終わりの日に向った一致

「マラナサ」(主よ、来てください)は、一つとされた者たちの希望

 8月12-14日に参加した、マラナサ・バイブル・フェローシップのキャンプの報告です。

2019年8月12~14日 富士山麓山の村

そのテーマである「キリストの再臨」から、以下のことをある牧者が語ってくださいました。

 エペソ5章21節以降から、再臨のキリストを待つ教会を、花婿を待つ花嫁の姿として描かれているところから話しました。そこで大事なのは、ここの「花嫁」というのが、私たちは自分個人に当てはめて、自分個人が来るキリストを恋い慕い、花嫁のように待つことで適用しますが、文脈としては、キリストにあって一体となった教会として待ち望んでいるということです。

 パウロは、エペソ人への書簡で、初めから終わりまで、一つになることを念頭に入れて、神の真理の体系を説明しています。

「1:10 時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。

「2:14-18 実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。

「3:6 それは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということです。

「3:15 天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。

「4:3-5 平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。あなたがたが召された、その召しの望みが一つであったのと同じように、からだは一つ、御霊は一つです。主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。

「4:13 私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。

 このようにして、全体の流れの中に、キリストにあって一つにされている花嫁の姿が書かれています。主の再臨を待ち望む姿勢の中には、私たちがキリストにあって一つに集められているという一致と一体がますます、確かなものとされていくということです。

 婚姻に関連して再臨について語られている喩えで知られているのは、「五人の賢い乙女と五人の愚かな乙女」がありますが、その違いは、油を持っているかそうでなかったのかの違いでした。愚かな乙女は、自分の油についてずいぶん他人任せでしたが、再臨の主にあずかれるかあずかれないかの違いは、何だったのか?しばしば、熱心なクリスチャンとそうでないクリスチャン、聖霊に満たされているクリスチャンとそうでないクリスチャン、あるいは、何か特別な一部のクリスチャンと、そうでないクリスチャンに分ける解釈がありますが、主人が断ったのは「わたしはあなたを知らない」ということ、つまり、イエス様を知らなかったということです。つまり、イエスへの信仰を持っているか、持っていないかの違いでした。

 もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。(ローマ8:9)」つまり、キリストの中にいる者は、御霊を持っているのであり、油を持っています。

イエス・キリストの情熱は、ご自身にあって一つになること

 とてもタイムリーなメッセージで、心の中でふつふつと長いこと与えられていた思いです。主の再臨や終わりの日を思い巡らす時に、「キリストにあって一つにされる」という目標や目的があることは、いろいろなところに聖書では啓示されています。

 エペソ人への手紙は、キリストの体がテーマになっていますが、信仰によって神に義と認められることをテーマとする、ローマ人への手紙でも、実はパウロの情熱は、「一つになる」ことでした。

 私は、ギリシア人にも未開の人にも、知識のある人にも知識のない人にも、負い目のある者です。」と言い出し、「福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。」と話しました(1:14,16)そして、ギリシア人だけでなくユダヤ人も罪の下にあり、神の恵みによって、誰であっても信ずる者が義と認められると説きました。そして、ローマ9-11章で、福音を受け入れないユダヤ人について、彼らが今は切り倒されていても、必ず接ぎ木されるのだとパウロは論じています。

 それから、12章で教会に対する実践的な勧めを書いていますが、14章において、信仰の弱い人を受け入れなさいとして、意見を裁いてはいけないと続きます。ここがパウロにとって大きな重荷だったのでしょう。いかに異邦人が、異邦人のままにしてキリストへの信仰のみによって清められるのか、ということは、ユダヤ人にとっては受け入れ難いことであり、異邦人にとってもユダヤ人をいかに受け入れるかということは大きな課題だったからです。

 そして15章で、このように締めくくっています。「15:5-6 どうか、忍耐と励ましの神があなたがたに、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを抱かせてくださいますように。そうして、あなたがたが心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父である神をほめたたえますように。

