日暮里移動を控えて - 牧者の瞑想 その2

その1からの続き)

イエス様という、多彩なお方

イエス様という方は、まるでたまねぎの皮のように、剥いても剥いても、また新しい側面を見出すことのでき、あらゆる働きの源である方であることに気づいています。ここ数年は、海外宣教の働きを始めたことによって新しく見えてきたイエス様がおられました。それは天から地に下るという、人々の生活の間に入られた方であることを知りました。言語はもちろんのこと、その人々の習慣や文化、社会制度に至るまで、罪ではない全てのものと一つになり、その中でキリストを自分のうちに見出してもらう、ということです。

けれども、イエス様は宣教者であられるだけでなく、大牧者でもあられます。なぜイエス様は、弱い人、苦しんでいる人、罪人の中におられたのか?そしてなぜ、あれほど、特にパリサイ派との確執があったのか、弟子たちの無知と無頓着にどうしてあれだけ忍耐されたのか、また何よりも、なぜあんなに父なる神に祈ることができたのか?これらの鍵は、「羊を世話する羊飼い」であります。「教えていることだけでなく、自分の命さえ捧げる」という愛にあります。これが牧者の思いです。

自分を変えるチャレンジ、ぎこちない愛

大きなチャレンジは、私自身です。先日、このブログでも紹介させていただいた、東松島の月浜地区の海苔産業の復興を目指す「月光グループ」の食事会が開かれました。月光の漁師さんにお会いできただけではなく、月浜を支援している他のボランティアの人々にも会えました。その一人の方が、こういう言葉を残しています。

彼らは自らを変えることと闘いながら、ここまで来た。
月浜の方々とは去年の四月以来のお付き合いをしてきました。そこは宮戸島という小島の端にあるため、自給自足精神の強い集落であり外部者に対して閉鎖的でした。津波が押し寄せ、数多くの人々が助けに来ることによって、「自分たちだけで生きていく」というところから、「他の人々との接点によって生きていく」という生活の転換を迫られました。けれども、後者の生活がいかに優れたものかを、喜びをもって体験していることを、月光の代表の方の満面の笑みから伺うことができました。

そして今、私自身も単なる聖書教師から牧師・教師への転換の喜びを味わっているのかもしれません。

そしてもう一つ、「愛」ということについてです。昨日、ある人の紹介によるビデオを観て感動しました。

なんと、これはタイ国の生命保険会社のCMなのですが、こんなに素朴な愛を短い時間で描いているのは珍しいのではないでしょうか?私がこれを見て思ったのは、このような愛を兄弟姉妹に持てるだろうか?というチャレンジもありますが、同時に、「こんな不器用な私でごめんなさい」という、口の利けない父と同じ思いがしています。

牧者という働きの中に身を置いて、不思議な体験をしました。これまでになかったことでした。それは、「神が与えられた人々を愛せる」という喜びでした。上からでなければ決して来なかった愛情です。だから、私自身が愛情深いとかそういうものでは決してなく、神がご自分の栄光のために、キリストを頭としている教会においては、愛を満ちあふれさせるようにしてくださるのだ、という実感です。

けれども、それをどう表現すればよいのかが自分に分かりません。下手くそだなって思います。とにかく御言葉を提供することに専念してきた生活を送ってきました。背後ではたくさん泣き、たくさん時間を使い、たくさん祈ってきたのですが、それをどう伝えればよいか分かりませんでした。不器用だなと思っています。でも、不器用だからといって落胆せず、愛がその欠点さえも乗り越えて押し流していくことを、切に祈りつつ奮闘していきたいと願っております。

今、教会に来られている方々は、私のことを愛し、支えてくださっていることを感謝します。またこれから教会に来てみたいと思われる方は、以上の通りですので今後とも何卒よろしくお願いします!

