私の福音派再検討

このブログ記事には、福音派クリスチャンとして、自らの歩みを再検討させられました。

上のブログ記事を読みました。そして、その中にあるリンク先の二つの記事も読みました。ご本人のフェイスブックにコメントを入れようと思ったところ、かなり長文になってしまい、ちょっと躊躇しました。それでこちらに掲載させていただきます。実は、以前にも次のブログ記事でも取り扱ったのですが、もう一度取り扱わせていただきます。

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アメリカの教会で訓練を受け、韓国の教会の兄弟姉妹とも交わっている、その経験者としてお話しさせていただきます。問題意識としては全く同じものを共有しておるのですが、そのアプローチの中に、違和感を抱く者の一人です。

お互い不完全な者同士

第一に、韓国の教会もアメリカの教会も、「不完全である」という前提になぜ立てないのだろうか?という疑問です。教会はどこでも不完全であるという実体は、新約聖書から出てくる教会観です。そこでなおこと、主がその教会を立て、愛しておられるという視点です。ですから、これまでの教会のあり方を述べるばかりでなく、「自分自身が”無批判に”全てを受け入れてしまった。」という反省を、もっとすべきではないでしょうか?

リンク先の文章には、確かに区分けはされているかもしれませんが、どうしても十把一絡げに福音派のあり方として、象徴的にビリーグラハム伝道、韓国のラブソナタなどを取り上げている。そこに些かの粗雑さがあるように見受けられます。

「自己批判」しているようで未だ「他者批判」

例えば次の一文「参加者の方には高揚感があるかもしれないが、結果として一時的なものであり、表層的なものであり、本質的に日本の宣教(そこまで大げさなものでなくても)を変えるという内生的なものといえるのかどうか」。確かに、表層的、一時的なものになりえるでしょう。しかし、それはこの伝道方法がいけないからそうなのか?いいえ、日ごろからのキリスト者としての生活と証し、そして伝道の後の、きめ細やかな働きかけ。これがあってこその伝道集会であり、その文脈を外してイベントとしてしまっていたとしたら、その責めはビリー&フランクリン・グラハムの大衆伝道ではなく、我々「日本の教会人」ではないのでしょうか?

いや、日本の霊的・精神的土壌は依然として堅いのであり、誰が何をやっても・・、というところが大きいのです。「それでもなお、私たちは伝道したい、神が日本を愛しているから。」という情熱が、どんな形であれ、どんな人であれ、日本における伝道を支えたのではないでしょうか?そのぐらい、BGEA(ビリー・グラハム伝道協会)はわきまえています。世界の中で、日本が最も頻繁に伝道大会をした国であるという事実からも、彼らが「費用 対 効果」を狙って伝道しているのではないことに気づくはずです。決心者の数だけを考えていたら、当の昔に日本を見放していたはずです。

そして「イベントの消費」と言いますが、イベントは飽くまでも通過点であり、しかし「通過点としての意義」があるのです。それを大事にしたい。そうすれば、消費は浪費ではなく、確かに結果を出せるのです。ある人は、個人で聖書を読み、魂の救いを得るかもしれないし、ある人は友人の献身的な行為によって教会に集ったかもしれない、そしてある人は、このような大型伝道集会の中で、真正な新生体験をしたかもしれない。規模が大きかろうが小さかろうが、「地道な伝道活動」こそが着実に御霊の実を結ばせるのです。

今は「高度成長期後の痛み」の時代

私にとっては、リンクされた先の二つの記事に書かれている福音派の問題提起はとっくの昔に心の中で処理しています。高度成長期の教会のあり方は、初めから間違っていました。今は、その後遺症の中でリハビリをしている教会群が日本に、そして世界に連なっているのではないでしょうか。その中を通って、それで痛んでしまっている兄弟姉妹と共に歩みたい。アメリカの兄弟姉妹、韓国の兄弟姉妹に、そのような福音派の兄弟たちが同じような痛みを持っています。福音派の動きの中にいながら、なおかつその対等な関係を結べるはずなのです。

