第四回目 奥松島・東松島救援旅行 5月18日

この日は現場における仕事はありません。それぞれが、自分たちの所に出発するだけです。けれども、お仕事はいろいろあります。瀬谷さんは、第二回目の旅行で私の両親の家でお会いになった近所の方にぜひ会いたいとのことで、東北本線の松島駅から仙山線の最寄駅まで行き、実家に一泊しました。そして、木村さんとお母さんは20日まで滞在予定です。私たちは、晩にある恵比寿バイブルスタディに間に合わないといけません。さらに静岡のチームは、東京の木村さん宅に荷物を下ろしに行く前に、同じ教団の仲間だったシーサイド・バイブルチャペルに訪問しました。

シーサイド・バイブルチャペルと言えば、今や一般の新聞にも出た「荒れ野での十字架」で有名になった、仙台沿岸部に位置する教会です。私も見城さんから、被災している教会の話を聞いていました。そして今回もどんな感じなのか彼からいろいろ聞くことができました。見城さんは冗談で、「ちょうど観光地の案内人のように、牧師の内藤さんは訪問する大勢の人々の案内をしている。」とおっしゃっていました。

私は、「なぜ他の教会と共に働かないのか?」と聞かれたことがあります。私は震災直後から、すぐに仙台の教会の人たちに連絡したり、その情報を得ようと努めました。単純に、「道が開かれなかった。」ということです。そして情報を追っていくと、数多くの教会が既存の教会を支援しており、むしろその支援教会の対応で忙しくなっている様子を見聞きしていました。教会が教会を助ける働きは、使徒の働きでエルサレムの教会を手助けした話が出てくるように非常に聖書的であり、すばらしいことですが、やはり「御霊によって導かれなかった」と言って良いでしょう。直接、キリストを知らない被災者の方々へ福音を伝えるように導かれています。

けれども、Facebookで何人かの牧師さんと連絡を取ることができているのは幸いです。

朝は、見城さんがデボーションで御言葉から分かち合ってくださいました。木村さんが、またご自分の気持ちを話してくださいましたが、「私は、クリスチャンたちを見てきて、確実に神・キリストが働かれているのを見ている。そして私はその世界とは別であると思ったが、私自身がその働きの中に取り囲まれているのを感じる。」とのことです。つい一ヶ月前までは、キリスト教会とは無縁の生活を送られていた方が発する言葉です。

そして最後に、木村さんが松島の絶景を楽しめる見晴台へと連れて行ってくださいました。確かに、「日本三景」に数えられるだけある風景です。そして何とここは元々彼らの土地だったのこと。ずっと前に行政に売り渡しました、とのことです。

そして私たちは植田さんを運転手にして東京に戻りました。途中、妻が高速道路の一部を代わりに運転しました。年に一度だけアメリカだけで運転していた彼女は、今回初めて日本で運転です。それから瀬谷さんは無事に私の実家に到着し、福島県相馬市の農家で出会った私の母の友人にも会うことができ、そこで母が自分の救いの証しをすることができたとのことです。そして夜に近所の方にも会うことが出来たとのことです。・・・ずっと「証し」と「福音宣教」の旅になっていました。

今度は、来週の月曜から水曜まで、トラビス、リッチ、山東さん、そしてカルバリー所沢のマイケルが東松島牛網に行きます。そして六月第四週目に、ハワイからのチームが5-7名来る予定です。けれども、これまでもそうでしたが、主がまた新たなことを行なわれるかもしれません。

第四回目 奥松島・東松島救援旅行 5月17日

朝7時に自炊の朝食を皆でいっしょに取り、デボーションをして、それから活動開始です。昨日の「炊き出し部隊」は、昨日、牛網避難所を訪れたところ「炊き出しはお昼より夕のようが良いのに。」という要望を聞いて、それで人数が増えるため、再びマックス・バリューで買出しに行きました。そして、仙台お住まいの武田さんも合流し、牛網避難所に戻ってさっそく夕食のための準備を始めました。

メニューは「イタリアン風マカロニサラダ」です。これまでの炊き出しのメニューはずっと醤油チキンだったので、ちょっと趣向を変えようという妻のアイデアでした。サラダと言っても、チキンを中心にいろいろな素材の入っているボリュームのあるものです。当初、二時間で完成できると思っていたものが五時間ぐらいかかったのことです!