終わりの日に完成される福音宣教

 終わりの日における、神の世界宣教の幻をマラナサのキャンプや、ウェスレアン・ホーリネスの青年大会でも分かち合わせていただきましたが、黙示録5章9-10節です。「彼らは新しい歌を歌った。「あなたは、巻物を受け取り、封印を解くのにふさわしい方です。あなたは屠られて、すべての部族、言語、民族、国民の中から、あなたの血によって人々を神のために贖い、私たちの神のために、彼らを王国とし、祭司とされました。彼らは地を治めるのです。」

 天に引き上げられた教会の姿ですが、部族、言語、民族、国民に別れている人々を、キリストの流された血潮によって贖い、一つの神の民として集め、そして子羊をあがめるようにされています。

説教:「終わりの日に見上げる世界宣教」(音声

神の御心は、ご自身にある一体化

 世においては、分断が起こっています。国や民族、社会のいろいろな層、そして最も深刻なのは家族です。それから教会こそが、分裂の歴史を繰り返して、主の心は痛んでおられることでしょう。

 イエス様が捕えられる直前に、しばしば至聖所の祈りとも呼ばれる、父なる神へ献げられた祈り願いは、次のとおりでした。「ヨハ17章21-23 父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。

 太初からの神の御心は、神にあってキリストにあって、私たちが互いに一つになっていること、それがありました。主にあって一つにされていたアダムとエバですが、罪を犯してからは、アダムが「あの女」と、エバを突き放すような話し方をして、既にそこに分断が生まれました。罪は、神と分離させただけでなく、神にあって一つにされていた夫婦も分離させました。その原因は、「神にようにさせるという、善悪の知識の木からの実」であります。善悪を知るということは、如何にも良いことのように見えるかもしれませんが、善悪の源は神にあり、私たちが知ることのできている善悪は、あくまでも神からの賜物であり、神とのつながりの中で与えられるものです。

「申 29:29 隠されていることは、私たちの神、【主】のものである。しかし現されたことは永遠に私たちと私たちの子孫のものであり、それは私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。

「神の啓示をそのまま受ける」はずの知識が「自分で把握しようとする」知識に変容

 今年と去年、トルコまたギリシアに旅行に生き、そこで以前から関心のあったヘレニズムとヘブライズムについて、たまたまよく学んでいる牧師さんが団長であったため、遺跡を前にしながら語ってくださった聖書の解き明かしによって、身をもってそのことを知ることができました。

 ヘレニズムは人間中心で、要は「自分で神を把握しようとする試み」であり、ヘブライズムは、「神の啓示をそのまま受け入れる」ということです。前者は、神についての事柄を体系化し、整理して、「理解できるようにする」ことが目的になっていて、そこに人間的要素が入ってしまうのです。ヘブライズムは、「神が語られたのだから」という理由だけで受け入れ、「ただ神の前にひれ伏す」ことです。

参考記事:「”牧師・教役者対象”トルコ研修旅行(2019年)」を終えて

 キリスト教世界は西欧で発展したので、いや、新約聖書の時代からユダヤ人自身がヘレニズムの影響を受けていたので、いろいろな弊害が出て来ました。律法主義もその一つでしょう。その後の教会史では、互いに互いを排除する分裂がずっと起こってきました。ユダヤ教の宗派が指で数えるほどに対して、キリスト教が無数に細分化されたところにも表れています。

 だからといって、もちろん、やみくもに一つなるような動きもまた間違っています。キリストを目標として一致するので、人間的な、恣意的な一致はかえって傷をもたらします。終わりの日には、獣による一致、獣の国における一致も描いており、「神のことを思わず、人のことを思う」という、十字架への道を妨げたペテロが影響を受けてしまった、サタンの誘惑もあります。偽りの一致についても、また別の機会に論じることができるかと思います。

