“いつ”主が来るのか?よりも、”なぜ”来るのか?

 キリスト教会には、主が来られ、空中にまで天から降りてこられ、教会の者たちが引き上げられること(携挙)について、また、神が御怒りを災いによって地上に表される患難が襲う前に引き上げられることについて、いろいろな批判があります。その一方で、この患難前の携挙説の正しさを強く主張しているグループもあり、両極に別れている感じです。

 私は、神が、世の終わりに、これまでの積み上げられた地上の悪に対して、御怒りを現わす時が定められていると信じています。そして、キリスト者は神の御怒りから救われることが約束されており、また、いつ主が来られても、思いもよらない時に来られる切迫したものだということから、患難期の前の携挙を信じています。

 しかし、ここで大事なのは、いつ携挙が来るのか?ということに焦点を合わせるのではなく、「なぜ主が教会にために戻って来られるのか?」ということを考えたいと思います。

御怒りからの救い

 一つに神の、ご自身の御怒りからの救いがあるでしょう。世からの患難は、悪魔から来ています。キリスト者は、その患難や困難の中に置かれて生きています。しかし、いつまでもそのままにはしておかれません、主は悪に対して悪で報いる公正な方です。テサロニケ第二1章を見れば、苦しむ者に対して、苦しみを与える目的で、神ご自身が下す患難があり、主が地上に戻られる時には、福音に従わない者たちに対する裁きがあることを宣べています。

 そして2章では、不法の人の表れがあるが、あなたがたは愛され、選ばれた者であり、救いに定められていると慰めています。むしろ、すでにそうした患難の日、主の日の中に入れられているという噂が教会の中に広がり、混乱していたテサロニケの人たちに対して、パウロが安心させるために書いたのが、第二の手紙です。

 旧約聖書、福音書におけるイエス様の警告、そして黙示録にある患難の幻は、神がこの地上に下す災いのそれであり、それと、悪魔が私たちを苦しめる患難とは、性質が異なることが分かります。むしろ、サタンによる苦しみに最終的な決着を付けるため、それを滅ぼされるために神は最後の怒りを現されるのであり、目的が正反対でさえあるのです。

目を覚ます信仰

 次に、「いつでも主は来る」という切迫感は、主がご自分の再来を語られる時に絶えず強調していたことです。忠実なしもべと愚かなしもべの対比、十人の中の賢い乙女と愚かな乙女の対比、そしてパウロがテサロニケ第一5章で、目を覚ましていれば、主の到来が盗人のようではないと話しています。そこには前兆はないどころか、「予期していない日、思いがけない時に帰って来て(マタイ24:50)」とあり、いつ主が来られても、恥ずかしくないように忠実に仕える強い動機になっています。

 ならば、患難が来て、その最後に主が来られると「設定」してしまうのであれば、もはや、「思いかげない時、予期していない日」にならないのです。むしろ、そのように見えない時、「主の来臨などと言っているが、今までと全然変わらないではないか」とペテロ第二3章にあるような、嘲りがある時、そういった時に主が来るかもしれないのです。

キリストにあずかる者

 そして、何と言っても「人は、キリストに結ばれることによって、神のかたちに回復する」という、神の贖いのご計画に沿えば、携挙は非常に大切な出来事です。

 キリストは神の御子です。聖霊によってマリアはみごもり、成人して公生涯に入られますが、そこでも聖霊が鳩のように下られ、水のバプテスマを受けておられます。聖霊に満たされ、大きな働きをされました。そして十字架の苦しみを経て、三日目に甦られ、昇天されました。今は、神の右の座に着いておられ、天にとどまっておられますが、やがて地上に現れ、戻って来られて、神の国を立てられ、その王として君臨されます。

 私たちキリスト者は、神の子どもです。御霊によって新しく生まれて、神の養子縁組に入りました。この方は神であられ、私たちは人であり、決定的、圧倒的な違いがあるのですが、交わりにおいて、主は父なる神とご自身にある関係を、私たちにも引き伸ばし、お与えに成ろうとしています。

 イエス様は、私たちの長子となられました。主が聖霊の満たしによって宣教の働きを行われたように、私たちも聖霊のバプテスマを受けて、イエス様の生きた証人となります。そして、主の死を覚えて、聖餐にあずかります。苦しみがあっても、キリストの苦しみにあずかり、その中で何とかして、主の甦りにも預かる希望と期待を持っています。霊にあって復活のいのちにあずかり、そして、後に体の甦りも期待しているのです。水のバプテスマは、キリストに結ばれるバプテスマであり、その死、埋葬、よみがえりに結ばれるバプテスマです。

