ビリー・グラハムの背教??

「村上密氏に注意!」・・と書かれたらどう思われるのだろうか?という疑問が、下の村上密牧師のブログを見て思いました。

ビリー・グラハムの背教

この方は、カルト化した教会などで被害を受けた人々を援助している貴重な人であり、ブログには出てこない凄まじい現場を通っているのだと思います。俎上に上げているのは氷山の一角であり、その十数倍の事件や出来事を抱えているのだと想像します。

しかし、このブログには必ずしも自分が取り組んでいる分野ではないものも取り上げており、その情報の選択が、「杜撰」と言わなければいけない時があります。インターネットで引っ張ってきて、継ぎ接ぎだけをしているのではないか?と疑われるものが混在しています。その「裏」を取っていないのです。後で説明しますが、上の「ビリー・グラハムの背教」というのは典型的な例です。

以前、カルバリーチャペルにおける不祥事を取り上げたので、そこで私がすぐに連絡したことがあります。(拙記事)文章の最後に、それとなく書いていますが、実は私がかなり情報を急いであげたことによって、ようやく止めることができた誤情報がありました。掲載している写真はカルバリー・チャペルではない、メガチャーチの写真を貼り付け、それがカルバリーのものであるかのように取り上げていました。そして異端的な教えを、カルバリーチャペル・コスタメサで主任牧師となったブライアン・ブローダソンが教え始めたという内容です。その異端的な教えに対する警鐘を鳴らす冊子を彼自身が書いていた、にも関わらずです。

イエスの御名のみによる救い

「背教」というのは、聖書の中でかなり強い意味を持つ重要な言葉です。終わりの日の徴として、不法の人が現れる前に起こることとして、パウロがテサロニケ人への第二の手紙で話していることです。これを誰か個人に当てはめることは、たとえその人が逸脱の教えをしているとしても、悔い改めることを願って、私ならば躊躇します。そして、しばらく見て、精査して、それでもやはり警鐘をならさなければいけないと思った時には、はっきりと言います。注意深さと慎みを必要とする発言であります。

ビリー・グラハム氏の何をもって背教なのか?引用元の動画を見ると、彼がいわゆる「包括主義」の救いの発言をしていることが分かります。イエスの名を聞いたことがなかった人が、その与えられている一般啓示に応答する時に、その名がイエスであることが分からなくても、何らかの方法で救われうる、という考えです。ビデオでは、「異端である」と断定しています。

私自身も、この救済の考え自体には大きな問題を感じています。この前のブログ記事で、包括主義の問題を取り上げました。しかし、それを異端と呼ぶべきか私は躊躇しています。なぜなら、イエスの御名によってのみによる救い、そうでなければ失われるという根本の真理においては妥協していないからです。この教えは、全ての人が無条件で救われるとする普遍救済とは別物です。

そしてそのビデオは、ビリー・グラハムがフリーメイソンであるという、他の有名な伝道師などがいつも取り上げられる、(根拠に乏しい、憶測だけで成り立っている)都市伝説や陰謀論の類いを上げています。こうしたビデオを、他に真面目に取り組んでいるカルト化した教会の中で苦しんでいる人々のことを覚えて、教会の問題を指摘している記事の間に書いています。

包括主義的な救いを話したことのある人は、福音派の教師では、J.I.パッカー、J.N.D.アンダーソン、ジョン・ウェスレー、ウィリアム G. T. シェド、C.S.ルイス、ジョン・ストットがいます。(Theopedia)日本ではJ.I.パッカー、ジョン・ウェスレー、C.S.ルイス、ジョン・ストットが知られているでしょう。ビリー・グラハム氏を背教と断定するなら、これらの福音派の教師も背教と断定していただきたい。

そして果たして、ビリー・グラハム氏が強く包括的な救いを信じているのかどうか、それ自体も怪しいのです。彼は無数の伝道説教で、その伝道方法そのものに、「イエスの御名を呼び求めることによって、初めて救われる」という特殊的救いを信じているからこそ、できる働きをしています。次の記事の中に、彼の明確な立場が書かれています。

Graham’s Beliefs: Still Intact(グラハム氏の信条は今だ健在である。)
Contra claims to universalism, evangelist says, “I do believe that non-Christians are lost.”(普遍的救済を信じているという主張とは裏腹に、この伝道者は「キリスト者でない者は、失われていると信じている、と言っている。)

これが「裏」というものです。一つの情報だけに頼らず、他にも探します。それから、その情報が頼りにしている最初の出所がどこにあるのか明示してあるものだけを信頼します。インターネットを使用しているのなら、そのぐらいすることは初歩のマナーです。

戦争支持をすれば異端?

