福音宣教者としての「沈黙」

次の記事の続きです。「映画「沈黙」- 観るべきか、観ざるべきか?」「キリシタン名跡サイト「天上の青」」「『恐れ』を恐れよ

今週水曜日、映画館で「沈黙 -サイレンスー」を鑑賞しました。フェイスブックにて、長いレビューを二日に渡って書きましたので、こちらにまとめて掲載します。

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私は、海外宣教もしていたことのある、日本人の牧者であると同時に、宣教者としての思い入れの強い、端くれです。ロドリゴの心の動き、そしてキリシタンの村の人々の心の行き交いは、非常に心を打つものでした。あまりにも生々しいので、いろんな思いが一挙に、交差しました。(※以下から話す言葉は激しいものになっていますが、決して、遠藤周作やマーティン・スコセッシ監督に向けられたものではありません。むしろ、このような作品を作ってくれたことによって、キリスト者信仰の生々しい戦いと葛藤の実存を、上手に表してくれたことに、感謝しているほどです。)

「助けてあげよう」という思いから「何もできない自分」へ

ロドリゴとガルベが、自分たちの師と仰ぎ、絶大な尊敬と信頼を持っていたフェレイラらが棄教した、という知らせを聞いた時に、日本に潜入することを申し出ます。ここの会話には、既に「私たちが行って、助け出します。」というヒロイズムが入っています。

若い宣教者には、必ず付きまとう野心です。これを悪いものだとは思いません。しかしペテロが、「あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、他の人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。(ヨハネ21:18)」ということを経験します。

自分が士気に燃えて宣教地にいくも、「なぜ、自分はここにいるのだろうか?」という無力感に襲われる、その生々しい姿は、宣教者が集まれば、誰もが告白することです。そしてその時に初めて、自分ではなく、キリストが導かれ、キリストが働いてくださる転換期となるのです。

しかし残念なことがあります。そこで自分ができないことを知った時こそ、キリストが働いてくださるのですが、「初めから神の召しを受けていない」ということがあります。その時は悲惨です。残念ながら、「自分の意欲で行ってしまった。」というものが、ロドリゴが本国に居る時から感じ取りました。

「召し」から来る、神の力

ですから、召しでなければ、気づいた時点でへりくだり、撤退する勇気が必要です。召しがないところで、働きをしては決していけないのです。多くの人が勇気ある撤退をしています。そして別の道を歩みます。しかし、もしそれでもやり通したらどうなってしまうでしょうか?あのサウル王のように、必ず悪霊の狙われるところとなってしまいます。そして事実、ロドリゴにその兆しが見え始めます。

召しがあれば、棄教せずに済みます。それは自分の力ではないからです。もちろん忍従するという私たちの分はありますが、自分ではなく神がしておられるのですから、耐えられるのです。それが、切支丹や伴天連のほとんどが忍従して殉教を果たした理由であります。彼らの意志の強さではなく、神の恵みの大きさの証しなのです。

ところが、多くの人が、「迫害に耐えられるだろうか」という”自分の能力”の軸で迫害や困難を推し量ろうとしています。この発想自体が、間違っています。最も大切なことは、「あなたは、確かにここに来るように主から呼ばれていたのですか?」という自分への問いなのです。主がなぜ沈黙しているのか?と尋ねるのではなく、「私は、語っておられる主の声に耳を傾けたか?」を尋ねなければいけないのです。

キリスト者の力は、全てここから来ます。

切支丹の霊性

ロドリゴも、ガルペも、隠れキリシタンの村民たちの姿から感銘を受けます。私もそうでした。彼らの貧しい姿、しかし、その中に大きな喜びと希望が見えるその姿に、私も圧倒されました。そして、とてつもない危険な状況の中で、秘匿にする術を得ていました。私も信教の自由が制限されていた国にいましたし、もっと迫害が強い国の話はしばしば、聞いていました。その話が映像を辿りながら、自分の思いの中に、どんどんよみがえってきました。

そして、神父二人に対する彼らのとてつもない尊敬の眼差しと、若い神父本人たちの、時にいらつきを見せ、主の赦しを求め、仲間にも謝るような、喜怒哀楽のある人間味のある姿は、私と重なりました。その務めのゆえに尊敬されることは正常であっても、その尊敬が、そうした欠陥だらけの自分に向けたら、大変なことになります。その牧師や宣教師は自惚れによって、堕落します。ロドリコとガルペには、その誘惑はさほど無かったようです。

