教会での愛の実践

SNSの時代になって、クリスチャンのフェイスブックやツイッターを眺めていますと、短文の励ましや慰め、また訓戒の言葉をよく見かけるようになりました。けれども、画面から目を離して、じっくり本そのものに時間をかけて目を向ける必要があるなと思うときがあります。

とは言いつつも、これは良いな!と思うのが、Calvary Chapelのホームページにあるブログや動画です。カルバリーチャペルの牧師らが投稿するブログ記事は、書き下ろしのものが多いですが、興味深いのは牧者チャック・スミスの記事です。その多くが、書籍の抜粋なのです。けれども実に一つの文章として完読し、読み応えのあるものばかりです。

What’s a Disciple?(弟子とは何か)

calvarychapel.blog

上の記事は、”Love The More Excellent Way”(愛 - さらにまさる道)の抜粋であり、すでに翻訳サイトにおいて日本語訳を読むことができます。引用してみましょう。

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ある自称芸術評論家がいました。画廊に行って、友人に自分の知識のすべてを見せびらかすのが好きでした。展示室を回り、ヴァン・ゴッホや混色、芸術家の光の使い方やその他もろもろの細かいことについても語るのでした。それはひとえに自分の芸術への深い造詣を見せびらかすためでした。 その人はある芸術家の作品に近寄って、言うのです。「この絵画のどこが間違っているかわかりますか。」とか、「ここで作者は正しい技法を使わなかったことは明確です。」とか、「明らかに、この作者は遠近法がわかっていない。」とか。

その人はとにかくそういうタイプの人でした。

しかし、少し年をとると、その人はやや近視になりました。ある日、彼は友人と画廊を歩いて、各絵画について尊大に話していましたが、そのほとんどは記憶に頼って話していました。最後にその人は新しい作品の前に立って言いました。「さて、なぜ芸術家がこんなにばかみたいなモデルを選んだのか私には理解することができません!」額縁の中にあるものを口頭でこき下ろし始めました。彼の妻が彼の横に来てこう言うまで。「あなた、鏡の自分を見ているのよ。」

ヤコブが言ったことを覚えていますか。「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。(ヤコブ1章22-24節)」

鏡を離れると、すぐに自分がかっこいいと思うのです。自分が見た真実を忘れるのです。欠点を忘れます。ヤコブは、「みことばを実行する人になりなさい。」と言っています。

この霊的な適用は明らかなはずです。この私は主イエス・キリストを愛している神の子どもだ、神の霊によって新生したと主張しています。しかし、私の生活から御霊の実がたくさん結ばれているでしょうか。それが問題です。神の愛が私の心にあって、他の人に注ぎ出されているでしょうか。

神はご自身が愛されるように、私たちに愛するように呼びかけておられます。神は私たちから御霊が流れ出ることを望んでおられます。神は私たちの心に御霊の実が結ばれるのを願っておられます。しかし、そうなるためには、私たちはキリストにとどまっている必要があり、私たちの内に、神の言葉をとどまらせなければなりません。

もし私たちが御霊のうちを歩むなら、肉の欲を満足させることがないと神は約束してくださいました。もし私たちが御霊のうちを歩むなら、御霊の実が私たちの生活のうちで成長します。もし私たちが御霊に導かれるなら、神のアガペの愛がほとばしり出ます。

自分は新生したと偽る人はいつも教会を傷つけてきました。自分はクリスチャンだと言いながら神の愛をこれっぽっちも示そうとはしないなら、大きな損害を及ぼします。この世はそのような偽物を嘲ります。それはもっともなことです。教会の中で、戦ったり、言い争ったり、中傷をしたり、あきれた競争をしたりするのを見るので笑うのです。この世の人は既成の宗教を見て言います。「へえ、なぜそれが私に必要なわけ?それは私の家にありますよ。私はそんなものを見つけるために教会に行く必要はありません。」

神は他の人に神の愛を表すように、あなたに呼びかけておられます。神はあなたの生活の中で、それを実践することを望んでおられます。単なる理論上の理想ではなくて。神の愛が出てくるように、神の霊に自分自身をゆだねるように呼びかけておられます。神はあなたがご自身の内にとどまって、神との関係を築き、神のみことばがあなたのうちにとどまるようになることを願っておられます。あなたが神にとどまっているなら、神の愛があなたの人生において完全なものとなります。

そして、あなたはこの方の弟子になります。

「わあ、なんてすばらしい生き方なんだ!そうだったらすばらしいね。」と言っても、教会が終わったすぐ後で、向きを変えて、「ちょっと、聞いてくれよ。あいつが何をしたか知っているかい?あの女が俺に何て言ったと思う?」と言うのであれば、何の役にも立ちません。愛するどころか、盗んだり、むさぼったり、中傷したりし始めます。

一方で、御霊は続けて言われます。「わたしの子よ、これは非現実的な理論ではないよ。この種の愛は神があなたのうちに、そしてあなたのためにあることを望んでおられるものなのだ。どうして、あなたから他の人に、イエスの愛が流れ出ていないのに、どうしてイエスに従う者であると断言することができるのですか。」
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いかがでしょうか、かなり痛い内容ですね!教会の礼拝に通っている人が、御言葉に留まって神の愛を実践していないと、自分の存在が教会を傷つけています。自分から神の愛が流れ出るのは、「それは自分にはないけれども、仕方がないわ。」「そんなことがあったら良いな・・」という曖昧な希望的観測ではなく、主から与えられた使命であり責任であります。

教会 ≠ 聖書の学び

もう一つ、ホームページに行きますと、右上に動画があるのですが、今現在は、シェリル・ブローダソン(Cheryl Brodersen)さんの一言勧めがあります。シェリルさんはチャックの娘で、コスタメサの教会のチャックを補佐する牧師ブライアン・ブローダソンの奥さんです。彼女が女性に聖書を教える良い働きをしています。

題名は、No Church. No Fellowship.(教会なくして、交わりもない)です。そこの一言がとっても大事ですね。

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教会は単に聖書を学ぶところではなく、他者と責任ある関係を持つ(accountable to others)ところです。また、神の与えられた賜物を用いて、他の人に仕えるところです。「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。(ヘブル10:25)」交わりを持つ事は重要です。
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聖書の学びをするのは楽しいが、教会は嫌だ、人との関わりは嫌だ、という人は、神の御心を大きく損なっています。英語のaccountable(アカウンタブル)という言葉にあるように、交わりには必ず、互いに責任ある関わりを土台にする愛があります。自分勝手に振舞うことはできず、絶えず自分が変えられキリストに似た者になる挑戦を受けます。表面的なお話しやお付き合いではなく、真実な関わりを求めることによって、自分がキリストにあって建て上げられ、全体としても建て上げられます。そして教会は「聖書サークル」ではなく、自分が骨折って、神から与えられた賜物を用いて人に仕える信仰生活共同体です。ここに喜びを感じることができるとき、それが真の喜びと言えるでしょう。

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