負い目のある私たち

人間生活に必要な自虐ギャグ

私は海外生活が長いためでしょうか、日本にいて時々息苦しくなる時があります。今回の女性議員に対する都議会における性的嫌がらせの野次にまつわる、世間の怒りの表れに度を越したものを感じます。その他でも、政治家の失言で頭を下げて謝罪している姿を見るにつけ、「首根っこをつかむ」「締め付ける」「吊し上げる」という空気で周りが固形化しているのが、とても辛いです。教会の人でもこの前、しばらく海外出張で外国の人相手であったのが、今は日本の人たちとの話し合いになっているが、どうも細かいところ、そして言葉の表現の仕方が議論の中心になり肝心の内容を進めていくのになかなか前にいかず疲れる、という話をしておられました。

次の、私の友人のFBにおける投稿で、イギリスの議会の野次を取り上げた記事がリンクされています。

イギリスの議会におけるヤジはどうなっている?

calm-down-dear-cameron-clegg-osbourne議会って、こんなに熱く、楽しくなることができるのか?と本当に羨ましくなりました。非常に高度で、高貴なバラエティー番組を見ている気分です。私は大学の頃ディベートをしていましたが、その理想形をここで見ます。つまり「言葉のやり取りの軽快さ」なのです。これはノリが軽いとか、内容がないということではありません。むしろ、そうすることによって論理の構成に注目し無駄を省くので、事の本質にそのまま入ることができるのです。さすが、最も民主主義の議会制度が成熟していると言われるイギリスだなと、ほっとします。リンク先にある議会のビデオを紹介します。

キャメロン首相が野党の影の内閣の財務省の野次に対して、「反対側に座っているこのぶつくさ言っているアホの言うことを聞いてもそんなことは絶対起こりっこないですよね」と言っています。すげー!ところが、みんな大爆笑しているし、議長も半分笑いながら発言を撤回させています。友人の案として、今回の議会でも、こんなやり取りだったらという提案をしています。

「早く結婚したらどうだ!」
「私が結婚もしないで子どもを産まないでいるのは、あなたのような甲斐性がない男ばかりだからだってことがまだわからないのですか?」

これも、えぐい!でも、こうやって機転を利かせて、自分をさえ笑いの対象にしながら相手をぎゃふんと言わせ、自分の質問を継続していったら、「こいつすげー女だ!」と、女性蔑視の男どもは縮みあがったことでしょう。今の真面目系の抗議を続けていくと、「なら、お前はそんなにきれい(クリーン)なのかよ!」という感情的反発が鬱積して、彼女自身の過去を暴く方向に動くことになります。ただでさえ他者を蔑視する人間の醜さを煽ることになり、不毛な応酬と化してしまうのです。

赦せない、非寛容な社会

日本にはどうも、武士の「切腹」にあるような、自分にしても相手にしても赦せない文化があるようです。また、政治家にしろ企業人にしろ「失言」による追及には、吊し上げの文化あるいは傾向があります。そのために、自分が何と言われるか分からないとして、萎縮していくのです。

JR北海道社長の自殺に思う

知人の牧師さんがずっと前に書かれた文章ですが、日本において理解するのが大変なのは、「神の恵み」という真理です。文章を抜粋します。

「謝罪の言葉を受け入れないということは、裏を返せば「再起を許さない」ということでもあります。寛容の精神を失ったこの社会は、一度罪を犯せばもう二度と社会復帰はできないような圧力を、当事者に対して与え続けるようになってきています。」

「しかし一点だけ、見逃してはならないことがあります。それは、「キリスト教の神髄は、悔い改めて神に立ち返る者を、神は無条件で受け入れる」というこの事実です。聖書は、「心からの謝罪」は、それがいかなる罪であろうとも、赦しを得ることができる、と教えているのです。」

「聖書は、罪は人の心の最も深いところに根ざしており、人間はその力に抗うことは出来ない、と考えます。つまり、罪に対する人間の敗北を前提にしている、ということです。換言すればこれは、「自然のままの状態では、人間は罪を自然に犯していく存在である」ということです。」

「『謝罪を受け入れない』ということは、『自分は正しい』と思うことと裏返し」だからです。自分は清い、潔白だと思い込んでいるからこそ、「ケガレた人」を受け入れることが出来ず、非寛容な態度を取るのです。」

謝罪を受け入れられない、赦せないという根底には、人間の罪深さ、その原罪への理解が薄いから、という指摘は秀逸です。

教会では、負い目を隠さないで!

私は、キリストの教会の中では、絶対にこんな雰囲気が入ってきてはいけないと思っています。誰だって、負い目のある歴史をもって教会に来ています。誰一人、きれいな人はいない。だからこそ、イエス様が教会につながるように召して、選んでくださった。だから、へりくだった、悔い改めているそのままのあなたを、そのまま受け入れておられる。

決して、教会できれいになろうとしてはいけない。負い目がある、過去の知られたくないことがある、などと考えて、一生懸命きれいに見せようとしてしまったら、せっかく恵みによって救われて、新しく生まれたのに、窮屈な律法主義の中に戻って元の木阿弥になってしまう。

クリスチャンはきれいじゃないのです。とてつもない罪を犯し、汚れている自分が、とてつもなく豊かな、無尽蔵の神の恵みによって、新婦のように美しく着飾ってくださっている神に圧倒され、恐れおののいている貴方が居られる、いや居なければいけない場所であります。あなたが、恵みの生き証人なのです

自分に軽くなりましょう、真面目すぎないようにしましょう!所詮、自分などどうでもよいのです、大事なのは神の国であり、自分ではないのですから。:)

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