「木村宅所持品取り出し部隊」は、最終的な取り出しを行ないました。ダンボールに詰めて、それをコンビニまで運んでいき、そこから宅急便で木村さんの兄弟宅へ送付し、そして残りを静岡のグループが東京にある木村さんの仮住まい宅に18日に降ろす予定です。

それから牛網避難所に合流しました。まず、私たちは自分たち用の昼食(レトルトカレー)を食べ、それから作業にとりかかりました。女性三人と植田さんは、続けて夕食の準備をしました。木村さんのお母さんが、もう80歳なのに、ずっとお立ちになって皿等の洗い物をしてくださったそうです。

瀬谷さんは前回に引き続き、デザイン風の習字を教えました。それを後日、Tシャツにプリントして渡します。

他の男性陣は清掃のお手伝いがないか付近を歩き回りました。前回と前々回に来たところは、かなり片付いています。それでも避難所の目の前に住んでおられる方の庭の木々に津波による泥がついているのを払い落とす作業、そして千葉さん宅で残されているトイレの清掃がありました。トイレまで清掃するというのは、もちろん、後に使えるようにするためであり、私たちのようなボランティアがそこにテントで寝泊りできるようにするためでもあります。

そして見城さんと雅治さんは、他の家で、家の底にあるヘドロ取りが必要な人を見つめました。私も少しお手伝いしましたが、驚いたのはそこの被災者の人は、徒歩3分のところにある牛網避難所ではなく、他の避難所に行っているとのこと。避難所の存在さえ知りませんでした。

千葉さんからも今回話が上がってきたのは「在宅被災者」です。避難所、特に牛網の避難所はかなり祝福されています。けれども、彼が会議などに参加すると分かってくるのは、在宅の方々がまだまだ物資に困っているとのことです。次回以降、そのような人々にも届きたいという願いを千葉さんにお話しました。

そして夕食に近づき、人々がやってきました。自衛隊の人たちの炊き出しは、千葉さんによるとちょうど今日(19日)に終わり、これからは弁当の配布になるそうです。お風呂の部隊も人数を減らすとの事。次第に、自衛隊も違うことに部隊を動かす方法になっています。

そしてサラダは多く余ったので、自衛隊の人たちにおすそ分けし、私たち自身も自炊のご飯といっしょに食べました。そこにいつもいる小学校一年生のしょう君が、「さあ、おかわりをしなさい。」と命令口調で繰り返すので、しかたがなく(?)男性数人がそれに応じ、おなかがいっぱいになりました!

そして、避難所でのイブニング・ショーが始まりました。見城さん、望月雅治さん、そして望月誠司さんがミニ・コンサートを開いてくださいました。初めは一般のカントリー・ミュージックでしたが、すぐに賛美歌に移り、そして音楽の前説明の中に証しを盛り込みました。そして見城さんが最後に、はっきりと十字架のメッセージを語ってくださり、私たちは心の中で神をあがめました!

私はバンドの目の前でカメラを回していたのですが、隣にいるおじいさん(前回はフラランスを前に出ていっしょに踊った方)が私に話しかけてくださり、実に感謝していること、そして“教材”も読んでいて、その道についてもいろいろ考えているという話をしてくださいました。「教材」とは、もちろん私たちが第一回目、第二回目に渡していたトラクトのことを指しています。そして、「コンサートの終わりにお礼の一言をお話したい。」と申し出てくださったので、終わりに話していただきました。

そして避難所の人々と別れました。千葉さんも交えて、ここで別れる武田さんのために皆でお祈りしましたが、千葉さんが「いろいろな神様がいて、忙しい。」と冗談をもらしておられました。ちょうど前日に、仏式の葬儀に出席しなければならなかったそうです。そうは言ったものの、千葉さんはいつも「高台から津波を見ていた人と、実際に津波に飲まれてしまった人では違う。」とおっしゃいます。つまり、「生と死の捉え方が変わってしまった。」ということです。

そして宿に戻り、再び少し交わりをして床に就きました。

第四回目 奥松島・東松島救援旅行 5月16日

私たちは菅生PAにて、二つのグループに分かれて出発しました。一つは、「木村宅所持品取り出し部隊」で、もう一つは「牛網避難所炊き出し準備部隊」です。牛網での食事は17日に予定していますが、東京で買いきれなかったものを矢本にあるマックス・バリューで買い、そして東京で買った肉類を冷蔵庫に牛網で保存してもらうことが目的です。