そして切支丹は、宗教物に対する信仰が強くなっていることに、ロドリゴは気づき始めます。けれども、それも仕方のないこと、教える人がいなかったために、そうなってしまっていることに気づきます。

そして彼らが秘匿にしていたことなのに、二人は大胆に他の村にも行かねばならない、とします。けれども、他のところに行ったら危険だととめますが、それでロドリゴだけが行きました。ここに宣教の野心があります。いろいろな村に行くことは、イエス様に従っていることであり、その信仰と大胆さが用いられることもありますが、慎重さを欠いて、しばしば現地の人が迷惑を被ることが多々あります。当然ながら行動範囲を広げればそれだけ、危険が増すのです。事実、これで長崎奉行所に見つけられることとなります。

そして切支丹の代表者三名が十字架磔にされて、満ち潮の中で溺死します。最後に残ったモキチの姿、賛美歌をうたう姿は壮観でした。

苦しみにある栄光

このような苦しみの姿を見て、ロドリゴも苦しみます。これが彼が結局、最後に棄教させる精神的、心理的拷問の手法として使われました。しかし、その苦しみに、キリストの栄光が見えなかったのでしょうか?ペテロが、迫害下にあるキリスト者らにこう励ましました。

愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまっていてくださるからです。(1ペテロ4:12‐14)」

苦しみには、キリストの受けられた苦しみが見えます。それゆえ栄光があります。それだけではありません、キリストの栄光が現れる、すなわち再臨される時に自分の栄光にあずかれる、ということです。

ですから、使徒がそのように迫害を受けている彼らに、キリストの栄光の御霊が表れているのを見ているのに、ロドリゴはそこに神の沈黙を感じてしまったというところに、あまりにも大きな断絶を覚えるのです。復活の希望、そして再臨の希望というものが、いかに同じ「苦しみ」を見る時の見方を変えるのか、ということであります。

説教でも、会話でも、しきりに復活と再臨について語るのは、その為です。私たちに突然襲いかかる苦しみがあっても、感情では「神の沈黙」とみなすところが、むしろ、「神の栄光に輝き、大声で語っておられる」声が聞こえるのです。

ロドリゴは、自分自身が殉教させてもらえず、自分に代わって切支丹が無残に死んでいくのを見させられ続けます。そしてついに、踏み絵を踏みます。その泣き叫ぶ姿に、私は違和感を抱きました。その拷問と死が、まるで汚れているものであるかのように取り扱われていると感じました。

しかし、イエスに従う人々が苦しむことについて、使徒ペテロも、何よりも主ご自身が、苦しむ後にある命の冠を受けるために、こう命じられました。

死に至るまで忠実でありなさい。(黙示2:10)」

もし、切支丹が苦しむことが、伴天連の強情やわがままのせいであるとするならば、「主に至るまで忠実でありなさい。」と言われた主イエスご自身が、強情であり我儘、人々を死へと送り込む残虐者ということになります!そして悪魔は事実、そうやって兄弟たちを告発し、主ご自身をそしるのです。

次は、「弱さの中にある恵み」について話したいと思います。遠藤は、弱さというものをペテロのそれと投影しているけれども、実際のペテロは、「弱さに働く神の強さ」を経験するようになること。つまり、「神が弱くなる」のではなく、「神の強いことが現れるために、人が弱くなる」ことであったことをお話しします。・・・

続きです。村にこれ以上、神父を匿うことは危険であるので、ロドリゴとガルペは別行動を取り逃げ、ロドリゴは再び五島列島に戻ります。そこにキチジローがいました。彼は案内するのですが、川でロドリゴが水を飲んでいる時に、長崎奉行によって捕えられます。そうです、彼は銀貨を受け取ることによって、ロドリゴを裏切ったのです。まるでイスカリオテのユダのようでありますが、しかし、彼は「金目的でやったのではない!脅されたのだ。」と訴えています。

キチジローの弱さ

キチジローは、興味深い人物です。彼は、奉行の前では必ず、転ぶほうを選び取ります。しかし、後で必ず後悔し、神父に告解を求めてきます。脅しに極めて弱く、その時は卑屈にも従うのですが、心に痛みはあり、それでしつこいまでにロドリゴのところに来て、こんな自分が赦されるのか?と悩みながら告解しにくるのです。ロドリゴの心には、苛立ちと侮蔑の感情まで出て来ました。そして面白いのは、奉行までがキチジローに困っているのです。彼があまりにも”転ぶ”のに、それでも自分は切支丹だと言ってロドリゴの仲間に入ろうとするので、「お前は切支丹ではないだろ」と役人のほうがあしらおうとしているほどなのです!

