を保つのが、私たちのこの国に住む信仰表明になるのです。

「イエスが主である」という言葉を、私たちがどれだけ理解しているでしょうか?これは、丹念な御言葉の探求と、祈りと御霊の満たしによって、間断なく行なわれるべき信仰告白です。昨日も、黙示録6章を恵比寿バイブルスタディで学びましたが、これだけの大きな患難からの救いによって、私たちが救われていることをどれだけ理解しているか?こうやって、イエスが主であることの意味を深く理解し、それによって始めて、来るべき迫害に備えることができます。

私は、これからの時代は、むしろ、何が私たちの信仰成長を阻んでいるか、目で見える形で観察することのできる貴重な時間となるのではないかと思います。

これらの動きは“右傾化”と、左派の人たちが呼ぶ言葉をキリスト教会までが使っていますが、私はそれでは迫害に備えていない、まだ、ぬるま湯に浸かっている状態だと思っています。迫害に備える者は、国に対して信仰告白を大切に保管しておきます。ダニエルの友人三人のように、王の前でも自分の神に仕えると告白できる大胆さを、今の時から祈りの中で温めていなければいけないのです。単に反対の声を上げることが預言者的働きを行なっているのであれば、見当違いです。「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」というイエス様の言葉に従っていない、軽々しく誓っているにしか過ぎないと考えます。

今回の靖国参拝で、中国や韓国の反発を取り上げる人たちがいます。そして韓国の植民化、中国への侵略を訴える人々もいます。けれども、これは本質ではない。今、日本人の心の潜在に、韓国人の自己中心的な振る舞い、また中国の拡張主義に対する潜在的な嫌悪感や脅威を抱いているところが本質です。それが如実に表れたのが、最近行なわれた在特会の街頭デモです。大半の日本人はあのようなヘイトスピーチを嫌悪していますが、しかし、例えば、去年の秋に起こった中国の反日デモや、韓国人が対馬の仏像を盗んでおいて、それを、国をこぞって返却しないというような、あの傍若無人の振る舞いに怒りを越えた、潜在的侮蔑を多くの日本人は抱いています。

しかし、それでも私は韓国・朝鮮人も中国人も愛しているという立場をここで表明します。それは、キリストにあって行なっています。私は過去のことについて謝罪したことがありません。けれども、今から大切な隣人として、キリスト者として彼らと交わりを保っています。それは終わりの日における世界宣教という使命もありますが、迫害に備えるという意識も強いです。いざなにか来た時に、私は勇気をもって彼らを擁護するという祈りを、私は心の中で温めています。(事実、在特会は新宿で韓国系教会の前で口汚く罵って道を通り過ぎました。もうすでに、少しずつ始まっています。)

最後に残るのは、右傾化への反対ではありません。残るのは、イエス・キリストが主の主、王の王であるという告白、そして宇宙論的に、この方が神の子であるという告白だけなのです。これを信仰体系の中だけでなく、日本という国においていかに生きていくかという挑戦を今、私たちは受けています。

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