服従にある権威

この頃、いや、ここ数年、いつもひたすら考えている話題と課題は、「権威」というものです。福音を信じること、キリスト者として成長することはすべて、「権威にしたがう」ことに他なりません。神がキリストによって行われた救いの業が真実であると、意志をこの言葉に服従させる訳であり、ただ聞いて納得することではありません。また、キリスト者の成長は、真理の言葉にどれだけ留まれるか、なのですが、それは「自分自身を御言葉の下に置く」ことに他なりません。

そして、個人だけでなく、公の場における秩序があります。国についてもそうですが、教会において、教会の指導者に神が与えられた権威があります。信者は指導者に従うのです。そして、指導者は信者を養い、祈ることによってキリストに従います。そして、家庭においてもそうでしょう。妻は夫に従います。夫は妻を自分の体のように愛することによって、キリストに従います。先ほど、カルバリーチャペル・コスタメサの副牧師、ブライアン・ブローダソンさんの奥さん、シェリルさんが、服従することについて、実に明快な答えを与えているビデオを見ました。大雑把な意訳ですが、読んでみてください。

「教会の中の女性」

キリスト教は、夫に従わせることによって、女が抑圧されているという人に対して、私は、「その正反対です」と言わせていただきます。私が夫の権威の下にいますと、私は守られ、私はかえって、さらに大きな権威を持つことになります。もしその保護がなければ、私が先導しているのですから、私がその非を負わなければいけません。けれども、夫が先導していれば、彼がその責任を負うのです。

そして私が夫に従い、夫がキリストに従うのなら、私たちはキリストの権威の下にいるのです。

こうした例が使えます。私が助手席に座っていて、夫は運転席に座っています。どこを走るのか私は進言はできますが、彼が最終決定をして、その車を運転するのです。私は提案はできますが、夫が運転しているのです。その中にいれば私は虐げられるのではなく、守れて、愛され、尊ばれているのです。

服従というのは、自分が劣ったものになるのではありません。権威の下にいることです。だから、もっと大きな権威を持つのです。これは自分のしもべの病気を治してほしいと言った、百人隊長と同じです。「おことばをいただければ、私のしもべはいやされます。なぜなら、私も権威の下にいる者で、部下に、「これをせよ」と言えばその通りにします。」と言いました。イエス様は、「イスラエルの中で、このような優れた信仰は見たことがない。」と言われました。イエス様は言葉を語られ、それで百人隊長の僕は癒されたのです。

イエス様が御父の権威の下におられたので、イエス様は権威を持っておられました。同じように夫の権威の下にいることで、私はもっと多くの権威を持ちます。これが「服従」というものです。ただ権威の下にいることです。

確かに運転は助けることはできるのです。けれども、ハンドルには触れないのです。

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イエスご自身が服従された

いかがでしょうか?「服従することによって、もっと大きな権威を持つ」という原則は、驚きであると同時に、実に明快ですね。ちょうど今、礼拝前にヨハネ伝の学びを行う準備をしていたのですが、イエス様があれだけの力と権威を持っておられたのは、この方が御父に完全に服従されていたからであることを知りました。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。(5:19)」このことにゆえに、イエス様は人に霊的命を与え、肉体も復活させる力を持っておられ、また人の行いを裁く権威も持っておられたのです。イエス様は単独で力をふるっているように思っていたら、大間違いです。父に服従していたから、父の愛の中に生き、それで力を持っておられたのです。

服従≠自分を殺す

この世において、服従することは自分を殺すことであると教えられます。自分の存在に権威あるもの、命令などがあると、それは自分を低めることによってしか得られないと思います。事実、自分を貶めることが服従だと思い込み(またはそう思わされて)、私欲を肥やす偽教師の下で蹂躙されている、カルト化された教会の被害者もいるのです。

ですから、自分の尊厳や人権を守るために、権威と呼ばれるものに反発し、そこから独立することが自由であると思い込んでいます。いいえ、その反対です。自分が権威に反発すればするほど、自分でその責任を負わなければいけなくなり、それゆえますます不安定になり、ますます自信が持てなくなり、孤立化し、愛されている、守れているという安心感がなくなるのです。

神の権威の下にいない人は、不安定になっています。少しでも否定されているように言われるものなら、過敏に反応し、自己防衛をしようとします。自分が攻撃されていると思っていますが、実は自分が周りの人を攻撃していることに気づいていません。そして、こうした摩擦のある関係を嫌って、今度は自分を他者から距離を取って、交わりを持たないようになるのです。

反対に神の権威に自分を服従させる人は、何からも干渉されない自由を持っています。自信があり、大胆さがあります。キリストが自分を守っておられるという自負があります。自分ではなく、自分を通してこの方が事を行ってくださるという確信があります。そして、自分ではないことを知っていますから(自分はただ服従しているだけ)、自分ではなく、神に栄誉と栄光をお返しすることができます。

霊的成熟に向かって

どこまで神に信頼し、服従させているかが、霊的成熟を示す指標になるでしょう。活発であったけれども、混乱や争いがあったのがコリントにある教会でした。彼らは信仰の父、パウロに反発していました。パウロは愛によって彼らの協力者となりたいだけなのに、彼らはパウロから支配を受けていると心を窮屈にしていました。ところが、その反発のゆえに、教会内は罪と争いと混乱でいっぱいになり、ついに本当に、彼らを支配し、蹂躙する偽教師の餌食となっていたのです。

それゆえ、彼らはキリストにあって幼子と呼ばれます。なぜか?まだ、キリストの内にいることだけでは、まだ満足できないからです。人生の中で培ってきた経験や知識、また育んできた感情があります。それで、「もっと何かをしたい!」と思うのです。あるいは、「自分で何かができる!」と思っています。けれども、本人は真面目に神を愛して、キリストに従っていると思っています。それで、「そうではない」と戒められたり、正されると、「絶対にこれはやりたい!」と駄々をこねるか、むっつりするか、落ち込むか、陰口をたたくか、あるいはひたすら隠すか、我慢がならないのです。けれども、時間を経て次第に、自分が何をしていたのか分かるようになってきます。

霊的成長は、単に聖書を学習するのでは得られません。むしろ、敬虔を学ぶことによって得られます。キリストにある実を結ぶのは、敬虔に向かうための不断の努力の成果です。

こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、 知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。(2ペテロ1:5‐9)

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