「神の選び」と「人間の選択」

この頃とても忙しくなりブログへの掲載の頻度が少なくなっています。けれども、自分の趣向以上に教会にとって、クリスチャンにとって大切な事柄は掲載しなくてはと思っております。

その中の大きな一つが、「神の選び」と「人間の選択」です。開拓伝道を始めて、教会の人々から、また他の場所でもいろいろな人から繰り返し問われる内容です。私がこのことをよく考えていた時のことを思い出しますと、次のようになります。

予定論との出会い

信仰をもって間もなくしてから考えました。確かバプテスマを受けた後でしょうか、ある人からローレン・ボエトナーの「カルヴィン主義予定論」という本をいただき、読み始めました(原書で)。彼は宗教改革の歴史を受け継いでいることを誇る「改革派」の代表的神学者です。予定論はカルヴァンの考えた「神の救い」について、それをさらに先鋭化し、系統立てた神学です。

カトリックでは、人が生まれながら罪を持っており、キリストの十字架による贖いを信じていますが、その後犯す罪について聖体拝領や告解等の「秘跡」によって神の前に認められると考え、死後もその営みが足りない者たちが煉獄にいって懲らしめを受けるがその後に天国に入る、という教義を持っています。したがって、「ただ一度の罪のいけにえ」によって「永遠の救い」を成し遂げたという十字架の十全性に欠けており、それが免罪符などの「行ないによる救い」へと走っていかせていました。

そこで、信仰によってのみ神に義と認められるという福音の真理を前面に出したのがルターです。そしてカルビンはこれをさらに体系化し、(もともと、カルビンの前にアウグスチヌスが、ペラギウスとの論争で主張していたものですが)、「人は堕落しているので、全く善を行なうことができないでいる」「もっぱら神の選びがその人を救う」と主張し、「神に選ばれた者のみが救いを得ることができ」「信仰を最後まで堅持できるのも、神の選びによるものだ」と主張しました。

それが、「予め神は、永遠の昔から救われる者と遺棄される者とを選別して創造された。」という予定論へとカルビンの後に出てきた者たちが主張し始めたのです。

上のボエトナー著の予定論の本を読んだ時に、私はあまりにも理路整然としている教えに驚きました。心の中では何かが違うと思いながら、神の深い御旨の中ではそうなのか?と関心したものです。けれどもそれを、大学で、同じく信じて間もない兄弟に言及してみました。彼は聖書通読によってそのまま信仰に入った人でしたが、彼は少し驚いた顔を見せた後で「神はえこひいきをなさらない方だ」と一言、反論していました。

私がこの体系の中で最も違和感を抱いたのは、「キリストの救いが限定されている」ということでした。たった一人にでも救いの福音をもたらしたいという情熱を大きく削ぐものでした。彼らは、「それは神の深い御旨の中にあるのだから、誰が選ばれているのか分からないのだから、命じられている伝道を行なうのだ。」とは口で言うのですが、やはり選別意識が強く出てきています。

そして「神の予定」というのが「宿命」や「運命」と置き換えられているのではないか?というのがもう一つの疑問でした。人の自由な営みの中で、それでも神がご自分の不思議な計画ですべてを掌握しておられるという摂理とは違い、全ての人の道筋が硬直的に決定しているという印象を抱きました。それが私が知っている神の福音と相容れなかったのです。これも、彼らは理論的には否定しますが、実際はそうなっている場合が多いです。

一度、信仰告白をしても・・・

次に考える機会を作ったのは、カルバリーチャペルのスクール・オブ・ミニストリーの中において、であります。そこに「難解な聖書箇所」という授業がありました。あえて説明の難解な箇所を選び、それを学生に説明させる内容です。その中の大きな話題がこの二つでした。カルバリーチャペルは元々、上で説明した極端なカルビン主義は同意していないのですが、大きな話題が「救いは失われえるのかどうか」という内容でした。そうであるかのような箇所を取り組むのです。

