現代アラブの社会思想―終末論とイスラーム主義

エジプトに少し興味を持ったきよきよは、以前読んだ以下の本をまた読み返しました。

現代アラブの社会思想―終末論とイスラーム主義(池内恵著 講談社現代新書)

改めて読んでみて、こんな分かりやすい本だったのだと感心しました。イスラエル・アラブ紛争の書物を何冊か読んだので、その歴史の背景についての知識が増えたからかもしれません。

内容は、アラブ民族主義とイスラム主義が主ですが、彼の留学先と研究をした現地がエジプトのため、その国で起こっていることを機軸にして書かれています。他の人たちがたくさん書評を書いています。

1)全体の流れを知りたい方はこちら
世界的な流れでもありましたが、資本主義が崩壊するかと思っている時に社会主義・共産主義が台頭しましたが、日本では安保闘争などをしている時期に、アラブではエジプト革命が起こりました。そしてパレスチナ・ゲリラもこの流れです。

日本にとって大きな思想の転換は、①敗戦②安保闘争、そして後は③地下鉄サリン事件、を境にして起こったような気がしますが、アラブ社会も似ています。アラブにとっては、①1948年の独立戦争での敗戦、②1967年の六日戦争での大屈辱、そして③湾岸戦争、でしょう。①でアラブ版の社会主義革命的な動きが芽生え、②でその革命理論が衰え始め、代わりにイスラーム主義が台頭、③でイスラム教終末論に基づく陰謀論・オカルト関係に傾く、と言えると思います。

2)非常に共感する書評がありました、こちらです。

池内恵氏は1973年生まれで、僕と同じ世代です。だから感覚がとても似ています。彼の他の書物も好きなのですが、安保闘争とそれ以後の時代に生きていた50-60代の人々と私たちは少し感覚が違います(注:大雑把過ぎる類型化で申し訳ありません、当てはまらない人々もたくさんいるでしょう)。国や権力に対する生理的な嫌悪感があまりないのです。むしろそのような、権力に反発する人々の偽善性や嫌な部分を逆に見てきているので、きれいに権力・権威を批判する人々にきな臭さを感じるのです。

池内氏は、陰謀論を多く取り上げるのですが、上の書評では「しかし基本的に「資本家=悪」「労働者=善」という善悪二元論を採用するマルクス主義は陰謀論との親和性が高いのではないでしょうか。」とあります。学生闘争を上手に避けて生きてきた人々の中にも、上の権威を否定する傾向があり、それゆえ「自分自身」に対する自負心・信仰があり、それ以前の伝統的・保守的な世代の人にはない利己性を感じます。(その反発が、あの90年代に若者の間で起こった新興宗教ブームであったような気がしないでもありません。)

同じ方の書評で池内氏のもう一つの著作「アラブ政治の今を読む」にも、こう引用されていました。

国際政治の現状分析というものは、不確かな「機密情報」や裏話などに頼って行うべきものではない。公開情報を広く集め、現地調査で培った判断基準によって情報を選択し、解釈することによって生み出されるものである。

そして、

「権力」からの情報は端から疑ってかかり、逆に「批判勢力」を称する側の主張は検証なしに全面的に承認し、そこから断定的結論を導いていく議論は著しく公平さを欠く

とあります。最近読んだ本、例えばSix Days of Warは、公開された一次資料に基づくものであり、それで十分以上に国の指導者の思惑を読み解くことができます。そしてしかも、その指導者をありのままに見ることができ、たとい悪い指導者であっても、怒りや嫌悪感と同時に哀れむ心も生まれてくるので、安心して読めます。

3)あと、本書の一部を批判している記事があり、興味深いことが書かれていました。

エジプトでは首都カイロですら信号なんてほとんどないし、あっても完全に無視されています。圧倒的な車優先政策で、歩行者保護の観念はほぼ皆無です。交通マナーも道路事情も劣悪、保険制度も無いも同然で、交通事故の被害者は泣き寝入りするしかありません。警察は基本的に事故の捜査はしませんので、ひき逃げも日常茶飯事です。そんな道路が村を分断しているのですから、住民がどれだけ苦しめられてきたか、察するに余りあるところです。