 主は天に昇られました。キリスト者たちは、天に引き上げられ、主のおられるところに行きます。主は甦られ、その栄光の体を持っておられますが、キリスト者も天に備えられた、キリストに似せた新しい体をもって甦り、栄光の姿に変えられます。

 そして、主の用意されている座に着き、そして主がこの地上に再び現れる時に、共に現れることとなります。そしてキリストが父のものを受け継がれているので、任せられた世界をご自身が統治されるように、私たちは共同の相続人として、御国の統治を任せられ、相続します。

 これを、簡単にまとめると、対応表が造れます。

キリスト    キリストに結ばれた者

神の御子    養子縁組
聖霊による降誕 御霊による新生
聖霊による働き 聖霊による証し
十字架の苦しみ キリストの苦しみに預かる者
よみがえり   キリストの甦りに預かる者
昇天      携挙
復活の体    復活・栄光の体
天の着座    天の着座(黙示3:21)
地上への現れ  共に現れる(コロ3:4)
御国の統治   共同統治(ロマ8:17)

参照ブログ:「患難前携挙説への攻撃

 携挙のみに焦点を当てると、あてどのない議論に迷い込みますが、神の救いのご計画全体の中で見るならば、携挙が、「天に昇られたイエスにあずかる」という大きな意義を見出すのです。

わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。(ヨハネ14:3)」

ガリラヤのユダヤ人の婚礼にある携挙の原型

 もう一つの患難前の携挙の妥当性について、当時のガリラヤ地方におけるユダヤ人の婚礼の伝統儀式に色濃く表れている、というものがあります。これが、来年3月のロゴス・ミニストリーの聖地旅行(申し込み受付中です!)の共同の教師、ジェイ・マカール(Pastor Jay McCarl)さんの書いた本に詳細にあります。

The Best Day of For Ever

 聖霊と花嫁(教会)が、「来てください」と呼び、主が「しかり、わたしはすぐに来る。」と答えてくださったその言葉をもって聖書は終わる(黙示21章)のですが、コリント第一16章にも、パウロが、「主よ、来てください」と熱烈に求めていますが、その熱烈な思いが、教会の携挙を信じる強い動機になっています。

 私はその一人です。私を罪と咎の中から救い出し、こんなどうしようもない者を贖い出し、美しい娘のように着飾ってくださった、私の愛するイエス様、この方にお会いできるのを熱烈に待っています!しばしの困難が地上であろうとも、時に右に左にそれてしまうけれども、けれども、主よ、貴方にお会いできる日が待ち遠しいです!・・というのが、私が強烈に携挙を信じている動機であり、そこにあって、喧々諤々の神学議論は邪魔であり、忌まわしいものにさえ見えます。

 ちなみに、ジェイさんの著書が原作となって、「御怒りの前に(Before the Wrath)」が製作されています。そこには、アミール・ツァルファティさん、牧者JDファラグさん、牧者ジャック・ヒブズさんなどが出演していますが、原作はジェイさんで、ジェイさんも当然、登場して解説します。私は制作会社の社長の奥様と、去年4月のトルコ・ギリシャ旅行で知り合いになりました。

Before The Wrath – Official Trailer (HD) from Ingenuity Films LLC on Vimeo.

 日本語では上の記事の他、拙書もあるので、そこにも詳しく携挙について説明しています。

「聖書預言の旅」(地引網出版

「“いつ”主が来るのか?よりも、”なぜ”来るのか?」への1件のフィードバック

  1. >しばしの困難が地上であろうとも、時に右に左にそれてしまうけれども、けれども、主よ、貴方にお会いできる日が待ち遠しいです!

    主に会える日を待ち望んでおられる方々は、世の中で、あるいは身の回りで痛ましい出来事があっても、心の底からは悲しいとは思ってないんじゃないか?と勘ぐってしまったことがあります。この世では誰かがなくなっても、それはあくまで「この世」での出来事だと思っているのではないかと。
    良い悪いではなく、悲しみの感情が普通の人と違うところがあるのではないか、そしてその違いの度合いも教会によってまた様々なのかもしれないと感じました。
    (そうでなかったらすみません)

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