私は、「一度救われたら、当然永遠に失うことはない。」と考えていました。今も永遠の保証は堅く信じています。同時に、罪の中に陥って、悔い改めることなく、そして以前の信仰告白までも否定して生きている人々が現実にいることも確かです。その人たちはそれでも天国に行くことができるのか?という問いかけに対して、「一度救われたら、いつまでも救われている。」というだけでは足りないことを知りました。

信じた者には、その信仰を保つという責任があります。それは行ないではなくて、信仰を働かせてキリストとの生きた関係の中に生きることです。これを全く停止している人が、「過去にイエスを信じる告白をしたのだから、天国への切符はもらっている。」と考えるのは、聖書の数多くの箇所から間違っていることを知りました。

けれども、多くの兄弟たちの話を聞いていると、私は少し距離を置きたくなりました。先の「神の選び」なのか、それとも「人の選択」という話題について、二者選択で議論を戦わせることが多かったからです。学期に最後のところで、先生が学生各人に「あなたはカルビン主義のほうに傾いていますか、それともアルミニウス主義(注:人の選択を強調する考え)のほうですか?」と問われて、仲間ははっきりとこっちだと言っていたのですが、私はこう答えました。

「聖書を順番に教えているときに、カルビン主義を支持している御言葉ではカルビン主義になり、アルミニウス主義を支持している御言葉ではアルミニウス主義になります。」という返答をしました。仲間の学生が、「それって何?」という顔をしていましたが、それが私の率直な感想でした。体系化する必要はなく、聖書が宣言していることをしっかり伝えることが大事だ、と思ったのです。

そして「神の主権」と「人の選択」は、人間の頭の中では決して整理できない永遠の平行線を辿るけれども、現実の生活では実存しているというのが私の強い思いでした。「確かに私は、キリストに従う強い決断をした。けれども、決断をしたから今の救いがあると言ったら全くの嘘である。神の一方的な憐れみによる選びがなければ、決して信じることはできていなかった。」というのは、頭では分からないのですが実感だからです。

聖書を知的に体系化することも、ある程度必要です。けれども、聖書はもっと「神がおられる」ということを体験的に、また直感的に知るための知識ではないのか?と思うようになりました。

聖書を順番に教え始めて・・・

そして、本格的に聖書を教える働きを始め、教会に仕え始めてから、私は次第にこの話題についての自分の思いが固まってきました。それは自分自身で創世記から順番に聖書を教えていき、そこに表れてきた神の御姿を見ることができるようになったからです。

予定論を始めとするキリスト教神学は西洋を発端としています。それはそれですばらしいもので、信仰というのは言葉による告白によって成り立っているので、彼らが理論の体系をしてくれてきたのは偉大な遺産です。けれども、私はもっともっと、聖書的になる必要があるのではないか?と思いました。新約もそうなのですが、旧約聖書をじっくり読み、それから新約聖書に入ると見えてくるのは、次のような神です。

神は、全てのものを超越しておられる方だ。しかし同時に、全てのものの中におられて、人の営みと共におられる方だ。」ということです。相矛盾する言葉なのですが、私はこれが聖書的だと思います。

明後日、サムエル記第一15章を教えます。サウルに対してサムエルが、「実に、イスラエルの栄光である方は、偽ることもなく、悔いることもない。この方は人間ではないので、悔いることがない。(29節)」と言われます。そして数節飛ぶと、「サムエルは死ぬ日まで、二度とサウルを見なかった。しかしサムエルはサウルのことで悲しんだ。主もサウルをイスラエルの王としたことを悔やまれた。(35節)」とあるのです!

この二節だけでも、カルビン主義とアルミニウス主義の論争を展開することもできますし、それぞれが一生懸命、たくさんの理由をつけて論駁していきます。

そんな難しいことではないのです。ここは文脈では、「悔いることもない」と言っているのは、サウルではなくほかの者(ダビデ)を王とする御心については変更がない、という意味であり、けれどもサウルを退けたことについて主は多くの悲しみを持っておられる、ということです。それを「悔いた」と言われているのです。