けれども、この彼が棄教したロドリゴのところに、最後までいる人物です。棄教しているのに、告解を聞いてくれるように頼みます。そして話の中では、ここで初めてロドリゴがキチジローにとっての真実な司祭となるということになっています。これを映画では、イエスの愛を真実に知ったからという位置付けなのでしょうが、「同類相哀れむ」にしか過ぎない偽の美談にしか過ぎません。

もしキチジローのような人が自分に現れたら、どうだろうか?と思いました。私は、あまり心に傷つかないかな?と思いました。あまりにもころころ変わって、その行動は決まっていて、その裏切り以外に彼が何か隠しているか、陰湿なものが何もない、隠せない人物だからです。しかし、もしキチジローのような人物をもって、少しでも強くあることを励ますことを「あなたは、弱さが分かっていない。弱い人に寄り添っていないのだ。」とするならば、辛いでしょうね。それは聖書の語る「弱さ」ではありません。

真実な弱さは、神の強さを受け入れる弱さです。弱いことを自慢することはありません。弱いことがあまりにも恥ずかしいので、その弱いところに留まっていることをよしとせず、神の力と恵みなしにはやっていけないことを認め、自分を明け渡して御力を受け入れるところの弱さ、へりくだりです。パウロは、「弱さに、キリストの恵みが完全に働く」と言い、「弱い時にこそ強い」と言いました。弱いところに居続けることのできないほど、自分に絶望しているのです。弱さを盾にして強い者を非難することは、プライドの裏返しでしかありません。

ある人が、「日本の教会では、『つまずいた』という言葉が勲章のように使われる。」と言っていましたが、つまずくのは実に恥ずかしいこと、不名誉なことなのです。自分の弱さを当然のものとみなすことは、できないはずです。

転び切支丹による迫害

ロドリゴは、捕えられた後に、数人の既に捕まえられている切支丹と一緒になります。ここから、奉行所によるロドリゴを棄教へと向かわしめる拷問を開始します。それは心理的拷問であり、その狡猾さは熾烈を極めており、私は見ていて、自分も肝が捻じ曲げられるような思いがしました。

現れたのは切支丹禁制政策の中心人物である、井上政重です。彼は初めから、殉教させることが目的ではない、殉教を喜んでして、もっと勢いづくことを知っているから。殉教をさせないで、転ばせることが目的であることを告げます。そして、その後にポルトガル語を話す通辞(通訳)が、彼の所にやって来ます(映画では英語を話しています)。母国語を話すので、最初気が緩んだ表情をロドリゴが見せました。しかしすぐに分ります、彼を、やり込めるためにそばに付いているのです。井上も通辞も、転び切支丹です。ゆえに、切支丹や伴天連をどう心理的に貶めて行くかを熟知しています。後で、大物フェレイラが出て来ますが、この転び伴天連こそが、ロドリゴを棄教させるのに成功する人物です。

キリスト者に対する最大の迫害者は、妥協した信者や信仰を捨てた者たちであること、最も近しい者たちということです。妥協や背教の恐ろしさがここにあります。

「イエスへの忠誠」への告発

通辞は、ロドリゴに対して信仰を棄てないと意地になっているから、切支丹が殺されれていくのだぞ、迷惑をかけているのだぞと責めます。そして、彼の中にある欠けのようなもの、私は先に、ヒロイズムと言わせていただいたものをすぐに察知して、そこを責め立てます。そのように欠けに思われる所を針小棒大に拡大して、教会、信仰、キリスト教そのものを否定するように畳みかけます。これは、巧妙な罪の責めです。彼が強情を張っているから、切支丹が苦しんでいるのではありません。苦しませているのは奉行所なのです。こうやって、加害者が被害者に巧妙に責任を転嫁させて、罪定めをするのです。

これがサタンのすること、「兄弟たちの告発者」と呼ばれている所以です。聖霊は罪の自覚を与えられます。けれどもサタンは、罪定めを行ないます。人が恵みによって救われ、恵みによって立っているのに、その人の中に欠けを見つけ、定め、そしてその恵みを受けるに値しないと責めるのです。