「家族」の分断化の強い痛み

 しかし、私が心を強く痛めているのは、いろいろな意味で人が有機的につながっていることを思わずして、あたかも単体が寄せ集まっただけの集団であるかのように人々が捉えていることです。いろいろなところで感じていますが、例えば、著名な元牧師が、信仰までを捨ててしまったニュースが入って来た時、どうしようもない哀しみが私の心を襲いました。その人の言ってきたこと、してきたことを決して同意していたわけではないのです。それでも、哀しい思いが襲ってくるのは、どこかでつながっている、と思うからです。他人事ではないのです。

 ところが、「教会体から教会を引き離さなければ」という議論、「我々は地域教会ではなく、普遍教会につながっているのだ」と、まるで地域教会が普遍教会とは別個のものであるかのような議論、そして、「既存の教会は闇の中にある、そこから離れたところに光が出て来る」というような議論。教会に問題が起こる時に、こういった話が、まことしやかに出てくるのです。

参考記事:「『教会から離れよ』という教え

 さらに、そもそもが救われていなかったとか、そういった議論まで出て来て、とても悲しくなりました。なぜ、そのように「他人事」でいられるのだろうか?そもそも、という話をするなら、「そもそも、人が救われているか、救われていないか?ということは、私たち人間が決めることではなく、神のなさることでは?」なのです。

「エペソ3:15 天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。」とパウロは言いました。あらゆる家族と呼ばれるものの元が、私たちの父なる神です。そういった、自然な絆で結ばれていた人間関係をいとも簡単に解消して、他の人間とやり直せばよいと考えるところに、私は非人間的な何かを感じます。そこで神の名を使うと、無機質な、異質な神観になっているのではないか?と案じます。家族は、「あんたは嫌いだ」と言ったところで、その縁は切れない、はずなのです。

 卑近な例として、こんな話があります。霊的なことではないのですが、分かり易い例えとして。韓国内にある神学校に通っていた日本人の兄弟が、韓国人の同級生に言われたそうです、「私は日本が嫌いだが、君のことは気に入っている。」そう聞いたところで、喜べるでしょうか?たとい聞いた日本人が自国のことが嫌いだったとしても、それでもそのように区別することができるでしょうか?君のことは親しみをもっていると言われても、その「君」から「日本」を引き離すことはできないのです。

 またある集まりで、中国共産党を批判する講演がありました。そこに中国人の人は集まりませんでした。主催者は、「私は中国人と、共産党を分けている。」と言います。けれども私は説明しました、「そんな簡単に分けられませんよ。中国人の多くが共産党政権は嫌いですよ。でも、選択肢が他にないんです。だから、嫌いでも、批判されたらいい気分ではないのです。<悪い親でも親>なのです。」

 霊的にも同じです。キリスト教会は、神の家族と呼ばれています。どこかで何か悲しむべきこと、苛立たしいこと、そういったことが起こった時に、どこかでつながっているという感覚があり、それで強い悲しみや苦しみを覚えます。同じように、どこかが喜べば、私たちにも喜びが訪れます。これは、良い悪いの問題ではないのです。善悪のことではないのです。

キリストの御体なる一つの教会があり、すべての部族、言語、民族、国民の中からの人々によって構成されています。各地域教会は、その普遍的教会の表れです。主イエス・キリストを信ずる者にある霊的一致を私たちは信じています。
https://calvarychapel.com/cgn/calvary-global-network#cgn-affirmations

 上は、カルバリーチャペルのウェブサイトにある信仰表明の抜粋です。これは、教理的に、神学的に一つになるということを意味しているのではありません、キリストについての根本真理については決して妥協しませんが、いや、根本真理があるからこその一致でありますが、もっと有機的なキリストにある一致です。

 これからどんどん、分断が起こります。終わりの日には、家族の中でさえ殺し合いが起こることを、イエス様はオリーブ山で語られました(マルコ13:12)。けれども、その前にエリヤが来て、父の心を子に、子の心を父に立ち返らせるという預言もあります(マラキ4章)。したがって、私たちには希望があります。たとい世の流れは分断や分離でも、キリストにあって私たちはこれまでにない一体の流れ、御霊の一致の流れが起こるということです。

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