映画「沈黙」- 観るべきか、観ざるべきか?

遠藤周作原作「沈黙」を題材にした映画「沈黙 -サイレンス-」が開始されましたね。私個人は観たいのですが、教会の人たちには言及はしたものの、かなり抑制して紹介しました。クリスチャンの間でこれほど賛否両論が出ているものは珍しいです。それだけ、信仰や福音宣教における心の琴線に触れてしまっている題材だからだと思います。自分の書いたフェイスブックの記事を紹介します。(今のところ三つまで書いています。)

1)「欧米の植民地主義的キリスト教」の弊害?

沈黙 -サイレンス- 映画が語らない真実

間もなく映画上映される、話題の「沈黙」についての記事です。本映画について、かなりFBのタイムラインにいろいろな人のシェアが流れてきます。好意的な人、楽しみにしている人もいれば、かなり衝撃を受けている人、否定的な人もいます。否定的な評価をしている人の中で、多くの方がシェアしていたこの記事を紹介します。

私は、同感する部分と疑問点のどちらもがありました。

①遠藤周作の小説

筆者の書いている、遠藤周作氏についての紹介はその通りです。彼は母親がカトリック信者であったけれども、その中で「自分の気持ち」を小説として描いているということです。彼は文学者としては素晴らしいと思いますが、云わば、完全に回心できなかったキリスト教の家庭の二世、ということです。したがって、そこで描かれているキリスト教は、聖書の描いているキリスト教ではなく、そういった視点から書かれている、個人の悩みを言い表しているのだ、という点を抑える必要があると思います。

しかしながら、「苦しみの時に神はおられるのか?」という実存的な問いかけは、どの人も持っているものであり、心揺さぶられることでしょう。

②筆者の宣教観

筆者の書いているカトリックの宣教に、植民地主義が混じっていたということについては、その通りであることが多くの書物に書いてあります。そして日本の為政者や、日本人自身も、植民地主義に敏感であることも、紛れもない事実だと思います。しかし、その思惑だけに焦点を当てたら、伴天連たちの宣教の働きの一部だけに矮小化されてしまう惧れがあります。「これこそが歴史的事実」ということでは全くありません。(あとで書籍を紹介します。)

多くの人が日本にキリスト教が伝わらないのは、植民地主義のせいだと言いますが、私個人は、これを言い訳にしてはいけないと思っています。その最も大きな理由は、「日本以上にキリスト教植民地主義の中で踏み荒らされた国々には、福音が妨げられたどころか、後世に霊的復興があり、その生活や文化も定着している」ということです。中国キリスト教はまさにその証しです。東南アジアやインドもそうですし、中南米の国々における霊的復興も同じです。敢えて反論すると、「日本は植民地主義によって踏み荒らされることが少なかった分、自分たちの独立心や自負、誇りも強く、その自存心がかえって福音を受け入れない理由になっている」と言えるのかもしれません。

そのことはさておき、筆者本人は、キリストの十字架の前に出て、罪を悔い改め、その赦しを得ると言う福音も語る以上に、欧米キリスト教に対抗、反発、その抑圧からの解放としての「日本主義キリスト教」を強力に推進している人です。

「毎日新聞の連載「戦後70年に向けて:いま靖国から」」

もちろん宣教論において、神道や仏教などの宗教との関係、日本の文化や習慣との兼ね合いにおいて、福音宣教者は誰もが大きな課題として取り組んでいます。多くの点において、結果的には彼がこの記事で話していることに同じことを思っています。しかし疑問は、彼がどのような立場からその意見を言っているか?であります。一つの「主義」になってしまっているのです。

文章には、この映画によって「日本人の先人の名誉が傷つけられている」という思いと、「ヨーロッパの植民地主義が悪なのだ」という正義感に突き動かされているのが感じ取れます。しかし、我々は、究極的には、日本の正当性などどうでもよく、ヨーロッパの悪などどうでもよく、「そうした思惑をも主は用いられて、福音を広げてくださった、そして迫害が起こった」ということに注目すべきなのです。

