流さないで受けるだけでは、いつかは腐って死ぬ”福音”

しばしば、「日本に根付く福音を」ということで、海外からの宣教師による福音宣教を、「欧米文化の移植である」という批判し、韓国からならば「反日主義を持ち込んでいる」という批判があります。「植民地主義的」という言葉もよく聞きます。

参考記事:「メイド・イン・ジャパンのキリスト教」を読む①/⑫

そこで、確かに批判や再検討しなければいけない部分があるかもしれないけれども、注意が必要です。それは、ややもすると「神が人となられたキリスト」を否定するからです。

自分の聞いた福音、その純粋な福音とやらを聞いたのは、誰からなのでしょうか?海外から誰かが伝えて来なければ、自然発生的に声が聞こえて来るわけではなかったのです。自分たちが宣教の幻を持たずに、他国の宣教を批判することは、自分の首を絞めるようなものです。

参考図書:「宣教師―招かれざる客か?

カルビン主義の中に極端なものがあります。「人が選んで救われるのではない。神の選びで救われるのだ。だから決断の招きをする伝道は御心にかなわない」として、伝道活動を否定し、否定するだけでなく反対します。かつてのビリーグラハムや、今のグレッグローリー大衆伝道のイベントにて、球場のマウンドに降りて行こうとする信仰の決心者たちの前に立ちはだかり、降りるのを妨げることさえする者たちがいます。けれども、自分が初めに聞いた時に、福音を自分の意志を使って信じたのではないのか?それなのに、自分の意志を使って福音を信じることを否定しているのすから、矛盾に満ちています。

世界宣教を否定する日本宣教は、極端なカルビン主義と同じ論法の過ちを犯しているのです。

福音を聞いて信じた者たちは、「祭司」と呼ばれています(1ペテロ2章)。受け入れ信じた時に既に、自分自身が福音を証しする者として立てられたのだという、祭司の務めの召しを受けています。つまり、福音は、経済のお金のようなものです。使わなければそれは経済は破綻してしまいます。受け取ったお金は使わないとただの紙切れでしかありません。また、それは、血流のようでもあります。血そのものに命があるのではなく、血が運んでいく酸素などによって人体は行きます。流れなければ、生きないのです。

世界宣教という幻なしの日本だけの福音宣教はあり得ない。どん詰まりの福音宣教になります。日本という水の中には入っているかもしれませんが、淀んで腐ってしまいます。

「神が人として来られた」という一文には、既に宣教の使命があります。神の身分であられたのに、人々の間に遣わされ、住まわれたのです。神は人々を使信を持たせて遣わされます。宣教は、神のご性質の中の一つの現れです。

そして「宣教」そのものに「上から目線」と決めつける傾向があります。あの映画「沈黙」には、そういう思想が盛り込まれていました。「信仰は至極、私的なものだ」ということで、公に他の人々に伝えるものではない、そうやって人々に押し付けるものではないということで、主人公は仏教の葬儀で葬られた後に、胸に藁で作った十字架を抱えている場面で終わります。

信仰告白とは、そうやって心の中に秘かにしまっておくものではありません。王の前でも、「それでも私は、この方を裏切りません、信じます。」と告白する類のものです。

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