社会弱者に近づけない社会派

一つ、二つの文章の中で同意したのは、自己批判されている部分です。社会的な底辺に寄り添おうとしている福音的左派の人が、実際の人々に届いていないという例です。福音派の問題点を取り上げ、福音派の保守性に反発を覚え、対峙する人々には共感させる言葉を持っているが、その対象となっている社会底辺や周縁の人々自身は彼らの教会にそっぽを向いているという事実です。私は貧しい人たちと付き合っていませんが、在日の外国人、特に中国人の兄弟姉妹との付き合いはあります。彼らは一様に福音派的であり、今回の伝道集会では、中国人は同時通訳を付け、「中文」の看板を掲げ、降りて行く決心者へのカウンセリングをしていました。

このことを問わないといけません。「「観念的」には正しくても、「力」となっているのか?その人たちを助ける「権威ある良き知らせ」の言葉を持っているのか?」ということです。単純に御言葉を語る福音派やペンテコステ派のような教会のほうが、社会問題を説教壇から話していないのに、むしろかえって、社会的底辺にいる人々を支えているのです。彼らの通っている問題に直接触れる権威と力を持っているからです。そして、言葉の前に行動に移しています、ホームレス、風俗、外国人など、社会問題を語らずとも、それらの問題の中に結果的に関わっています。

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教会に入り込む政治

第二に、元の紹介されている本の選択です。政治的傾向を強く持つ人に拠って書かれた本が無批判に紹介されている、このことに問題を感じます。もちろん、良い点が書かれていればそれは推奨してよいのですが、韓国の教会にある深刻な状況を知ったうえで紹介しているようには見受けられませんでした。

私は、その著者を存じませんが、しかし本の紹介文を見るだけで、問題の解決ではなく問題の一端にもなりかねない、今の韓国の深刻な教会状況を見せているのを察知しました。簡単に言うと、右左の「教会の政治化・二極化」が起こっています。日本の教会よりも韓国ではるかにもっと酷くなっています。日本にはその状況がまだ紹介されていませんが、韓国の牧師さんたちから、大きな問題になっているとしてたくさん聞かされています。ある牧師さんは、こう説明してくださいました。「韓国の教会では、説教壇から、その牧師が朝鮮日報を読んでいるか、ハンギョレ新聞を読んでいるか、どちらかが分かる。」日本でいうなら、朝鮮日報は産経・読売のような右派、ハンギョレは東京新聞・赤旗のような左派の新聞です。神の国は世のものではない、いや世を凌駕する政治性を持っていると言ってもよいでしょう、それなのに、打ち勝つのではなく埋没してしまっている由々しき状況があるのです。

ですから、私は再び同根の問題を見るのです。振り子を揺らしただけではいけないだろう?という逆の問題提起です。

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それは、元々社会派で、その中で痛んできた人々から聞くことによって分かります。この本の著者のような保守福音から社会派に行った人だけでなく、その反対に動き福音的になった人々もいるのです。その人たちが、人というもの、その全人的な姿を無視した形で社会活動にいそしみ、疲れてしまった。自分たちが取り組んでいる同種の問題が教会の只中で放置されてきた、という事があるのです。

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福音派の教会群にある、教職者による政治活動にその萌芽を見ます。その活動に多様な人々を愛で持って接したキリストの姿を本当に表しているでしょうか?それは信徒の間に共有されている動きなのか?教職者が突っ走り気味で、マスコミもそれに乗っかっている「流行」がそこにはないか?そのような動きに既に、まさに、ビリー・グラハム式伝道を取り上げて批判している同じモノが見えているのは、私だけでしょうか?このことも批判的に考察しなければ、同じく「無批判に全てを受容」という過ちを犯すのです。

関連記事:「神はなぜ戦争をお許しになるのか
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日本人の肉の問題

