霊的コロナ対策のほうが教会の使命

(4月2日にフェイスブックに投稿)

 今、専門家会議の記者会見、また安倍首相の政府対策会議のどちらも見ました。また午前中は、ズームによってアジア地域に遣わされているカルバリーの宣教師たちが、デボーションと分かち合いと祈りの時を持ち、教会の人々とは毎日、ズームで祈りを持っています。

 そういったことから強く感じるのは、「コロナ対策に教会が吸い込まれている」という危惧です。コロナというウィルスへの対策は、私たちの体にとって大切ですが、霊について、警戒と対策が必要なのに、そちらのほうは、おざなりにされている感じがします。

 そう感じるのは、山中伸弥先生の語られる言葉から、ヒントを得たからです。

新型コロナウイルスとの闘いは短距離走ではありません。1年は続く可能性のある長いマラソンです。日本は2月末の安倍首相の号令により多くの国に先駆けてスタートダッシュを切りました。しかし最近、急速にペースダウンしています。このままでは、感染が一気に広がり、医療崩壊や社会混乱が生じる恐れがあります。一人一人が、それぞれの家庭や仕事の状況に応じた最速ペースで走り続ける必要があります。国民の賢い判断と行動が求められています。

長距離走なのに、短距離のように走っている

 短距離走ではなく、長距離走であるのに、全速で走っている感じがします。早く走らないといけない時は走るのですが、その目標地点を見据えることなく走っているので、必ず息切れします。山中先生はこうも言われています。

ウイルスとの闘いは、有効なワクチンや治療薬が開発されるまで手を抜くことなく続ける必要があります。1年以上かかるかもしれません。マラソンと同じで、飛ばし過ぎると途中で失速します。ゆっくり過ぎると勝負にならず、ウイルスに負けてしまします。新型コロナウイルスを制圧することはもはや困難です。受け入れるしかないと私は思います。社会崩壊も、医療崩壊も起こらない形で、ゆっくりと受け入れる必要があります。

https://www.covid19-yamanaka.com/

 そのマラソンの目標地点が見えていないのが、まさに緊急事態宣言を出し、罰則の伴う厳しい都市封鎖をしている欧米諸国なのです。そこには、「制圧することはもはや困難です。受け入れるしかない」考え方、見通しがありません。だから厳しくしていくばかりで、その割には感染者数も、死亡者数も減っていません。社会崩壊ばかりが、どんどん起こっています。私たちに必要なのは、「ゆっくりと受け入れる」覚悟です。

 日本は、三月の自粛期間を過ぎて、三連休の時に緩んでしまいましたが、長期的な対策を視野に入れていないと、息切れしてしまうのです。緩んでもいいのですが、その時でさえ、一線を越えてはいけない注意が必要です。走る時には、拙速に走りすぎてもいけない、疲れて歩いてしまうかもしれないけれども、決して立ち止まらない、そうやって、持続的に走ることができます。

 これを霊的なマラソンとするならば、拙速にオンライン礼拝に切り替え、そこにある霊的、神学的、聖書的考察が良くされているかわからないまま、安易に、家庭礼拝に準ずるもののほうが教会の本質だと飛躍する動きがあり、危険です。

 次に、自由民主主義体制の諸国家は、緊急事態体制において、安易な超法規的措置に走り、その自由の根幹である信教の自由を自ら捨てて行っています。(韓国の場合)愛による応答ではなく、世間と同じように漠然とした、コロナに対する恐れから、反応している傾向を持っています。反キリスト的な空気を感じます。

 コロナ対策ばかりが前面に出て、教会の使命、福音宣教の使命がどこかに追いやられていやしないか?コロナ対策と同時に、キリスト者はさらにもう一つ、主の到来が近づいていることを思い、困難に耐え、その中でも神の愛に満たされ、良い行いをするように祈り求めることなのではないでしょうか?

各教会に応じた走り方を

 次に、山中先生は、「一人一人が、それぞれの家庭や仕事の状況に応じた最速ペースで走り続ける必要があります。」と書いています。教会はそれぞれの歩みがあり、同じコロナ対策でも、具体的には違ってきて当然です。それぞれの事情があり、自ら考え、祈り、最適な姿があるはずです。

 日本のコロナ対策で世界で独自なのは、「クラスター対策」です。これは、クラスター感染を一つずつ潰していくという、「社会的、経済的損失を最小限に留める」こともしながら、なおかつ感染拡大を防ぎます。こんなきめ細かい、丹念な作業は日本だからできるのかもしれません。(しかし、専門家会議の記者会見で、対策班が、疲弊しきっていて、クラスター発見に支障が出てきていると悲鳴を上げていました。なんとかしないといけないでしょう。)

 今回も、感染拡大について三つの地域に分けました。細かく分けるから、人々に一定の自由が与えられています。

 ある教会では、オンラインに変え、また、ある教会では、家庭礼拝に変え、また違うところでは、礼拝を複数回に分け、いろいろな工夫が施されることでしょう。そういうきめ細やかさによって、それぞれに合わせた対応ができ、自由が一定程度、保たれるのです。

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