「半沢直樹の不在」から見える霊的葛藤

(「「半沢直樹」の不在」の続き)

昨日の投稿でリンクしたブログ記事「半沢直樹の不在」の筆者が、別記事で、実際の不良債権について、分かり易く説明していました。

「不良債権って何?」

一部を抜粋します。

「半沢直樹」と現実が違うのは、このように実際の不良債権問題では、「飛ばし」といって債権をあちこちに移し、ダミー会社で多くの人がからむので、破綻したとき、だれに責任があるのかわからないことです。ドラマのように単純な詐欺や背任ならまだいいのですが、たいていは会社の破綻をとりつくろうために(本人は善意で)やったので、だれも責任をとらない。

前記事で、教会にも同じような「責任の不明瞭化」が起こるのではないか?というコメントを残しましたが、具体的に詳しく書いてみたいと思います。実際の不良債権の構図が、実は教会という舞台でも起こり得えます。一つの話を仮定して書いてみます。

教会で、ある人Aが兄弟Bとの関係がうまくいかなくなりました。その兄弟Bとは仲良くしていましたが、次第に心が離れていきました。そこでその人は、他の兄弟姉妹に話を聞いていき、兄弟Bに対して自分と同じ感情を多かれ少なかれ持っていることに気づき、それで、「これは兄弟Bの問題だ」と確認し、兄弟Bと距離を取っていきます。

そうして、Aが動いていったので、他の兄弟姉妹たちも、兄弟Bの問題ということで話を交わしていくようになり、兄弟Bに問題があるということで「一致」してしまいました。

けれども、実際はそうではありませんでした。その兄弟には確かに欠点のように見える部分もあるかもしれません。けれども基本的には、その兄弟はそれぞれの人にある問題を、愛をもって戒めていただけなのです。聖書に照らせば、それらは罪、あるいは肉の弱さと言えるものなので、もちろん指摘された人々は嫌な思いをしていたのですが、それでも御霊を持っている兄弟姉妹は、痛いけれども、その兄弟に対しては主にあって感謝はしていたのです。

けれども、そのAが意見をいろいろ集めてしまったために、他の兄弟姉妹も、「確かにそうだ」として、今の教会の問題はその兄弟Bのせいだという問題意識を強めてしまいました。つまり、「問題の摩り替え」が起こり、各自の問題を見つめる機会を失ってしまいました。そして、兄弟Bの助言をもはや兄弟姉妹は受け入れなくなり、その人に与えられた賜物が教会では用いられなりました。

これが、上の不良債権問題との類似点があるのです。それぞれのダミー会社に関わっている人は、「貸したものは返してもらわないといけない。それを手伝っているのだ。」という正義と善意があります。しかし元を正せば、きちんとした精査をせずに融資をした銀行に責任を問うべきです。ところが、自分の周囲の中における目の前の「正義」しか見ていないために、その全体像が見えなくなっており、結果、金融庁や検察が入っても、自分自身に罪意識が出てこないのです。

それで、教会の場合に戻しますと、Aの心には、いわゆる「善意」がありました。確かにその兄弟には欠点があると感じていましたから、それを「正してあげなければいけない」と親切に思います。そして他の兄弟姉妹も同じような気持ちを持っていたことに気づき、ますます、「正さなければいけない」と考えました。けれども、自分の問題を棚に上げているので、その積み上げられた意見は、兄弟Bに与えられた神の賜物を真っ向から否定することになり、愛の交わりを壊し、仲間割れを引き起こす、新たな肉の働きを助長させました。

適用されるべき御言葉は、「兄弟Bを戒める」(マタイ18:15)ではなく、反対に、自分たちが引き起こしている「党派心、分裂、分派(ガラテヤ5:20)」でした。

兄弟Bは使徒パウロ

もしかしたら、世の中で起こっていることを教会の人間関係に恣意的に当てはめているのではいか、と思っておられるかもしれません。しかし、これと同じことがコリントの教会で起こっていたのです。

その兄弟Bの話は実在モデルがいます、使徒パウロです。コリントの教会の人々は、それぞれが肉の問題を持っていました。それを断ち切って御霊に導かれるべく、パウロは厳しい姿勢を取らなければいけませんでした。

あなたがたの間に不品行があるということが言われています。しかもそれは、異邦人の中にもないほどの不品行で、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。それなのに、あなたがたは誇り高ぶっています。そればかりか、そのような行ないをしている者をあなたがたの中から取り除こうとして悲しむこともなかったのです。私のほうでは、からだはそこにいなくても心はそこにおり、現にそこにいるのと同じように、そのような行ないをした者を主イエスの御名によってすでにさばきました。あなたがたが集まったときに、私も、霊においてともにおり、私たちの主イエスの権能をもって、このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主{イエス}の日に救われるためです。(1コリント5:1-5)

これだけを読むと、パウロはずいぶん厳しい書き方をしていて、きつすぎると受け取めた者たちは感じていました。しかし実際の彼は、異なっていました。

私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらに、あなたがたに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を知っていただきたいからでした。もしある人が悲しみのもとになったとすれば、その人は、私を悲しませたというよりも、ある程度――というのは言い過ぎにならないためですが――あなたがた全部を悲しませたのです。(2コリント2:4-5)」大泣きしながら、書いていたのです。

このことによって、事実、この男は悔い改めました。これは良かったのです。しかし、元々、コリントの人々の多くが、神ではなく人に注目していて、「私はペテロにつく」「私はアポロにつく」「私はパウロに」という仲間割れを起こしていました。そこに、パウロからの語調の強い手紙が来たのです。それに正しく応答した者たちも多くいたのですが、その語調が気になり、パウロへの信頼を落としていく者たちが出てきました。

