アメリカの教会を模範にすべきか?

今日、次のニュース、そしてビデオを見ました。

Christians Arrested for Reading Bible Outside DMV Declared ‘Not Guilty’ By California Court(車両管理局の外で聖書朗読をし逮捕されたクリスチャンが、カリフォルニア裁判所にて無罪)

車両管理局というのは、運転免許を取得するためのお役所です。始まる前に人々が一列に並んでいますが、そこでその役所の敷地から少し離れて、聖書朗読によって伝道しようとした時に、警察が来て彼らを捕縛した、という内容です。そして彼らは、クリスチャンの信教の自由を守るために法的手段で働く団体を通してその逮捕の不服申し立てを行い、無罪が確定した、という理由です。

このような話を聞いて、「ついに、アメリカにも福音伝道を妨げる時代が来たのか」という驚きと悲しみを、このニュースを視聴したアメリカ人は感じるのでしょうか?。

けれども私は、このビデオを見ておかしいと思いました。「本当に純粋な福音伝道だったのか?」ということです。それは第一に、ビデオにすべてを録画しています。初めから、その役所や警察からの警告を受けていて、次は逮捕されるかもしれないという予測ができていたのではないか?第二に、このことを不法逮捕とする、信教の自由のために動く団体がある、ということです。

アメリカにはない、他の信教の自由が制限されている国のことを考えてみましょう。そこでは、第一に「ビデオなんかで撮影させることは決してしない、没収する。」こと。そして第二に「不法逮捕だと訴える法的根拠もない、またあったとしても一度もその手段に訴えた事例がない。」ということです。私は、どうしてもここに「伝道活動の政治化、マスコミ誘導作戦」に見えます。

同時に、このユーチューブの動画のコメントの反応にも、私は違和感があります。「こうした路傍伝道は愛の行為ではない。」というもの。ひたすら愛を強調します。

ここに、今の「アメリカの教会」があるような気がしてなりません。これまでも、私が問題を感じているアメリカ、そして日本にも入ってきている問題を取り上げました。

- 同性愛の容認
- 進化論の容認
- イスラム教との融和(リック・ウォレンのChrislam
- 愛の名によって、神の裁きを伝えない伝道(Love Wins等
- 積極的思考(ジョエル・オースティン等)
- 商業的教会成長論
- 新しい改革神学運動
- 再臨信仰への攻撃

ちょっと考えるだけでも、このくらいはあるでしょうか?

従来の福音運動(復興主義 Revivalism)

アメリカという国は、ピューリタンによる開拓によって、また建国の父の思想によって、ユダヤ・キリスト教を基盤にした初期の歴史を持っているだけでなく、数度に渡る大覚醒がありました。福音の中にある神の怒りのメッセージをまっすぐに語り、罪の深い自覚、そしてキリストの十字架のみによる救いを聖霊によって体験する人々が現れ、それが全国的に広がりました。このことによって社会的変革にまで及び、例えば奴隷解放は、霊的な大覚醒の結果によるものと言われています。

その良き伝統を受け継いでいるのがビリーグラハムの伝道集会であり、また「四つの法則」に代表される福音伝道などがあります。さらに、ハル・リンゼイの「地球最後の日」に代表される、再臨の希望を元に伝道する働きも起こってきました。同時期に、「イエス革命」と呼ばれる、愛と平和を求めるヒッピーたちがイエスに立ち返り、主が今すぐにでも来られるという希望を持つ再臨運動となってきました。

その後、ジェリー・ファルエル牧師による「モラル・マジョリティ」運動によって、社会的な現象にもキリスト教的価値観で対抗するようになり、中絶容認の反対、同性愛結婚の合法化への反対、進化論教育への異論などを訴え始めました。

私自身は、基本的にこれらの考えに賛同しています。けれども、その保守的運動にもほころびが出ている点を後で述べたいと思います。

新しい福音主義(New Evangelicalism)