結ばせては、殺す

そして、ロドリゴが初めに知り合った、捕えられた切支丹たちのことですが、ロドリゴはよい服を着せられ、海辺に立たせられたところ、彼らが縄に縛られて連行されてくるではありませんか。そして、そこにガルペもいたのです!そして、最も残酷なことを奉行は行なっていました。なんと、彼らは、ロドリゴが既に転んだという偽情報を聞かされてここに来ているのです!こんな恐ろしいことはありません。神父に会えてとても喜んでいた彼ら。殉教の時に、その直前にその神父が転んだということを聞いて、それで死ななければいけないなんて、あまりにもむごすぎます。彼らは舟から縛られたままで海に落とされていきます。そしてガルペも、付いていくように海の中に泳いでいき、溺死します。

これは恐ろしい、恐ろしい拷問です。見知らぬ仲のままでいたら、こんな苦痛を味合わなかったのに。彼らは、信者の間にある愛の結びつき、御霊の一致を知っていたのです。その信頼を偽情報によってずたずたに切り刻み、その殉教についての信仰そのものを、内側から崩して殺したのです。ロドリコは発狂しました。彼の心は折れています。

フェレイラの人間主義

そしてロドリゴは寺に連れて来られます。そこにいたのは、自分が捜していた恩師のフェレイラです。彼は日本人名を持ち、妻子もおり、そして確かに棄教していました。そこから彼が顕偽書に書かれている内容をもって、ロドリゴを説得しようとします。その論理は滅茶苦茶です。「日本は泥沼なのだ、キリスト教が適している国々もあろうが、日本は違うのだ。」と言います。ロドリゴはすかさず、「あなたがおられたころ、あれだけの切支丹がいたではありませんか。」と。フィレイラは、「彼らは神を信じていたのではない、訳語として「大日」を信じていたのだ。デウスなどというのも、外国語だから分かっていない。」

こうした「日本泥沼論」を展開させていきます。つまり、日本にはキリスト教は根づかないという理屈です。今でも、「神という訳語は神道のもので、キリスト教が知られないできた。」とか、「西洋キリスト教が伝わって来たので、日本人は受け入れてこなかったのだ。」とかいう論理・主張があります。それらは妥当な意見なのですが、日本人が信仰に根付かない理由にはなりません。主が聖霊によって救おうと思う時には、訳語が少し変だろうが、西洋式であろうが、神は救われるのです。

こうやってフェレイラは、巧みに、神ありきではなく、訳が、教会が、西洋がなどといって、どんどん神なしの理屈でロドリゴに説明していきます。

ところで、ここから私はどんなに敬愛する指導者であっても、神の憐れみがなければ倒れてしまう弱い存在なのだということを思いました。つまずきの多いこの時代です、誤った意味で人を信じてはいけないと自戒しました。

長崎奉行所での最後の拷問

そしてロドリゴは、奉行所の庭にある檻に入れられました。そこは、比較的環境が良いものでした。ここでも、また新たな捕えられた切支丹と共に入れられます。このことによって、再び信仰的な結びつきを持たせて、それから切り離しにかかる手法を取ります。初めに一人、突然、彼らの目の前で斬首します。そして踏み絵です。誰も踏みません、キチジロー以外は。

そしてクライマックスを迎えます。ロドリゴの精神状態はかなりおかしくなっています。神が沈黙を保っていることに対する苦しみを吐露します。「夜半、フェレイラが語りかける。その説得を拒絶するロドリゴは、彼を悩ませていた遠くから響く鼾(いびき)のような音を止めてくれと叫ぶ。その言葉に驚いたフェレイラは、その声が鼾なぞではなく、拷問されている信者の声であること、その信者たちはすでに棄教を誓っているのに、ロドリゴが棄教しない限り許されないことを告げる。」(ウィキペディアより)

なんと恐ろしいことでしょうか!彼らは転んだと言っているのに、それでも拷問を続けます、なぜならロドリゴが転ばないと彼らは助からないからです。私はこのことさえも、偽情報だったのではないかと疑います。つまり、彼らは転んでなんかいなかった。しかし転んだのだと嘘を言ったのではないかと。なぜなら、ロドリゴが転んだと、先には殺される切支丹に嘘を伝えていたからです。

続けてフェレイラが言います。「自分の信仰を守るのか、自らの棄教という犠牲によって、イエスの教えに従い苦しむ人々を救うべきなのか、究極のジレンマを突きつけられたロドリゴは、フェレイラが棄教したのも同じ理由であったことを知るに及んで、ついに踏絵を踏むことを受け入れる。」(ウィキペディアより)