これを、にやにやしながら読みました。私が去年経験したカイロそのものだったからです。そして、

エジプトはファラオの昔から、圧倒的多数の農民を、ほんの一握りの都市民が支配する専制国家で、今でもその構造は基本的に変わっていません。中央は農村の富と労働力をほぼ一方的に吸い上げるヤクザの親分みたいなもんで、しかも1952年までずーっと異民族が入れ替わり立ち替わり親分の地位に就いてきたわけなので、エジプト農民にとって彼らはよそ者。生き延びるために「お上」には徹底的に服従しへつらうが、そのかわり村落共同体という「内輪」のある領域については手出しさせない。お上といえどもここを犯したら命を張る、という絶対に譲れない「聖域」があるわけです。

私がエジプト博物館を訪れた時、「パロの時代と今のエジプト、もしかしてあんまり変わっていない?」と感じたその勘が当たっていたみたいです。

エジプト・・・一日いるだけでも大変な国ですが、一度は体験してみる価値のある面白い国です。

Six Days of War(戦争の六日間)

次に紹介する本はこれです。

“Six Days of War: June 1967 and the Making of the Modern Middle East ” (by Michael B. Oren)
(「戦争の六日間:1967年7月と現代中東の発展」マイケル・オレン著)

六日戦争を知るには、これが「ザ・ブック」だそうです。日本語に訳されていないのが残念!(注:2012年12月24日後記:なんと邦訳が今年の始めに出ていました!!!「第三次中東戦争全史」ぜひ、次の日本語の書評をお読みください。内容と概要がよく分かります。「日本経済新聞」「弁護士会の読書」)

6day_war
中東情勢を知るのに、独立戦争だけでなく六日戦争についての知識は絶対です。聖書を学ぶ人にとっては、独立戦争が「1948年のイスラエル建国」という出来事、そして六日戦争が「エルサレムがイスラエルの主権に入る」ということで、非常に大きな意義を持ちます。前者の代表的な聖書箇所は、エゼキエル37章の涸れた骨が肉を持つ幻、そして後者はイエス様が、「異邦人の時が終わるまで、エルサレムは踏み荒らされる」と言われたことに関連します。では、感想をかいつまんでお話します。

1)前の「おおエルサレム!」と同じく、単に六日戦争の軍事行動だけでなく、むしろその戦争に至った文脈、そしてその戦争がもたらした中東全体への影響を教えてくれます。こちらも小説のように読み進めることができ、一つの小さい出来事が他の出来事に関連し、それが発展・拡大して戦争にいたる様子を描いています。

2)彼は公開された文献をものすごく調べています。これまでの英文とヘブル語の文献のみならず、アラブ語そしてロシア語の文献も調べています。なので、イスラエル側だけでなくアラブ側の指導者層の動きも生きているように読むことができ、興奮しました。

3)この本や、他の文献を通して、アラブ諸国におけるエジプトの地位を知ることができました。聖書時代と同じく、エジプトは大国として大きな役割を果たしています。六日戦争はナセル大統領がイスラエルを挑発したわけですが、彼の心の動きなど詳細に描かれており、非常に興味深かったです。

また、イザヤ書・エレミヤ書にあるエジプトの預言、また私が去年訪問したエジプトから、その預言に書かれているエジプトが近現代のエジプトに重なります。国民性、国家の性格は昔と今は変わっていません。

4)イスラエルの指導層の動きも生きています。彼らが全滅させられるという危機感を抱きながら、大勝利を得られるという大胆さを同時に持っているのですが、その背後に神を見るのです。聖書に出てくるイスラエルの戦いの歴史が、それだったからです。「選びの民でありながら、自分たちが選ばれていることに気づいていない」ことを思います。

5)六日戦争でもアメリカ政府内のさまざまな動きがあったのですが、この時アメリカはベトナム戦争によって気を反らされていました。ですから、アメリカの支援をほとんど受けることなく戦争が始まったというのがこの戦争の大きな特徴です。

6)日本で売られている書籍、インターネット情報は、こうした偶発的にも思える出来事を、「何か合理的な説明ができなければいけない」という前提から「陰謀があった」と見ます。けれども著者は(おそらくは世俗的ユダヤ人なのですが)、政治決断は必ずしも合理的判断によるものではないことが分かった、という感想を述べています。これがまさしく私たちが信じる神の御手のことを指しており、人間の恣意的な操作を超えたところにある歴史の必然です。

