有神的進化論について その1

前の記事で触れた「有神的進化論」についてですが、在米日系教会の牧師さんが、その講演を聞きに言った時の話がネット上にありました。(こちら

そこにこの考えの骨子が書かれています。
1)宇宙は、140億年に何も無いところから始まった。
2)宇宙の様々な常数(光速、重力、電磁力等々)は生命が出現できる環境を作りだすために精確に調整されている。
3)生命が始まったメカニズムは解明されていないが、一旦生命が始まると進化と自然選択により多種多様、複雑な生命体が出現した。
4)生命は創造者が特別な時に、特別介入するという方法ではなく、進化という方法で複雑化、多様化した(つまり神が進化したという方法を選んだ)
5)人間もこのプロセス上に出現し、類人猿と共通の祖先を持つ
6)人間は霊的な存在であり、時代・文化を越えて「神を求める」ユニークな存在である

ありゃりゃ、これはもうキリスト教の基礎そのものを否定しているのではないか?と思いました。

1)宇宙は、「はじめに、ことばがあった(ヨハネ1:1)」とあるように、「何も無い」のではなく、神とキリストがおられるところから始まっている。

2)については、生命が出現する環境が常数によって作り出されている、とあるが、創造の第一目の「光」を神が造られ、そして三日目に植物、五日目、六日目と生物を造られたということの写しである。しかし同時に歪曲であり、「作り出された」のではなく「神が造られた」のだ。

3)「進化と自然選択による、多種多様、複雑な生命体」ではない。神は「区別される方」であることが創世記1章では強調されている。ゆえに「種類ごと」に造られたと強調されているのであり、最終傑作品は、「神のかたち」そのものに似せて造った人である。これは創世記1章の字義解釈の話ではなく、神は秩序をもって世界を支配しておられるという聖書全体に流れる神の特質なのだ。簡単に断定してほしくない。

4)「創造者が特別な時に、特別介入するという方法ではない」という。おい、そしたらそのあとの話、ノアの洪水、紅海が分かれること、ヨシュアの時代、日がとどまったこと。エリヤの天からの火、ヒゼキヤの日時計が逆戻りしたこと、そして何よりも、主ご自身が処女から生まれ、数々の奇蹟をなし、死者の中からよみがえられたこと・・・これらをみんな否定するんですか??

この論者が分かっていない、あるいは気づいていないのは、「聖書の初めの記述は、その後に続くすべての神の働きの始めになっていること」であります。聖書をそのまま読むことによって、極めて統一性のある、不変で真実な神の御姿が浮き彫りになってくるのに、聖書が、不作為な文献の寄せ集めのような文書に成り下がってしまいます。

5)は極めつけです、話になりません。人は「神のかたちに造られた」という真理の真っ向からの否定です。その独自性があって初めて、人に対する神の贖いの計画が成り立つのであり、黙示録に至るまでの救済に妥当性を与えるのです。つまり、「初めがあって終わりがある」のであり、「初めを壊すと、終わりも壊れる」のです。

6)最後に付け足したように、人は霊的な存在であり、神を求めるユニークな存在である、と言っていますが、神が人をユニークに造られた、とは言っていない。あたかも人間肉体にある物質が神を求めるようにさせている、という唯物的な考えが見え隠れしています。

その2に続く)

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