上の、神学的・政治的保守運動に反発して、福音は伝えるけれども新しいアプローチが必要だと考える新しい世代が起こっています。上に私が列挙した各諸問題です。同性愛行為そのものを容認する動き、有神的進化論の受容、愛の名による地獄の否定、十字架や罪を語らないメッセージ、そして再臨ではなく社会運動によって神の正義を実現しようとする動きなど、他にもいろいろ起こっていますが、それがリベラルと呼ばれるプロテスタント主流派ではなく、福音派と言われる人々の中で起こっていることが特徴的です。

このような動きにある危険性は、「聖書に対する見方」が変わってきていることです。自然に、子供でも分かるような形で神は私たちに言葉を残されたはずなのに、なぜか学者にしか、いや各個人にしか分からないような主観的、また癖のある解釈を施します。そうしなければ、上で私が列挙したような奇抜な考えは出てこないからです。

牧者チャック・スミスもこう述べています。

「福音主義̶根本主義者(evangelicals-fundamentalist)である牧師たちの息子は、よりリベラルな新しい福音主義(New Evangelicalism)を創り出す決心をしてしまった。彼らは分水嶺であった聖書の無謬性を保持せず、むしろ超教派的に、そして教会間の外交官になってしまった。彼らはフランシス・シェーファーが『本当の真理(true truth)』と呼んだ事柄を大切にするよりも、むしろ積極的、包括的なあり方を好んだのである」(Chuck Smith, “Modernism, Fundamentalism, New Evangelicalism, and Biblical Inerrancy”in Lindsell,The Battle for The Bible, p.171.)

参考サイト:サタン的異端的自由主義神学の全貌を暴く やっぱり聖書は神の霊感による書(1~1011~2021~27

根っこの動機「人によく思われたい」

この新福音主義の運きには共通の動機があります。それは、「人によく見られたい」という動機です。

彼らは「愛」という言葉を振りかざします。しかし、彼らの語る「愛」とイエス様の語る愛は、ほど遠いものとなっています。イエス様の言葉をそのまま読めば、この方は今のアメリカで住むことはできないでしょう。十字架に行くことをいさめたペテロに対して、「下がれ、サタン」と言われた方です。人格攻撃として、名誉棄損で訴えられるか、酷い説教家として批判と中傷の的になるに違いありません。しかし、「下がれ、サタン」とイエス様が言われた言葉にある真剣な愛、心を切り裂き、痛むけれども、それでも根本的治癒をもたらす言葉であると、主を愛する者たちはすぐに感じ取れるはずです。

また、「福音宣教」方法に疑義を挟みます。従来の四つの法則に代表される方法はよくない、全生活で福音を、福音の再確認!という言葉が叫ばれます(もちろん全生活で福音を体現するのですが、なんでそれを福音伝道を批判しながら論じるのか?が分かりません)。そして新しい改革神学は、理路整然とした神学体系がありますから、知的な刺激を求める人々には好都合な教えです。これまで福音派が反知性的とレッテルを貼られた応答のような気がするのです。

そして全体に広がっている傾向として、商業主義があります。要は「金」がキリスト教会で底流とさえなっている嫌な面も見えます。メガ・チャーチ(大型教会)では、ショッピングをするかのような教会巡りがあります。そこでは会衆は「客」とみなされています。英訳の聖書があまりにも多種類のが出版されていますが、聞こえの良い言葉に直せ、という圧力に応えたものになっています。

私は、次の言葉が一番、新しい福音主義に対する警鐘の言葉になると思います。「あなたがたに割礼を強制する人たちは、肉において外見を良くしたい人たちです。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。(ガラテヤ6:12)

十字架につけられたキリストを伝えることは、「あなたは罪に死んだ者なのだ。あなたはどんなに努力しても、救いは得られないのだ。キリストだけが道、真理、命なのだ。」ということを伝えることになるのです。だから当然ながら反発が起こります。なんという偏狭な人なのか、という非難が起こります。けれども、実は愛、平和と言っている言葉が自己中心的な偽りにしか過ぎず、そのことを悟った人は、へりくだって、主の十字架の前で頭を垂れて、新しく生まれた人になることができます。