そして、誰かが信仰を持たずに死んだことについて、「地獄にいる」という言い回しによって、アメリカ人の牧師の発言を非難する文章がありましたが、実際は多くの日本人キリスト者も、言っています。私自身が、日本人の口から多く聞きました。反対に、天国に行ったと断言する話もたくさん聞きました。その度に、「神だけが知っている。だから私たちが判断してはいけない。しかし、はっきりしているのは、信じる者は救われ、信じない者は裁かれている、ということだ。」と話してきました。

だから、別にアメリカ人だけではないのです。しかし、「日本 対 アメリカ」という対抗軸に多くの話題が集約されていきます。これが「日本主義」になっている、と言っている所以です。しかし福音は、政治的・文化的抑圧からの解放ではありません。神に対する罪からの解放です。

キリストは、ローマ帝国への従属の象徴である十字架に付けられました。この方をユダヤ人のメシヤとすることは、民族感情や民族の誇りを大事にするユダヤ人には許せないことでした。だから、聖書には「ユダヤ人には、つまずき」と書いてあります。日本人が植民主義でつまずくのであれば、ユダヤ人にとってはなおさらのことでした。しかし、その悪の中に麗しい贖罪の愛が流れていたのです。ですから、反発や抑圧からの解放を梃子にした宣教方法は私は同意できません。それによっては、福音が純粋な形で伝わらないと思います。

③日本キリスト教の霊的遺産を喜ぶ

以上、この記事を書いた筆者についての評価をしましたが、本題に戻りますと、私は、この映画について、きちんとした目的をもって前準備をするのであれば、以下の理由でお勧めできると思います。

「私たちの先人には、信仰のゆえに迫害を受けた人々がいる。」

キリシタンたちが受けた弾圧や拷問は、決してこれらカトリックの負の歴史によって軽減されるものではありません。むしろ、我々、日本のキリスト者が主にあって誇りとしてほしいのです。今現在、中東やアジア・アフリカでは、信仰のゆえに激しい拷問を伴った迫害を受けているキリスト者が、大勢いるのです。我が国にも、多くの清い血が流されているのだ、ということを知ることは、世界の迫害されているキリスト者との一体感を持つことができます。

幸い、私たちの教会では、日本キリスト教の殉教史に詳しい方がいらして説教してくださったことがあり、兄弟姉妹も自主的に都内にある殉教の地を巡っていました。そのような前準備があるので、映像でそうした拷問の姿を目撃することで、御国の実体をもっと身近に感じることができるでしょう。主は、「迫害される者は幸いです。」と言われました!

④日本の宣教史の資料はたくさんある。

迫害など、日本での宣教の歴史については、多くの本が出ていて、漫画もあります!

日本キリスト教史―マンガ (上巻)

日本キリスト教宣教史

せっかくですから、これをよい機会に、日本の教会史そのものを学んでみましょう。そして殉教史については、こちらのキリシタンの名跡巡りのサイトに膨大な情報と資料があります。

天井の青

追加:当時のポルトガルとスペインによる奴隷貿易について、日本人が奴隷とされていたという説を辿っている連載記事がありました。そこには、興味深い、奴隷貿易についての神父やキリシタン大名との関わりがあります。ある時には関与し、またある時には強く抗議、反対するという記録が残っています。

日本人奴隷の謎を追って=400年前に南米上陸か?!

2)日本は、「殉教させないで骨抜きにする」迫害

今、家に帰宅しましたが、知人の牧師さんと一緒に途中まで話していました。「沈黙」を試写会で鑑賞されたとのこと。「これは観ないと!」と思いました。

迫害や殉教と言うけれども、江戸時代の伴天連や切支丹にしたことは、目的は殉教ではありませんでした。いやむしろ、殉教をさせないでいかに棄教させるか、いや、最終目的は「いかに伴天連に宣教をさせないか」というものが、あります。したがって、苦痛を与えてもなかなか殺させないようにし、そして伴天連が自分の立場によって、信者たちが苦しむことを見せることによって、まず伴天連の宣教の意志を無くすことが目的だったとのこと。

江戸幕府は、キリスト教というものが、迫害すればそれだけ、広がり、成長するということを見抜いていただろうというのです。ですから単に私たちが、日本において「殉教をできるように、備えをしなければいけない。」というものではないこと、そんな生易しいものではないということを、話してくださいました。