パウロは元々、コリントの人たちから「人間的な評価」を受けていました。「私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。(1コリント4:3)」この批評が、ますます酷くなっていきました。

私は手紙であなたがたをおどしているかのように見られたくありません。彼らは言います。『パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会ったばあいの彼は弱々しく、その話しぶりはなっていない。(2コリント10:10)

もし彼が部外者で、コリントの教会に対して横柄な、強権的な意見を述べているのであれば確かにその反発は理解できます。しかしパウロこそが、コリントの教会をゼロから開拓した人物であり、一年半腰を据えて教えていたのです。他の信者は、「パウロは、訪ねてくる他の教師たちとは違い、問題が多い。」と批評していたのですが、パウロはこう諭します。

たといあなたがたに、キリストにある養育係が一万あろうとも、父は多くあるはずがありません。この私が福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。(1コリント4:15)

霊的には最も近い身内だったのに、彼に心を閉ざしていました。そうすると、自分の立っていいる信仰の土台が崩れていきます。せっかくの霊的成長が阻まれます。そして自らを霊的に、敵からの攻撃に脆くしてしまうのです。

偽教師が侵入してきました。コリントの教会に数々の巡回教師が来ました。その中の一人はアポロでしたが、彼はすぐれた教師でした。けれども、悪い教師たちもやってきて、パウロの信頼を引き落とし、彼らとパウロを引き離そうとしていました。

しかし、私は、今していることを今後も、し続けるつもりです。それは、私たちと同じように誇るところがあるとみなされる機会をねらっている者たちから、その機会を断ち切ってしまうためです。こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。(2コリント11:12‐13)

そしてパウロを引き落とすことによって、コリントの教会の地位を上げようとした偽教師者らは、こういうヤクザまがいのことをしていたのです。

「事実、あなたがたは、だれかに奴隷にされても、食い尽くされても、だまされても、いばられても、顔をたたかれても、こらえているではありませんか。 (2コリント11:20)」まさに、今言われている「カルト化された教会」の姿であります。

そこでパウロは、その一部の悔い改めていない者たちに強く臨んで、第二の手紙を締めくくっていきます。

私の恐れていることがあります。私が行ってみると、あなたがたは私の期待しているような者でなく、私もあなたがたの期待しているような者でないことになるのではないでしょうか。また、争い、ねたみ、憤り、党派心、そしり、陰口、高ぶり、騒動があるのではないでしょうか。私がもう一度行くとき、またも私の神が、あなたがたの面前で、私をはずかしめることはないでしょうか。そして私は、前から罪を犯していて、その行なった汚れと不品行と好色を悔い改めない多くの人たちのために、嘆くようなことにはならないでしょうか。(12:21-22)
そういうわけで、離れていてこれらのことを書いているのは、私が行ったとき、主が私に授けてくださった権威を用いて、きびしい処置をとることのないようにするためです。この権威が与えられたのは築き上げるためであって、倒すためではないのです。(13:10)

決して妥協していけない

これが初代教会の、しかも霊感を受けた聖書の中に書かれている、教会の姿です。どろどろとした人間模様があります。そして、そのどろどろは、各人の内にある肉が、肉と御霊の葛藤が表出しているだけなのです。この内的戦いがない、とか、あることに気づきながら先送りしたり、隠したりしてはいけないのです。ある信仰誌に書かれていた文を抜粋します。

なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。(ガラテヤ5:17)

このような内面的な戦いは、私たちの肉体が存在しているかぎり、絶えず行われるものです。しかし残念なことには、多くの救われた人々の内側では、これら二つのものは対立しあうどころか、むしろ「妥協」していい加減な状態になっており、それに慣れてしまっているのではないでしょうか。その結果、聖霊の導きに対して鈍感になったり、優柔不断な態度のために証しをする力がなくなったり、この世のことばかりを考え、自分の思いや望みが完全に塵にまみれてしまったりするのです。

このような妥協した生活との決別は、早ければ早いほど簡単であり、徹底的であればあるほどよいことは言うまでもありません。

「半沢直樹」の出向は妥当

ドラマから、真面目な教会生活の話に移してしまいましたが、「半沢直樹」のドラマはストレス解消には役立つかもしれないと思いましたが、単純な勧善懲悪でしか物事を考えていないと、人を過ちに導く危険なストーリーであるとも言えます。

昨夜、最終回十回目を見ましたが、半沢直樹は出向、大和田常務は取締役への降格でした。多くの視聴者ががっかり来ているようなのですが、私は、これで逆に安堵しました。確かに原作には続編があり、半田は冷静になってこの人事が自分にも最良だったことを反省し、出向先で頑張るとのこと。

私たちキリスト者も、突然「出向辞令」が出されるような、理解できず、困惑し、「どうして!」と叫びたい、理不尽に思えるようなことを、主から、または他の成熟した信者から語られるかもしれません。私もかつて、教会の兄弟姉妹がノリに乗って新しい動きが主からのものと感激していたところ、思いっきり冷や水を浴びせらえるようなことを、ある教会員とまた牧師に告げられ、さっぱり分からずに落胆していた時期が長く続きました。けれども、いま思い返せば、そのノリが本当に危なかったこと。落ち着きがなく自分たちだけしか楽しんでいない仲間向けのものであったこと等、穴があったら入りたいような恥ずかしい、反省すべき点が多いです。痛く、また甘い記憶となっています。

こうした内なる葛藤を通して、私たちは主にあって成長します。目の前の、自分勝手な正義ではなく、全体を通して主が行われている御心を見ることができるようになります。主にあって成長していきましょう。

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