村上密氏だけではないですが、ビリー・グラハムを批判し、危険視さえしている発言をしていることに対して、その他の根拠は実に乏しいことが多いです。

まず、ビリー・グラハム氏が歴代の大統領と親密な関係を持っていることについて、警鐘を鳴らしていますが、「はあっ?」であります。彼はその大統領がどのような考えを持っているか、そんなことで親密な関係を持つのではなく、立てられている大統領ということだけで執り成し、祈り、その働きを支えようとしてきました。しばしば共和党支持ということを言いますが、民主党のクリントン大統領も彼によって霊的に支えられており、党派性は持っていないのです。テモテ第二2章に書かれていることを、そのまま実践しているに過ぎません。

ビリー・グラハム氏を公平に見ると、彼はある意味で、私の牧者であったチャック・スミスに似ています。つまり、「人を大切にする」のです。教理や信条はとても大切ですが、その前に「人そのもの」を大切にします。それゆえ、その人が変なことをすると、彼も矢面に立たせられます。かつて、犯罪を犯して牢屋に入れられたテレビ伝道師、ジム・ベイクカーが刑務所でトイレ掃除をしていた時に、面会に来たのはビリー・グラハムで、その彼を抱きしめ、「愛しているよ」と言ったのは有名な話です。彼が釈放された後は、奥さんのルツさんが教会で隣の席に座りました。

だから大統領が戦争を遂行している時は、どうしても戦争を支持するような発言をしてしまいます。けれども、クリントン氏が大統領職を務めていた時は、保守派から、クリントン氏のしていることを受け入れているような発言をして批判されていました。これが彼の弱さでもあり、強さでもあるのです。「憐れみ深い者は幸いです。その人は憐れみを受けるからです。」というイエス様の御言葉の通りです。

戦争を支持する発言について、元々、宗教者から過激な発言を引きだしたがっているマスコミの取材に答えて、それが流布しているものが多いのですが、しかしその後に言葉足らなかったことを補足し、修正することが多いです。しかし、その補足については広められません。ましてや福音伝道をしている時は、その宣教に妨げになるような要素があれば、何でもかんでも捨ててしまいます。ビリー・グラハム氏が日本で伝道した時は、「アメリカはキリスト教国ではない。アメリカの外交政策でイエス・キリストを推し量らないでください。」と言っています。

そもそも、戦争の支持如何で、その人の救いや信仰の正統性が判断されるのでしょうか?聖書のどこに、そんなことが書いていますか?バプテスマのヨハネが兵士をやめなさいと言わなかったこと、イエス様ご自身が、百人隊長に寄り添い、その信仰をほめたこと、これも異端的なのでしょうか??「この人の戦争支持発言はいただけない。」と「発言」自体に批判をすることは、大いにしていいことですが、その人の人格や信仰までを疑わせるのは、私は卑怯だと思います。

宣教命題より政治的志向を大切にする牧師たち

そして共和党の大統領候補ロムニー氏をビリー・グラハムが支持したことについて、彼がモルモン教徒であったことから問題視している記事もあります。これについてはかつてブログ記事で書いていました。

憲法改正を阻止しようとする政治家がモルモン教徒なら、どうしますか?(注:リンク切れ)

この題名をしっかり考えて、どこに投票するか決めてみてください。米国人のクリスチャンたちが前回の大統領選において、どのような苦渋の選択をしたのか、ご想像できるかと思います。筆者は、現実的に「公明党」に投票するならば、憲法改正阻止、原発廃炉などの方向に少しでも向かわしめる選択肢であっただろうと言っています。

日本のキリスト教会には、反原発、反特定秘密保護法、反安保法制、反・憲法改悪の牧師さんが多いですが、効果的にその動きを止めるには、与党の公明党に投票するのが最も効果的です。けれども、彼らの支持母体はもちろん創価学会です。さあ、どうしましょうか?民主主義の政治には、必ずこのような捻じれが起こります。おそらく、モルモン教が何だかということではなく、ビリー・グラハムやフランクリン氏の政治の保守派への近づきを嫌がっているのではないかと思います。私はこのことに大きな問題を感じるのです。「牧師たる者が、宣教的志向より、政治的志向を優先させた。」という問題です。

終わりの日に気をつけるべきこと

終わりの日には背教があります。多くの人が信仰から離れます。これらは使徒たちが教えた通りです。しかし、同時にパウロは終わりを意識して、広い心を保っていることを命じています。

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。(ピリピ4:4‐5)」

ヤコブは、兄弟を裁くことについて、終わりの日を思って警告しています。

兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。さばかれないためです。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。(ヤコブ5:9)」