これは、私にとって大きな課題でした。日本にある霊的牙城は、歴史的には江戸によってできたのだろうと感じていました。福音を信じ、バプテスマを受けると言う時に、檀家制度に未だ縛られているという状況です。

そして豊臣体制と江戸幕府によって、日本は世界で稀に見る欧米列強の植民地化を免れました。鎖国政策によって独立を保ち、その中で高度な文化や文明を保持させ、それゆえ明治維新の時にすぐに近代化の道を始めることができ、先の大戦で大敗したものの、すぐに立ち直り、今の経済大国の地位を確保していています。

やはり、私にとって、欧米のキリスト教の植民地主義が日本の福音宣教の妨げというのは、的を外した議論のように思えます。世界を見ると、植民地化や帝国主義によって踏み荒らされた国や地域ほど、福音が広がっている面があります。独立を保ったアジアの国としてはタイ王国がありますが、その国も王政による高度な政治力と、国民の仏教による道徳や倫理の高さがあり、日本と同じような難しさを、福音宣教にあると聞いています。むしろ植民地主義などに敏感に反応できるような、自立、自存する自負心が、福音を受け入れない誇りとして横たわっているのではないか?と思うのです。

我々、日本のキリスト者の兄弟姉妹は、未だ江戸時代に造られた体制、つまり、「信仰のゆえに迫害される」という恵みではなく、「信仰や福音宣教を骨抜きにされる」という迫害を受けているのだということに、気が付くべきでしょう。非常に高度な、悪魔の戦略であり、私たちは常に、主人公の伴天連のような究極の精神的、霊的苦痛を受ける国に生きているのだ、ということを知ればよいのではないかと思います。

3)骨抜きの三要素

まだ映画観ていないですが、小説は読んだことがあります。ここに書いてある論考に、ほぼ賛成。先の投稿で私が「日本のキリスト者の兄弟姉妹は、未だ江戸時代に造られた体制、つまり、「信仰のゆえに迫害される」という恵みではなく、「信仰や福音宣教を骨抜きにされる」という迫害を受けているのだということに、気が付くべきでしょう。」と書きましたが、この論考では、その骨抜きの部分が三つの点に要約されています。

① 神への忠誠か隣人への愛情か
② 強者に対する弱者の救い如何
③ 日本の体質は基督教に向くか

この三つは強烈な、日本人キリスト者に対する非難であり、告発です。

①について、「イエス様に従うことが、隣人を軽視することになる」というのが本音であり、その本音を隠しながら、ありとあらゆる告発をキリストに従おうとする者たちに、悪魔は、火矢を放ちます。

イエス様を第一とする、主とするということは、時に家族の間でさえ分裂が起こるほどのものであります。しかし、イエスを主とする苛烈な選択、決断をイエス様は「憎む」という言葉まで使われましたが、そうすることによって初めて、隣人や肉の家族も真実な意味で愛することができるのです。

教会生活でも同じです。イエス様を礼拝するということが、その目的であり、全てなのであり、その受けた愛の中にいることによって互いに愛する訳で、それを「誰々が、私のことを愛してくれなかった。その人はクリスチャン失格だ。」という”落ち度”にしてしまうのです。

②については、誰もが弱いのに、自分だけを「弱者」に見立てて、他の、主に従おうとしている者たちを「強者は弱者のいう事を分かっていないのだ」と居直ります。そんなことは、聖書に書いていません。全ての人に弱さが暴露されて、それゆえその弱さを真に悲しみ、そして聖霊の助けによって、立ち直るべく求め、恵みによって強められるのです。

これもまた、伝道の現場で、また教会の中で、それぞれ未信者から、信者から、受ける非難でしょう。

③については、言い訳であります。私も、その過ちにかつて陥っていました。日本は特にキリスト教が根付かないところである。その原因は、天皇制にある。西洋キリスト教がその文明を持ち込んだからだ・・云々と、原因探しをしていました。日本が嫌いになったこともあります。他の地域の宣教地の人々を羨んでいました。