根っこの動機「国に守られたい」

そして、従来の福音主義運動にある問題は、「国に守られたい」という動機であります。彼らは、アメリカが神によって建てられた国であるという自負があります。しかし、聖書のどこにもアメリカに対する神の定めは書かれていません。むしろ、イスラエル以外は異邦人の国と呼ばれ、それらの国々が終わりの日にエルサレムを攻めるという、神に反抗することが書かれているのです。

アメリカが反キリスト教的になっていることを憂うのは、その気持ちは分かります。私もアメリカ人であれば、このようなブログ記事の内容を書けなかったと思います。けれども、やはりアメリカが神に定められたキリスト教国でないかぎり、異教的な力はキリスト者に対して強く迫り、他の国々と変わらない迫害も受けるのが、神の御心であります。

自由というのは建国思想から出てくるものではなく、キリストが王の王、主の主であるとし、この方を心であがめるキリスト者によって得られるものです。キリスト者は政治的自由を得るのではなく、罪からの自由を得るために召されました。ハデスさえも教会に打ち勝てないという約束を主がしてくださったように、迫害と共に教会が清められるように定められています。

従来の福音主義の教会を見る時、イザヤ書1‐5章に出てくるイザヤの姿に重なります。彼はユダとエルサレムにある不義と罪に対して糾弾しました。しかし、それはカリスマ的な有能な王、しかも霊的にも優れたウジヤが治めている中で語ったことです。人間の王である彼の保護があって、初めてイザヤはそれだけ糾弾することができました。

ところが6章に入って、ウジヤが死にました。その時に初めてイザヤはまことの王、御座に着かれる神ご自身の幻を見ました。そして、自分自身が汚れた者であり、そのくちびるも汚れていることを悟りました。そして公式にイザヤを預言者として神は遣わされます。7章に入りますと、ウジヤの良い政治とは正反対の、極悪アハズの悪い治世が書かれています。だれも自分に味方するものはいない、すべてを敵に回すようなときに、人間の王ではなく、神ご自身を頼って預言を語り続けるのです。

ビデオで録画までして不法逮捕だと訴えているところに、私は「迫害の芝居をしているな?」という辛辣な批評まで思い浮かびました。自ら演じなければ、逮捕されることはないほど、アメリカにはまだたっぷり余裕があります。(注:ビデオでは、逮捕された人々がカルバリーチャペルの副牧師であるとしていますが、実際の当カルバリーチャペルからは、その伝道方法の考え方の違いで二人はそこから出て、新しい教会を始めています。参照ニュース記事)私はアメリカが好きです。けれどもキリスト者として見る時、その政治的自由に依拠するキリスト教会にある、霊的衰弱も同時に感じるのです。

主の御霊は他のところに働いている

私は、先日のマラナサ・バイブル・キャンプで、二十代の若者と夜遅くまで交わりの時間を持ちました。彼らの間に聖書への情熱が見えたからです。自分の中に、「次の若い世代に受け継がせる努力をちっともしてこなかった。」という反省の思いもありました。もっともっと伝え教えていかねば、と強く思いました。

その中で、上のアメリカの教会の諸問題を提起してくれた兄弟がいました。それに対する答えが以上の事柄でした。

アメリカには、聖書教育において、また基礎的な教会形成において、多大な霊的遺産を持っています。そして、個々の教会を見れば、魂の救いのための情熱を注ぎ、海外に宣教師を送り出し、キリストの愛を実践している人々もおり、私自身、アメリカのカルバリーチャペルにお世話になっています。けれども、全体として見えるアメリカの教会は、もはや見上げていくべき存在ではなくなったのではないか?と私は思います。

そして、その若者の交わりで、中国の家の教会出身の兄弟が発言したことが印象的でした。「今は、アメリカに宣教師を派遣しなければいけないのではないか?」・・・(汗)あながち間違ってはいません。

では、日本の教会は?そして自分の教会は?そして「自分は?」という問いかけをしないといけないですね。

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