以上がフェイスブックでコメントしようと思った内容でした。最後に、苦言を申し上げます。セレブレーションオブラブにおいて、日本の教会像にある一つの問題を見ていました。それは、一言でいえば「プライド(肉の誇り)」です。フランクリン・グラハムの政治発言は問題だなど、何かよく分からない理由を付け、教会として関わらなかった牧師たちがいました。(しかも、その問題発言として断定している情報も、かなり不確かなものに基づいています。)彼が、日本で説教壇から米国内の政治問題を語るのでしょうか?いいえ、今回も、彼はあまりにも単純に、壊れたテープレコーダーのように、神の愛と十字架にある罪の赦しのみを繰り返していました。

他者との関わりを些細な理由で避けるこうした傾向に、「自分たちにある問題を、他者の問題を取り上げることによって、見えなくさせている。」という日本人の高ぶりを見るのです。

教会の中でよく起こることです。ある程度、人が増えると、自分に注意が向けてくれない、自分の願っていることがかなえてくれない、という自己中心性から、「この教会は」「この信徒は」「この牧師は」という他者批判をするのですが、肝心要の、「では、あなたは神の前でどうなのですか?」という、自己点検をしないのです。それで、ある程度大きくなっても、また小さくなるのです。一教会で起こることが、大規模な伝道大会によって、今度は牧師たちの間にも起こっていたのではないか?と思います。(注:不参加の牧師の方々全てを指していません。それぞれの事情があったと思います、他の理由があったと思います。けれども、理由になっていない理由で不参加の意見を見聞きしました。)

牧者が置かれているのは、「聖徒たちを整えて、奉仕の働きをさせる」ということです。この大衆伝道を否むほどの「キリスト者の生活における証し」を整えましたか?事実は、それぞれが、とてつもなく厳しい霊的土壌の中で、なんとか自分の信仰を保っているという状況ではないでしょうか?そして、自分自身、しっかりと整えてあげられていないという申し訳ない気持ちがあるのではないでしょうか?私はあります。ですから、この伝道大会について神に感謝を捧げているのです。彼らには、そうした悩みをもっている聖徒たちを助けたいという寄り添いがありました。大いに兄弟姉妹が励まされました。世界的な御霊の働きを垣間見れたのではないかと思います。

1967年に武道館でビリー・グラハムが説教しているのを聞いてください。

Billy Graham in Tokyo: It’s Time to DecideWatch part of Billy Graham’s sermon from the historic 1967 Crusade in Tokyo. Nearly 50 years later, Franklin Graham will share the Gospel this weekend at the same venue his father preached in decades ago.

Posted by Billy Graham Evangelistic Association on 2015年11月18日

「私たちアメリカがキリスト教国だと思わないでください。イエス・キリストをアメリカの外交政策で判断しないでください。イエス・キリストはアメリカ人ではありませんでした。ヨーロッパの人でもありません。アジア系の人でした。中東で生まれ、中東で育った方でした。聖書は神の御子であると言っています。最も偉大なことは、キリストが十字架で死なれたことです。あなたの罪も、私も罪も、そこに負わせてくださったのです。キリストを受け入れる決心をしてください。」

1967年に、未信者向けに語られたメッセージを、2015年の牧師たちも聞かないといけないのではないでしょうか?まことに恥ずかしいことです。

最後に、日本人の高ぶりについて示された御言葉を分かち合います。

主はこう仰せられる。「あなたがたの母親の離婚状は、どこにあるか。わたしが彼女を追い出したというのなら。あるいは、その債権者はだれなのか。わたしがあなたがたを売ったというのなら。見よ。あなたがたは、自分の咎のために売られ、あなたがたのそむきの罪のために、あなたがたの母親は追い出されたのだ。なぜ、わたしが来たとき、だれもおらず、わたしが呼んだのに、だれも答えなかったのか。わたしの手が短くて贖うことができないのか。わたしには救い出す力がないと言うのか。見よ。わたしは、しかって海を干上がらせ、多くの川を荒野とする。その魚は水がなくて臭くなり、渇きのために死に絶える。(イザヤ書50:1-2)」