著者について少し説明しますと、マイケル・オレン氏は歴史家です。もともとユダヤ系アメリカ人でしたが、イスラエルに移住し、イスラエル国籍を得ました。軍部にも従事しそして今は、ネタニヤフ政権によって在米イスラエル大使に任じられています。彼の新しい著作”Power, Faith, and Fantasy: America in the Middle East: 1776 to the Present“(「力・信仰・空想:中東にあるアメリカ:1776年から現代まで」)を買いました。アメリカ建国以来の中東への関わりを追っています。これから読むのが楽しみです。

(後記)「「六日戦争」は1967年6月5-10日 その2」に、Amazon.comにある本書の書評を意訳しました。

おおエルサレム!

今の中東情勢を知りたいと願われる方は、次の本をぜひ読んでください。必読です。

「おおエルサレム!(上)」(ドミニク・ラピエール、ラリー・コリンズ著 早川書房
「おおエルサレム!(下)」

二冊とも絶版になっていますが、図書館や古本屋にはあります。(ちなみに私は原書を読みました。)

なぜ必読かと言いますと、今起こっている中東紛争の始まりは全て1948年のイスラエル建国直後に起こった独立戦争に起因しており、この戦争とその周囲で起こったことを知らなければその後のことは何も分からないからです。この本は、独立戦争について調べる時、資料として必ず出てきます。

そしてこの本は、詳細な軍事行動よりも、当事者の人物の生きた動きを中心に描いているため、小説のように非常に読みやすく、その時の状況を肌で感じることができます。ユダヤ人・アラブ人・英国のそれぞれの立場から、同時進行で話が展開していきます。

(詳細な軍事行動については、他の中東戦争も含めて、ハイム・ヘルツォール著の「図解 中東戦争」が定番です。今、読んでいますが、軍事作戦の位置関係を追うのが難しくかなり苦しんでいます。(汗)ちなみにもっと平易なもので「中東戦争全史」(山崎雅弘著 学習研究社出版)というものもあるらしいです。)

そしてなんと、映画化もされていました!
http://www.ojerusalemthemovie.com/
ojerusalemアメリカでDVDになったようですが、日本にはまだ来ていないようです・・・。(残念)ただ、予告編を見た限りはやはり本そのものを読んだようがよさそうです。ちょっと脚色が多いような気がしますし、映像化したので内容も薄められている感じです。

この本の感想をかいつまんで話しますと・・・

1)イスラエルは、まだ独立していていなかったので「国家」になっていない状態で、戦争の準備をしなければいけなかったという大きなハンディ(障害)を背負っていたこと。統治している英国は武器所有を認めていなかったし、武器売買をする商人たちは、非合法の組織ではなく国家との取り引きしかしませんでした。けれども、奇跡的にそのルートを得ます。

2)アラブ諸国は、非常にまとまりがなく「イスラエルを倒す」ということ以外は自分たちのやりたい放題だったこと。「アラビアのロレンス」の映画でも感じましたが、アラブ人の良さでもありますがあの民族的誇りが彼らを邪魔します。けれども、この本でアラブ人たちにもっと親近感と好感が出てきました。(去年、エジプト旅行に行ったことも手伝っているかな?)

3)戦争勃発後、エルサレムは絶対絶命状態であったのに、国連による28日間の第一次休戦合意で、九死に一生を得ました。これがなければ、イスラエルは文字通り残滅していたことを思うと、神の御手を感じざるを得ません。

4)しばしば誤解そして歪曲されているのが、「イスラエルは在米ユダヤ人の支援があったからこそ、戦争に勝つことができたのだ。」ということ。結果として、部分的にはそう言えるのですが、在米ユダヤ人のほとんどがシオニズム(イスラエル建国)に冷淡だったという背景が見えてきます。けれども、後に首相となるゴルダ・メイアー女史がたった手持ち金10ドルでニューヨークに到着、5000万ドルを得て帰国するという奇跡的な話が出てきます。

5)アメリカがイスラエルを支援するから、イスラエルが戦争に勝つのだ、というのも誤解・歪曲です。アメリカ政府内の熾烈な確執を生々しく描いています。純粋のアメリカの国益を考えたら、イスラエルは捨てたほうが良いのです。国務省グループはみなそう考えていたところ、時のトルーマン大統領は逡巡しながら、独立宣言後すぐにイスラエルを認知する苦渋の決断を出した、という背景があります。