神ははるか前から、ユダから出る者を王とすると決めておられました。ヤコブがユダについて祝福したときに、彼から王権が出てくることを預言したのです。けれどもイスラエルの民が王が欲しいと要求するので、主はそれを許されました。そこで選ばれたのがサウルです。サウルが主に従う者ではないことを初めから知っておられました。そしてその不従順によって退けなければいけないことも知っておられました。主は、ころころ王の選定を変えておられるのではなく、既に決めておられたので「悔いることもない」とサムエルは言ったのです。

ならば、神に感情はないのか?いいえ、サウルができるならば王としてずっと立っていてほしいと願ったのです。神は、全てを予め知っておられる方であるにも関わらず。普通の人間と同じように感情を一つにしておられたのです。ですから、サウルを退けたことを悲しまれたのです。

「初めから知っているなら、初めから選ばなければ良いではないか。」というのは人間の論理です。主は初めからイスカリオテのユダがご自分を裏切ることを知りながら彼を選ばれました。そしてイエス様は彼が最後の晩餐で裏切るその直前まで、悔い改めを迫っておられました。もしイエス様を裁くなら、「初めから裏切ると分かっていながら、最後まで付き合うなんて馬鹿だね。」となります。これは、神の忍耐と愛と憐れみを知らない者の言う言葉です。

私たちが、学生を愛する大学の先生だとしましょう。ある学生が勉学が全くなっておらず、このままではその単位を取れないのは明白です。これまでの経験から単位を落としてしまうのは十分に予想できます。案の上、彼は落第点を取りました。けれどもすべての学生をこよなく愛するなら、その学生に初めから終わりまで変わりなく親身に教えようとするのではないでしょうか?そして、できるなら心を入れ替えてほしいと願うのではないでしょうか?

人間である私たちがそうなのであれば、神はなおさらのことです。私たちはこうした神の「心」を、人間の身勝手な「理屈」によってつぶしてしまっているのではないでしょうか?

悪をも用いられる神

神が全ての私たちの事柄に関わる、というのは、何も良いことだけはありません。否定的な事柄にも関わっておられます。その代表が「心をかたくなにする」ということです。パロは神によって心をかたくなにされました。その他の箇所でも、例えば、エリの息子はエリの叱責を聞かなかったのは、「息子たちを殺すことが主の御心であったから」と注釈があります。

そうすると、「悪をも予定しておられる神なのか?」という反発が来ると思います。事実、極端な予定論は、このような聖書箇所を使って、「神は予め遺棄する者(つまり地獄に投げ込む者)を創造された」と結論づけるのです。

いいえ、神はすべての事柄に関わろうとしており、それがたとえ悪であっても、それをご自身の性質に沿うように動かし、ご自分の栄光を現すようにされているのです。パロがかなくなになるのは、パロが強情を張ったからです。エリの息子が父の言うことを聞かなかったは、彼らの心が捻じ曲がっていたからです。しかし、それを神は裁きと懲らしめの中でご自身がどのような方であるかを示されているのです。

私は以前、スーパーの鮮魚部門でバイトをしていたことがあります。費用節減のためにあらゆる努力をしていましたが、「魚は一切、ゴミに出すな」というモットーを作っていました。内臓であっても何であっても、商品として加工して何とかして無駄を省け、という意味です。

神も同じです。神の主権というのは、「すべての事柄を無駄にせず、ご自分の栄光のために働かせる。」ということです。ですから、善のみならず悪にも及びます。実に、その筆頭である悪魔にさえも及びます。黙示録を読めば分かりますが、悪魔は完全に神の掌握の中に入っており、実に神の栄光を表すための僕とまでなっています。神の許可なくしては何もすることのできない無力な存在です。

ではその悪を神が創造しているのか?いいえ。極端な予定論はそうだ、と言います。罪さえも創造した、と言います。しかし神から出てくるのは善のみです。予定論の中の神は聖書の神ではなく、哲学の中にある宿命論や決定論の神だと言えるでしょう。

1パーセント以下は神の御心

私は聖書にある神の主権を日本宣教にも当てはめています。なぜ日本でイエス様を信じる人が1パーセント以下なのか?隣の韓国は日本よりも少し遅く新教が入ってきたのに、人口的には圧倒的に違う?その違いは何か?ということです。

