社会の弱者として登場する独裁者

安易な解決を求める危険

参院選の選挙結果が出ましたが、かの候補者が説いていた経済政策の主張が、ヒトラーのそれと重なっているという点を、経済に詳しい人たちは多く語っています。シェア元の投稿はその一つです。私は素人ですが、やはりあの巧みな演説に、そして非現実的な経済政策の主張に、危ないと感じた一人でした。

そしてこちらの記事は明確に、ヒトラーと当議員の類似性を語っています。

独裁者は弱者の味方として登場する

その特定の候補者、というだけでなく、自分が社会や政府を見る時の一キリスト者としての基本的姿勢は次のようなものです。

人間の営みは、罪あるゆえに、ちっぽけなもの

私の信仰の根底には、「人間は罪深い、限界ある存在だ。人間が選んで選出される政治家もそうだし、政府にも限界がある。」というものがあります。人間の罪性を受け入れているので、故に、神の憐れみの中で社会も世界も成り立っていると見ています。だから、何が正しいかという解は見つけられないけれども、善を求め、最も大事なのは「祈り」であると思っています。

しかし、あたかも人間が完璧であるかのごとく、政府を信頼することのできる存在であるかの如くみなしている風潮が、日本には特に強いと思います。人間社会を理想化するヒューマニズムは、キリスト教信仰とは無縁だと思います。しかし、キリスト者の中にも「みんなで仲良く頑張れば、平和も富も、正義もやって来る。」かのような幻想が見え隠れすることがあり、難しく感じる時があります。

政府を批判することは民主主義の基本です。けれども、その中身を見るに、前提が、「それはすべて政府の無策だ」とするところに大きな危険があると感じています。なぜ危険か?と言いますと、解決を約束する人が出てくると、簡単に鵜呑みにしてしまうからです。

リスクの取り方が下手な日本人

ある起業家の方と話した時に、キリスト教の牧師として、はっきり言いますが、と前置きして、こう申し上げました。「日本人はリスクを取るのが本当に下手だ。宗教についても同じで、何でもかんでも警戒するのに、変な宗教団体や人物にいとも簡単に騙されてしまう。」これは、キリスト者とて同じではないか?と思います。バランス感覚が欠けているのではないか?

限界以上を求める先にあるもの

何でもかんでも批判し、批判しているうちに、次第に不安になり、陰謀論的、被害妄想的にすらなります。けれども、そういう時に限って、本当に変だ!と明らかに分かるものには飛びついてしまうものです。

聖書では、簡単に経済や社会問題を一気に解決する指導者が出て来ることを予期しています。・・そう、「反キリスト」です。黙示録13章を見てください。経済政策でも、なんでもそうですが、「一気に解決」のような手っ取り早い方法には、「神の忍耐」という最も大事な要素を排除しているので、反キリスト性が出て来ることを、覚えるべきではないでしょうか?

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