何を言っているのか!と言いたい。自分の信仰を守ることこそが、イエスの教えに従うことなのです。イエスを主とすること、これが第一の命令です。それがあって初めて、兄弟たちを愛し、隣人を愛するのです。その反対ではない、神ありき、キリストありきの愛です。そして「救い」の意味が違う。フェレイラが使っている救いは、まさに祭司長らが、イエス様をあざけた救いと同じです。「お前が救い主なら、自分自身を救ってみろ!」イエス様はその救いを拒まれました、罪の赦しによる永遠の救いをもたらすために来られたのです。イエス様の隣にいた罪人が、「御国の位に着いた時には私を覚えていてください。」と願う救い、そしてイエス様が「きょう、あなたはパラダイスにいます。」と言われた約束、そこに真の救いがあります。

偽イエス

そして沈黙の最も大事なセリフです。踏み絵のイエスからの声がしました。「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。」(ウィキペディアより)

これがイエス様の声であるはずがありません。踏み絵を踏むことは、”彼の良心”の中で罪を犯すことです。そして、それを行うがよいと言って、誘うはずがありません。「神は悪に誘惑されることのない方」とヤコブ書にあります。どうして、自分が罪だと思っていることを、「やっていいのだよ。」と言われて平安になれるでしょうか?イエス様は、良心をこのようにもてあそぶような方ではありません。私たちの心に、その良心と調和する平安を深く与える方です。

ですから、これは偽イエス声と判断することができます。

新たな迫害者加わる

ロドリゴは、フェレイラと共に、切支丹迫害の急先鋒に働かされます。切支丹および伴天連についての情報を幕府に提出し、宗門改の業務につきます。「お前の信仰で、切支丹が死んでいっているのだ。」というのが、大嘘に気づいていなかったのでしょうか??実際は、信仰を棄てたから、切支丹がどんどん殺されていったのです!要は、どんなにごまかしても「イエス様の証し潰し」にしか過ぎません。ある牧師さんが言われました。「簡単に言えば、『お前の信仰は、みんなの迷惑なんだよ。』ということです。」

そして映画では、彼は火葬されたその遺体の中に、かつて初めの村で切支丹から受け取った十字架を手にしている姿が出て来ます。つまり、彼は信仰を棄てていなかったとでも言いたいのでしょう。はい、確かに信仰は棄てていなかったかもしれません。しかし、信仰を単なるアクセサリーにするような、お守りと同じぐらいの、行ないや生活では反キリスト的であっても、それでも認められる”信仰”だということです。

奉行は踏み絵の時に、何度も何度も、「心がこもっていなくてよい、形だけなのだ」と言っていました。これこそが、私たちの信仰と良心を踏みにじる台詞であります。信仰は良心と相働き、公にするからこそ、初めて心がこもったものであるのです。

わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。」(マタイ10:32‐33)

監督の最後の言葉

監督マーティン・スコセッシは、映画の最後の部分でこんなセリフを映像に残しています。

“Dedicated to Japanese Christians and their pastors”
(日本のキリスト者と牧師たちに捧ぐ)

私たちに何を捧げているのでしょうか?捧ぐと仰っているのですから、「はい、これがあなたからの宿題の解答です。」として、このレビューを提出させていただきます。

アメリカではどのようにこの映画が受け止められているかと言いますと、「文化エリートの、信仰の私有物化」という意見を見ました。他の説明では、教会などの組織に属するのではなく、心に秘めるようにして信仰を持っていればよい、生活に影響を与えることなく、周りに波風立てることなく、隠れた信仰を持っていればよいというメッセージに受けとめられるようです。

番外編:遠藤文学と聖書信仰の区別

以下の文書をまた別投稿で掲載しました。

遠藤周作の『沈黙』について:ある遠藤マニアのクリスチャンからの視点

私の知人の方が書いた、「沈黙」についての記事です。純粋な遠藤周作ファンであり、かつ聖書信仰を持つクリスチャンです。私は、文学作品としてこの小説・映画を見ることは、文学そのものに疎いのでなかなかできないので、とても貴重です。

ここで大事なのは、次のことです。「クリスチャン界隈で『沈黙』に表されている遠藤の思想から迫害/殉教について色々と論じることは、私にとっては正直に言ってあまり意味がないことなのではないか」そして、「クリスチャンが、クリスチャンとして迫害/殉教について考えるとき、出発点として考慮されるべきは聖書の教えです。」ということであります。