とにかく、この本はお勧めです。・・・あと、建国時のことをを描いたハリウッド映画で「栄光への脱出」がありますね。若き頃のポール・ニューマンを楽しめます。

次に、もう一つ大事な「六日戦争」についての本を紹介したいと思います。

六千人の命のビザ

これは、外交官杉原千畝氏の妻、幸子夫人が著した本です。

「六千人の命のビザ」(大正出版)

この本の内容については、いろいろな人がネットで紹介し説明しています(一つ例を挙げるとこちら)。なので内容は割愛しますが、自分がここから興味を持ったこと、教えられたことを書いてみます。
sugihara
1. 彼の外交官として働きに感銘を受けました。このような有能な外交官が日本の国のために奔走していたのか、と感心しました。今でも似たような働きをしておられる外交官がいると察します。(私が感銘を受けた元外交官による本では、砂川昌順氏による「極秘指令~金賢姫拘束の真相」があります。またあの有名な佐藤優氏もいますね、彼は特に自分の親イスラエル的な立場から逮捕されています。)

2. 世における自分の働きも優れているが、神から与えられた心の良心に対して彼はさらに忠実でした。(聖書ではダニエルが私たちの模範です。)それが、彼を延べ六千人に至るユダヤ人の救出に至らせました。

3. この書では、ビザ発行後のエピソードを、外交官夫人ならではの視点で描かれています。その中で彼女が、敗走しているドイツ軍と行動を共にし戦闘に巻き込まれた時、自分の体に覆いかぶさった若い将校が気がついたら死んでいたという話には感動しました。彼女はその後、シベリア経由で帰国する時、すけべ心を出す日本兵捕虜と少し対比させながら、欧米にある紳士精神を浮かび上がらせています。

4. そしてこの本で一番驚いたのは、実は千畝さんが行なわれた偉業(本人も「ごく当たり前のことをしたまでだ」という立場であったように)よりも、救出されたユダヤ人の執拗さです。杉原氏は戦後、外務省免職。その後職を転々とし、日本の商社のモスクワ事務所で働いていた時、ユダヤ人たちは彼を突き止めます。そして彼をイスラエルに迎え、イスラエルの最高栄誉賞である「諸国民の中の正義の人」に選びます。

救った本人は「ああ、こんなことがあったな。」という昔の記憶として覚えているだけだったのに、彼に大きな栄誉を与えるべく動き回る姿は、あの、神がアブラハムに語られた「あなたを祝福する者は祝福され」の実現に他なりません。本人たちがこれを意識しているようには思えないので、やはり神がご自分の選びの民として、彼らに神のDNAを与えられていることには間違いありません。

ちなみに、ドラマにもなったようです。(Venohで視聴可

なぜ恵みはすべてを変えるのか

先日「カルバリー・チャペルの特徴」をご紹介しましたが、次の本も牧者チャック・スミスによるものです。

「なぜ恵みはすべてを変えるのか」
(クリックすると、日本語訳がpdfファイルで出てきます)

「神の恵み」という言葉は、教会にいる者でしたら何度も聞き、古臭ささえ感じるものです。けれども、これをやはり本当の意味で知っていない、ということをこの本を読むと気づかされます。

一昨日の夜、礼拝で伝道者の人が、「罪を犯すと死にます。あなたは本当に自分が、死ななければいけない罪人であることを認めていますか。」と説教されました。そして、「このことが分からなければ恵みが分からないし、恵みが分からなければ献身することも分かりません。」と言われました。

私は、ガラテヤ6:14の「主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。」と思い出しました。パウロにとって、毎日が、自分の罪のために十字架に架けられているキリストが実体となって迫っていたのでしょう。伝道者の方も、「ローマ6:23の、『罪から来る報酬は死です』というのは教理ではなく、彼の信仰の表明なのです。」と言われていました。

そして昨夜、ロゴス・ミニストリーのメールアカウントに、ローマ6章を聞いておられる方からの便りがありました。これまで律法主義的な聖書理解をしていた。神の恵みがだんだん分かってきた、というご感想を述べておられました。

