韓国に弱い日本の教会

題名は、雑誌「アエラ」の最新号(2月1日)の記事題名の一部です。すべての題名は・・・

「日本の聖域 第四回 日本のキリスト教会 - 韓流に乗って勢いづく韓国に弱い日本の教会」

ざっと読みましたが、アエラのような一般雑誌がここまで正確にキリスト教会内のことをまとめたなと感心しました。大抵、日本のマスコミはキリスト教について初歩知識さえ疑われる記事を出しますが、この記事に関しては違和感を抱いた点は一つもありません。おそらく、これまでアエラは何度か、日本における韓国・日本キリスト教会の不祥事を取り扱ってきたので、おそらく取材をかなり行なわれているのでしょう。現場を踏んで、当事者へのインタビューをまとめて、そのまま記事にしたものと思われます。

オンヌリ教会が日本で行なった「ラブ・ソナタ」から始まり、韓国の教会の教勢、また、なぜ韓国教会の宣教に頼らなければいけないか、日本のキリスト者数の少なさや牧師の悩みなども、そのまま明かされています。そして、その流れの中で、月刊誌「幸いな人」の出版社を設立した韓国人牧師の性的いらがらせ不祥事も取り上げています。(これに関する産経新聞記事はこちら。)

教会の不祥事については、この問題を追っていくと本当にげんなりしてしまうのでここで詳しく話したくありません。けれども一つだけ、アエラの記事でも取り上げている「弟子訓練」は私も問題があると思っています。「キリスト」が「人」に対して行なわれるはずの弟子化をプログラムの中で、「人」が「人」に対して行なうようになってしまいます。他の教会成長関連のプログラムもみな、似たような傾向を持っていると私は感じています。

このアエラの記事で引用したい部分はたくさんあるのですが、いくつかに絞り、韓国と日本のキリスト教会にある問題点について述べたいと思います。

1)韓国キリスト教会内にも大きな問題があり、日本の教会と霊的な大差はない。

「韓国から見れば、信者が人口の1%弱の日本は『未開の地』であり、逆に日本にすれば、韓国は宣教において仰ぎ見る存在というわけだ。」

このお互いの見方が誤っています。日本は決して韓国より未開の地ではありません。そして韓国がキリスト教会において先進国でもありません。もちろん、日本は未開地であるという意識は私も強く抱いています。けれども、韓国キリスト教が克服しなければいけない大きな霊的課題や問題は山積しています。その問題を省みず日本で宣教を行なえば、その影響を受け皿の日本の教会がまともに被り、その中で大きく傷を受けている人々が数多くいます。

2)日本の牧師たちが、良い意味で「自信」を持っていない。

「教会をどう成長させたらいいか悩んでいる牧師は多い。弟子訓練が韓国で評判がいいと聞き、ともかくそこから学ぼうという意識は強かった。」

「なかなか信じてくれる人々がいない、また信じてもすぐにつまずいて、教会を離れ、信仰を捨ててしまう人がいる。」こんな悩みを日本の牧師は多かれ少なかれ、誰しも持っています。そして日本人は概して自意識が強いので、ちょっとした言葉から誤解を受け、それで互いの人間関係がもつれます。それでも牧師は外出する機会も多いから良いのですが、牧師夫人がその影響を直接被ることになり、精神的に鬱になっている方が多いです。

このような悩みの中で、なんとか教会を成長させたいという、藁にもすがる思いでプログラムに参加されるそのお気持ちは本当に理解できます。

けれども、どうか「自信」を持ってください!「自信」というと「自分を信じる」ということで良くないことですが、誰がやってもうまくいかない、この堅く、干からびた日本の地の最前線に遣わされた誇り高きキリストの戦士です!最前線にいますから、敵の集中砲火を受けます。けれども、その前線を固守しておられる自負をぜひ持ってください。私は、本当に日本の牧師の方々を尊敬しています。そして、次の発言も載っていました。

「信者を増やす手段ばかりが重視され、何のために増やすのかという目的が語られなくなっている。」(都内のある牧師の指摘)

そうなのです!数が問題なのではありません。たった一人でも良い、救われ、しっかりとキリストにあって成長する人が起こされれば、それで主にあって大いに喜ぼうではありませんか!私は大きい教会の牧師とお会いするよりも、小さい教会なのに、こつこつと喜びをもって牧会されている方に出会うと、本当に励まされます。