教会の背教を警鐘しているサイトには、数多く、上の御言葉とは正反対に動いているものがあります。私の身近にも、警鐘しているはずの人が、だれかれもみな「背教」と言い始めたので、自分自身が変なことを言うようになったという例があります。偽りの教えに気をつけながら、もっと大事なこと、すなわち「初めの愛」「聖霊による喜び」「偽りのない信仰」などに気をつけたいと思います。

最後に、最初に言った「村上密氏に注意!」というのはショック療法です。もちろん全然、そう思っていません。むしろ、そのようにやたら警鐘したがる人々の性向に対して、注意喚起として皮肉を込めて書きました。

関連記事:「私の福音派再検討

【補足】
今週月曜日は、アメリカで「キング牧師の日」という祝日でした。その時に紹介されたビデオをフェイスブックで紹介しましたが、ここにも掲載します。

MLK and Billy Graham: Taking Down the Ropes of SegregationOn this #MLKDay, take a few minutes to watch the rarely told story of the friendship between Dr. Martin Luther King, Jr. and Billy Graham, and the ways they worked together to end segregation.

Posted by Billy Graham Evangelistic Association on 2016年1月18日

このビデオは、とてもレアな、伝道者ビリー・グラハムとキング牧師の友情を垣間見る映像です。驚いたのは、ビリー・グラハムがセレブレーションでも見たような、大衆伝道の只中でその会場に白人と黒人を分離するロープが貼られたことで、激しく反対し、和解の福音を伝えている場面です。「キリストこそ私たちの平和です。二つのものを一つにし、隔ての壁を壊し・・(エペソ2:14)」

「ビリー・グラハムの背教??」への5件のフィードバック

  1. 村上先生に相談を、し助けられたことがあるので、悪くは言いたく有りませんが、村上密Blogを拝見すると、背信をした牧師の話題ばかりで、
    この牧師も?と思ってしまい、教会に行くのが怖くなります。
    今は、終わりの時代ですから、背信は避けられないことではありますが、
    全て信じていたら、疑い深くなります。
    フランクリングラハム大会でも、裏は危ない人なのか?と思ってメッセージを聞いてしまいました。

  2. 後の雨運動と繁栄の神学とベニーヒンなどの癒しの器を招へいし通訳している、教会にいた時、『罪を語らずに、復活をも語らずに』、イエス様を信じれば、国籍は天にあるから、救われると、主張しすぐに洗練を授けて1/10以上の献金を要求する教会でした。罪を語ると心に傷を呼びかえすからだと説明してます。ロマ書の信仰による義をまともに語れない。十字架と復活の信仰を語らずに、献金や、奉仕、家庭集会での献金と信徒に、教会の学び(金を払って)を忙しければ、夜にするようにと、金のみが中心です。聖餐式で癒しが起こると主張して、病人や若くても死人が沢山出たので、主任牧師に、聖餐式での罪の悔い改めを丁重にしましたが無視されました。またトロントプレッシングを強調するので、大金を使ってカナダまで行った信徒たちが沢山いましたが、初めの愛に立ち帰るどころか全く聖霊の実をひとつも結ばないのです。成功、繁栄、勝利、健康を信じて多くの献金をしてきた青年会の女子たちは、白馬の王子が現れると信じて、もう50台です。聖霊の理解が誤っている。ピーターワグナーの新使徒運動も、偽ものだと思います。偽ものは、キリストイエスを中心にするのではなく、信徒たちからの金にのみを求める、この世の人々と、全く変わらないオオカミに私には思えます。だから、先生の考え方は、被害にあった私には甘く思えます。

  3. トマスさん、これらの被害について村上先生が取り組んでおられることを前提に、断り書きを入れて書いております。

    「この方は、カルト化した教会などで被害を受けた人々を援助している貴重な人であり、ブログには出てこない凄まじい現場を通っているのだと思います。俎上に上げているのは氷山の一角であり、その十数倍の事件や出来事を抱えているのだと想像します。」繁栄の神学に関わる警鐘について、私もその通りだと思っています。

    しかし、そうではない教会も神の憐れみによって存在しているのだ、いや、たくさんあるのだ、というバランスが必要です。もちろん、教会は完全ではありません。でも、一部のおかしくなっている教会で起こっていることを全ての教会でもそうなのだ、という傾向に対しても気をつけなければいけないと私は感じています。

    村上先生のブログでは、しばしばアメリカでおかしくなってしまっている「見分けのミニストリー(Discerning Ministries)」の情報を、そのまま流してしまっている記事もあります。たくさんの事例があり、その確かな根拠を持っている情報だけを発信していただければと願っている次第です。

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