我が国のための祈り会を!

先日投稿したFBの記事です(一部編集)。

日本の福音派の一部による動きを見るにつけ、私は「本当にもったいない」という思いがしております。日本のことを思う思いは一杯あるでしょうに、それがあまりにも、偏りすぎた、この世にある政治活動と変わらないような形で行われているからです。しかし私たちキリスト者がキリスト者たらしめるものがあります。それはキリストを主と掲げる告白と、祈りと、賛美、そして福音宣教です。これこそが、この日本を救うという信仰は、キリスト者の内で一つに、強固に持っているはずです。

神だけに希望を置く祈り集会

世界には、それぞれの国で大きな危機、岐路に立たせられた時に、キリスト者が一つになって祈りを捧げるということが行われています。アメリカでは、Decision America Tourという全米各地での祈り会、自分たちの国のための祈り会が推進しています。アメリカを救うのは政治家でも大統領でもない、神ご自身だという信仰で祈り、そしてキリスト者が必ず投票に行き、また公職にキリスト者がもっとつくことができるように促しています。争点はそこでは話しません、たくさんの祈りを捧げることのほうに集中し、判断はキリスト者の内におられる聖霊にゆだねます。 続きを読む 我が国のための祈り会を!

「我が国」と言えない日本人

先日FBで投稿した記事をこちらにも分かち合います(一部編集)。

7月に行われる、おそらく参院選を意識しているであろう某緊急セミナーの題名は「この国はどこへ行くのか」であります。私は、日本国を「この国」と呼んでいるところに違和感を抱きます。今、エレミヤ書を聖書講解しています。そこから流れ溢れる涙は、エルサレムをまるで自分のものであるかのように泣いている、その帰属意識でした。

ある方がこのようなことを書きました。「おそらく、本当に日本人の魂と文化を愛する人間が「偶像崇拝はダメ」といえば、なるほどと受け入れられます。でも、日本人の魂と文化を否定するものが「偶像崇拝はダメ」といえば、失敗して後々しっぺ返しを喰らうでしょう。」

同じ罪を指摘する時に、その指摘する心が愛から出ているのか、そうでないか、同じ言葉であっても歴然とした差が出てきます。最近の教会の講解説教は、エレミヤ書9-11章でした。エルサレムをバビロンによって裁くと宣言される主は、その厳しい言葉の合間に、「主はかつてあなたの名を、『良い実をみのらせる美しい緑のオリーブの木。』と呼ばれた(9:16)」と、彼らを恋い慕っているために、心が裂くようにして裁きを宣言されているのを見ることができます。

あるアメリカ人宣教師は、しばしば英字新聞の記事をシェアします。それらを見て、気分のよくない時があります。確かに書かれていることは事実を反映しているかもしれないのですが、基本的に日本の文化やあり方を見下げていることが分かるからです。日本が嫌いだ、というのがその文面から分かります。 続きを読む 「我が国」と言えない日本人