そこは私自身が話し教えた箇所でありますが、では私自身がそれをいつも体得しているか?・・・これがいつも神様に語られる言葉なのですが・・・キリストの十字架の前に立っている自分であり続けなければいけないことを思わされます。

何を予期すべきか? 5

3)- c) 今を見て

在米の日系の方で、私たちと親交の仲にある姉妹の方がいます。かなり前に米国に移住し、そしてある時、イスラエル旅行を通して救いの確信に至り、それ以来、日本人の霊の救いのために、またイスラエルのために祈る熱心な人となりました。

彼女が久しぶりに日本に帰ってきた時、東京の街中で、イラク戦争募金をお願いしている人が立っているのを見たので(おそらく統一協会の人でしょう)、彼女は熱くイラク戦争の正当性を語り始めました。それを見た弟さんが、「お姉さん、何をやっているんだよ!」と言って、手を引っ張ってその場から引き離した、とのことです。私は、「私も彼だったら、同じことしていると思います。」と答えました。

おそらくそのままにしていたら、暴力傷害沙汰になっていたかもしれません。それほど当時、イラク戦争を支持することを公にすれば、身の危険を感じるほどの反米感情が日本にはあったからです。

これは政治的な事だから信仰とは関係がないと片付けることはできません。なぜなら、マスコミは米国におけるイラク戦争支持は、キリスト教右派の福音主義の支援によるものと宣伝(煽動?)していたからです。

そして福音主義が何かについて議論がありました。「聖書を文字通り信じ・・・」という文句も覚えています。イラク戦争を契機に、「イエス・キリストの福音こそ人を救う力がある。」と信じる者たちへの圧迫が始まったのです。

そして、イスラエルやユダヤ人に対する陰謀的な話も流布しました。聖書預言を信じ、キリストの再臨を固く信じる人々は、インターネットや新聞上で、イスラエルを支援するアメリカの福音派と一括りにして批判の的になったのです。

この議論がキリスト教会の中でも展開されました。クリスチャンと呼ばれる人々が、到底クリスチャンとは呼べない汚い言葉を使って責め立てます。そして指導的な立場にいる人までがそれを後押しします。

私の知り合いの牧師さんは、礼拝中に暴言を吐く人が現れたとのこと。彼の親イスラエル的な立場の為でした。

私も個人伝道をしている時、また兄弟姉妹の相談を受けていた時に苦労しました。「ブッシュはクリスチャンなのに、なんで戦争するの?」という質問が必ず出てくるからです。ブッシュ大統領ではなく、イエス・キリストについて話したかったのに、そこで話が途切れてしまうのです。

このように、アメリカが戦争を行なっていた時のかつての日本と、今が重なり合うのです。

米国のキリスト教会の反応も同じでした。私が、当時のブッシュ大統領が明治神宮参拝をした時、私は必死になって、米国のクリスチャンにそれを止めさせるよう嘆願のメールを出してほしいとお願いしました。ところが、彼らの多くは無関心で、逆に批判する人もいました。そしてあるキリスト教系ニュース・サイトは「神道は宗教ではなく日本の伝統であるという意見もある」などという、戦前と変わらない論評まで出していました!

在日の米国宣教師もほぼ同じ態度でした。日本のキリスト教会の精神構造が変わっていないだけでなく、米国キリスト教会も変わっていないのです。

以上が、私はこの薄い「何を予期すべきか?」の冊子を読むと、魂が動かされる所以です。あまりにも身近で、個人的な問題を、一つの教会のグループに起こった事件の中に見てしまうからです。

まあ、だからとって今しなければならないことは何も変わりません。主にあって忠実に働き、福音を言い広めるのに専念することですから。:)

何を予期すべきか? 4

3)- b) キリスト教が世相に乗ずる時

当時の日本キリスト教は、完全に時流の中にいました。日本基督教団の由来やその初代の長、富田満の話を読めば、教会が当時、神社参拝を拒まないどころか、積極的に行なっていたことを知ることができます。

その中で、ワイドナー女史が、聖書信仰、キリストの再臨信仰のゆえに、神社参拝は偶像礼拝としてそれを拒否する立場を取ったことで、教会は迷惑に感じ、指導者らは新聞の投稿などで美濃ミッションを批判をしていきました。