しかし、カルバリーチャペルの宣教会議に毎年、出席するようになってから、全く変えられました。世界宣教から自国に戻ってきた宣教師たちの証しは、凄まじいものでした。日本が独特ではないのです、それぞれ様態は違いますが、困難なことには変わりありません。コスタメサの教会の宣教担当牧師曰く、「どの宣教師も、『私たちの国は、宣教が特別に困難な国だ』と言います。」とのこと。言い訳をしてはいけないのです、負け犬根性に陥ってはいけません。

言い換えれば、どんな困難な社会的、文化的状況にあっても、主が人を救うと思われれば、人は救われます。だから日本にも希望があるのです、御霊によって刷新する、人々が霊的に覚醒する希望はあるのです。ただ、それを忍耐して信じ、希望を捨てないであることが大事です。

この三つの分野で、サタンは巧妙に手を変え、品を変え私たちのキリスト者の良心に告発します。私たちの主イエス様への忠誠がいかにも悪いものであるかのように、そしてその忠誠を棄ててしまうことが、自然体で、寛容で、愛のあるものであるかのように見せます。

映画が始まったことで、クリスチャンの間にこれほど揺さぶられ、あるいは、賛否両論が出てきているのは、私は良いことだと思います。下手をすれば、つまずきを与える小説・映画ですが、きちんと心を整えれば、「敵の正体、ここにあり!」と霊的武装を強化するのに、益になる内容ではないかと思います。

次投稿:「キリシタン名跡サイト「天上の青」

次々投稿:「「恐れ」を恐れよ!

「映画「沈黙」- 観るべきか、観ざるべきか?」への10件のフィードバック

  1. いつもありがとうございます。
    予告編見ても全編見ていいのか迷います。
    映画は監督の見方によって、大きくかわりますね。
    郡山では上映されていないので、福島まで行かないと見れないし…???です。

  2. 私もまだ、揺れていて、少しだけ迷っています。映像は強烈ですし、監督の思いがさらに吹き込まれているので、手っ取り早いのは小説を読むことだと思います。

  3. 個人的にはシンプルに、最後の誘惑を撮った監督の作品であること、
    批判を受けた時に読んで慰めを受けたのが、沈黙だったということ。
    これだけで観に行く気になれません。
    観る、観ないは自由だと思います。

    私も殉教の地に住む者ですが、キリシタン達の信仰や、彼等の身に起こった事は聖霊によるものであり想像を絶する力強い事象なのであって、
    遠藤周作がその事を理解して描いているとも思えません。

  4. まなこさん、貴重なコメントありがとうございます。殉教について、信仰者の視点からの映画が、あのような完成度で出てきたらどれほど、良いのにと思います。

    殉教の地に住んでおられるということですね。私はかつて、長崎旅行に行って、教会群と原爆資料館などを見てきたことがあります。そして私は仙台出身なのですが、実はそこも殉教地として有名であることを知りませんでした。

  5. 仙台のご出身でしたか。去年、仙台に行った時に広瀬川で殉教した方達の碑があるとお聞きしました。
    日本では、本当に数えきれない程のキリシタンがいた様ですね。

    私は長崎近県の九州の地方に住んでいます。
    この地域もキリシタンの殉教碑や、忘れ去られた様に寂れた墓石が点在しています。おそらくキリシタンの殉教が無かった地域は日本には存在しない、という点においては確かに日本は(殉教の血が)主の前に忘れられてはいない事を実感するこの頃です。

    それを知って以来、沈黙には信仰面で疑問を感じているので、少し強い口調で書いてしまった事をお許しください。

  6. いいえ、これは私たちの信仰にとって、とても深い、琴線に触れるような内容なので、言葉が激しくなるのは当然だと私は思っています。むしろ、こうした映画を通して、改めてキリシタンの歴史や、今の日本の福音宣教の課題など、考え直すきっかけができたと思います。

    そして今まで知らなかったことが新しく知ることができた、というのは良かったと思います。意外に多くの人が、世界の教会史上、稀に見る大迫害は日本で起こったのだという認識を持っていないと思います。それで、他の記事で改めてキリシタン名跡巡りのサイトや、自身の長崎旅行記も紹介させていただいています。

    それから今現在、中東やアフリカで類似する大迫害が起こっているのだということも、知らされていません。このことも当ブログで発信させていただいています。

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