(参考文献:”Love: The More Excellent Way” by Chuck Smith)

日暮里移動を控えて - 牧者の瞑想 その1

あと一回を除いて足立区での礼拝は終わりです。次々回の8月一週目から日暮里駅前の東京国際日暮里教会内で礼拝を持ちます(午前礼拝のみ。午後礼拝はすぐ近くの日本語学校で行います)。(詳しい経緯はこちらの記事をお読みください。)

本格的に教会を始めたのは私個人の生活では初めてで、2011年初頭から始まったこの教会を通して大きな挑戦をイエス様から受けてきました。それは「牧者」とは何か?というチャレンジです。私は聖書教師としての働きを十五年ほど持ってきました。そして米国の教会からの宣教師として、日本国内また海外で働いてきました。

「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、・・・(エペソ4:11-12)」

ここの「牧師また教師」は、ギリシヤ語では「牧師=教師」となっています。ですから牧者の働きには教師としての働きが前面にあります。神の御言葉を教えることによって、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせます。これは大前提です。けれども牧会の中に教える働きがあるのであり、教えているからと言って自動的に牧会ではありません。その違いは何なのか?それを考えていました。

教師と牧者の違い

1)聖書教師は「教える」ことに注意するが、牧者はそれだけでなく「個々の魂」を注視する。

あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。(ヘブル13:17)」「魂を見張る」というと人を支配する監視のように聞こえますが、そうではなく「注視している」ということです。それはちょうど、公園で遊ぶ子供たちを見ている大人のようであり、プールサイドの監視員のようでもあり、危険がないかどうか見張っている、守りの働きであります。キリストの内にその人が留まっているかどうかをじっくりと見ていく働きです。

2)聖書教師は「教えている内容」によって信頼を得るが、牧者は「羊の生活全般」への関わりによって信頼を得る。

わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。(ヨハネ10:11)」「このようにあなたがたを思う心から、ただ神の福音だけではなく、私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思ったのです。なぜなら、あなたがたは私たちの愛する者となったからです。(1テサロニケ2:8)」イエス様のように、贖罪のための命の犠牲はしませんが、けれども自分の生活をかけて世話をするという面では、主のお姿を牧者は真似なければいけません。

教会を始めた時から、私は強く、教会とは「神の家族」であると思わされています。家族というのは、生活臭がするところです。御言葉を体系的に学ぶことは非常に大切ですが、教会は学校ではなく「家」の中そのものです。人格と人格がぶつかるところです。御言葉が、ノートに書き残していく文字ではなく、「自分」というものを退けて、打ち捨てていくことによって従順になる生きた言葉になります。大変なところも共有し、喜ばしいことも共有し、みなで成長し、その結果キリストをほめたたえるところです。

私は、妻はいますが子供がいません。ゆえに、次の御言葉の挑戦を受けています。「自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。・・自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。・・(1テモテ3:4-5)」父親のような威厳とはどこから出てくるのか、これから模索していくことになるのでしょう。

3)聖書教師や説教者は「主への情熱」が試される。牧者は「主への情熱」に加えて、「人への同情」が試される。

また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。(マタイ9:36)」ここの「かわいそう」という言葉は、まさに中国から来たことわざ「断腸の思い」に似ているものが使われているそうです。まさに肝が裂かれるような思いです。人が弱っている時に、決して傍観視できない心です。祈りをもって父なる神の前に出て執り成し、また聖霊の助けを得てその人に関わっていく労力です。

4)宣教師の楽しみは、御霊の流れに乗ることである。それはあたかも、サーフィンの波乗りをしているようだ。牧者の楽しみは、「神が育ててくださる植物」を見る喜びだ。

宣教師が楽で、牧者が大変だということでは決してありません。サーファーに聞けば誰でも、波に乗ることがどれだけ大変であるかを教えてくれるでしょう。御霊の流れを知ることは、濁流のような波の流れになおかつ板に乗っていくことのできる、霊的筋力が試されます。

けれども牧者は、園芸を楽しむような喜びがあります。時間をかけて楽しむ喜びです。神が成長させてくださいます。時に台風が来て、茎が折られ、根が切れてしまうかもしれません。けれども、根気良く水を与え、肥料を与え、どうやったら枯れないようにすればよいか工夫し、実が結ばれるまで見届けるのです。

その2に続く)