その批判の内容の一つを引用しましょう。

一部の宣教師や欧米心酔の一部の信者を持ってきて、キリスト教全体のごとく言われるのは、我々日本主義キリスト信者にとって迷惑千万。キリスト教と国体思想は何ら違反するものではない。・・・聖書を一字一句信ずべしという者は、ユダヤ教か美濃ミッション一派のみであろう。
(www.cty-net.ne.jp/~mmi/pdf_minojiken.pdfから抜粋)

さらに、米国からの宣教師もこの件についてはワイドナー女史に懐疑的だったのです。小冊子はもともと英文で書かれたものですから、編者フィエル女史による痛烈な、アメリカ人宣教師批判が行なわれています。宣教師たちやアメリカにある宣教団支部は、「内心ではワイドナー女史に賛成だが、これは日本人の問題であり、沈黙すべきである。」というものでした。

けれども、フィエル女史は、これら妥協する宣教師たちは結局、国外追放され、日本は以前にもまして異教崇拝に陥り、真珠湾攻撃しかり、米兵捕虜の酷い取り扱いしかり、幾千人もの米兵の命を失うなど、妥協によって高い代価を支払わされていると非難しています。

また、外地の朝鮮では、宣教師たちは朝鮮人信仰者らと神社参拝拒否を行なっていることを後に聞くことになり、宣教師らは大恥をかくことになります。

この美濃ミッションは、激しい圧迫を受けながら耐え忍んだ結果、迫害は下火になり、妨害を受けることなく宣教が可能になりました。宣教師たちも続けていることができました。ワイドナー女史の死後、美濃ミッションの牧師たちは投獄されましたが、そのまま敗戦を迎えました。

まさに、主が言われた、「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。(マルコ8:35)」との御言葉通りになったのです。

(「何を予期すべきか? 5」に続く)

何を予期すべきか? 3

3)世に組み込まれたキリスト教会

「美濃ミッション事件」というのは、簡単に言えば「マスコミによる市民騒動」ということができます。これが他の迫害と異なる大きな特徴について、美濃ミッションのホームページがこう説明しています。

1929年~1933年 児童の「神社参拝拒否」に端を発して、その保護者、教会、美濃ミッションを排撃する運動が、大垣市から日本全国に広がった事件。
信仰の「迫害・弾圧事件」は、国家によるものが多いが、「美濃ミッション事件」は学校・住民といった地域が行ったものに、国家・警察、教育関係者、軍隊までを巻き込んで拡大していったのである。

a)「民」による迫害

新聞報道などの媒体が、これらの騒動に大きな役を演じたことが、「何を予期すべきか?」に克明に記されています。私がこの歴史的事件を思い起こすにあたって身震いするのは、この故です。

他の国もそうですが、殊に日本ではその世相がそのまま国全体を動かす力を持っています。非常にまとまりのある民なのです。悪く言えば、国全体が変な方向に行くのを国民こぞって行なう素質を持っています。

それが日本を戦争へ駆り立てた大きな理由の一つであり、新聞とラジオによる煽動と、それに乗ずる大衆の圧力があって、決断がなかなかできなかった東条内閣を動かした、とも言えるのです。この部分で、ドイツのヒットラーの独裁とは異なっていました。

その証拠に、戦争に敗れるやいなや、国民総動員で懺悔を行ない、自分たちが行なっていたことをすっかり忘れたかのように、今度は戦後民主主義の中で、世界で類をみない平和国家としての自負を持っているのです。他の国々で戦争があるときに「なんと後進的なことをしているのだ。」と見下げる態度を取るのは、その為です。

マスコミというのは、非常に恐ろしい凶器となります。最近も「松本サリン事件」についてのドラマを見ましたが、誰かに非難の矛先が向けば、ものすごい攻撃をマスコミを通して一般人らは行います。

「国家主義は恐ろしい」ということを人々は言いますが、私はそれ以上に「大衆主義」の恐ろしさを感じます。今は媒体に、テレビとインターネットが加えられ、その勢いはさらに増しています。

これが「世の流れ」としてあり、キリスト者を迫害する潜在的な要因となっていますが、美濃ミッション事件において、迫害の一端を担っていたのが他ならぬキリスト教会であったという、恐ろしい事実があるのです。

(「何を予期すべきか? 4」に続く)