私は大学でまだ新しい信者であったときに、クリスチャンの先輩から上の題名の言葉、「1パーセント以下は神の御心」を聞き、初めは驚きましたが妙に納得してしまいました。

私は日本宣教の困難さについてうんざりするほど聞いてきたのは、「祈りが足りない」「伝道が足りない」「クリスチャンがきちんと生活していない」など、です。私はどんどんこのような掛け声に疑問が沸いてきました。「ちょっと待て!祈るのは、神がすばらしい方であるから、神に祈りたいと思う愛の心から出てくるものだろう。」「伝道は人をクリスチャンにするノルマを達成するための手段ではなく、キリストがその人のために死んでくださった、という神の愛に駆り立てられるものだろう。」と思ったのです。

いかがでしょうか?1パーセントは神の御心、と言う言葉があまりにも過酷に聞こえ、「こんな酷い話はない」と言う人が多いことでしょう。もちろん神はすべての日本人が救われることを願っておられます。けれども、今少ない理由を、私たちの責任にしているという前提がおかしいのではないでしょうか?理由は分からないけれども、神はそのようにしておられて、それでもって神は日本を愛しておられる、と考えることのほうが、私は平安が与えられます。

もし人間の責任を責めるのであれば、それはクリスチャンの人口率ではなく、神との生きた関係の中で私たちが怠慢になっていて祈らない、そして福音を伝えないということであり、1パーセント以下ということではないのです。これは神を、企業活動の投資(祈り)また業績(伝道成果)としていることと同じです。

「神は愛」「神は光」「神は火」「神は善」

私たちが「神の主権」と「人間の選択」を考える時に忘れてはならぬことは、その議論の中における「神」のお姿であると思います。これまでお話したように、いつのまにか聖書の神の姿からずれていくのです。そこで、英語ですと、”is”という言葉で神の本質を描いている箇所を取り上げます。

「神は愛です」”God is love.”

神は愛を持っている(God has love)のではなく、神は愛なのです。愛から発しない神の言動は何ひとつないのです。次に、

「神は光です」”God is light.”

聖書では「光」は、道徳的な清さを表すことが多いです。神は愛でありながら、聖い方です。先の例でいうなら、初めからサウルが不従順な者であることを知りながらも、そして彼を退けても、それでも悔やむ方です。愛しているのですが、聖なるご性質から退けなければならぬのです。

「私たちの神は焼き尽くす火です」”Our God is comsuming fire.”

ヘブル12章29節にあります。神は裁き主です。その怒りで人であっても天使であっても罰し、滅ぼし、苦しめられる方です。私たちはこの神は恐い、と思います。その通りです、恐い方です。

けれども実は私たち人間の中に、公正な裁きを望んでいる思いが与えられています。凶悪犯が公正に裁かれることなしに社会にのさばっていたら、「いったい神はこの世におられるのだろうか?」という疑問を聞くではないですか。神は公正に裁いてくださり、そして私たち各人を神は公正に裁かれます。

「まことに神は、・・・いつくしみ深い。」 “Truly God is good…”

詩篇73:1の言葉です。「いつくしみ深い」という言葉は「善い」とも訳すことのできるものです。神は善であられて、善ではないことから何かを行なうことは決してできません。

他にも神のご性質はありますが、今挙げた四つの本質を神は一瞬たりとも外れることなく、同時に持っておられるのあり、すべての主権的な働きはすべての本質を動機としておられます。そしてこの本質からずれていないかを、私たちは確かめていく必要があります。ヨブ記を読むと、ヨブと友人らの議論で何が起こったかというと、「裁く者」と「裁かれる者」が交換されてしまったことです。つまり、神の裁きに服すべき人間が、かえって神を裁く者になってしまったことです。「どうして?」という原因探しをすると、こうなっていきます。私たちは神を被告席につけてはならぬでしょう?

<資料としてお勧め>

「カルヴァン主義、アルミニウス主義、神のみことば」
チャック・スミス著
※私は上に書かれている事柄と全く同じ態度と立場を取っています。

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