この記事の筆者の方も、また先にご紹介した高橋秀典牧師の記事にも、そして私が書いた記事にも共通した「聖書による殉教観」があります。それは、

①信者が迫害に遭う時、イエスの栄光を現わすための聖霊の働きがある、ということです。
②イエス様の執り成しがあってこそ、信仰を捨てないでいられる。

ということです。だから、切支丹も、世界各地でも、教会史においても、迫害を受けているのに信仰を捨てない者たちが大勢おり、むしろ教会が広がるのです。自分の力ではない、聖霊の力がその時に降るのだ、そして自分の力ではない、ペテロのように、仮に失敗したとしても立ち上がり、最後は信仰を全うし殉教さえできる、上からイエス様の執り成しがあるのだ、という「恵み」の面を知っていただきたいとのです。

この点を読者の方々にぜひお知らせしたくて、いろいろブログ記事や投稿をさせていただいています。沈黙の映画がいかに間違っているかを論じたいから書いているのではありません。この映画をお勧めしない、という話をしているのではありません。むしろ、これを題材にして、聖書によって主ご自身が明らかにしておられる迫害や殉教を知ってほしい、ということなのです。だから、私は小説や映画に対して強く批判しているのですが、批判しながら実は、その迫害の生々しい姿を観てほしい、とかえって願っています。

なぜ、ここまで強調するかと言いますと、殉教は創世記4章のアベルの時から主ご自身、そしてその後の終わりの日の、黙示録18章に出て来る聖徒たちに至るまで、初めから終わりまで聖書全体に貫かれている主の教えだからです。日本のキリスト教会は、自国に教会史上稀に見る迫害が遭ったにもかかわらず、ほとんど不問にされている教えなのです。

私たち「証し」という言葉を使いますね。これのギリシヤ語はマルトュスμάρτυςであり、英語のmartyr(殉教)はこの言葉から派生しています。証しをするというところに、信仰のゆえに死ぬという内容が含まれているのです。これほど、大事な主の教えなのです。

最後のお願い:お祈り

映画「沈黙」について、ぜひ祈っていただきたいことがあります。日本の教会指導者、牧者や宣教者らのために祈っていただきたいということです。監督マーティン・スコセッシは、映画の最後の部分で「日本のキリスト者と牧師たちに捧ぐ」というセリフを映像に残しています。

これは単に、文芸作品としての遠藤周作の原作の延長ではなく、スコセッシ監督の我々、日本人福音宣教者に対する魂が込められたものなのです。だから、遠藤周作氏はキチジローに自分を投影させたと言われますが、スコセッシ氏はロドリゴを私たちに突きつけて、課題、宿題を持ってきている訳です。

フェレイラが転んだので、切支丹迫害と棄教が一気に増えた。そしてフェレイラによって転んだロドリゴもまた、切支丹迫害の急先鋒になった。そう教会指導者を倒すことによって、悪魔は教会全体を破壊しようとしています。

私は決してスコセッシ監督を攻撃しているのではなく、いや逆で、「これぞ、日本の福音宣教者が戦っている現場で、よくぞ、生々しくそれを描いてくれた。」と感謝しているのです。

ある方が私にメールをよこして、沈黙を観てこう書いてきてくださいました。

現在、敵のターゲットの一番は牧師達ですね。羊は牧師達の為に必死に祈らなくちゃいけませんね。

そう、これは現実に起こっていることなのです。ロドリゴの精神錯乱に近い状態、。単に殉教できればいいのに、あの手この手を使って、宣教の働きを、信仰そのものを無きものにしようとする狡猾な悪魔の策略。彼の目的は、宣教や牧会を台無しにすることです。

ぜひご自分の教会の牧師さん、宣教師の方々、そして互いに教会での奉仕、福音伝道の努力をしている兄弟姉妹のために、お祈りをお願いします。<(_ _)>

福音宣教者としての「沈黙」” への4件のコメント

  1. 詳しい解説をありがとうございました。
    この映画、私は最初 観ようと思ったのですが、結局止めました。
    でも、きっと観たとしても、私には知り得なかったような、
    現場で経験されているからこそ分かる事を、こうして知る機会を与えてくださった事に感謝します。
    日本で羊の群れを導いておられる牧師先生、宣教師の方々、それから日本で信仰を保っている兄弟姉妹の為、一生懸命祈ります。

  2. ピンバック: 宗教改革五百年:福音宣教のパラダイムシフト | ロゴス・ミニストリーのブログ

  3. 木下言波さま、お祈りありがとうございます!そちらの、翻訳を始めとするご奉仕も、日本で多くの方が見ておられると思います。これからも豊かに祝福されますように!

  4. 45年会を代表して、ありがとね!今日見に行きます。ことはちゃんが高さながっているとは流石にグローバルですね。いつも主に助けてもらうばかりの進藤より。

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