続「日本を愛するキリスト者の会」について

私がここで先日、ここのブログで取り扱った「日本を愛するキリスト者の会」について水谷潔さんが、数多く記事を書き始めておられます。

最初の記事:「君は「日本を愛するキリスト者の会」を知っているか?」

この会について、キリスト新聞が一面広告に掲載したようです。そして、続けて読みますと、なんと、上の記事を掲載したとたん、爆弾メールが送られてくる、クリスチャン新聞関係者のフェイスブックが大量苦情で一時閉鎖されるなど、誰の仕業が分かりませんが、犯罪と呼ぶべき攻撃を受けました。そして、それでもめげずに投稿されていますが、拙記事も取り上げてくださいました。

「日本を愛するキリスト者の会」に言及したブログ記事の紹介

偶像礼拝の罪

ところで、当会のウェブサイトに理事たち何人かのコメントが掲載はじめられました。このことについて、私の立場を改めて書き残したいと思います。

理事コメント

まず、趣意書を書いたであろうと想像する事務局長、また副事務局長のコメントについては、政治的立場以前の、聖書や信仰の理解に深い懸念を抱いています。はっきり申し上げますと、キリスト教に神道を混交させている、あるいは極めてそれに近い立場を取っています。今回の会の設立に対して、私はキリスト者として強い反対を表明しなければいけない根拠となっております。

以前、地引網出版の編集長、谷口和一郎氏が事務局長と誌面上で討論されたことがあるそうです。

神道の神と、聖書の神

谷口編集長の応答は、私が「神道を摂取する宣教?」で書いた論拠と全く同じ内容です。日本に生きているキリスト者としては、福音宣教においてどのように偶像に対峙するのか、非常に大事な内容になっていますので、ぜひお読みください。

政治思想改革によって霊的復興はない

その他の理事の意見は、日本の歴史や思想の見方としてはそれ自体は尊重したいと思います。ある面ではその通りだと頷けるものもありました。そして私自身問題意識を抱いていた、「キリストの体には、キリストへの信仰という一致以外は、思想的にいろいろな考えがあってよい。」という考え方に合致するものです。それを、個々人の教会指導者の思想や政治的立場を、「これこそがキリスト者のすべきことである。」として推し進めて行っていたこと、このことに深い懸念を持っていました。ゆえに、このような意見の牧師たちもいるのだということを知るだけでも、他の考えを持っている人たちは安心するだろうと思います。

私自身、水谷さんから、「聖書的で健全な政治的保守派」を体現するようなブロガー」と評されました。このように受容されたこと自体、心が安堵しました。

しかし、この会の理事の人々の共通した信条は、「このことによって、日本のリバイバルを期待する」というものです。これが、私には同意できません。もちろん、私も同じように霊的覚醒を強く期待する者です。しかし、政治や歴史認識の改革を、キリスト者の間で啓蒙するということと、霊的復興は、ブログ記事で前述したとおり全く連動していません。私は、

「私たちは、キリストを徹底的に主とし、互いに熱く愛し合い、祈りに励み、そしてキリストの復活を前面に宣べ伝えている中で、聖霊が“主権的”に降りてこられて霊的覚醒が起こる。」

と信じています。同会の霊的な問題点だと私の感じるものは、「神道との融和」の他に、「方法論に基づいた宣教」であります。「~をすれば、リバイバルが来る」という、人間主体の教会成長論、成功哲学に通じる考えが見えることです。否、神の恵み、聖霊の主権の先行する働きが、教会史や世界宣教の現場で一貫して見える霊的覚醒です。

危機だからこそ、神の契機

しかし、理事の人々の文面から、熱い救霊の思いが伝わっています。そしてこの会ではない、一般のキリスト教会の左派的な考えを持っている牧師さんたちも、同じように日本が危機的状況の中にいるということでは一致しています。私も共通した思いを持っています。

むしろそうした危機を、政治思想や歴史認識の修正や改革、または政治行動に移して拙速に反対表明を出す(左派の福音派)ということではなく、ますます共に祈り、日本のため、指導者のため、そして自分の国だけではなく世界を見つめて、世界のキリスト教会のため、また、迫害されている兄弟姉妹と心を一つにして祈り、たとえ日本がおかしな方向に行ってしまっても、教会だけはじわじわと、前進しているという姿を見たいです。

教会史において、世界宣教状況において、国の危機の時に霊的復興が確かに起こっています。国が低迷しているから教会も低迷するのではなく、低迷しているからこそ、キリストの復活の力でむしろ活力を持ちます。人々に霊的な飢え渇きが起こります。人目には認められないでしょう、ちょうど右手が左手に知られないようにして、御霊の力強い働きは進むでしょう。

