キリスト以外のアイデンティティー

ヘブル文化を知らないと、聖書を理解できない?

 「ヘブル的解釈」を軸に教会の中で運動をしている人々がいます。その運動体の中にいる人々全員がそうだということではなく、一定の距離を置いて、聖書理解の助けとして活用している方々が多くいます。その一方で、深く関わっていて人々の間には、数多くの問題を教会に起こしています。一言でいうと、「分派」です。

 私の友人の牧師が、以下のように理解しています。

日本の多くの教会が聖書のいうイスラエルを単にクリスチャンと置き換えた『置換神学』となってしまい、時間軸を忘れて、いつしか聖書の教えが道徳や理念のように受け取られる間違いを打破しようとして、既存の教会に通う信徒たちに聖書が言うイスラエルを教えた。

当然彼らが毎週彼らの所属する教会で聞く聖書のメッセージとは異なる。日本のクリスチャンを、日本の教会を内側から変えないと本当の福音宣教はないという理念で、既存の『置換神学』打破のために「ヘブル的聖書解釈」という視点を強調し、今度その「ヘブル的聖書解釈」がアイデンティティになった。

① 既存の教会内に『こっちがホントウだ』という分派を作った。
② 知識を得たクリスチャンが勘違いした。1コリント8:1
③ 既存の教会内に分派ができることを正当化するために、地域教会ではなく「普遍教会」こそが本来の教会だと言って地域教会軽視が生まれた。
https://twitter.com/Santou/status/1263304675551399947

 「分派」は、肉の行いであり(ガラテヤ5:20)、除名しなければいけない罪として数えられています(テトス3:10)。パウロは、分裂をもたらす者に警戒しなさい、遠ざかりなさいと教えました(ローマ16:17)。

 カルバリーチャペルは置換神学を信じておらず、イスラエルの回復は神のご計画の一部であると信じている教会の群れですが、それでも、この運動の渦中にいる人々は、そういった教会の中でさえ問題を引き起こします。

 そして、今、同じ運動体は、他のカリスマ系の運動の異端性を暴く働きをしていますが、実は、イスラエルやユダヤ人に働きかけをしている多くのキリスト教の団体や関係者に、深い傷をもたらしています。そのカリスマ系の運動に権威主義があると非難しているのですが、実はそういう異端狩りの中で、境界線を越えて、権威主義を振りかざしているのです。ここでも、キリストの体に分裂をもたらすパン種を持っているのです。

 なぜそうなるのか?アイデンティティーが、キリストに置かれておらず、何か他のものに置かれているからです。本質は、ヘブル的解釈のことの是非ではありません。私自身、それは大いに聖書理解に役立つものだと信じています。ところが、その知識を得ること自体が目的となるのであれば、大問題です。その知識を持たない教会の人々に、その「福音」を伝えなければいけないと使命感を抱き、キリストにつながらず、何か他のものにつながっている、という問題があるからです。

「キリスト」ではないものにつながると、偽の福音

 その他、どんなものでも、キリスト以外にアイデンティティーになってしまいます。ある神学や主義がアイデンティティーになることがあります。そうすると、その神学の中で語られる「福音」こそが人を救うと思い、そのように信じていない人々を裁くようになります、あたかも救われていないかのように。そして、その「福音」に反する人々やグループとつながっていれば、堕落しているかのようにみなします。本人は、その「福音」を伝えることこそが使命だとして、教会外ではなく、教会内の人々の覚醒を願って、クリスチャンに伝道するのです。

 こうなると、その神学が良いものであっても、その「福音」は異なる福音、異質なものになっていることさえあるのです。けれども、キリストに根付いていない福音は、そもそも福音ではないのです、偽の福音です。

「キリスト以外のアイデンティティー」への1件のフィードバック

  1. 明石さん

    いつも多くの情報を提供してくださり、ありがとうございます。

    私は、2年ほど前から、ヘブル的に聖書を読むことがとても大切だということをネットの情報から知り、聖書を読む中で、多くの知識を得ることができました。

    ですが、最近「ヘブル的解釈」を軸にしているあるグループが、私が習ってきた神学を全否定していることを、本やサイトで知りました。

    とても悲しく、悔しく、どうしようもなく、傷つきました。

    私の所属している教会は、もちろん完全ではないと思います。でも、あくまで私の個人的な感想ですが、愛と喜びに溢れていると感じています。

    そのグループのサイトを見つけてしまった時、夫婦で話し合い、涙を流しながら、ただただ神に祈り、自分たちのできることは、イエスに心を向けるだけだと思わされました。

    聖書学者のような方々の意見に、私が知識で対抗する術はありません。ただただ、祈ることしかできません。

    もし、私たちの教会が間違っているのであれば、その報いは、神におゆだねします。自分たちのミニストリーや神学が、神の目から見て正しいかどうかは、私には分からないからです。

    聖書通読する上で、明石さんの発信される情報に、いつも助けていただいております。

    今回のブログの内容も、私が受け取ったことと、明石さんが伝えたかったことが、必ずしも同じではないかもしれません。

    ですが、とても励まされたので、感謝の気持ちを伝えたくて、コメントしました。

    本当に、ありがとうございました。

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