何を予期すべきか? 2

2)ユダヤ人とイスラエルの位置づけ

そして「何を予期すべきか?」の小冊子、またホーリネスが受けた迫害の記録を読み、もう一つ驚くことがあります。それは、彼らが迫害されている理由の一つに、神のご計画の中におけるユダヤ人の位置、近現代イスラエルの位置を認めているということでした。

大井:「学校は教育の場所で宗教儀式がありません。神社は儀式を信仰上の対象物としているから出来ません。」
刑事:「屁理屈をこくなっ、そんな馬鹿らしい事を言う奴は手前一人位だ。日本人じゃない。ユダヤ人かアメリカ人だ。(荒々しく)帰れ、さっさとユダヤかアメリカへ帰れ。わかってかっ。」

この捨て台詞に「ユダヤ人、アメリカ人の仕業」があります。アメリカは当時敵国ですからまだしも、なぜユダヤ人なのでしょうか?実は、戦時中の思想統制の中で反ユダヤ主義が利用されていたからです。

ホーリネスの人々は、国体を信じていましたから、自分たちが捕まえられたことがまさに晴天の霹靂でした。しばらく捕まえられた理由が分かりませんでしたが、1)キリストを地上における神の国の王としているのが、天皇を王とするのと対立する。

そして、2)ユダヤ人が回復し千年王国が立てられることは、「東洋を搾取するアメリカを裏で操っているのはユダヤ人である。」という考えがあったからです。(詳しい資料が集まっている「ユダヤ人陰謀説―日本の中の反ユダヤと親ユダヤ」(ディビッド・グッドマン著 講談社出版)をご覧になるといいです。)

これも、今、一番話題の話になっています。日本語の資料で世界情勢を知ろうとするにあたって、多少なりとも人気があるものは必ず、「反米主義と折り重なる反イスラエル・反ユダヤ主義」が登場します。そして英語のウィキペディアを見ますと、これが「新・反ユダヤ主義」という枠に入るらしいです。

なぜ、そうなるのか?理由は簡単です、「聖書全体をそのまま信じる信仰のゆえ」であります。聖書をそのまま信じれば、イスラエルとユダヤの位置を認めざるを得ません。たとえそう表明しなくても、彼らに対する態度は柔らかになっても、硬くなることはありません。彼らの存在そのものが、神の言葉がその通りであるという証人であり、証人として立てているのは神ご自身です(イザヤ44:8)。だから神を否定したい「世」は、反ユダヤになりざるを得ないのです。

したがって、キリスト者で反ユダヤになることはありえない”はず”なのですが、純粋な信仰的立場を保たず、何か自分の信念や、他の人間的な哲学、自分の感情などを入れると、反ユダヤ・反イスラエルになっていきます。近年はそれに「反アメリカ」が加えられます。私自身もアメリカのことで嫌になることは時々ありますが、あくまでも実際の特定の出来事についてです。(しかも私はクリスチャンですから、そういう嫌悪感を抱いてはいけないという思いが聖霊から与えられます。)けれども、そのような人々が書いているアメリカは観念的で、潜在的な嫌悪・憎悪があります。アメリカという国のあり方そのものを否定しているようです。

その典型的な例は、イラン大統領のアフマデネジャドの立場なのですが、それはまた別の機会に話すことにしましょう。

話を戻しますと、日本ではそのような反ユダヤ主義が言論上で流布しています。そして実害も伴っています。最近では、オウム真理教による地下鉄サリン事件は、ある反ユダヤの本を引用しつつ、彼らは実行に移しました。

ところが日本という国は不思議なもので、同時に政府や官僚レベルではユダヤ人やイスラエルに対して中庸、または擁護する人たちもおり、戦前の日本はドイツの反ユダヤ主義政策とは違い、比較的中立な立場を保っていました。今も、言説は反イ
スラエルがほとんどなのに、国としてはイスラエルと友好関係にあります。

したがって、反ユダヤ主義は、元々ユダヤ人への迫害につながる考えなのですが、日本では、ユダヤ人が少ないということもあって、キリスト者への迫害の時に登場するということができます。ことに聖書主義の信仰を持っている人たちが攻撃の的になります。

(「何を予期すべきか? 3」に続く)