しかし、たとえそうでなくても、私は堂々と「少数派」で信仰を貫きたいと思います。

妥協する教会と、告白する教会

一つ記事を紹介したいと思います。

8 Clear Signs of Compromising Church
(妥協する教会の八つの明らかな徴)

かつてナチス・ドイツでの教会は、その国家社会主義の方針に信条を合わせた教会の流れに抗う、「告白教会」がありました。ボンヘッファーがその中で著名です。記事では、今のアメリカにおいても次第に宗教の自由がなくなっている中で、その圧迫が強くなると、「妥協する教会」と「告白する教会」に振り分けられると話しています。妥協する教会の八つの徴を挙げています。ヨハネ12:42-43には、イエスを信じても神からの栄誉ではなく、人からの栄誉を愛したので、告白しなかったと書いてあります。

1.告白する教会では、キリストは文化より上にあります。
  妥協する教会では、キリストを文化に適応させています。

2.告白する教会は、反対があっても神の言葉をしっかり保ちます。
  妥協する教会は、反対があるので御言葉を改定します。

3.告白する教会では、神の御国を文化と民族性より上に置きます。
  妥協する教会では、御国よりも民族性を前面に置きます。

4.告白する教会では、宣教の手段は変えます。
  妥協する教会では、宣教の内容を変えます。

5.告白する教会は、教会と国家の中では少数派の残された者たちです。
  妥協する教会は、教会と国家の両方の主流派となります。

6.告白する教会は、国家政府から刑罰を受けます。
  妥協する教会は、国家政府から称賛を受けます。

7.告白する教会は、権力に対して預言します。
  妥協する教会は、権力に調子を合わせます。

8.告白する教会は、神の栄誉を求めます。
  妥協する教会は、人の栄誉を求めます。

これからの日本の教会にとっても、見えてくる振り分けになるでしょう。

衆院選を控えて

ところで間もなく衆院選ですが、二つのことを読者の方にお願いさせてください。

①お祈りしてください、この国のために執り成してください。

投票では誰かを選ばなければいけないのですが、誰が選ばれたとしても、これからの日本の舵取りは、行き先が分からない濃霧のようなものになっています。キリスト者であるがゆえ、暗き世に来られたキリストを信じているがゆえ、希望を持って祈ることができます。これが何よりも大事なこと。そして、

②私の意見と自由に「異なる意見」をお持ちください。

私は、「キリストの体には、様々な考えの人たちがキリストにあって一つにされている」ということを心から信じています。したがって、支持する政党、政策は、キリスト者としての祈りを持ちつつ、私の考えから全く自由にされて、投票していただけたらと思います。私と個人的に特定の政治争点で意見が違くても、私が牧師だからといって、それに従わないといけないと決して思わないでください。私はなるべく個人的意見は控えるように努めているつもりですが、漏れてしまっていることは確かです。(笑)けれども、一向に気にかけないで意見を保っていていただけたら嬉しいです。

「続「日本を愛するキリスト者の会」について」への1件のフィードバック

  1. 水谷さんのブログで、私が「聖書的で健全な政治的保守派」を体現するようなブロガー」と紹介されたことについて、先日、フェイスブックで以下のように説明しました。

    私の紹介で「政治保守派」とありますが、必ずしも既存の保守政党の意見と同じにしていません。むしろ、次のことが気になっています。ツイートしたことをこちらに紹介します。

    *****
    日本人は戦後、あれだけ復興を(国際貢献も含めて)したことを、どうして誇らないのだろうかと不思議。戦前の是非ではなく、戦後の努力と尽力をもっと誇るべきで、その人々は今も生きておられるのだ。

    アジア女性基金理事長、大沼保昭氏より「日本の民族、日本の国に誇りを持つことは大事なことです。誇りを持つに足る国だと思います。まず、そこははっきりさせましょう。特に、戦後の焼け野原から立ちあがり、豊かで安全で、自国より貧しい国には多額の経済援助、技術援助をする国を作り上げてきた。このことは、世界に胸を張って誇るべきことであり、もっと語られていいと思います。若い人たちにもぜひ誇りを持たせて欲しい。」

    私は、日本よりは後進といえる国にも住んだ。戻ってきた時に、何でも日本が素晴らしく見えた。当たり前だと思っていたものが全て、先人の汗水の知力と努力のおかげであり、それを神に感謝した。ところが、日本に嫌いな面が見えてきた。それは、「当たり前に思っていること、文句を言うこと。」だ。

    政治家にしても、企業人にしても、役人にしても、その一人一人の不断の努力によって、私たちの豊かな生活が保障されている。それなのに、末梢的なことでああだ、こうだと言っている姿、特にマスコミがそうしたそうした不満を無理やり造成している姿を見て、ものすごく辟易した。

    最近、アメリカは感謝祭があったが、普段から世話になっている公の場にいる人々に、感謝の思いを示すこと、そして究極的に神に感謝すること、当たり前、当然の権利だと思わないこと、これが今の日本に必要だと思う。

    そして私が嫌だなと思うのは、日本人が「人」にしろ「制度」「政府」に期待しすぎていること。人が罪を犯し、それゆえ限界があり完全なのは神のみというのが私の聖書観。私は自分で保守的だと思うのは、そうしたものに信頼していないこと、むしろ神の憐れみで立たせられている人々だという見方。
    *****

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