そして信者の方々へ・・・牧師を大事にしてください。「この牧師は・・・」となじりたくなる気持ちも分かりますが、そうした霊的最前線で悪霊からの火砲で負傷している、同じ人間であることを忘れないでください。「互いに愛し合う」というのは、牧師から信徒だけではなく、信徒から牧師に対しても行なわれなければいけないものです。

3)地道に宣教・伝道活動を行なっている韓国人宣教師の方々が、数多くおられるのだから、交流を深めてほしい。

「日本におけるオンヌリ教会の影響力ばかりが大きくなっている。」(ある韓国系教団の牧師)

私がお会いした、日本在住の韓国人牧師や伝道師の方々は、一様に似たようなことを言われます。私個人は、「『ラブ・ソナタ』も結構だが、それを一回性、二回性のもので終わらせるのではなく、10年、20年という長い期間を視野に入れて本腰を入れてほしい」と思っていました。あれだけ盛大にしているのでお金が大丈夫なのかな・・・と心配していたし、今も心配しています。でも、実際の韓国人の宣教師の方々は、もっと複雑な気持ちでいらっしゃるのでしょう。

日本の牧師の方々、どうか、皆さんと同じように小規模でも地道に、そして着実に伝道を行なわれている韓国の人々と交わってみてください。協力してみてください。

要は、数や規模ではありません。私たちの主イエス様がどう仰っているかに注目しましょう。

    • 「わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには

少しばかりの力

    があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。(黙示3:8)」

自浄努力の重要性

去年のクリスマスの時期の投稿で、小沢一郎氏の「キリスト教は排他的」と発言したニュースを紹介しましたが、この発言を徹底的に批判しているブログ記事を見つけました。

1.剛腕か傲慢か?壊し屋が壊れる日 キリスト教は排他的で独善的だとする小沢一郎氏自身の宗教観を問う
2.小沢一郎氏と福澤諭吉と田中角栄 政治と金と宗教 クリスチャンとイエス・キリストと聖書

この小沢氏の発言の後、キリスト教の団体が抗議をしたようです。そして、私自身、続けて調べたら、クリスチャンの国会議員による小沢発言批判の記事(民主党議員を含めて)、そして小沢氏が批判を撤回した記事も見つけました。

一言、感想としては「小沢氏の巧みな政治的思惑での発言だったのだろう。けれども、日本人の平均的な宗教的無知をさらけ出してしまったようだ。」ということです。上の記事の中に、その中身が徹底的に披露されています。

おそらくこのブログを読まれている人の中にも、未信者の方はおられると思います。求道を真摯に始めておられる方もおられるでしょうし、斜めに、批判的に読まれている方もおられる。後者の方はぜひ、リンク先の記事を読まれることをお勧めします。キリスト教信仰を否定する根拠として「私は仏教徒だ」、「私は無宗教だ」、「私は日本人だからキリスト教にはそぐわない」と言われる方は、いかに近代日本の成り立ちについて(無宗教だという人)、そして仏教の教義と変遷について(仏教徒だという人)、無知であったかを痛感されると思います。

上のクリスチャン国会議員の集まりの新聞記事にありますが、石破茂自民党政調会長は、「キリスト教が排他的とおっしゃる政治家がおりますが、キリスト教は寛容です。ただし、それはあいまいという意味ではない。キリスト教信者として妥協できない領域は確かにあります。・・・」と言われています。そうです、キリスト教は、そして実は仏教も、「ハードコアなファクト」(つまり心情や感情を入れない徹底した事実検証)に基づく信仰なのです。

けれども、以前、民主党による憲法創案で一神教批判が盛り込まれた時もそうでしたが、すぐに行動に移すキリスト教団体の方がおられ、また国会議員また民主党の中におられるクリスチャンの働きかけによって、今回も発言撤回にまで至りました。これが、民主主義の原則が働いた自浄作用であり、良い証しであると思います。

最後に、政治家のたった一言の発言がこれだけ重責を伴ったものであることを考えるにつけ、ヤコブ書3章にあるように、牧師や聖書教師は「言葉」に対してもっと大きな責任を持っていることを思うと、私も背筋が寒くなるというか、緊張が体の中を走りました。

<補筆>

以下は、「多神教の中にある排他性」を取り扱っている良い記事です。ご一読ください。

一神教は排他的で多神教は寛容という虚構