奥松島の宮戸島の付け根には、野蒜という、運河の走っている地域があります。そこがニュースにもしばしば出てくる壊滅的被害を受けた所ですが、そこにようやく自衛隊や米軍が撤去作業を本格化させたようです。自動車や家の屋根などめちゃくちゃに落ちていた運河が少しだけきれいになっていました。

そして木村宅での作業が始まります。前回は日本刀の取出しが主でしたが、今回はお母さんの着物の取り出しを行ないました。二階の渡り廊下にあった家具など、邪魔になっていたものを取り除き、道を開きました。一部津波の水が被っているものもありましたが、かなり多くのものが被っていません。

そして一部をダンボールに詰め湯の原温泉の宿に持っていき、一回ピストン輸送をしました。

そして私たちは湯の原温泉に向かいました。妻と瀬谷さんと植田さんが、夕食の準備をしています。おかずはビーフンです。まず私たちは風呂に入って、皆でいっしょに食べておいしかったです。

その後に団欒の時間になりましたが、木村さんと植田さんから信仰に関わる話が出てきて、とても有意義な話の時となりました。木村さんとお母さんは基本的に、「このように皆さんと出会うことができたのは、絶対に神またイエス様以外に考えられない。」ということを仰っていました。そして植田は、「十字架につけられて死ぬということは、到底、人間にはできない犠牲の業だ。」という感想でした。

ですから、「救援活動」という目的で行なっているものを、主は、「伝道修養会」にしてくださいました。イエス様が弟子たちと寝食を共にされながらご自分を教えられたように、未信者の人々がクリスチャンと時間を過ごすことによって、良い行ないに裏付けされたキリストの教えを学ぶことができています。これが、前回と今回の旅行で最も大きな収穫でした。

第四回目 奥松島・東松島救援旅行 5月16-18日

昨日、東北地方から帰ってきました。これでLCFにとっては四回目です。(トラビス・リッチ・山東さん・CCBC沖縄の人たちが行っているのを含めると、合計五回行っています。)

今回の旅行で、神様が導かれているのは明らかに「伝道旅行だ」ということです。物質的な必要を満たすこと以上に、精神的さらに霊的必要を満たすように主が働いておられます。

メンバーはご自身が被災者である木村さんとそのお母さん、そして同じく被災者の福島県出身の植田さんがおられます。それから、今回は静岡から、長年交わりを持たせていただいている、元イエス福音教団の静岡にある教会の方々が来てくださいました。牧師の見城和人さんと望月雅治さん、そして教会員の望月誠司さんと、富山さんです。さらに、私たちLCFからは、瀬谷さんと長島さん、そして明石夫婦が参加させていただきました。

さらに、第一回目の旅行で訪問させていただいた、かつてカルバリーチャペル所沢でいっしょだった仙台在住の武田さんが、直接、現地集合で牛網の食事の準備を手伝ってくださいました。

初め私は五月下旬か六月初頭を次回の旅行にと考えていましたが、前回5月3-5日の旅行にて、奥松島の木村さんのお宅から所持品を取り出す仕事が完了していなかったこと、そしてその地域の撤去作業が間もなく始まることなどから、なるべく早く行く必要に迫られました。

そして、もちろん奥松島だけでなく、東松島牛網の避難所にも訪問を計画しました。和人さんと雅治さんは、それぞれゴスペルのカントリー・ミュージック、フォーク・ソングのバンドを組んでおられる方なので、牛網の避難所でぜひイブニング・ショーをしてほしいとお願いしました。

出発は静岡のグループは静岡から直接現地へ、そしてその他は足立区に集合し、そこから出発することにしました。車は木村さんがお兄さんから借りているものと、綾瀬東部教会が貸してくださった車に乗り込みました。初めに、朝8時に業務スーパーに行き、チキンとハムを受け取り(私たちが被災地救援活動をしていることを告げると、そのような取り計らいをしてくださいました。)、それから高速に乗りました。

現地集合とのことでしたが、電話で連絡した所、私たちより先に静岡のグループが先に進んでいます。それで仙台近くのインターで待ち合わせをすることになり、そこでいっしょに昼食を取りました。