「自分の咎」が神を自分から引き離したのに、「アメリカ式の福音が」とか言って他人の責任にする。そして、「主を呼び求めなかった」のが問題なのに、「単純な十字架のメッセージだけではだめなのだ」と言ってしまう。そこに抜けているのは「自分への取り組み」なのです。私たちは、自分の罪を悔い改め、主を呼び求める、神の民です。

「私の福音派再検討」への3件のフィードバック

  1. 日本での伝道集会については、どの国主催の伝道集会も、日本人が、たった一人でも救われたら良いという気持ちでしておられると聞いています。
    ありがたいことです。
    教会については、世界中の地域教会はどこもかしこも、問題の大小に違いはあれど、欠けだらけです。
    神の目には、まことのキリスト者だけが集まる目に見えない大きな霊的な普遍的な教会が、できつつあると思っています。

  2. フェイスブックでの投稿です:

    一般のニュースサイトの記事ですが、世界を変えているトップ10の団体の中には、いくつもキリスト教の団体がありました。サマリタンズ・パースは第六位です。世界の危機的状況には、必ずこの団体が初動し、継続的な援助活動をしています。

    サマリタンズパースが、世界を最も変えている団体トップ10の一つとして選ばれました。これからもイエスの愛を携えて働きを進めていきます。

    Posted by Samaritan's Purse Japan (OCC) on 2015年12月3日

    このCEOは、先日のセレブレーションオブラブの伝道者として来たフランクリン・グラハムです。来日する直前には、カンボジアにおり、そこから直接日本に来ました。サマリタンズ・パースとしては、最も記憶に新しいのは東日本大震災の後の復興支援活動のことです。地元の教会の方々は、彼らの献身的働きをよくご存知でありましょう。

    フランクリン氏にことさら肩を持つ気はありません。けれども、彼のことが好きだし、尊敬します。福音宣教の言葉は非常に単純で、朴訥でさえあります、言葉の雄弁さに頼っていません。そこにあるのは忠実さです。そして実際の慈善活動を行っています。米国内の霊的状況のために、祈りの集会を今、各地で持っています。そして彼のフェイスブックに出てくる数々の政治的発言には、強い批判と抗議も含まれますが、それは非霊的な動きに対するものであり、信仰的動機があります。

    時々、「えっそこまで言っていいの?」という文言はあります。国際的な団体の代表としてもっと注意しないと、反対者に隙を見せるという心配はします。しかし、真意は受け取れます。

    二つの団体の動かし方は大規模であり、機動力があり、末端ではちょっと強引に感じてしまうこともあるでしょう。私も東日本大震災の初動で、あることでお手伝いしましたが、怒り心頭したことがあります。しかし、その初動で飛行機をチャーターして、90トン以上の食糧と水をいち早く運んだニュースを見て、悔い改めました。

    このような莫大な働きを任されているなかで、その欠けに見えるようなものは、1%にも満たないでしょう。いや、それが数パーセントあろうとも、キリストの十字架を宣べ伝える、愛の実践を行なう大義の中では、雲散霧消します。結局のところ、良い実があるのです。これが真実な声を持っているかどうかリトマス紙であることを、私たちの主は言われました。

    日本のキリスト教界にある、ビリー・グラハムやフランクリン・グラハム氏に対する批判を見るにつけ、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」的な、今の反安倍の動きのような、”嫌悪感”に基づいたものであることに気づきます。批判をしているのは結構ですが、私たちは、その大会で決心したり求道を始めたりした方々へのフォローアップのために、祈っています。フランクリンは単なる器です、器に注目して、彼を使った神の働きをおろそかにしたくありません。

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