何を予期すべきか? 1

次のご紹介したい本はこれです。

「何を予期すべきか?」(ミス・フィウェル編集 美濃ミッション出版)

これは、美濃ミッションという、戦前に米国からのワイドナー女史が開拓し、起こされた教会のグループが受けた迫害の記録です。リンク先を見ていただければ簡略とpdfファイルがあるので、クリックしてみてください。「美濃ミッション事件」という日本全体を巻き込む、神社参拝拒否の記録です。

これはもともと”What to Expect”という題名で英文で発表されたものです。

この小冊子を読む度に、自分の魂が揺り動かされます。非常に短い文章の中に、数多く学べる所があるからです。

1)信仰の純粋性

現在、日本の国家主義化についての問題を教会内で聞くとしたら、いわゆる主流派からのものです。天皇制であるとか、日の丸・君が代問題、靖国参拝など、日本基督教会などの教団から出たものです。

けれども、この小冊子を読みますと、迫害されていた団体や個人はほとんど、今でいう「根本主義(ファンダメンタリズム)」「聖書主義」の範疇に入る人たちばかりです。美濃ミッションの子弟は、キリストの地上再臨、そして教会の携挙を堅く信じています。神学的には、千年王国前の再臨、大患難前携挙を信じています。牧師らが逮捕・投獄されたホーリネス教団も同じ立場です。個人でプリマス・ブレザレンの医師も投獄されましたが、その団体も聖書主義です。

迫害に耐え、信仰を保ち続けることのできた人たちは、皆、聖書の言葉を文字通り信じ、主イエスの再来、地上の神の国に強い待望を抱いていたのです。

表向き「神社参拝」の問題を取り上げているのですが、現在と当時ではその意図に大きな差があるのです。

この冊子の最後のところに、取調べを受けている美濃ミッションのある母親の記録が載っています。彼女は文字を読むことのできない料理人だったようです。にも関わらず、静かに、取調官の脅しに弁明し、明確に信仰の表明をしています。

刑事:「手前は参拝したらどうなるか。」
大井:「神様に罪を犯します」(永遠の滅亡と御再臨について話す)
刑事:「(嘲笑的態度にて)へえ、とんだ事になるな、それは本当か。」
大井:「私は信じます、キリスト様御再臨の時、信者は天に携え挙げられ、そのあと大患難の時代になります。」
(注:漢字は今のものに直しました)

ここで非常に驚くのは、一般の信徒の人が、しかも文字が読めないという人が、ここまで明確に、筋道立てて、警察権力の前で信仰表明が出来ていることです。

今の日本であれば、また世界の教会の今の流れであれば、主の再臨は「終末論」という小難しい神学議論、神学論争の中で埋没し、どこかの遠い話になってしまいます。一般の信仰者たちが生活の拠り所とするなど、程遠い話です。

さらに教役者らの間でさえ、聖書を純粋に信じる信仰から離れ、今の流れに合わせて行こうと言う動きが、日本だけでなく世界中で見られます。

私がこの前米国を訪問した時、恒例の聖書預言の学び会を行ない、また、ある人から教会の中の聖書の学びに招かれました。けれどもそのことを知ったその教会にいる韓国の宣教師夫婦が、私たちの聖書預言学び会に立ち入り、私に神学的試問(?)を行い、さらにはもう一つの教会の中での学びを中止させ、仕方がなく他の場所に移して行なった家庭集会の中にまで入ってきて、私を危険なカルト的教師であることを延々と語りました。

びっくりしたのはおそらく周りの人々だったでしょう。その家の主は「これまで黙示録など分からない書物だったのに、チャック・スミスの本を読んで、こんなに分かりすく、身近に感じたことはなかった。」と言うことをおっしゃっていました。

後で、「教会による迫害」について述べたいと思いますが、このように昔も今もまったく変わりなく起こる現象なのです。

大事なのは「実」です。イエス様の今すぐにでも来られるという信仰を抱いて、はたしてどのような実が結ばれているでしょうか?「いつ来るか分からない。だから再臨については話すべきではない。」とする人々からどのような実が結ばれているでしょうか?

本当に試練が来たときに、神学論争の中にある「教理」が私たちを救うでしょうか?いや、私たちの血肉となった御言葉が、信仰による希望が救うんでしょう!

(「何を予期すべきか? 2」に続く)