「恐れ」を恐れよ!

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今晩、次の説教要約を見て、なんと言ったらいいか、言葉に言い尽くせない憤慨の思いが込み上がってきました。

ヨシュア記1-3章「恐れるな。わたしがあなたとともにあるから」

今話題の、小説・映画「沈黙」と、ヨシュアの信仰がいかに対照的であるかを述べているものです。全文をぜひ読まれることをお勧めしますが、最初の一部を下に引用させていただきます。

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日本におけるサタンの最大の働きは、人々の目を漠然とした「恐怖(terror)」に釘付けにし、主に信頼する一歩を踏み出させなくすることです。

最近、遠藤周作の「沈黙」が映画化され上映されていますが、「神は、忠実な信徒が死に直面しても、沈黙したまま」という恐怖感を広める結果にならないかと心配です。なお、主人公の神父ロドリゴは、日本人信者の命を守るために棄教せざるを得なくなりますが、それはかなり史実を反映しています。

古代教会以来、殉教者の血が流されるたびに、かえって福音が爆発的に広がったと言われますが、日本だけは例外です。1700年代初めの幕府の権力者、新井白石の記録では、20万人から30万人もが日本で殉教の死を遂げたとさえ言われています。残念ながら、それらが、「死の恐怖に勝利した」美談ではなく、日本の伝統に背いた「のろい」かのように見られるのは、世界では珍しいことかもしれません。

しかも、当時の迫害の先頭に立ったのは、大目付の井上政重を初めその多くは転びキリシタンだと言われます。彼らは信仰者の心理を熟知していました。これほど巧妙で残酷な迫害が行なわれた国はないのかもしれません。

しかも、棄教した神父たちも、キリスト教信仰を根絶やしにする働きに着かされます。人助けのために棄教することは、残念ながら、サタンの手先にされることを意味しました。

そして、キリスト信仰の「恐怖」が、互いを監視し合う五人組制度を通じて、日本人の心の奥深くに刷り込まれました。
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先の記事「日本キリスト教宣教史」において、本書の明治以降のプロテスタント史の描き方に違和感があることを述べましたが、キリスト教が広まるかどうか国の意向によって決まるように描かれているいたからです。キリシタンが弾圧、隠れキリシタンが現れたところまでの流れとは違う、異物感のようなものを感じていました。聖書に従えば、そして古代教会以来、殉教者の血は大いなる霊的覚醒の起爆剤になってきており、今現在、世界中で、最大の大迫害が起こっている所で、同時に最大の霊的覚醒が起こっているのです。なぜ、日本だけが違うのか?

そう、国が「恐れ」を人の心に植え付け、信仰に踏み出さなくさせることに成功したのです。さらに、沈黙が描く「愛」がいかにフェイク(偽物)であるかも描いてくれています。その後、棄教した伴天連たちはキリスト者迫害の先頭に立たされていったのです!これは愛ではありません、その逆です。これを為政者は熟知していたというところが、悪魔そのものであります。伴天連たちは日本宣教の初期において、いかに日本民族が理性的、知的であるかを本部に報告しています。その知性が悪魔に利用されたのです。

国に対しておぞましい恐怖をなぜ感じるのか?実は今の福音派の教会でさえが、日本国が右傾化していて、それに抗わなければいけないと言っているところに、いまだ恐れの中に留まっているのではないか?と思うのです。恐れがなければ、国を憐れみ、愛し、その為政者のために抵抗感もなく祈れるのです。たとえ、仮に迫害したとしても。アジアとの和解の前に、国家との和解をしたらどうなのか?と、先に紹介した論考に書かれていますが、敵は国ではなく、国を恐れているその恐れを吹き込む、悪魔なのです。

ぜひ、沈黙においては、「日本における悪魔の正体」を見抜くための良い材料を、信仰の励ましを受けたいのであれば、猛勇なキリシタンの信仰の姿に触れてください。日本全国に殉教地があり、おそらく自宅から1時間圏内にそういった場所を見つけることのできる方々が大勢いることでしょう。先の「天井の青」のサイトを見てください。そしてここでは、そのごく一つ、山形県米沢の殉教物語をご紹介します。

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米沢藩におけるキリシタンの殉教」から

「寛永六年(1629)一月には、赤湯の豪農ヨハネ美濃の一族十人が揃えられ、米沢に送られました。

しかし、処刑は赤湯の代官の手で行なわれるところとなり、再び赤湯に送り返されたのでしたが、その途中の北山原には、さきに斬られた人達の首が、ずらりとさらされていたのでした。美濃はその一つ一つに十字を切って通りましたが、甘糟右衛門の首の前では思わず抱きついて頼ずりをしたのでした。右衛門こそ彼に神の愛を知らしめ、洗礼を授けてくれた人であったのです。

赤湯では、最後の背教つまり信仰を捨てることを強いられましたが、誰一人きき入れる者はなく、かえってキリストのように十字架にかけられることを願い出るのでした。業をにやした役人は、ついに目の前で一人の幼女の首をはね、これでも信仰を捨てなければ他の子供達もこのように殺すぞと迫ったのですが、車座になった信者達は、天に召された幼女のために、ただ祈りを捧げるばかりでした。

一月十六日、赤湯法要塚の刑場には、九つの十字架が並びました。昨日殺された幼女の死骸は、その母マグダレナの十字架の足元に置かれてありました。天を仰いで最後の祈りを唱える信者達の顔には微塵も怖れの影はなく、むしろ法悦に似た輝きが浮かんでいました。ときにヨハネ美濃は八十才の高令でした。」
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ヨシュアのごとき信仰です。地上を思わず天を思いましょう。人の国を思わず、神の国に入ることを喜びましょう。マラナタ。

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